万物に霊が宿っているとするアニミズムから農業革命を機に雨乞いや戦の勝利など様々な願い事を聞いてくれる神々を崇める多神教へ、その神々の中で自分の守護神を唯一とする一神教が芽生えました。
その一神教の中でイエスキリストの福音をパウロが世界中に広め、その後の歴史に大きな影響を及すことになりました。続いて同じく一神教のイスラム教が誕生して世界に広まり宗教間の争いの歴史も始まりました。
どの宗教も慈愛に満ちた教えなのに、何故殺し合う程の争いになるのか不思議でなりません。これまでの私の解釈は、組織が大きくなり教会や寺院を造ったりすると組織維持の理論が優先される結果、教えとはかけ離れた方向に進んでしまうというものでした。この書を読んでからは、神は一つならば他の神は偽りであるので排除しなければならないという排他的な性質が一神教には元々内在しているとの思いに至りました。
排他的な性質はそれに止まらず、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントでは神の解釈の仕方の違いだけで凄まじい争いが繰り返され、ローマ帝国がキリスト教を迫害した300年間での犠牲者は数千人ですが、16~17世紀にカトリック教徒とプロテスタントの争いで何十万人も犠牲になったとのことですから驚きです。特に1572年8月23日のサン・バルテルミの虐殺はカトリック教徒の襲撃で一晩に女子供も含む5千人~1万人のプロテスタントが犠牲になりました。
『右の頬を叩かれたら左の頬を出しなさい』というイエスキリストの教えを信仰する者同志が殺戮し合うなんて、宗教とは何なんだろうと思わずにはいられません。
宣教で思い出したのですが、小学校低学年のある日、校門の前で外人の宣教師が生徒を前にして神様の話をしていました。地面に棒で大きな円を描き「神様を信じた人だけが天国に行けます。信じる人はこの中に入ってください。信じない人はあっちへ行きなさい。」と何人かを無理矢理円から追い払いました。私は急いで中に入り何だか助かったと思ったのと、追い払われた友達が自分達とは違う人間になってしまったように見えたことを覚えています。
今思うと排除(差別化)することで自分達の正当性を示めそうとしたのでしょう。一神教には排他的な要素が確かに内在していると思わせられる出来事でした。