霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

独り満足(4)

2020-06-29 19:07:16 | 散歩

10,900歩 (10:05-11:37)

晴れ (27℃)


今日は爽やかな暑さで樹木の緑も輝いていました。生まれは信州なので子供の頃の夏はちょうどこんな感じで懐かしい夏の香りがしました。久々の晴れで銀波を期待したのですが、太陽が真上のせいかキラキラと輝く銀波ではありませんでした。


母の遺品に鉛筆で綴られた日記帳が一冊だけあり、新婚の頃の4ヶ月の日々の出来事が書かれていて幸せに包まれている様子が伝わってきます。苦労している姿しか知らないだけに、こんな幸せな時期があったのだと子供としてとても嬉しい発見でした。

日記帳も大量でなければ残すのもいいのかなと考えるきっかけになりました。


水晶の糸

2020-06-25 13:31:02 | 地磁気観測の思い出

先の『蜘蛛の糸』は捻れが無い性質を利用しましたが、この『水晶の糸』は反対に捻れの力を利用して地磁気の変化を測定していました。水晶はその捻れが温度変化による狂いの少ないことが特長とのことです。


使われる水晶の糸の太さは70μというので0.1mmより細く長さは20cm程ありますので、注意しないとすぐに折れてしまいます。

この水晶糸を縦方向にし下に磁石を吊るして水平分力の変化を、横方向にし中央に磁石を吊って鉛直分力の変化を観測します。磁石の大きさは水平分力で3mmΦ×10mm、垂直分力は少し大きく4mmΦ×20mmです。


特に横方向に吊るのは至難の技で、水晶糸の代わりにリン青銅線も用いられていましたが、水晶糸で吊られたものを見た時にとても感動した事を思い出します。横方向に水晶糸を吊ったと言う方の話では、水晶糸を葉書きの上に乗せて両端を留めたそうです。


私の生まれた頃は、業務として水晶棒を熱してガラス細工のように引き伸ばして作っていたとのことです。永年にわたるこの測定器(吊り磁石変化計)の観測も平成に入り暫くして終了しました。測定器を止める時は御神酒を捧げました。

現在は磁石を使わない方式で観測しています。


(写真 左:水平分力変化計、右:鉛直分力変化計)


独り満足(3)

2020-06-24 14:08:35 | 散歩

10,900歩 (11:00-12:31)

霧雨 (22℃)


弱い霧雨が降っていたので躊躇いましたが、むしろ心地よいかもしれないと出掛けました。頬にあたる霧雨は大して心地よいものでもありませんでしたが、霧雨の中にたくさんの燕が低く湖面すれすれに飛んでいて風情がありました。水面から伸びる木の幹や枝葉も、これまた落ち着いた風情です。


毎日の出来事を日記にしていますが読みなおすこともなく、かといって誰かに見て貰おうなど毛頭にもないので一体何のために書いているのか、常々自分でも疑問に思っています。でも書かないと落ち着かずその日が終わった気がしません。

中学校の時「生活記録」という日記帳を渡され定期的に提出させられていました。半分以上は『昨日と同じ』で、その昨日の頁には『特になし』と書かれていて、先生も呆れた事でしょう。

そんな自分が20代始めの頃から殆ど欠かさずに毎日の記録をしているのが我ながら不思議ですが、この数十冊の記録をどうしようかと思い始めました。


独り満足(2)

2020-06-18 14:16:46 | 散歩

11,700歩 (09:50-11:40)

曇り (25℃)


散歩道では栗の花の香りというよりは強い臭いが漂っていたり早くも蓮の花が見られたりして、一歩家から外に出ると季節は動いていると感じさせてくれます。


以前から知りたいと思っていたことの一つに、お金や名声には無頓着の芸術家が満足のいく作品を完成させたら、その作品をどうしたいのだろうかということがあります。考えられるケースとして、

1.生涯大切に手元に置いておく。

2.執着せず放っておく。

3.死ぬ前に廃棄処分する。

4.自分と一緒に焼却してもらう。

5.欲しい人にあげる。


はたして真の芸術家ならどうするのでしょう?


独り満足

2020-06-16 14:07:21 | 散歩

11,100歩 (10:00-11:37)

薄曇り (28℃)


蒸し暑いけれど心地好い風があって歩きやすく、日陰の道端にはドクダミの白い花が咲き誇っていました。庭では厄介な雑草として抜き取ってしまいますが、白い十字の花はシンプルで素朴な感じがします。名前がいけないような気がします。湖畔近くの蒲の花(穂)も綺麗に咲いていました。

今日の湖面は水位が高く溢れていました。きっと大潮の満潮時刻なんだろうと調べてみたら、今日は小潮で満潮時刻は午後1時過ぎとのことで原因は分からず終いでした。


ずっと前のことですが、真理探求に命を懸ける真の科学者は、もし真理を知ったら独り満足して死んでいけるものなのかということを疑問に思い、ある理学博士に尋ねたことがありました。

答えは、分かったり発見したことは公にして検証されて意味があり、独り満足して終わるということはとても考えられないとのことでした。