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新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

なぜ「牧師」になったのか

2015年06月17日 | 日記

 私がなぜ「牧師」になったのか、というのは、数ある自問自答の一つであるように思います。私は、学校を卒業して社会人になりました。営業職、サービス職、技術職、力仕事等、一通り、入門程度の経験することができました。私は、クリスチャンホームに生まれ育ちましたので、何かを求めて教会の門を叩いたという経験はありません。気がついたら、教会に行くのが当たり前でした。そんな私ですが、社会人を経て、神学校に行くことを決めました。

 その理由は、社会人になって、仕事をする中で、給料を得るために、自分が売りたいと思うものが無いということに気がついたからです。それは「愛」でした。言葉にすると、こう表現するしかありません。今になって考えると、「愛」を織り込んでものを売るという方法もあったのかもしれないと気がつくのですが、当時それが分かりませんでした。後の祭りです。未熟者でした。そのことに気づかされたのは、当時、教会に伝道師として赴任されていた「兄貴」のような人たちからでした。そして、牧師という仕事は、「愛」を売る仕事であり、そんな仕事があるんだなということに気がつき、そこから牧師になる道を歩み始めました。今になって振り返ると、こんなまとめ方になるかと思いますが、当時は、もっと支離滅裂だったと思います。いずれにしても、人間万事塞翁が馬だったと受け止めています。

 文章にすると変なのですが、確かに「愛」というのは、人間を救い、幸せにする英知、奥義であると思います。人がイエスさまの教えによって「愛」を教えられ、与えられることしかできなかった人間が、「愛」を与えることができることを理解できるようになれたなら、それは人に能動的な変革をもたらすものではないかと思います。与えられるのを待っているだけの人生では、何の変革も起こりません。「愛」を与える仕事、それは人の変革、ひいては社会の変革を促すような働きではないかと思います。

 文字にすると、こんな風にしかなりませんが、何せ仕事として食べさせてもらっているのですから、もっと良く考えて、分かるような言葉にして伝え、その働きに仕えていかなければならないものだと思います。まだまだ甘いです。

 ところで、ザリガニのはなちゃんですが、死んでるかと思ってびっくりしましたが、脱皮してました。古い自分を脱ぎ捨てて、成長する姿を見せてもらって、何だか教えられているような気がします。

 

 


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