「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・01・21

2006-01-21 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から昨日の続き。

 「敗戦後しばらく昭和八年が古きよき戦前のピークだといわれた。皆々昭和八年に返りたいと言った。昭和八年は冷暖房完備の日本橋高島屋が開業したときである。
 ネオン輝き物資あふれた昭和八年は昭和二十年代には理想像だった。それに返りたいとしばらく言っているうち、いつか言わなくなったのは、昭和八年に追いついて追いこしてしまったからである。
 昭和十二年七月七日は日支事変が始まった時である。むろんネオンは輝き物資はあふれていた。首都南京がおちたのは同じ十二年十二月である。首都がおちればこの事変は終ると国民も兵も思っていた。だから軍紀は厳正だった。便衣隊(ゲリラ)を殺したってそれは許されることである。だれがそれ以上の無用な殺生をするだろう。
 国民は提灯行列して祝った。市電は花電車をくりだした
。」

 「人は十五年間まっくらでいられるものではない。懲役人だって一喜一憂している。まっくらでいられるのはせいぜい一年である。すなわち昭和十九年本式の空襲があってからの一年である
 それまで私は三度三度食べていた。日本人のすべてが飢えかつえていたというのはウソである。俗にマクロとミクロという。東京の住人は千葉に埼玉に買いだしに行った。してみれば千葉の埼玉の農家は自分は十分食べ、なお売るべき米をかくし持っていたのである。
 当時の農村人口は日本の半分以上である。食うに困ったのは二、三の大都市の住人だけである。農村のなかなる大小の都市は困っていなかった、ねえ皆さん、と福島、仙台で育った人に聞いたら困っていなかったという。なぜ正直に仰有らないのかと問うと、何だか悪いような気がして

 困っていなかった証拠に飢え死にしたものは一人もない。ソマリアの母子の写真を見よ。あれが飢餓の顔だといくら言っても食べ盛りにひもじい思いをした往年の少年、いま五十代の男は承知しない。戦前まっくら史観に同調しようとするが、あれは共産党の残党が言いだしたことだ。なるほど共産党の残党なら、いつも『特高』に追われてまっくらだったろう。
 けれどもそれは大海の一滴で、全国民の関知するところではない。戦後は社会主義者とそのシンパの天下になって、正義と良心は社会主義にあり、教育もその掌中に握られ、取返せなくなった。結局私は全部自分のことにして書くよりほかない。私にはいかさまの才があって、戦争中もひもじい思いをしなかった。統制下でも新雑誌を創刊したと、相手がミクロを言うなら、私もミクロを言うよりほか承知してもらえぬと分って、そうしようかと、いま迷っているところである。」


  (山本夏彦著「世は〆切」文春文庫 所収)

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