今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。
「みんなこれらは学校の帰りに行った。学校というのはアンリ・バルビュスが校長を務める労働者大学(ユニベルシテ・ウヴリエール)である。バルビュスと武林夫妻はまだ金があったころ避暑地で友になっている。バルビュスは左傾していて、武林を同志だと誤解している。しばしば手紙をくれるのはいいが、檄文(げきぶん)を訳して日本の同志に送ってくれという。武林は辻潤と同じくダメの人で、檄なんかとばす宛先もない。
君訳して送れと私は言いつけられて字引引き引き見たら檄文というものはどこも同じなので索然とした。教授陣はいずれも共産党の大立者で、こんな学校になぜはいったかというと授業料がタダだったこととバルビュスの『縁』である。生徒はすぐ同志扱いする見るからに愚直な労働者風が多かった。外国人の少年だとみてとると笑いかけてくるその顔はどこの国の労働者も同じだなと見た。西洋へ行って日本と同じところばかり見ているのでは私ながら行った甲斐がない。漱石はイギリスへは二度といかない、こんないやな国はないとその『文学評論』の序に書いた。ほとんど罵倒していた。若い私の気持はそれに酷似している。それならそれを書けと言われるが人みな飾っていう。我にもあらず飾るのがいやなら言うまいと思っていたが、この大冊を見て異文化に接した一少年の動揺をそっけなく手短かに書いてみてはと思うようになった。私はそれを自然に思うようになったのである。
〔『諸君!』平成十一年十一月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)