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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

らっ教

2015年06月19日 | 日記

 らっきょうの季節です。我が家でも、何本か瓶に漬けています。ぼちぼち、食べられます。

 この季節は、疲れやすく、何だか体がだるくなる時があります。そんなとき、らっきょうを食べると、何だか元気が出ます。らっきょう様々です。

 今日もらっきょうを食べました。体がシャキンとして、何だか救われた気分です。人を救いに導く食べ物、らっ教です。私は、らっ教の信者です。

 


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「貧しくとも高貴だった」

2015年06月19日 | 聖書のお話

「貧しくとも高貴だった」 使徒言行録 4章32~37節

 教会の初期、信じた人の群れは、「心も思いも」一つにしていたことが伝えられています。ローマの世界では、心も肉体も優れていることが理想とされていました。オリュンポス12神を見ても、ゼウスとかアポロとか、アフロディア(ヴィーナス)は、肉体美を誇っています。12神の中で、ヘパイトスは、障がいを持って生まれました。そのため、すぐ下界に突き落とされたということです。それだけ、表面的なことに偏りを持っているということでしょうか。それに対して、「心も思いも」とは、内面の理想をより強調しているように思います。もしかすると、それは「心も肉体も」という、当時ありふれた理想よりも、もっと高貴な理想として受け止められたのかもしれません。

 また、教会の初期、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と伝えられています。それは、信者が自分の財産を処分して捧げ、必要に応じて皆が分け合っていたからでした。おそらく、自分の財産を処分して捧げるということは、捧げた人が貧しくなることを意味していたでしょう。けれども、信者の集まりでは、少なくとも自らのことを貧しいと思っている人などいなかったということではないでしょうか。自分の財産を処分して捧げ、貧しくなっているにも関わらず、自分のことを貧しいと思わなかったということを見た人たちは、彼らのことを「貧しくとも高貴だった」と受け止めたのかもしれません。

 ローマの市民は、恵まれた中で飽くなき知識や理想を追い求め、同時に満たされない空しさを感じていたのではないでしょうか。そんな彼らにとって、使徒たちのグループが実にシンプルで高貴な存在として目にとまり、「非常に好意をよせられていた」というのは、それはそれでうなずけるような気がします。

 


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93歳寂聴さん、国会前「命がけ」スピーチ

2015年06月19日 | 日記

39歳寂聴さん、国会前「命がけ」スピーチ←クリックすると、ニュース記事へジャンプします。

 はぁ、93歳で、病気の身で、凄いなぁと思います。

 世界の1%のスーパーリッチが政治家を買い、庶民を貧しくさせる政策を行わせて戦場へとかり出し、殺し合いをさせ、「復興」と称して永遠に復興できないような混沌した状況を作り出して戦場のままにしておく。それに飽きたら、自分好みの市場ができるようにコントロールして新しい国を作り出す、そんなシナリオが目に浮かんできます。そのために、子どもや老人が、まさに欲望を遂げるための犠牲として生け贄として、どんだけ殺されるのか・・・。優生思想や民族差別思想を持っている人なら、やりかねないと思うようになりました。

 誰がTPPを望んだのか、それは政治家を買って動かした財界でしょう。

 誰が戦争を望んだのか、それは戦争によって利権を得たい財界でしょう。

 後は、野となれ山となれ、やられ放題。

 庶民は、誰もそんなことを望んだりしていないのではないでしょうか。全部、庶民の頭ごなしにやられています。それでいて、貧しくさせられるのは庶民だし、戦場へ駆り出されるのも庶民という構図になっているのではないでしょうか。

 日本も、所詮は「生け贄」の一つだったのでしょうか。そう成り下がらないためにも、あの「平和憲法」を逆手にとって、堂々と「主権在民」を掲げ、自立へと向かう道を歩むことも大切なことではないかと思います。 

 

 

 


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