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融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

常識さえも問われていた

2015年06月12日 | 聖書のお話

「常識さえも問われていた」 使徒言行録 3章1~10節

 聖書の時代、生まれつき体に障がいのある人は、親が神さまに罪を犯したために、そうなったと考えられていました。生まれつき足の不自由な人が、神殿でよく人が通る「美しい門」という場所に運ばれて来ました。神殿にお参りに来る健常者は、彼を見て施しをしました。施しとは、信仰的に優れた行為で、「天に宝を積む」ことになると考えられていましたので、施しをした人は満足でした。同時に、障がいを持った人は、施しを受けてお金を得ることができました。それが、当時の常識でした。

 ペトロとヤコブが「美しい門」の所で、生まれつき足の不自由な人を見つけました。二人は、その人をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言いました。彼は、何かもらえると期待して二人を見つめました。すると、ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言い、彼の右手を引っ張って立ち上がらせました。

 当時、施す、施されるという常識がありました。それは、施す人が自分の信仰的な徳を積むためであったりもしました。施される人も、そういうものだという割り切りがありました。言い換えれば、それぞれが「自分のため」だけを考えてのことで、理念が形骸化しているところがありました。けれども、本当にそれで良いのだろうかと考え、常識であっても問い直してみることが求められているのではないでしょうか。ペトロは、イエスさまの教えに従い、足の不自由な人の手を取って起こし、立ち上がらせました。そのことが、足の不自由な人にとって、一番必要な施しであると考えたからではないでしょうか。

 


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「当教会は、〇✕や✕〇とは関係ありません」について

2015年06月12日 | 日記

 掲示板に、「当教会は、〇✕や✕〇とは関係ありません。」と書いています。よく、「同じ神(この場合、かなり広い意味で神と言っているのだろうと想像)を信じているのだから・・・」というようなことを言われることがあります。私も、何も知らないときには、アレもコレも同じようなものと考えていました。

 人の考えることは、所詮自分中心ですし、御利益追求であったりします。信仰や神といったものを、空想の翼を広げて自分の好きなように作り上げてみたり、御利益追求のために信じるとうこともあるだろうと思います。人の考えは「十人十色」と言われるくらいですから、人が考えることは「あれこれ」で、仕方ないのかもしれません。歴史とか規則とか、そういったことを比較するのであれば、ネットで検索すれば色々なことが分かりますので、そうして比べてみた上で、判断されたら良いのではないでしょうか。何も知らずに、うっかり足を運んで、「鴨が葱を背負って来た」ということにならないためにも・・・。

 私的には、恐怖によって心を支配するようなことや、自分だけが救われたいというという願望、たとえそれが本能であっても、それを利用して思考を縛るような手法、まるでどこぞの啓発セミナーのような手法、それが信仰と言えるのかという疑問を持っています。信仰とは、操られることではないと思っているからです。

 信仰とは、神と信じる者への信頼と言うことができます。私は、神との相互の信頼があるならば、恐怖によってではなく、分かるように導いてくださると思っています。また、相互の信頼があるならば、私を救ってくださるも、くださらないも、すべて神さまにお任せできると思っています。操られるのでもなく、支配されるのでもない、神と人、相互に信頼と責任が生じていることが自覚できていれば、それで良いのではないかと、だから自由であると思っています。

 自分の信じていることを疑ってみることも大切です。時には、そこから離れて客観的になることも必要です。そうして、自分なりの受け止め方で神との信頼関係がより深まれば、長い人生の信仰生活の上で豊かなことではないかと思います。

 


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