「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・10・12

2013-10-12 10:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

  学問は尻からぬける螢かな (与謝蕪村)




筆者註:中国・唐の類書「蒙求(もうぎゅう)」にある中国・東晋の政治家、車胤(しゃいん)が「灯油を買うことが出来ず、蛍をあつめ、その光で勉強した」故事をふまえた句。「尻からぬける」は物忘れの早いこと。
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○に近い△を生きる 2013・10・09

2013-10-09 07:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「人は繫がりの中で生きている。しかし、人との繋がりの中で人は疲れる。
 時には傷つく。
 変な人間がいる。自分も変だからよくわかる。
 時々傷つくのはしょうがない。それでも人は一人では生きていけないから、傷つけ合いながら一緒に生きる。どうしたらいいのだろう。
 変であることをおもしろがることだ。
 この20年間でたくさんのヒットを飛ばした映画監督、スティーヴン・スピルバーグは『自分は失読症だった』とカミングアウトしている。字が読めないのである。日本だったらどうだろう。小学校1年生で字が読めないと、レッテルを貼られる。
 スピルバーグは変だったからこそ、画像で勝負をした。字が読めなくても、違う才能があふれていることはよくあることだ。
 この20年間で最も世界の人々に影響を与えたと言われている、アップル社のスティーブ・ジョブスも、人との距離のとり方が下手だったようだ。見方を変えれば、『変な人』だった。
 ヘルマン・ヘッセもおかしい。ノーベル文学賞をとっているけど何度もつまずいている。エリート校の神学校を退学。自殺未遂。さらに知的障害の施設にも入れられている。人との距離をとるのが下手だったのだろう。結局、勉強は中断したまんま、大学へも行けていない。
 大学なんて行かなくてもいいんだと、書店で働きだす。ここで詩を書いたり小説を書きだした。ヘッセは自分がおかしいというのがきっとわかっていたんだと思う。自分の中にある獣が暴れださないように、彼は庭仕事の楽しみを見出す。
 草思社の『庭仕事の愉しみ』という本を読むと、人間音痴のヘッセがどれだけ、庭に救われていたかがわかる。ヘッセはもしかして、今生きていたら、発達障害という診断を受けていたかもしれない。
 ちょっと変わっていることで、人生そのものが自然に『別解』になったのだ。『別解力』のある人の人生は魅力的になる。『車輪の下』とか『郷愁』などシリアスな文学をつくりあげたヘッセの晩年の詩にこんなものがある。
『しかし臨終の前にもう一度、一人乙女を捕まえたい。目の澄んだ、縮れた巻き毛の娘を その娘を大事に手にとって、口に胸に頬(ほほ)にくちづけし、スカートを パンティを脱がせる その後は 神の名において 死を 私を連れて行けアーメン』
 ヘッセは最後までおもしろい男だった。悠然と年をとっている。反対にいつもギラギラしている一面もいい。あるいは、自分の中にある獣が暴走しないように、上手にブレーキシステムをつくっている。そんな人生もおしゃれだな、と思った。
 人間には本能がある。食べたいとか眠りたいとか、セックスをしたいとか、戦って勝ちたい、などという本能が。この本能が見え隠れしているような生き方をしながら、なんとか、本能を手なずけようとしている。暴走したら、暴走したでしょうがない。ここがヘッセのおもしろいところ。自分が壊れないために、小説を書いていた可能性がある。詩や小説が彼にとっての『別解』であった。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)

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2013・10・08

2013-10-08 07:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「自分の自由を大事にしながら、1%だけ他者の自由を尊重して生きること。
 ほんのちょっと他者のことを思うことが大事。
 100%自分の自由だけを尊重すると単なるわがままになる。国と国の関係では戦いになる。このたった1%が大事なんだ。ぼくは今までよく、『1%は誰かのために』ということを言い続けてきた。
 自分が一番可愛い。自分のため、家族のために99%は生きてきた。
 でも、でも、1%だけは誰かのために、と思って生きてきた。
 考え方はまったく同じ。自分の自由が大事。99%自分の自由を大事にしながら、1%はいつも誰かの自由を大事にする。これが鎌田の1%理論だ。1%ならどんなに自我の強い人でもやれそうな気がする。この1%が、戦ってでも、人をやっつけてでも生き抜きたいという、人間が持っている本能を暴走させない大切なコツなのだ。
 自分が自由であり続けたいと思ったら、他者の自由を大事にすること。
 自由はぼくの背骨。背骨がふらふらしないように、ぼくはバックボーンを大事に生きてきた。ぼくにとって最も大事なものは自由だ。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)

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2013・10・07

2013-10-07 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「自分が変な人間であることをよく理解している。
 自分がわがままな人間であることもよくわかっている。
 それどころか、自分がわがままであることを大事にして生きてきた。
 でもうまく生きてこられたのは、他者のわがままも尊重してきたからだ。
 自分が変だから、変な人達にも違和感がなかった。変でいいじゃないか。
 家庭の中にも職場の中にも地域の中にも、自分を含めて変な人がいっぱいいる。その一人ひとりが、自分らしく自由に生きる。
 自由はバランスだ。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)

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2013・10・06

2013-10-06 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)の著書「むかし卓袱台があったころ」の「あとがき」。

「卓袱台でご飯を食べると、家族を近く感じる。お互いの呼吸音がすぐそこに聴こえるし、ちょっと手足を伸ばすと、向かいや隣の家族の体に触れることもある。畳を伝わって体温も感じるし、みんなでおなじ物を食べている実感もある。いまと違って、茶の間が狭かったのもよかったのだろう。毎晩、六十ワットの電灯の下に体を寄せ合って、ご飯を食べているうちに、わたしは子供心に、この人たちとは一生付き合っていくに違いないと、いつのまにか思い込むようになった。あのころ、家庭で卓袱台を買い替えるのは、家族が増えて手狭になったときだけだった。減ればその分広くなる。私の家の場合は、私が末っ子だったから、物心つくころから、ずっとおなじ卓袱台だった。だから卓袱台は、家族の歴史であり、血族のシンボルみたいな物だった。
 ここに載せた私の文章は、昔はよかったと、ただ懐かしんでいるわけではない。あのころ確かにあった、家族たちのお互いへの思いや、近隣の人たちとの連帯が、いったいどこへ行ってしまったのか――その行方を、私は探しているのだ。たとえば、私が子供だった昭和十年代には、山の手ではたいてい三尺から四尺幅の縁側というものがあって、そこが主婦たちの小さな社交の場になっていた。町の情報は、みんな隣りの小母さんが運んできてくれた。隣りの小母さんは玄関からは来ない。隣りとの境には垣根があったが、その破れ目から朝の挨拶といっしょにやってくるのだ。小母さんは縁側に腰掛ける。だが、決して下駄を脱いで、廊下に上がり込むことはなかった。母は番茶は出すが、お茶菓子は出さない。世間話のリミットは、だいたいニ十分から、せいぜい三十分までである。――それが暗黙のルールだった。
 母が台所でお茶をいれている間、隣りの小母さんは体を目一杯伸ばして、私の家の奥を窺う。カーテンを付け替えたらしい、この前なかったミシンがある――けれど、それ以上に見たくても、小母さんは母の目を盗んで家へ上がり込んだりはしない。それもルールだった。だが、そのルールの範囲内でも、両家は十分お互いを知り合っていた。いまのマンション暮らしの隣家とは、親密さがまるで違う。いま隣人に向ける目は、警戒心や猜疑心がまず先に立つ。連帯感などには程遠い気持ちである。縁側の付き合いは、日を重ねるうちに信頼を増し、やがて何かのときに、子供を隣りに預けたりすることさえできるようになる。――そうした、あっさりしながらも、温かい隣人関係が、いまはない。大げさにいえば、〈人々〉という言葉がなくなった。〈――家の人々〉とか、〈――丁目の人々〉といった人間関係が、なくなったとも言える。それは、あのころを知っている私たちにとって、とても寂しいことだ。町の写真館で訊くと、家族の集合写真を撮る人の数は、年々減っているという。
 卓袱台はいずれなくなるだろう。けれど、私たちが日本人であるかぎり、卓袱台の〈心〉だけは、なくしたくないものである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・10・05

2013-10-05 07:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「母の聖地」より。

「亡くなった向田邦子さんと、あのころの食卓の話をよくした。あのころというのは、昭和十年代のはじめから太平洋戦争がはじまるまでの数年間のことで、私と向田さんは歳が六つ離れていたが、思い出す食卓の風景はよく似ていた。向田さんの家は目黒の元競馬場の裏、私の家は阿佐ヶ谷の駅から少し北へ入った住宅街にあり、父親が勤め人で家族構成もおなじようなものだったから、暮らし方も似通っていたのだろう。震災のころまでは、いまの渋谷がまだ都下だったくらいだから、目黒も阿佐ヶ谷もそのころは新興住宅街だった。道路に沿って和洋折衷のおなじような家が並び、露地を入ると黒塀の中から三味線の爪弾きが聞こえた。そんな話から朝の食卓の話になり、二人で一つずつ思い出の献立を挙げてみた。私は魚の煮物の煮凝(にこご)りだった。東京の冬の台所は寒く、水道管が凍らないように布が巻いてあったが、それでも母が薬缶(やかん)の熱湯をかけていたことがよくあった。前の晩は煮魚だった。ちょうど一人分余って残った。一晩のうちに煮汁が凍って、ゼラチン状になっている。舌に載せると、それがゆっくり溶けて、甘辛い味が口に広がった。私たちは、それを《ベッコ》と呼んでいた。冬の白々とした朝日の中で、母の鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)の色に見えたからyかもしれない。
 向田さんが忘れられないのは、ゆうべのカレーの残りだという。やはりゆうべの残り物である。ゆうべの食卓でお腹いっぱい食べたくせに、どうして一晩経っただけで、また食べたくなるのだろう。向田家では、ほんの半人前のカレーの残りを、姉妹で取り合って大騒ぎだったらしい。そう言えば、私の家でもそうだった。食物で争うなんてみっともないと父親に叱られたのもおなじだった。叱られて、小さくなって食べるゆうべの残りのカレーは、また一味違って美味(おい)しかったと向田さんが言い、私たちは笑った。大声で笑っている向田さんの顔を見たら、目の縁(ふち)がちょっと濡れていた。
 あのころは、ゆうべの食卓と今朝の食卓が繫(つな)がっていた。ゆうべのカレーの残りで、温かく繫がっていた。そして朝御飯を食べながら、父がわざと不機嫌な顔で、今夜のおかずは何だと母に訊き、さあ何にしましょうと母が小首を傾(かし)げ、朝の食卓はその夜の食卓に繫がっていった。――その母も、半世紀経って九十六歳になった。もう台所へ立つこともない。けれど私の中で、母はいつも白い割烹着を着て台所にいる。湯気に包まれて水を使っている。あの台所は、母の大切な縄張りであり、穏やかな安息所であり、小さな聖地だったような気がする。
                                           (『ミマン』96年11月)」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・10・04

2013-10-04 07:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「母の聖地」より。

「トタンや木の時期もあったようだが、私が憶えている台所の流しは、白っぽい灰色の石だった。ところどころに亀裂があって、そこがセメントで補修されていた。流しの石は、いつも濡れていた。朝御飯の支度からはじまって、夕食の後片付けまで、乾く暇がないのである。その上、当時の水道はいつだってパッキングの具合が悪く、蛇口から軒の雨垂れみたいに水が流れていた。一人で留守番をしている夕暮れなんか、だいぶ離れているはずの台所の水の音が、ポツンポツンと茶の間まで聞こえてきて、しかもその音がだんだん大きくなるようで、いやに気になったのを思い出す。そんなときにかぎって、裏のお寺の森の方から、虚無僧の尺八が近づいてきたりする。あの音は怖かった。子供の魂を一つずつ吸い取ってしまうような怖い音色だった。そのころ、三歳か四歳だった私は、押入に忍んで耳を塞ぎ、母の帰りをひたすらに待つのだった。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 )


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2013・10・03

2013-10-03 07:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「母の聖地」より。

「そのころは料理に手をかけた。たとえば、何ということもない煮物にも、ずいぶん時間をかけたものだ。味は時間だと、いまでも母は言う。夜の食卓に並ぶのは、半日がかりのそんな味だった。そして私たちは、それが当たり前だと思っていた。よく煮込んだ魚や野菜は、円い卓袱台の上にぶら下がった黄色い電灯に照らされて、穏やかな湯気を上げていた。六畳の茶の間に六十ワットの電灯だった。いまみたいな広角の蛍光灯ではなく、白熱灯のいわゆる一灯吊りだったから、部屋の照明は円錐形になる。卓袱台を中心に光の輪が広がり、行儀よく坐った五人の家族の背中の辺りには、もう薄闇があった。ものを食べている父や姉や兄の顔が見えたという記憶が私にはない。あのころの茶の間の電灯は、母が長い時間をかけて拵(こしら)えた献立を、ほのぼのと照らすためにあったのである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収」)

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2013・10・02

2013-10-02 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「母の聖地」より。

「子供のころの記憶の中で、母はいつも台所に立っていた。朝見る母も、昼の母も、西日にシルエットになった夕暮れの母も、思い出すのは白い割烹着(かっぽうぎ)をつけて火や水を使う母の後ろ姿である。母は私に背で語り、背で叱り、背で泣いた。だから母の声には、いつだって水道の水の音や、七輪でお湯が滾(たぎ)る音や、茶碗の触れ合う音が混じっていたものだ。それくらい、昔の母は台所に長い時間立っていた。
 昭和十年代の台所というと、湿った土間や、汲み上げポンプや、煤(すす)だらけの竈(かまど)を想う人もいるらしいが、東京の住宅街では、そのころもう都市ガスや水道もあったし、電気ではなかったが冷蔵庫だってあった。つまり、いまとさほど違った風景ではなかった。台所はいつも湯気で煙っていた。母の後ろ姿は、そのぼんやりした空気の中を、ガス台から流しへ、流しから食器棚へ、そして時に漬物の瓶(かめ)がおいてある裏庭へ、さして急ぐ風もなく、けれどほとんど一ヶ所に留まることなく、動いていた。いいことがあった日には、下手な鼻唄を唄いながら、気が重い日は黙ったまま、狭い台所の隅から隅まで動いているようであった。西へ向いた湯気に曇った窓ガラスが、母にはいちばんよく似合っていた。窓に向ってしばらく包丁の手を休め、母が着物の襟元をふと直しているのを、子供のころ何度も見た憶えがある。あの窓ガラスには、きっと悲しい日の母の涙も映っていたのだろう。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)





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2013・10・01

2013-10-01 10:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「私の生れた家――花のある家」より。

「松葉牡丹に霞草、花だけがおなじ色に咲き、おなじように風に揺れるのが、私には不思議でならない。朝の鏡に映った私の顔はは、いつか《胴村》の住人の顔である。それなのに、その顔の蔭に潜んでいる私は、あの日とおなじ五歳の童子のようである。ターナーの夕景に長い溜息をつき、一人の部屋で乱歩を読んで思わず辺りを見回し、いまはどこへ行けば御真影(ごしんえい)が手に入るのだろうかなどと考えている。あの家の庭に父が佇み、西日の差す台所には母が立ち、狭い階段を駈け降りて姉や兄が学校へ急いだ日から、もう半世紀になろうとしている。その年月を想いながら、私は人間というものが、恐ろしいくらいに変わってしまうものなのか、それともちっとも変わらないものなのか、その辺がわからなくなっている。そしてそのうち、何だか可笑しくなって私は笑ってしまう。――あれこれ思い悩んで生きてきたけれど、何のことはない。私も、あの家の花になればいいのだ。日が差せば目を上げ、風が吹けば揺れ、雨にうなだれる花になれば、それでいいのだ。生れたその日から、私はあの庭の一輪の花だったのだ。
 春、花屋の店先で、私は鉢植えの小さな花の前にしゃがんでみることがよくある。私も父に似て、いわゆる小花が好きらしい。
                                     (『歴史ピープル』96年3月)」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)



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