今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 オリジナリテというものは実は難解なものなのです。だからこそ字句は平談俗語でなければ
ならないのです。女子供の言葉でその難解を犇々と取巻くと、次第に難解が全貌をあらわしま
す。それがついに理解に達するのは人生の快事です。自分はかねがね頭がいいと思っていたが、
果してよかったと安堵したり喜んだりできます。
少年のとき私は岩波書店の哲学書思想書を読んで投げだしたことがあります。それは開巻第
一ページから難解に満ちていました。並の難解をもって真の難解を取巻くのは、ついにその中
心にオリジナルな難解がないためではないかと疑われます。だから哲学書は読まれなくなった
のです。
けれども今こそ哲学書が読まれなければならない時代で、にせ哲学が退却したのはいっそめ
でたいと私は喜んでいますが、さりとて本物が登場するきざしが見えないのは喜んでばかりは
いられないことです。
コラムの極は一行だと私は何度も書きました。『何用あって月世界へ』というのは一行です。
タイトルです。題だけで分る人には分りますが、宇宙旅行のヒーローには分りません。月は
ながめるものであると委曲をつくしても分りません。『機械アル者ハ必ズ機事アリ』という言
葉も分るものにはひと目で分ります。中学生でも分ります。分りたくない六十翁には千万言を
費しても分りません。人には年齢がないと私が言うゆえんです。機事の極のひとつに原水爆が
あります。けれどもひとたび出来てしまったものは出来ない昔に返れません。故に『原水爆許
すまじ』というのは出来ない相談です。」
(山本夏彦著「世は〆切」文春文庫 所収)