「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

Long Good-bye 2020・07・04

2020-07-04 05:55:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、同志社大学の創始者「 新島 襄 ( 1843 - 1890 ) 」の生涯の事跡が書かれた

  フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」の記事のほぼ全文です。

  「 新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、天保14年1月14日(1843年2月12日) - 明治

   23年(1890年1月23日))はキリスト教の教育者である。

   江戸時代の1864年(元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学

   を学ぶ。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である『アメ

   リカン・ボード』の準宣教師となった。

   日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の

   同志社大学)を設立した。


   幼少時代

   天保14年(1843年)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島

   民治の子として生まれる。母は武州浦和宿のとみ。本名を七五三太(しめた)という。


   この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたと

   いう説がある。後に敬幹(けいかん)と改名。

   元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。

   その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い『福音が自由

   に教えられている国に行くこと』を決意し、備中松山藩の洋式船『快風丸』に乗船していたこともあり、当時

   は禁止されていた海外渡航を思い立つ。


   函館潜伏 - 渡米

   元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、『快風丸』に乗って開港地の箱館へと向かう。

   箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から

   日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよ

   う勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺

   琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。

   6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換

   え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い

   始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。 慶応元年(1865年)7月、ボストン着。

   ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学す

   ることができた。


   岩倉使節団

   慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。慶応3年(1867年)にフィ

   リップス・アカデミーを卒業。 明治3年(1870年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツ

   カレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アマースト大学を卒業(理学士)。

   これは日本人初の学士の学位取得であった。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となる

   ウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生

   であり、この縁でクラークは来日することとなった。当初、密航者として渡米した襄であったが、初

   代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。


   明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、

   4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形で

   ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに

   戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。

   これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部

   理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。


   宣教師任命 - 帰国

   明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に

   従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試

   験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。新島の宣教師として身分は『日本伝道通信員』

   (Corresponding member of the Japan)であった。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で

   日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の規約を得る。

   同年11月、横浜に帰着。最初に故郷の上州安中に向かい、三週間滞在した。滞在中に、藩校・造士館と

   竜昌寺を会場にキリスト教を講演する。その集会で30人の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれ

   た。

   明治11年(1878年)に30人が新島より洗礼を受け、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立した。


   同志社設立

   明治8年(1875年)11月29日、かねてより親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松家別邸)

   の約半部を借り受けて校舎を確保し、京都府知事・槇村正直、府顧問・山本覚馬の賛同を得て旧薩摩

   屋敷5800坪を譲り受け官許同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島とジェロ

   ーム・デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。

   また、この時の縁で翌明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚する。同年10月20日、

   金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰、不破惟次郎ら熊本バンドと呼

   ばれる青年達が同志社英学校に入学。

   明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。女学校スタイルはメアリ

   ー・リヨンが設立したマウント・ホリヨーク大学を模している。



   明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・

   看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。この看病婦学校・病院にて看護

   指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあった

   リンダ・リチャーズである。

   明治21年(1888年)、徳富蘇峰の協力により井上馨・大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎

   弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝等から寄付金の約束を取付ける。特に土倉は新島のよき理解者、

   協力者であり、新島も土倉を頼りとした。板垣退助と新島を取り結んだのも自由民権運動のパトロ

   ンでもあった土倉であろうと推測される。

   また明治21年(1888年)11月、徳富蘇峰は襄の求めに応じ『同志社大学設立の旨意』を添削し、自

   身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載し、同志社大学設

   立に尽力した。


   晩年

   明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、

   神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養する。愛弟子の一人の不破唯次郎の妻・ユウの看護を受けるが、

   回復せず明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して

   死去する。

   死因は急性腹膜炎。最期の言葉は『狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん』。享年48。

   1月27日13時より同志社前のチャペルで葬儀が営まれ、京都府知事・北垣国道をはじめ約4,000人が

   参列した。

   遺体は京都東山若王子山頂に葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。



   妻・八重

   妻の八重とは互いに尊重し合い、夫婦仲がとても良かった。男性と対等に生きられる自立した女性

   との結婚を望んでいた襄は、山本覚馬の家を訪ねたとき、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八

   重の姿を見て、その常識に拘らない姿勢が気に入って結婚を決意したという。八重は、その男勝り

   の性格で度々周囲と確執を生むが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていた。アメリカの友人へ

   の手紙で『彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私には

   それで十分です。』と綴っている。



   人物・逸話

   徳富蘇峰の仲介により大隈重信と親交を持つことになる。今日、同志社大学と早稲田大学の間で学生

   交流(国内留学)制度があるのはそのためである。

   明治13年(1880年)4月13日、朝礼の際、自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒に訓した。これは

   『自責の杖』事件と呼ばれる。徳富蘇峰は、この事件の責任を感じ卒業目前で同志社を中退したが、

   新島に対する敬愛の念は生涯変わらず、同志社大学設立運動の中心的な役割を果たした。

   襄の臨終に八重とともに立ち会った徳富蘇峰は八重に『今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、

   貴女もその心持を以て私につきあつて下さい。』と述べ、貴族院議員の歳費は封を切らずに八重に贈り、

   八重が亡くなるまでその生活を支えた。


   群馬県の上毛かるたのなかに新島が描かれた取り札がある。『平和の使徒 新島襄(へいわのつかい

    にいじまじょう)』

   箱館に渡る前に、青森県下北半島の下風呂温泉に寄港し、当地の見聞を『函館紀行』に書きとめた。

   下風呂温泉にある海峡いさりび公園に、『新島襄寄港の地』碑がある。

   ワシントン大聖堂には日本人として、賀川豊彦とともに彫像が掲げられている。」





   上毛かるたの「平和の使徒 新島襄」は、上州すなわち上野(こうずけ)の国、安中藩の

  藩士の子として藩の江戸屋敷で生まれました。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」にはその

  「安中藩」についての記事の「藩史」のくだりに次のような記述があります。話しのついでに紹介します。


   「 徳川四天王の一人・井伊直政が慶長7年(1602年)に死去した後、家督は長男の直継が継いでいた。

    ところが直継は生来から病弱なため将器に欠ける人物で、どちらかというと弟の直孝のほうが

    父の才能を濃く受け継いでいた良将であった。

    大坂の陣においても直継は病弱で出陣できず、直孝が井伊軍を率いて出陣し武功を挙げたため、

    元和元年(1615年)2月、直継は直勝と名を改め、幕命により彦根藩主の座を廃されて分知された

    安中藩3万石の藩主に任じられた。そして代わりに直孝が彦根藩の家督を継ぐこととなった。

    これが安中藩の立藩である。なお、直勝は彦根藩2代藩主であった履歴も抹消された

    直勝は城下町建設に尽力した

    寛永9年(1632年)12月15日、直勝は家督を子の直好に譲って隠居した。

    直好は正保2年(1645年)6月、三河西尾藩に移され、代わって三河新城藩から水野元綱が2万石で入った。

     ( 後略 ) 」


    「安中」ついでにもう一つ。
    
     50年以上前の十代の頃、信州に向かうスキー客用の夜行バスに乗って中山道を行き、碓氷峠の手前、

    群馬県安中市に差し掛かると、街道脇に、突然、辺り一帯をまばゆく照らす光があらわれ、眠気を覚まさ

    れたものです。当時、安中市にあった工場の昼を欺く夜間照明でした。あの「安中公害」で有名な

   「東邦亜鉛」の「安中製錬所」のまばゆい光でした。中山道を通らず、高速道路で信州に向かう時代になって

    安中を通ることが少なくなり、「東邦亜鉛」の夜間照明を目にすることもなくなりましたが、今もあるん

    でしょうね。聞くところによると「東邦亜鉛」は、亜鉛・鉛・銀の製錬を中心とする日本の非鉄金属メーカ

    ーで、鉛は国内トップ、亜鉛、銀もトップクラスのシェアを持つそうです。亜鉛・鉛事業本部の主な製品は、

    電気亜鉛、カドミウム、電気鉛、電気銀、ビスマス、硫酸、発煙硫酸、石膏だそうで、「豊かな暮らしに

    欠かせない亜鉛製品を通じて社会に貢献してきた」とホームページには書いてあります。

    ひとが言ってくれない時は、自分で言うしかありませんものね。

    身体には随分とわるそうなものばかり取り扱ってらっしゃるという印象ですが、こういう企業があったれば

    こその日本の高度成長、経済発展で、今、お隣りの国が鉱害をまきちらかしているからと言って、胸を張って

    文句を言えるものではなさそうです。
コメント
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