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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

いちもんふち Long Good-bye 2024・11・24

2024-11-24 06:22:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

  連載されたもの 。 今日は 、「 一文不知 ( いちもん

  ふち ) 」と題された小文の 後半の数節を書き写す 。

   法然上人が登場する話の舞台は 、 引き続き 播州

  室津 である 。

   引用はじめ 。

  「 ふたたび軒と軒とにはさまれたこの町特有の
   狭い坂をのぼり 、このあたりの地形ではその
   頂上にあるかのような浄土宗・浄運寺の石段を
   登った 。
    山門も小ぶりでよく 、境内も建物の配置が狭
   さとよく適(あ)っている 。
    老婦人が 、まだ口もきけない年端(としは)
   のお孫さんをつかまえて 、懇々と説諭してい
   る 。幼児は 、男の児である 。石畳のそばの
   わずかな土の上の草を抜いてしまったらしい 。
   『 ただの草ならね 、抜いてもいいの 。この
   草はね 、だめなの 。そのわけはね 、おじい
   さまがね 、わざわざ植えられて可愛がってお
   られるから抜いてはだめなの 』
    坊やは 、おむつを締めて がにまた で立って
   いる 。どの程度理解できているのかわからな
   いが 、ともかくもお祖母さんの説諭をおとな
   しく聞いていて 、そのあたりがいかにも聞法
   (もんぽう)第一の浄土念仏の寺らしくていい 。」

  「『 法然上人霊場
    と 、山門のそばの石碑に刻まれていたが 、
   法然が晩年 、流されて四国へ送られるときに 、
   船がこの室津に寄った 。そのときこの室津で
   『 友君(ともぎみ) 』とよばれていた評判の
   遊女が法然を慕って帰依したことで 、この寺
   は有名になった
   この寺はその後の開創のようだが 、この場所
   に友君が住んでいたのか 、それともここが番
   所か何かで罪人としての法然の宿所になって
   いたのか 、そのあたりはよくわからない 。」

  「 法然の配流は 、気の毒というほかない 。
    その配流は 、後鳥羽上皇のごく私的な感情
   に発している 。上皇が寵愛していたらしい二
   人の女官が 、法然の弟子のうちの公家出身の
   二人の僧と恋愛関係をもったということで 、
   その一件とは何の関係もない法然とその弟子
   たちを遠国に流し 、教団を事実上壊滅させた 。
    法然という人は日本最初の民衆的教団の開創
   者というにはおよそふさわしくないほどに円
   満な人柄で 、どうもうまれつきであったらし
   い 。争いを好まず 、ひたすら既成の権威や
   俗世の権力に対して衝突を避け 、自分の思想
   と信仰を手固く守ってきた 。が 、結局は七
   十五歳という晩年になってくだらないことで
   大弾圧をうけ 、配流の身になってしまったの
   だが 、しかし一面 、浄土教の発展という面
   ではよかったかもしれない 。このとき法然の
   弟子の一人として越後へ配流された親鸞が 、
   その作の『 教行信証(きょうぎょうしんしょ
   う) 』のなかで『 主上・臣下 、法ニ背(そむ)
    キ 、義ヲ違ヘ忿(いかり)ヲ成シ 、怨ヲ結ブ
   とはげしく地上の支配者の気まぐれを罵(のの
   し)り 、その本質を見ぬいたというふうな気
   分を持ったのも 、この弾圧の経験による 。」

  「 流人の法然を乗せた船が 、どのようなもの
   であったか 、せいぜい絵巻物などで想像する
   ほかないが 、漁舟よりやや大きい程度のもの
   であったであろう 。
    法然の生涯は 、永い 。『 自分は木曾殿が
   乱入した日以外 、聖教を読むことをやめた
   ことがない 』と言ったことがあるが 、かれ
   の流罪はその日から二十四年後のことである 。
   かれを檻送する舟が 、平家の誇るべき遺構
   である福原港の防波堤『 経ケ島 』に寄港し
   たことは 、そのあたりの漁師多数が経ケ島
   まで舟を漕ぎよせて法然から聞法(もんぽう)
   しようとした事でも 、想像できる 。
   『 上人 、室の泊(とまり)につき給ふ
    というのは『 勅修御伝 』の文章である 。
   このとき遊女が推参(すいさん)した 。友君
   の名で伝わる遊女であろう 。彼女は 、言う 、
   この罪業重き身 、いかにしてか後世(のちの
   よ)助かり候べき 、と訴え 、法然から阿弥
   陀如来の本願と念仏のすすめを聞いた 。
    室津の浄運寺はその古蹟とされる 。
   『 そのあと寺ができたといわれていますか
   ら 、七百年以上は経っているでしょう 』
    と 、境内で孫と遊んでいた老婦人がいっ
   た 。境内のはしへゆくと 、そこは崖にな
   っている 。崖の下は海かと思ったのだが 、
   のぞくと学校のグラウンドになっていた 。
   『 もとは 、海だったんです 』
   老婦人は 、埋め立てられる前 、崖下まで
   きていた潮の色がいかによかったかという
   ことを話した 。
    境内の一隅に 、姿のいい観音堂がある 。
   十一面観音がまつられているという 。法
   然は 、念仏して阿弥陀如来の本願を頼み
   参らせることのみを説いた人だが 、当時
   の権威だった天台や南都の諸仏をまつる
   ことについても 、親鸞のようには拒否的
   でなかった 。このためにこの寺にも十一
   面観音のお堂があるわけで 、まことに
   風というのは宗祖の性格の反映といって
   いい
    眺めていると 、お堂の観音扉がひらいて 、
   暗い堂内から綿入れのきものを着た老人が
   出てきた 。閼伽(あか)を取りかえていた
   らしいことは 、古い花や水桶をたずさえ
   ていることでもわかる 。在家の信者かと
   思って老婦人にきくと 、彼女は 、この
   寺の住持でございます 、といった 。つ
   まりは彼女のご主人で 、このお孫さんの
   祖父にあたる 。坊やが抜いてしまった草
   花を植えたひとである 。
    法然の『 一枚起請文 』に 、
  
    ・・・念仏を信ゼン人ハ 、たとひ一代
    ノ法ヲ能々(よくよく)学(がく)ストモ 、
    一文不知(いちもんふち)ノ愚とんの身ニ
    ナシテ 、尼入道(あまにふだう)ノ無(む)
    ちノともがらニ同(おなじう)しテ 、ちし
    やノふるまひヲせずして 、只(ただ)一(い
    つ)かうに念仏すべし

    とあるが 、この住持や寺族のふんいきに
   は 、いかにも法然の一文不知の念仏が滲み
   入っているように思えて 、海風のようにす
   がすがしかった 。

    終始無言のまま境内にたたずんでいた安田
   章生(やすだあやお)氏もあるいはそう思わ
   れたらしく 、新着の『 短歌 』六月号をな
   にげなくひらいてみると 、

    海のこゑ聴くにこころの澄みゆきぬ
    一文不知の身ともなりてむ

    という歌があった 。あわてて名前を見ると 、
   やはり氏の出詠だった 。」

   引用おわり

  。。(⌒∇⌒) 。。

   因みに 、筆者の父親の実家の宗旨は 、浄土宗であったと

  聞く 。三代前あたりから 、大阪市天王寺区生玉町にある

  菩提寺という浄土宗の寺の檀家だったようで 、父方の祖

  父母の墓はその寺にあった 。一方 、筆者の母親の実家の

  宗旨は 、浄土真宗で 、母方の祖父母の墓は 、京都市東山

  区清水3丁目にある興正寺別院にある 。観光客で賑わう

  清水寺近くの産寧坂 ( 三年坂 ) にある割には 、静かで落

  ち着いた雰囲気の墓所である 。

   宗旨に関して 、商都 大阪では 、概して考え方が大らか

  だったようで 、父方の祖父は 、真言宗の高野山金剛峰寺

  の参道に置く 灯籠 をひとつ寄進した 、と聞かされた

  がある 。また 、母親に連れられて 、大阪市天王寺区に

  る一心寺という浄土宗の大きなお寺にお詣りしたかと思う

  と 、ご利益があるとか 霊験あらたかであるとか 聞けば 、

  異なる宗旨の神社仏閣にも 、母は 、詣でた 。たとえば 、

  真言宗の 、兵庫県宝塚にある 、清荒神 にお詣りする

  といった按配で 、そういった往時の記憶が 、者には

  ある 。

  。。 (⌒∇⌒) 。。

 

  

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からのみふね Long Good-bye 2024・11・22

2024-11-22 06:39:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」

 に連載されたもの 。「 播州室津 」について書か

 れた数節を追加抜粋して書き写す 。

  以下は 、「 一文不知 」と題された小文の 前半の

 数節で 、船の話 。作家の思案は 、あっちゃこっ

 ちゃ 忙しなく飛ぶ 。

  タイトル の「 一文不知 」や 法然上人 と 「 むろ

 のとまり 」のゆかりの話は 、まだである 。

  引用はじめ 。

  「 室津の加茂明神の石段を降りながら 、中世日本
  における船のことを考えた 。
   日本歴史には 、海洋の要素が乏しい 。この国が
  まわりを海にかこまれていながら 、みずからを海
  洋国家であるとして自覚するのは幕末においてで
  あり 、その実質へ出発するのはかろうじて日露戦
  争前後ごろからといっていい
   室津は 、すでに幾度もふれてきたように日本で
  もっとも古典的権威をもつ海港である 。が 、
  肉なことに日本が海洋国家として自覚した時期に ( 明治時代 )
  見捨てられ 、以後 、小さな漁港になってしまっ
  た 。 」

 「 私は古代の漁労集団というのは 、東アジアの沿
  岸に貼りつき 、東北アジアの海を共通の宇(いえ)
  として暮らし 、似たようなクリヌキの小舟と似た
  ような漁法をもち 、また以下のことは 、やや空
  想の域を出ないが 、神話や語彙において共通点が
  多かったかと思える 。
   日本での古代漁労集団は安曇(あずみ)族とよば
  れるものだが 、この集団が 、遼東半島から朝鮮
  半島の黄海沿岸に住んでいた同業の連中とまった
  く無縁だったとは考えられない 。
   中国では 、漁民は徹底して軽んじられてきた 。
  中国体制を参考にした律令日本の立国もまた農を
  もって基本としたために漁労民は大いに軽んじ
  られた 。その意味では明治以前の日本は小さな
  島国のくせに内陸国家であったといってよく 、
  このため外洋への航海と船舶は容易に発達しなか
  った 。」

 「 日本で外洋船が出現するのは 、飛鳥・奈良朝の
  遣隋・唐使船の派遣からである 。当時の日本人
  たちにとって船といえば小さな漁舟(いさりぶね)
  のことで 、外洋船など 、どう建造していいのか
  わからなかったにちがいない 。
   妙なことに 、朝鮮半島では比較的早くから外洋
  船が発達していた
   たとえば北方の高句麗( 北朝鮮と南満州の一部 )
  などは 、日本海を縦断できる外洋船を古くから
  持っていたということからみて 、一種海洋国家
  の要素も もっていたのではないかと思える 。こ
  のことはこの地に高句麗という民族国家ができる
  以前 、漢の植民地で 、楽浪郡などが置かれ 、
  その文化や技術を高句麗が継承できたというせい
  ではないかと思えるが 、想像でしかない( ただ
  しこんにちの朝鮮の歴史家のあいだでは漢の楽
  浪郡の影響を考えることは一般によろこばれな
  いらしい 。しかし文化というものは他文化の影
  響で変化し発展するというものであるというこ
  とを考えると 、農業と牧畜の国家だった高句麗
  が 、外洋船の建造能力ももっていたという意外
  さは 、他からの影響として考えるほうがよりき
  らびやかであるし 、また常識的ではないかと思
  ったりする ) 。
   南朝鮮の黄海沿岸の上代国家であった百済( ~
  660 ) も 、外洋船をもっていた 。
   百済はどういうわけか 、華北の北朝にはつよい
  関心を示さず 、揚子江以南で興亡した六朝( 222
  ~589 ) の遊び性のつよい貴族文化が好きで 、
  わざわざ遠い揚子江河口まで船をやっては 、朝
  貢貿易をつづけていたために 、黄海から東シナ
  海を突っきってゆく外洋船が必要だったのであ
  る 。こんにち百済船と六朝船とを技術的に比較
  する材料がないが 、両地帯の大船建造法は似て
  いたのではないか 。
   七世紀後半に百済が新羅のためにほろぼされ 、
  その遺臣や遺民が大量に日本にきて 、日本の上
  代文化に重大な影響をあたえた
   日本の外洋船の建造の技術にも 、大きな影響
  をあたえた 。遣唐使船というのはほぼ百済技術
  による大船だったわけで 、百済式船舶といって
  いいであろう 。
   百済式による遣唐使船はひどく脆い船であった
  竜骨などはむろんなく 、船底も扁平で 、構造的
  には箱をつくるように戸板のような平面をべたべ
  たと張りつけただけのものであった 。つよい横
  波などを連続的にうけるとばらばらになったりし
  て 、構造上 、東アジア各地の大船のレベルから
  みると 、もっとも脆弱だったのではないかと思
  える
   同時代の新羅の外洋船のほうが 、まだましだっ
  た 。新羅はいわゆる三韓のうちではもっとも後
  進国だったが 、百済をほろぼし 、高句麗の故地
  をあわせ 、唐の勢力を追っぱらって朝鮮半島に
  おける最初の統一国家をつくった 。当然 、高句
  麗の造船技術もあわせ吸収したに相違なく 、遣
  唐使船時代の記録をみると 、新羅船がいかにも
  堅牢で安全そうで 、日本側からみればひどくう
  らやましいといった感じが匂ってくるようであ
  る 。」

 「 遣唐使船は 、大阪湾の三津浦から出た 。三津
  浦のあたりはその後陸地化して いまでは大阪市
  南区三津寺町付近といえば繁華街で 、そこが 、
  奈良朝 、平安朝のむかし海港であったなどとい
  う実感はまったくおこらない 。
   大阪湾を出て瀬戸内海をゆく遣唐使船が 、ほ
  ぼ決まったように室津に寄港したことは 、まち
  がいないかと思える 。遣唐使船は最初は二隻だ
  ったが 、のち四隻になった 。一隻に 、多いと
  きは二百人以上乗っていた 。使節団はべつとし
  て 、操船者たちはその頃から存在したかと思え
  る室津の遊女とあそんだのではないかと思われ
  る 。」

 「 遣唐使は寛平六( 894 ) 年に廃止されたが 、
  以後 、日本における外洋航海も途絶え 、大船
  建造の技術も衰微した 。」

 「 平安末期 、平清盛が航海貿易策をとりながら
  も 、それを実施する大船についてはわざわざ宋
  から操船者付きで買い入れざるをえなかった 。
  いかに日本が海洋国家としての実がなかったか
  ということになるであろう清盛が唐から船員
  付きで購入したのが『 高倉院御幸記 』に出て
  くる唐船(からのみふね)である 。
   清盛は室津入港の翌年には死んでしまう 。そ
  れから四年後の三月 、平氏そのものが壇ノ浦の
  海戦にやぶれ 、一挙にほろぶのだが 、その壇
  ノ浦の海戦のとき 、平家方は清盛の外孫の幼帝
  ( 安徳天皇 ) を奉じていた 。幼帝の座乗船が
  城楼のような唐船であったことが『 平家物語 』
  にも出てくる 。他の海戦用の舟は源平両軍とも
  漁舟(いさりぶね)で 、関門海峡をうずめた両軍
  の小舟のむれからみれば 、一隻だけとびぬけて
  大きかった
   このあたりで 、私の想像はいつもたゆたって
  しまう 。この唐船は 、五年前の室地入港のと
  きの唐船であったろうか 、ということである 。
  そうだったかもしれない可能性がわりあいにあ
  り 、仮りにそうであったとして 、そうすれば
  依然として操船者は宋人たちであったとすれば
  異国の合戦に巻きこまれてしまったかれらがど
  ういう運命をたどったろうかなどというらちも
  ない思案にとりつかれて 、目の前の室津港の
  山と潮の色が茫々(ぼうぼう)としてしまう 。」

  引用おわり 。

  法然上人の話は次回 。

  

   

 

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花のことども Long Good-bye 2024・11・20

2024-11-20 05:30:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。備忘のため 、「 花のことども 」

 と題された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

  室津の宿の夕べ 、旅の同行者と過ごした 作家の 至

 福の時間 。

  引用はじめ 。

 「 夜になると 、この歴史のみが重い漁港にも 、
  集落(まち)らしい灯火の群れが 、暗い湾をか
  こみはじめた 。
   それらの灯を崖の中腹から見おろしながら 、
  私どもは夕食をとった 。編集部のHさんをの
  ぞいては 、下戸がほとんどの夕食である 。
  『 本当に結構ですね 』
   と 、言われたのは 、平素 、極端に少食な
  安田幸子夫人であった 。インドで天人という
  形而上的存在がうまれたのは 、現世ですでに
  諸欲すくなくうまれついている人々がいて 、
  宗教的な空想家がその煩悩の少なさにおどろ
  いて発想したのかもしれないが 、彼女はまこ
  とに稀有なその部類に属する人かもしれない
   少食という点では 、安田章生(やすだあやお)
  氏もそうである 。夫妻ともに少食なまま三十
  余年も連れ添われると 、相乗作用で本然(ほん
  ねん)以上に双方とも少食になってしまうもの
  らしい 。」

 「 安田章生氏は 、花好きである 。極端に好む
  のは 、『 古今 』『 新古今 』の学究である
  ためか 、あるいは定家の歌論を発展させた歌
  論の上に立って作詠しているせいか 、それと
  も幼時の龍野の想い出の中に揖保川河原の野
  の花の想い出が多いところからみて 、天性の
  ものであるのかもしれない 。
   氏の話の様子では 、京都の北西 ―― 古い呼
  称でいえば丹波国山国郷井戸
 ―― のあかるい
  田園の中にある常照皇寺のしだれ桜も 、すで
  にかぞえきれないほどに観に行かれたらしく
  思える 。
  『 もう咲いたかと思ってゆくと 、まだだっ
  たりします 』
   というのは 、すずやかな執念ながら 、よほ
  どのことのようである 。桜の開花は気象に対
  して神経質で 、例年から察して 、いよいよ
  今日あたりかと思い定めて行ってみると 、昨
  夜降った雨などで気温がさがっているために 、
  まだ蕾(つぼみ)が頑(かたく)なであったりす
  る 。」

 「 ある年の春 、氏はやはり一日早く常照皇寺
  の庭をのぞいてしまって 、かといってその
  まま帰る気にもなれず 、そのあたりをぼん
  やり見まわしていたところ 、掃除のおばさ
  んが話しかけてくれた 。ついでながら 、安
  田氏という人は 、見知らぬ人に積極的に話し
  かけるという芸当がうまれつき身に備わって
  いない人である 。
   その掃除のおばさんは 、永年 、しだれ桜の
  下を掃いている人だけに 、花のことがよくわ
  かっていた 。彼女は 、この桜が二分だけ咲
  くときや 、三分咲くとき 、あるいは満開の
  ときなどの説明をしつつ 、もっとも素晴らし
  い時というのは開花の季節を通じて 、
  『 ほんの四時間ですね 』
   といったという 。
   私は氏からこの話をきいて 、自分もしだれ
  桜の下でそのおばさんから話をきいているよ
  うな幸福な錯覚の中にいた 。ともかくも桜が
  もっとも素晴らしいのは一日だけということ
  なのであろう 。その一日のうちでも 、午後
  になれば花が人の目や陽にくたびれるために 、
  おそらく朝日が射しそめてそれこそ陽に匂う
  というようなときのほんの四時間ということ
  が 、その意味であるらしい 。そのたった一
  日しかない好日に 、朝日に匂っている桜の
  花のかがやきを見ることができるのは 、お
  そらくこの掃除のおばさんだけかもしれない
  のである 。」

  常照皇寺は 、臨済禅の寺である 。禅という
  のは天才の道で 、常人にとって毒物かもしれ
  ないということを私はかねて感じていた 。専
  門に僧侶として衣食するようになればいよいよ
  禅から遠くなり 、そのくせ禅という毒物を食
  うために禍害は深刻だと思ってきたが 、しか
  し同時に禅というのは人類の財宝であるとも思
  ってきた 。精神が極度に透明になった状態を
  禅の妙境だとすれば 、僧位僧階とは無縁の場
  所にいる人間のほうが 、まれに禅のほうから
  自然に参入してくるような境地を持ちうるもの
  かもしれない 。桜の花の見頃は四時間しかな
  いと見たこの掃除のおばさんの感覚は 、単な
  る意識から出たものではないであろう 。やは
  り禅機というに幾(ちか)いものであると言える
  かもしれない 。
  ( おなじ言葉がそのあたりの僧から出た場合 、
  安田氏もべつに感動はせず 、むしろ禅的衒学
  性や禅的修辞法から出たこけおどしの言い方
  と思うのではないか )
   と 、思い 、人間のことばというのは本来独
  立しがたいもので 、それを口に出した人間と
  不離にかかわるものだと思った 。この場合 、
  このことばはあくまでも虚仮(こけ)に拠(よ)る
  ところのない掃除のおばさんの口から出ねばな
  らず 、たとえば同じ内容のことを天台山国清
  寺の庭掃きをしていた寒山拾得(かんざんじっ
  とく)がいったという語録があったとしても 、
  多少のいかがわしさはつきまとう禅は 、そ
  れが禅であるということで 、すでに不純にな
  るというきわどいものではないか 。」

 「 安田氏は花の話に熱中した 。やはり山桜が
  いい 、といった 。赤い嫩葉(わかば)ととも
  に花がひらくという姿もよく 、散る姿もいい 、
  ともいった 。いちいちの内容はどうでもよく 、
  それよりも室津(むろつ)という豪華としか言い
  ようのない歴史のなかで桜の花がいかに美しい
  かということをきいていると 、自分だけがこ
  の世でもっとも贅沢な時間の中にいるという感
  じがした 。」

 「 私は 、江戸初期までの文章で 、和文でもって
  思想を伝えたものとしては『 歎異抄(たんにしょ
  う) 』がもっともよく 、技術という表現しがた
  いものをうまく表現したものとしては宮本武蔵の
  『 五輪之書(ごりんのしょ) 』がいい 、という
  と 、安田氏もほぼ同感してくれて 、しかしなが
  ら日本語は文章語としてはなかなか成熟せず 、
  むしろ短歌という詩の形式において早く成熟し
  た 、という意味のことをいった 。
   この安田氏の意見は 、とくにこの人の専門であ
  る平安朝にかぎってのことであるようで 、何某と
  いう平安朝の女流の文章を例に挙げ 、
  『 文章は 、大変よくないのです 。ところがその
  中に出ている歌だけがまず出来あがったのでしょ
  うか 』
   と 、いった 。ついでながらこの安田氏の意見は 、
  その前に述べた私の我執くさい説である『 文章と
  いうのは 、その言語を使う社会がこぞってつくり
  あげるものだ 』という意見を踏まえていわれたも
  のである 。散文は容易に文学史の中で熟せず 、ま
  ず歌が出来あがった 、という意見は 、おもしろか
  った 。」

   引用おわり 。

   作家を含め 、この旅に参じた人はみな故人である 。

   この小文の中で 、「 花 」について 、こんな感想を

  作家は述べている 。

  「 私は花の音痴だから 、ひたすらに聴き入るし
   かない 。 」

  「  私にとって好きな花といえば 、草花では
   桔梗 、木の花では白梅だが 、しかしそれ
   も現実に手もとで眺めているよりも 、イ
   メージの中で 、浅茅ケ原に咲きけむる水
   色桔梗を思いうかべたり 、あるいは春の
   闇に匂う白梅を思いえがいたりするほう
   がいい 。現実には 、失望する 。目の前
   にその花々を置いたりすると 、花とは
   それだけのものか 、と思ってしまい 、
   二秒も見ることがない 。」

   。。 (⌒∇⌒) 。。

 

 

  

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むろのとまり Long Good-bye 2024・11・18

2024-11-18 06:09:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。 備忘のため 、「 播州室津 」に

 ついて書かれた数節を追加抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 室津の町並の特徴は 、ほとんどの古い民家が
  二階建てであることと 、重厚な本瓦ぶきである
  ことである 。」

 「『 千軒 』というのは 、その地方地方の代表的
  な商業地であることを指す 。城下町の場合は 、
  戸数がたとえ千軒あったとしても 、千軒とはよ
  ばない 。」

 「 ・・・ 千軒というのは 、千軒と呼称するにふ
  さわしい共通点が 、町並にあったにちがいない 。
   ただし 、室津千軒のさびれはいかにもいちじ
  るしく 、この崖の中腹の宿から遠目で入江と町
  並を見おろしているだけでも 、そのことが青っ
  ぽい空気とともににおい立ってくるように思わ
  れる 。
   もののあはれというものの定義には私はうとい
  が 、たとえば景観の場合 、過去の歴史にゆゆし
  い華やぎがあって 、しかもその痕跡が 、見る側
  の心象の次第ではわずかながらでも感じられると
  いうことでの何かを指すのかもしれない 。室津
  はそのことにいかにもふさわしい 。」

  。。。(⌒∇⌒) 。。。

 「 室津が登場する古い文章がないかとさがしてみ
  たところ 、平家の末期の治承四( 1180 )年の紀
  行文が 、『 群書類従 』(巻第三百二十九)にお
  さめられている 。
  『 高倉院厳島御幸記(たかくらいんいつくしま
   ごこうき)
   というもので 、筆者は当時蔵人頭くらいだっ
  た源通親(みなもとのみちちか)というが 、通
  親とはどういう人物か 、私にはなじみがない 。
  文章は 、わるくない
   高倉天皇( 1161 - 81 )というのは平清盛の
  女婿で 、清盛のいわばあやつり人形として八
  歳で即位し 、わずか二十歳で清盛の外孫であ
  る安徳天皇に位をゆずり 、その翌年には死ん
  でしまったという薄命の人である 。『 平家物
  語 』では 、教養人としてえがかれている
   譲位して上皇になったとしである治承四年 、
  どういうわけか海路厳島へ参拝するということ
  が触れ出されて 、公卿や女官どもをおどろか
  せた 。安芸の厳島神社はいうまでもなく平家
  の氏神である 。清盛が平家の政治的示威のた
  めにそれをすすめたのか 、あるいは若い高倉
  上皇が自発的に平家への機嫌とりとして考えた
  のか 、おそらく前者であろう 。
   ついでながら天皇には旅行の自由はないが 、
  上皇になるとそれがある 。旅行といっても京
  の北郊の賀茂神社へゆくか 、京の南郊の石清
  水八幡宮へゆくのがふつうだが 、厳島へ船で
  ゆくなどは異例中の異例といっていい 。この
  『 高倉院厳島御幸記 』も 、そのことをなげ
  いて 、

   位おりさせ給ひては 、加茂 、八はたなどへ
   こそいつしか御幸あるに 、おもひもかけぬ
   うみのはてへ 、浪をしのぎていかなるべき
   御幸ぞとなげきおもへども

   と 、ある 。
   この治承四年というのは平家の運命の最晩期
  といっていい 。このとしの二月に高倉天皇が
  譲位したが 、五月には源三位頼政(げんさんみ
  よりまさ)が非力ながらも以仁王(もちひとおう)
  をかついで挙兵し 、八月になると伊豆の流人
  だった頼朝が挙兵して 、石橋山でいったんは
  敗北し 、九月には 、源氏の別派である木曾
  義仲が挙兵し 、成功している 。
   平清盛は 、経世家としては 、頼朝以上だっ
  たであろう 。かれは海運をさかんにし 、対
  宋貿易をもって立国しようとしたという点で 、
  日本最初の重商主義の政治家だったといって
  いい 。頼朝は農地問題の累積した不合理性を 
  ただすという旗幟(きし)をかかげ 、清盛は公
  家(くげ)による農地支配体制を温存したまま
  商業と貨幣経済を興すことに賭けた 。
   清盛はこのため 、外洋航路の基地としての
  一大港市を設けようとし 、大輪田(おおわだ)
  の湊(いまの神戸港)を建設した 。この港は遣
  唐使船時代以来の良港とはいえ 、一条件だけ
  欠けていた 。つまり西に和田岬が突き出て風
  浪をふせいでいるが 、東にはなにもなく 、風
  むきによっては碇泊中の船までひっくりかえっ
  てしまう 。清盛はこの東側に人工島( 経ケ島 )
  を築くという当時としては大がかりな工事をや
  って 、外洋船が安んじて泊れるようにした 。
  当時 、このあたりは福原といった 。清盛は晩
  年 、瀬戸内海水路の奥ともいうべき福原に帝
  都を遷(うつ)そうとしたほどにこの貿易政策に
  熱中したが 、しかしながら当時 、国民経済と
  しての商品経済が 、ほとんど無いにひとしく
  いわば農民とそれを収奪する貴族だけの社会
  ったために 、ひとびとは清盛の感覚について
  ゆくどころか 、理解さえできなかった
   ともかくも清盛は大宰府に腹心の家人を置い
  ていまの博多港( 当時は 、大津浦 )を管理
  し 、また下関港を整え 、さらには途中の寄
  港地としての安芸海岸の厳島に氏神を奉じて
  社殿を壮麗にし 、かつ福原をもって貿易基地
  にしようとした 。この構想力は 、まだ農業
  だけが産業というこの時代に適わなかったと
  はいえ 、ただの人間ではなかったことを思わ
  せる 。」

 「 もっとも『 御幸記 』の筆者はふつうの公卿
  さんにすぎない 。清盛に接していながらそこ
  に経世家を見出す能力などはなく 、ただ船旅
  のおそろしさや心細さのみをこの紀行で書きつ
  づっている 。 」

 「 御幸のための船団は 、いまの大阪の住吉の浦
  にあった御津( 三津 )を出帆した 。次いで
  寺江(いまはこの地はつまびらかでない)に着
  き 、西宮の沖ではるか浜に見える戎神社に対し
  て海路の安全を祈り 、福原に着いた 。そのの
  ち 、夜間の航海をしたらしい 。

   廿一日 。夜をこめて出(いで)させ給ふ 。宮
   (みや)こ(都)をいでさせたまふより 、かむ
   だちべ 、殿上人(てんじゃうびと) 、みなじ
   やうえ(浄衣)をぞ き(着)たる おと(音)に聞(き
   こえ)し わだ(和田)のみさき 、すま(須磨)の
   うらなどといふ所々 。うら(浦)づたひ 、は
   るばるあら(荒)きいそべをこぎゆくふねは 、
   帆うちひきて 、なみのうへにはしりありたり

   この文章のあと 、清盛入道は唐船(からのみふ
  ね)に乗ってやってきた 、とある 。
   そのあと 、高砂に寄港したらしい 。
   出港のときの合図として 、清盛が座乗する唐
  船より鼓 三たび うつ 、とある 。操船者として
  宋人が傭われて乗っていたといわれるから 、こ
  の出航合図は中国の習慣だったのかもしれない 。
   室津に着いたときは『 午(むま)の刻(とき)かた
  ぶきし程 』という 。入港にはちょうどいい昼さ
  がりである 。天気はわるくなかったらしいから 、
  まわりの山はよく見えたであろう 。
   本文では 、室津といわず『 むろのとまり 』と
  書いている 。船上からみた景観は 、

   山まはりてそのなかに 、いけ(池)などのやう
   にぞみゆる

   という 。湾は山をめぐらせて 、そのなかの水
  面が池のようである 、と述べているあたり 、
  私が崖の中腹の宿のアルミ窓枠のガラスごしに
  見ている感想と 、八百年の歳月をへだてながら 、
  すこしも変らない 。
   文章は 、その池のように 、せまい水面に 、
  『 ふねどもおほく 』と 、碇泊の情景を語る 。

  むろのとまりに御所つくりたり

   とあるのは 、今から御所を作るというのでは
  なくあらかじめ作ってあった 、ということで
  あろう 。日本語での主語の不明快さと時制(テ
  ンス)のあいまいさが 、明治以前における文章
  日本語の発達を遅らせたと思うのだが 、この
  文章も前後がよくわからない 。
   高倉上皇の座乗船は 、以下の文章によって 、
  伝馬船の中継(なかつぎ)なしにいきなり接岸し
  たように思える 。

   御舟よせておりさせ玉ふ

   そのあと『 御ゆなどめして 』というから 、
  上皇はすぐ湯浴みをしたのであろう 。
   ところが 、そのつぎの文章では 、遊女ども
  がわれもわれもと御所ちかくに走り寄ってきた 、
  というのである 。遊女は 、そのころから室津
  にいたらしく 、鎌倉のころの『 友君(ともぎ
  み) 』が元祖ではなかったらしい
   上皇の行幸は 、天皇の行幸とちがってもとも
  と供奉(ぐぶ)の人数がすくなく 、まして船旅
  のことでもあり 、遊女どもを追いちらすよう
  なそば仕えの人数があまりいなかったらしく 、
  源通親みずから 、

   もてなす人もなければ 、まかり出(いで)ぬ

   と書いている 。まかり出たあと 、追いちら
  したのか 、それとも上へあげたのか 、その
  あたりについては筆は省かれている 。ただ通
  親は遊女らについて腹立たしく 、

   ふるきつかのきつね(古い塚の狐)のゆふぐ
   れにばけたらんやうに

   と書いているのは 、ユーモラスでいい 。」

  引用おわり 。

  この小文のタイトルは「 古き塚の狐 」。

  室津漁港の海沿いの4メートル幅の細い道路にも

 グーグル・マップのストリート・ビューの撮影車

 は入り込んでいるので 、「 むろのとまり 」

 こんにちの景観は見ることができる 。昼間の風景

 なので 、「 もののあはれ 」も 、趣きも 、くそも

 へったくれもないけれど 。

 

 

 

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室津 船泊 Long Good-bye 2024・11・16

2024-11-16 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。備忘のため 、「 播州室津 」に

 ついて書かれた数節抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 播州平野でもっとも海近くをとおっている道路
  は 、国道250号である 。そこまで出ても途
  中の山がさえぎって 、まだ海が見えるに至らな
  い 。ただ海風のにおいはする 。
   道路上で 、一軒みつけた 。いかにも付近の農
  家が田ンボを潰してやっているといったふうの泥
  くさいドライブ・インで 、入るとあざとい色調
  のミュージック・ボックスが置かれている 。元
  青線のネオンのようなこの種の音楽箱のデザイン
  というのはいまの日本のどの層の感覚に迎合して
  いるのかわからないが 、ともかくもこれが置か
  れている店に入る場合には 、多くの期待は禁物
  である 。
   このあたりは 、姫路市の西郊になる 。姫路市
  というのは 、私の手もとの昭和初年の資料では
  人口は六万であった 。また戦争で市街のほとん
  どが焼けてしまったし 、敗戦の直後は師団など
  が無くなったせいもあって 、人口も五万ほどに
  まで落ちた 。その後 、工業設備が集中してい
  まは四 、五十万だというから 、短期間にとほ
  うもなく膨張した 。このために近郊の土地が騰
  貴して 、かつてのどかだった田園が 、農地な
  のか 、ごみ捨て場なのか 、無秩序な宅地なの
  か 、つかみがたい景色になっている 。
  『 ほんのさっき見た龍野の町が 、もう夢の中
  の町のように思えますな
   と編集部のHさんがいった 。」

  (⌒∇⌒)  。。

 「  陽が瀬戸内海に傾くころに 、室津に着いた
   七曲からの道路は 、嫦娥山(じょうがざん)の
  崖の中腹を通っている 。道路上から 、室津の
  入江の景観が見おろせる 。宿は 、その道路上
  に 、崖に背をもたせかけるようにして建ってい
  る 。
   宿は新築の建物で 、かつて室津の物寂びた風
  情を愛した文人墨客が見れば 、あるいは歎く
  かもしれない 。
  『 室津では 、宿は 、ここぐらいしかないん
  です 』
   と 、この宿を予約してくれた編集部のHさん
  自身 、無意味な自動ドアの前で 、閉口したよ
  うに笑った 。ほこりっぽいコンクリート 、喫
  茶店によく置かれているような観葉植物 、装飾
  として置かれている漁師舟など 、何だか変に不
  統一で気分が落ちつきにくかったが 、部屋に入
  ると 、この宿に感謝する気持になった
   アルミ窓枠のガラスいっぱいに室津港が見おろ
  せるし 、地図ではよほど沖合かと思っていた中
  ノ唐荷島と沖ノ唐荷島が 、ちかぢかと見えるの
  である 。
  『 歩きますか 』
   歩行能力に卓越している須田画伯は 、歩くなら
  自分が案内してやるという勢いを示してくれたが 、
  むしろ今宵は 、この窓から日没で翳(かげ)の移ろ
  ってゆく入江を眺めているほうがよさそうに思え
  た 。」

 「 なるほどこの地勢を見ていると 、奈良朝以来 、
  幕末まで名津(めいしん)といわれてきたことが
  うなずける思いがする 。
   湾口を西方の沖にむかってひらいている 。その
  小さな口を囲んでいる三方の陸地はことごとく山
  壁で 、風浪をふせいでいる 。しかも山脚がいき
  なり海に落ちているために底までは深そうである 。
  湾の奥のわずかな平坦地にいらかがひしめき 、江
  戸期には港市としてのにぎわいを『 室津千軒
  などと誇張された 。上陸地のその平坦地に接して
  いるあたりの海でさえ水はよほどの深さであると
  いうから 、五百石 、千石の船が 、湾のもっとも
  奥に投錨することができ 、荷の揚げおろしに便利
  であったにちがいない
   湾は 、意外に小さい 。
   湾の小ささが 、室津の風情(ふぜい)をいっそう
  濃くしている 。古くは遣唐使船の舟泊(ふなどま
  り)になり 、平安末期には西海へ落ちてゆく平家
  の船団の一部を休ませ 、室町期には京都商人を
  のせた遣明船がここで風を待ち 、江戸期にはさ
  らに殷賑をきわめ 、参勤交代の西国大名の船の
  寄港地になったというが 、この船泊の小ささは
  どうであろう 。当時の船というのは 、外洋船
  でもこんにちの船のイメージからいえばよほど
  小さかったにちがいない 。その小ささには 、
  三方の山の翠巒(すいらん)が海にくろぐろと映
  りはえている程度の小ぶりな水面がちょうど間
  尺(ましゃく)に適(あ)っていたのかと思える 。
  科学的な推量ではない 。美的イメージとして
  である 。」

   引用おわり 。

  作家は 、五十年前の姫路市西郊を例に挙げて 、日本の都市

 近郊の身も蓋もない無残な姿を描き歎いているが 、その状

 況は 、おそらく 、五十年後のこんにちも変わりはないであ

 ろう 。いや 、いっそう劣化しいるに違いない 。

 

 

 

 

 

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赤蜻蛉 Long Good-bye 2024・11・14

2024-11-14 06:14:00 | Weblog

  

 

 今日の「 お気に入り 」は   、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、「 播州龍野 」について書かれた数節

 を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 龍野藩というのは江戸期も明治後もこの小さ
  な城下町の内外から多くの学者 、名僧あるい
  は文人墨客を出したように 、江戸期は学問が
  盛んだった 。脇坂氏五万一千石の居城の城山  ( 鶏籠山 (けいろうざん) )
  の名称をことさらに唐様(からよう)で呼称した
  のは 、この地が播州における漢学の一淵叢(え
  んそう)だったことと無縁ではないかもしれな
  い 。」

 「 詩人三木露風( 1889~1964 )は 、播州龍野
  の人である 。」

 「 私などは詩に暗いために 、三木露風といえば
  明治末年から大正にかけて北原白秋とともに詩
  壇を両分した人ということと 、童謡『 赤蜻蛉
  (あかとんぼ) 』で知っている程度で 、まこと
  に心細い 。 」

 「『 三木露風全集 』(三木露風全集刊行会刊)第
  三巻の有本芳水(ありもとほうすい)氏の『 初
  期の三木露風の作品 』によると 、あるとき
  (司馬註・明治四十二年から四 、五年たった
  ころらしい)有本芳水氏が露風の家にあそびに
  ゆくと 、こんな詩を作った 、詩というより童
  謡といったほうがいいかもしれない 、といっ
  て原稿紙に書いたその詩をみせてくれたそうで
  ある 。
   私は 、有本芳水氏の文章によって 、この詩
  は露風の少年期の実景がしんになっていること
  を知った 。

   夕焼 、小焼の
   あかとんぼ
   負(お)はれて見たのは
   いつの日か

   山の畑の
   桑の実を
   子籠に摘(つ)んだは
   まぼろしか

   年譜によると 、露風の母かたは 、かれの七
  歳のときに父節次郎に別れ 、鳥取の実家に帰
  っている 。露風は若いころ生母を恋うことが
  しきりであったが 、『 負はれて 』というの
  は 、この生母への記憶がもとになっているら
  しい 。山の畑の桑の実というのも 、播州龍
  野の鶏籠山の麓の桑畑のことで 、小籠をさげ
  て母とともに桑の実を摘んだのもあれはまぼ
  ろしであるか 、ということで 、桑畑までが
  実景として詩のイメージの底にあるという 。
  母が居なくなってから 、宍粟(しそう)郡より
  姐(ねえ)やをよんだ 。

   十五で姐やは/嫁に行き/お里のたよりも/
   絶えはてた 。夕やけ小やけの/赤とんぼ/
   とまつてゐるよ/竿の先 。

   そういう姐やもいて 、彼女は露風を可愛が
  ってくれたらしいが 、十五で嫁に行った 。
  そういうことも 、どうも本当らしい 。有本
  芳水はやはり播州の人で 、露風と若いころか
  らの友人であった 。この文章もことさら考証
  めかしく書いているのではなく 、国文解釈風
  の淡々とした調子で 、淀みもなく書きくだし
  ている 。
   その真偽は 、どうでもよい 。そのようにい
  われてみれば 、夕焼けがよく似あうのもこの
  龍野の旧城下であり 、その屋根瓦の上の夕焼
  けを背景に赤とんぼがいっぴきだけ竿のさき
  に身じろぎもせずにとまっているのも 、この
  町にふさわしい 。露風の祖父はこの小さな藩
  で奉行職をつとめた人で 、生母かたというの
  は 、因幡鳥取藩の家老の娘である 。」

 「 赤とんぼ とまってゐるよ 竿の先
   という稚拙な俳句は 、むろん堂々たる俳人の
  ものではない 。三木露風が 、明治三十五年 、
  十四歳のとき 、従兄や弟たちと出していた回
  覧雑誌にのせた句である 。しかし当の露風も 、
  これはあまりに稚(おさ)なすぎると思ったの
  か 、後年『 我が歩める道 』という追想記を
  書いたとき 、その十四歳前後のくだりにおい
  て他の作品をあげ 、この俳句をはぶいている 。
   が 、童謡『 赤蜻蛉(あかとんぼ) 』の最後の
  くだりには 、この十四歳のときの俳句がわず
  かに形を変えて出ているのである 。『 夕やけ
  小やけの/赤とんぼ/とまつてゐるよ/竿の先 』
  というぐあいであり 、おそらく露風は句の巧拙
  などしんしゃくするゆとりもなく少年の日のこ
  の情景を愛していたのであろう 。あるいは 、
  少年期よりもっと以前の生別した生母に負われ
  て見た日の情景だったのかもしれない 。
   露風は一貫して象徴詩の立場を持し 、反自然
  主義や 、北海道の修道院の講師になってからは
  自然の感情からほど遠い宗教詩なども書いたが 、
  結局はわれわれ素人の胸にのこっているのは 、
  この童謡『 赤蜻蛉 』であるかもしれない 。そ
  こに 、おそらく幼児のころ母親の肩ごしに見た
  であろう赤とんぼの情景が定着していることを
  思うと 、詩人の生涯というものにふしぎな想い
  を持たざるをえない 。」

   引用おわり 。

   グーグル・マップのストリートビューで眺める限りでは 、

  龍野の町に 、五十年前の静かな雰囲気はないようだ 。

  (⌒∇⌒) 。。

  ( ついでながらの

  筆者註:「 三木 露風( みき ろふう 、1889年(明治22年)
       6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日 )は 、
       日本の詩人 、童謡作家 、歌人 、随筆家 。本名
       は 三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラ
       マンの碧川道夫がいる 。国木田独歩の曾祖母が
       三木家出身 。その縁もあり1912年『独歩詩集』
       を刊行した 。早稲田詩社結成に加わり 、『 廃
       園 』(1909年)を刊行 。ほかに詩集『 寂しき
       曙 』(1910年)、『 白き手の猟人 』(1913年)
       など 。
        近代日本を代表する詩人・作詞家として 、北原
       白秋と並んで『 白露時代 』を築いた 。若き日
       は日本における象徴派詩人でもあった 。」

       「 『 赤とんぼ 』( 赤蜻蛉 、あかとんぼ )は 、
       三木露風の作詞 、山田耕筰の作曲による 、
       日本の代表的な童謡の一つである 。夕暮れ時
       に赤とんぼを見て 、昔を懐かしく思い出すと
       いう 、郷愁にあふれた歌詞である 。2007年
       (平成19年)に日本の歌百選の1曲に選定され
       た 。瀧廉太郎も携わったと言われる 。」

       以上ウィキ情報 。)

  (⌒∇⌒) 。。

  ついでながら 、今日 、11月4日は「 埼玉県民の日 」だそう 、

  知らんけど 。浦和人 、大宮人 、蕨人 、与野人 、熊谷人 、所沢

  人 、春日部人など多様な人種が 、「 暑さ日本一 」を競いながら 、

  平和的に暮らす土地らしい 。因みに 、所沢には観測地点がない

  そうで「 日本一コンテスト 」に参加できないとか 。 

 

   

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因幡街道 Long Good-bye 2024・11・11

2024-11-11 05:55:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。以下は 、この紀行文「 播州揖保

 川・室津みち 」の旅がはじまる前の導入部分 。

  作家の旅の同行者の紹介などもある 。挿絵を担当

 する須田画伯や編集部のHさんは 、「 街道をゆく 」

 の常連さん 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 私どもは 、大阪湾をかこむ地方に住んでいる 。
   淀川の河口を中心とすれば 、私はその東郊の中
  河内の猥雑な低湿地に住み 、須田画伯はその西郊
  の摂津(せっつ)夙川(しゅくがわ)という高燥閑雅な
  住宅地に古くから住んでいる 。文学博士安田章生
  (やすだあやお)氏は 、やや内陸?に入った北摂の
  石橋に住む 。石橋には歌の名所の待兼(まちかね)
  山があり 、歌人であるほか 、『 古今 』『 新古
  今 』の学究として定評のあるこの人の住む場所に
  ふさわしい 。
   京都に住む編集部のHさんは 、この朝 、まず夙
  川の河口の須田画伯宅から画伯を運び出し 、つい
  で北上して石橋へゆき 、難なく安田夫妻をのせて 、
  そのまま中国縦貫自動車道路という高速道路に宝塚
  から乗った 。この山間部を西へ直進する道路でゆく
  と 、一時間ほどで播州山崎に着けるという 、かつ
  ての距離感覚からいえば 、うそのような交通地
  理になっている 。
   幸いなことにこの縦貫道路は大阪の東郊の私の住
  むあたりまで延びてきている 。私はこの道路にさ
  え乗っかれば 、二十分後には 、この道路の宝塚
  地点で待つ須田画伯や安田夫妻と合流できるわけ
  である 。
   実際そのとおりになった 。ニ十分後には私は宝
  塚地点にいたし 、そこでいそぎ車を乗りかえ 、
  すぐさま安田氏の座席の横にすわるというふしぎ
  な変化の中にいた 。」

 「 車中 、播州門徒の話になった 。
  『 播州は一向宗( 本願寺門徒 )の強い土地です
  から 』
   と私がなにげなくいうと 、自分の知らないこと
  については少年のような質問したりする安田氏は 、
  このときも 、ははあそれほど門徒の勢力がつよか
  った土地ですか 、と反問した 。
   本願寺ではいまでも 、門徒勢力の強かった土地
  については 、とくに国名を冠して特別な地帯のよ
  うにして称(よ)んでいる 。加賀(かが)門徒 、三
  河(みかわ)門徒 、播州門徒 、安芸(あき)門徒と
  いうようにしてよぶ 。この四大勢力のほかは東海
  門徒ということばが存在する程度で 、あまり他の
  土地については聞かない 。たとえば越中( 富山
  県 )なども強い勢力があったのに 、とくに越中門
  徒というぐあいにしてよばないのは 、あるいは戦
  国期の一向一揆と関係があるかもしれない 。」

 「 まことに中国縦貫自動車道路は 、快適である 。
   戦国の織田信長のごときは早い時期に上方をお
  さえていながら 、中国への入口である播州へ進
  出するのにその晩年の長い歳月をついやしてしま
  い 、代官の羽柴秀吉によって播州の平定を見た
  とき 、本能寺で死んだ 。私どもは宝塚を出てか
  ら一時間ほどで山崎へ入り 、『 山崎 』と書か
  れた標識のそばを通りぬけて普通道路に降りた 。
  信長の苦心などは 、こんにちの交通条件の上を
  走っているかぎりは 、まことに実感をうしなう 。
   降りた道路は 、北上して因幡( 鳥取県 )へ
  ゆく国道29号線である 。私はこの稿の表題で
  この道を仮りに『 揖保川・室津みち 』などと
  便宜上よぶことにしたが 、しかし土地では『 因
  幡街道 』といういかにも旅の道にふさわしいい
  い名前でよばれている 。ついでながら因幡の国
  に入るとこの道は名が変って『 若桜街道 』とい
  う優美な名前でよばれる 。鳥取県に若桜という
  土地があって 、道路がその在所を通っているた
  めだが 、要するに殺風景によべば国道29号線
  であることに変りがない 。
   山崎の町に降りたが 、町へは帰りに寄ることに
  し 、いまは一気に北上して伊和郷の一宮神社へ
  行ってみることにした 。」

 「 因幡街道は 、南流する揖保川に沿って北上して
  いる 。揖保川はこの上流までくると浅瀬が多く 、
  陽が水底の白い小石にまでよく透っており 、鮎が
  多く棲むというだけにまことに透明度が高い 。対
  岸は晩春の若葉で装われた雑木山だけに 、流れに
  も山にも風が光をさざなみ立たせているようで 、
  じつにあかるい 。」

   引用おわり 。

   ひとは去ったが 、

   作家の旅から五十年後のこんにち 、

  室津みちの風景は 、かわらずにあるんだろうか 。

  (⌒∇⌒)  。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「須田 剋太(すだ こくた 、1906年5月1日 -

        1990年7月14日 )は 、日本の洋画家 。埼玉県生 。

        浦和画家 。

        人 物

         当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが 、1949

        年以降抽象画へと進む 。力強い奔放なタッチが特徴

        と評される 。司馬遼太郎の紀行文集『 街道をゆく 』

        の挿絵を担当し 、また取材旅行にも同行した 。」

        (⌒∇⌒) 。。

       「 安田 章生( やすだ あやお 、1917年〈大正6年〉

        3月24日 - 1979年〈昭和54年〉2月13日)は 、昭和

        期の歌人 、国文学者 。文学博士 。

        人 物

         尾上柴舟門下の歌人・安田青風の長男として兵庫県

        に生まれる。

        ( 中 略 )

         中世和歌の精神を短歌に導入することにつとめ 、

        国文学者としては藤原定家 、西行研究の大家であ

        った 。1964年、『 藤原定家 』で大阪大学より文

        学博士号取得 。」

        (⌒∇⌒) 。。   

         以上ウィキ情報 。

 

 

 

 ( 季節は移り 冬眠間近? )

 

 

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播州揖保川・室津みち Long Good-bye 2024・11・08

2024-11-08 06:57:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 播州については『 播磨灘物語 』を書いている
  ころ 、あちこちとあるいた 。
    もっともこの小説は 、主として東播の三木や西
  播の姫路付近が舞台だったので 、歩くについて
  も 、ついそのあたりにかぎられた 。たとえば
  因幡(いなば)とのさかいにつづく宍粟(しそう)郡
  の山崎までは行っていない 。
   そのころ 、山崎に行っていないことが絶えず気
  になっていた 。」

 「 山崎は 、三木や姫路のように播州平野の真只中
  にある集落ではない 。因幡や但馬(たじま)の山
  なみが播州の宍粟郡にまで南下し 、山崎で尽き
  る 。山崎という地名は 、京都府の山崎もそうだ
  が 、おそらく山なみの先端という地勢から出た
  ものに相違ない

  『 播磨灘物語 』という小説は 、西播の土豪だっ
  た黒田官兵衛が主人公になっている 。かれは 、
  父祖以来の城として姫路城を持っていたが 、その
  後徳川期にできた姫路城からみれば 、屋根なども
  わらや板などでふき 、石垣もほとんど用いず 、
  堀を掘った土を掻きあげて土塁にした程度の 、い
  わば小屋同然といっていいほどに規模が小さかっ
  た 。
   織田勢力が播州まで伸びたときに 、播州の大小
  の勢力はこれをきらい 、毛利・本願寺方についた
  が 、官兵衛は四面ことごとく敵という政治的惨境
  のなかにあって織田方に与(くみ)し 、信長の代官
  である羽柴秀吉に属するという思いきったカード
  を選んだ 。中世末期の人としての官兵衛のおもし
  ろさはこのことにすべてを賭けて 、たじろがなか
  ったことである自分の個人的信念をあくまでも
  持しぬくという点では 、日本の歴史のなかではめ
  ずらしい存在といっていい 。かれは自分の累代の
  居城である姫路城まで秀吉にくれてしまい 、かれ
  自身は住まいがないまま 、家族と家臣をひきい 、
  姫路の北方十里の山里である山崎に移った 。自分
  の賭けに対するこれほど思いきった忠実さとか 、
  あざやかな見きわめといった感覚は 、ひとつには
  官兵衛の祖父が商人( 目薬の委託販売 )であった
  ことからも来ているといってよい 。この点 、かれ
  は江戸期の武士や文人よりはるかに強烈な合理主義
  をもっていたといっていい 。」

 「 私は官兵衛が一時期居城とした山崎の土地に行っ
  てみねばと思いつつ 、ついに行かなかった 。か
  つて姫路へ行ったとき今度こそは行ってみようと
  想い 、タクシーの運転手に所要時間を聞いてみる
  と 、思ったより長い時間だったため 、どうも体
  力に余裕がないと思い 、やめた 。そういうまわ
  りあわせになっている土地が 、私には幾つかある 。
   この須田画伯との旅で 、播州山崎へ行ってみよ
  うとおもった 。」

 「 山崎の盆地には 、北方の山間部から幾筋かの川
  が流れこんでいる 。それが盆地で合流して揖保(い
  ぼ)川になり 、大きく南流して播州平野を沾(うる
  お)しつつ播磨灘にそそぐ 。途中 、脇坂氏の旧城
  下町の龍野を洗ってゆくのだが 、海へそそいでい
  るあたりに 、日本でもっとも古い舟泊(ふなどまり)
  である室津(むろつ)がある 。このために 、この稿
  の道中は 、山崎から出発することにした 。以下 、
  川に沿って龍野の古格な町を経 、室津に出 、その
  あたりに鄙(ひな)びた宿でもあれば泊ろうとおもっ
  た 。」

  引用おわり 。

  語りの名人の達意の文章 。

  (⌒∇⌒) 。。

 ( ついでながらの

   筆者註:「『播磨灘物語』(はりまなだものがたり)は 、
       司馬遼太郎の歴史小説 。1973年5月から1975年
       2月にかけ 、『 読売新聞 』に連載された 。

        豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛( 孝
       高 、如水 )の生涯を描く。友人として竹中半兵
       衛も描かれる 。」

       以上ウィキ情報 。)

 

 

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小作争議 Long Good-bye 2024・11・06

2024-11-06 06:11:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 新潟市の東方にある豊栄(とよさか)市は 、国道ぞ
  いだけが 、とりとめもなく都市化している
   国道から 、木崎という旧村へゆくべく枝道に入る
  と 、昔ながらの田園がひろがりはじめる 。昨夜降
  った雨があちこちに溜まって 、日射しをはねかえ
  したり 、樹影をうつしたりしている 。村内に入る
  と 、道は水をたっぷりふくんでいて 、スポンジを
  踏むような感がある 。
   木崎村は亀田郷とおなじ低湿地だが 、亀田郷のよ
  うにいかにも超現代的共同体というような基盤や自
  治的規制をもたないために 、どこにでもある都市
  近郊農村のように 、集落としての景色も秩序美も
  もっていない 。」

  (⌒∇⌒) 。。

 「 木崎村というのは 、大正末年 、ここに大規模な
  小作争議がおこったことで有名である 。結局は法
  廷でやぶれたが 、争議期間が長かったことと 、争
  議が整然と運営されたこと 、当時としてはめずら
  しく県外から有力な応援者が駆けつけたことなど
  で 、大正期に頻発した小作争議のなかでは一つの
  典型として記憶されている 。」

 「 当時の幹部で 、今なお元気な人がいるという 。」

 「 明治二十六年うまれの池田徳三郎氏だという 。」

 「  池田翁は 、
  『 木崎村は 、江戸時代はみな自作農だった 。明治
  になってから小作農になった 。』
   私のほうをむかず 、在来 、話し馴れている村の人
  のほうをむいていった 。この人の叙述の仕方はじつ
  に明晰で 、木崎村をはっきりと客観的に対象化して
  とらえている 。『 私は 』と 、途中で翁がいうの
  に 、
  『 はずかしいことだが 、尋常 ( 尋常小学校のこと )
  も 、六年上(あが)ればよかったのに 、四年しか行
  がねえ 』
   だからうまく言えねえが 、という 。しかし 、叙述
  の的確さは 、なまじいな研究者から物をきくよりも
  みごとなものがある 。
  『 宝暦年間( ほぼ一七五〇年代 )から
   と 、簡潔に村史をいう 。宝暦年間というのは江戸
  期でももっとも充実した時期で 、『 仮名手本忠臣
  蔵 』の作者竹田出雲の晩年であり 、蘭学者杉田玄
  白 、思想家の三浦梅園 、安藤昌益 、医家の山脇東
  洋などの活動期でもあり 、また大岡裁判の大岡越前
  守が最晩年をむかえたころでもある 。そのころから
  この湛水地にひとびとがやってきては 、土を投げこ
  んで稲を植えた 。
  『 ・・・ やってきた者たちが 、芦のはえたドブハ
  ラを耕して自分の田を自分でつくってきた 』
   その作業を子や孫が継ぎ 、江戸期いっぱいそれを
  繰りかえして明治を迎えた 。」

  明治維新直後 、太政官の財政基礎は 、徳川幕府
  と同様 、米穀である 。維新で太政官は徳川家の直
  轄領を没収したから 、ほぼ六百万石から八百万石
  ほどの所帯であったであろう 。
   維新後 、太政官の内部で 、米が財政の基礎をな
  していることに疑問をもつむきが多かった 。
  『 欧米は 、国家が来期にやるべき仕事を 、その
  前年において予算として組んでおく 。ところが
  日本ではそれができない 。というのは 、旧幕同
  様 、米が貨幣の代りになっているからである 。
  米というのは豊凶さまざまで 、来年の穫れ高の予
  想ができないから 、従って米を基礎にしていては
  予算が組みあがらない 。よろしく金(かね) を基礎
  とすべきであり 、在来 、百姓に米で租税を納めさ
  せるべきである 』
   明治五年 、三十歳足らずで地租改正局長になった
  陸奥宗光が 、その職につく前 、大意右のようなこ
  とを建白している 。武士の俸給が米で支払われる
  ことに馴れていたひとびとにとっては 、この程度
  の建白でも 、驚天動地のことであったであろう 。
   が 、金納制というのは 、農民にとってたまった
  ものではなかった
   農民の暮らしというのは 、弥生式稲作が入って
  以来 、商品経済とはあまりかかわりなくつづいて
  きて 、現金要らずの自給自足のままやってきてい
  る 。『 米もまた商品であり 、農民は商品生産者
  である 』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれ
  ても 、現実の農民は 、上代以来 、現金の顔など
  ほとんど見ることなく暮してきたし 、たいていの
  自作農は 、米を金に換えうる力などもっていなか
  った 。」

 「 どうすれば自作農たちが金納しうるかということ
  については 、政府にその思想も施策も指導能力も
  なにもなく 、ただ明治六年七月に『 地租改正条
  例 』がいきなりといっていい印象で施行されただ
  けである 。
   これが高率であったこと 、各地の実情にそぐわ
  なかったことなどもふくめて 、明治初年 、各地
  に大規模な農民一揆が頻発するにいたるのだが 、
  木崎村はこのときには一揆をおこしていない 。
   池田翁の話ではただ仰天し 、とても納める金な
  どない 、ということで 、金納の能力をもつ大地
  主をさがして 、
  『 安い金で買ってもらったんです 。地主に金納
  してもらい 、自分は先祖代々耕してきた田を依然
  として耕し 、以前 、藩に米を納めたように 、地
  主に物納してゆく 。つまり 、小作になったわけ
  です
   と 、池田翁はいう 。全国的にその傾向があり 、
  これによってどの府県でも圧倒的な大地主という
  のはこの時期にできあがるのだが 、その間のこと
  を 、池田翁のように父親からなまに聞いてきた人
  が肉声で言うのを聴くのは 、ちょっと凄味があっ
  た 。」

 「 この消息を 、池田翁は 、やや諧謔をこめて 、
  『 地主だって 、小地主はそう田地を持ちこまれ
  ても 、金納の能力はない 。そこをなんとかお願
  いします 、といって 、酒や赤飯を持って行って
  ただで引きとってもらった例も多いんです 。そう
  いうぐあいにしてみな小作になった 』
   やがて小地主も倒れてゆき 、大地主だけは膨れ 、
  明治政府は大地主から得た金で財政をまかなって
  ゆくのだが 、大正期になると 、小作農は暮らし
  の苦しさと政治意識の自覚が高まって 、各地に
  小作争議が頻発する 。」

 「『 争議のきっかけは 、はっきりしていないが 、
  大正十一年にスガイ・カイテン翁がやってきて 、
  各部落に小作組合ができた 』
   以後 、話の中でしばしば 、スガイ・カイテン
  ( 須貝快天 )翁という名が出たが 、池田翁はこ
  の名前を発音するたびに微妙な懐かしさを籠めた 。
  川瀬新蔵著の『 木崎村農民運動史 』では 、カ
  イテン翁については 、『 北越農民運動史のリー
  ダー 』とあるのみでこの名前は一ヵ所しか出て
  いないが 、池田翁はカイテン翁がおそらく好き
  だったにちがいなく 、勢い 、その生い立ちに
  まで触れはじめた 。( 後 略 )」

 「 池田翁は 、話術の名手といっていい 。話が外
  (そ)れたりもどったりしつつも しん が通って
  いる 。話が外れるのも当時の人情を語るためで 、 
  話全体が 、絵でいえば明治の錦絵の描法のよう
  でもあった 。」

 「 この争議のヤマは 、裁判だった 。
   大正十二年五月 、地主の真島家が小作人十二人
  に対し 、小作料未払いを理由にその請求のための
  訴訟を新発田区裁判所に提起した 。つづいて同十
  三年三月 、同家は小作人六十余人に対し 、小作
  米未納を理由に仮処分の申請をし 、新発田区裁判
  所によって受理された 。
   このことについては 、川瀬新蔵氏の『 木崎村農
  民運動史 』には 、

  父祖伝来愛着の土地に『 小作人立入る可(べか)
  らず 』の禁札が 、雪解の水を湛えて氷雨煙る
  中に鷗(かもめ)の如く点々として樹てられた 。

   とある 。鷗のごとくとあるのは禁札に白ペンキ
  が塗られていたためらしく 、こういう叙景は 、
  川瀬氏という著者自身が当事者の一人だったから
  こそ書けたのであろう 。」

 「 裁判は 、小作人側の弁護人として片山哲氏がひ
  きうけた 。後年 、昭和二十二年六月に成立した
  社会党内閣の総理大臣である
  『 新発田の裁判所まで何度も足を運んで 、傍聴
  に行った 。あのころの傍聴は羽織袴でないといか
  んという規則があったが 、私は羽織も持たず 、
  袴も持っていなかったので 、そのまま行った 。』
   と 、池田翁はいう 。
   裁判は相当ながびき 、その間 、全国の無産運動
  者側の応援もあり 、争議団の大会 、講演会 、就
  学児童五百余人の同盟休校 、農民学校の開設など
  もあって 、よほど世間の耳目をあつめたらしい 。
  東京の新聞はほぼ争議団に同情的で 、国権主義傾
  向のつよい『 国民新聞 』でさえ 、大正十五年八
  月十五日付の社説で 、『 元来 、土地は天賜のも
  の 』という基本論を説いている 。

    元来土地は天賜のもの 、之を一国の法制を以つて
    私人の所有に委ねる所以のものは 、土地の能力を
    国家社会のため十分に発揮せしめるに出づる 。国
    は土地を私に有用に利用すべく信託するのである 。
    これ以外には土地私有の合理的根拠はない筈であ
    る 。所有は後であって 、地力発揮が先きである 。
    しかるに土地の法的所有そのものを至上に尊しと
    するは 、社会生活の理想に反する 。

   土地私有と私有にともなう行為についての無制限
  にちかい現実はいまも変ることがなく 、この社説
  はこんにちの新聞に掲げられても 、すこしの違和
  感もない

   木崎村の小作問題の裁判は 、女学生まで団体で
  傍聴にきたらしい 。
   当時 、田舎では女学生の姿そのものがめずらし
  い時代で 、『 何もかも忘れっしもうた 』と池田
  翁は言いつつも 、そのことだけはよくおぼえてい
  る 。
  『 あるとき 、傍聴人だったか 、静かな法廷で大
  きな屁をひった者がある 。それでもっておおぜい
  の女学生が笑いだして笑いがとまらず 、法廷もな
  にも 、どうにもならなかった 』
   と 、追想の風景を 、笑わずにいった 。

   裁判は 、結局 、小作人側の負けになった
   が 、八十翁の記憶にはそのことがない 。
  『 忘れっしもうた 。あンだけ新発田まで足を運ん
  だのだが 』
   と言い 、このときだけは風の中で口をあけて笑っ
  た 。」 

  引用おわり 。

  ながながと引用してしまったが 、

  この文章が書かれてから50近く経った現代日本の

 土地私有と私有にともなう行為についての無制限に

 ちかい現実はいまも変ることがないどころか 、混迷

 の度を深めているように思える

 

 

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潟(かた)のみち Long Good-bye 2024・11・04

2024-11-04 06:06:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。述べられている風景は 、こんにち

 でも余りかわっていないのではないか 。知らんけど 。 

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 幾度ものべたように 、新潟市の南につらなる
  田郷は 、まことに一望鏡のように平坦である 。
  『 潟のみち
   と自分で勝手に名づけてこの変哲もない田園を
  歩いているのだが 、こんにち 、ただ一つの例外
  を除いて潟は残っていない

   鳥屋野潟(とやのがた)だけが 、残っている
   この潟を地図でみるとカタチは琵琶湖に似てい
  る 。むろん湖などというほど大きいものでなく 、
  潟のまわりは一〇キロほどでしかない 。」

 「 亀田郷はことごとく干上がって陸地になったが 、
  鳥屋野潟のみは可憐にも古代以来の潟と湛水地と
  いう地形をまもって水をたたえているのである 。
   明治時代の地理書をみると 、
  『 鳥屋野潟は 、古い時代の湾の名残りにちがい
  ない 』
   という意味のことが書かれている 。」

 「 この潟のまわりの鳥屋野という旧村は亀田郷の
  どの土地よりも低く 、亀田郷のあらゆる土地か
  ら水が流れてくるようになっている 。地図を見
  ると 、海面の高さにくらべてマイナス一メート
  ルである
 
  『 諸村の悪水流入す
   と 、前記明治の地理書にある 。諸村にとって
  自分たちの土地に降った雨などが 、大小さまざ
  まな水路をつたって鳥屋野村へ流れこむ 。ふつ
  うなら村が『 悪水 』で沈没するところだが 、
  悪水を受けとめる鳥屋野潟があるために救われ
  ている 。まことにこの意味では近世以来 、亀
  田郷のひとびとにとっては大恩ある沼といって
  よく 、水天宮でも祀って子々孫々まで感謝して
  もおかしくはない 。 」

 「 鳥屋野潟の堤の上にのぼると 、堤の上には桜
  が植えられていて 、並木をなしていた 。おそ
  らく公園にするという計画があったのであろう 。
   ところが並木道のそばは 、長く列をなしてラ
  ブ・ホテルが押しならび 、その装飾過剰な建物
  のむれが 、景観を特殊なものにしている 。ま
  わりは 、稲作の田園である 。ちょっと異様な
  景色といっていい 。 」

 「 ともかくも土地に関する私権が無制限にちかい
  社会だから致しかたないが 、はるばるとこの潟
  をめざしてきただけに 、気が滅入った 。」

 「 鳥屋野潟は 、大いなる水溜まりとして 、いま
  もこの土地の乾湿に大きな役割を果たしている
   この潟の東端に栗ノ木川という小さな川が不要
  の水をはこんできてこの潟に流しこみ 、同時に
  その東端でポンプによる揚水がなされ 、水は水
  路をつたって信濃川河口に流れこむ 。
   それだけでなく 、潟の西端が大きく切りとられ 、
  直線一・五キロほどの立派な排水路によって 、
  信濃川の『 親松 』という地点に流しこまれ 、
  盛大に排水されている 。
   鳥屋野潟から 、親松まで行ってみた 。
  『 親松排水機場
   という三階建のビルがあり 、ここに巨大なポ
  ンプがいくつも据わっていて 、これが日夜稼働
  して亀田郷の水( 具体的には鳥屋野潟に集めら
  れた水 )を信濃川へ吐き出して海へ送っている
  ということによってのみ 、亀田郷は乾いた陸と
  して存在しているのである 。
  『 亀田郷は親松のポンプで保(も)っているので
  す 』
   と 、佐野藤三郎氏がいったことばが 、この屋
  内に入るとよくわかった 。
   このポンプ場は 、農林省がつくった
   維持管理費は年に九千万円で 、その分担の内
  訳は国が4 、県が4 、亀田郷が2だという 。」

 「 このポンプを見あげていると 、われわれの社
  会はじつによくやっているという気持が湧いて
  くるが 、しかし土地についてのわれわれの思想
  の中に公の習慣がほとんどないためになにかこの
  現状での折角の努力も 、かつての亀田郷のひと
  びとの労苦も 、結果としては珍妙なものになっ
  ているのではないかと思えたりした 。」

  引用おわり 。

 (⌒∇⌒) 。。🐸 。。

  グーグル・マップのストリートビュー―で『 鳥屋野潟(とやのがた)

 の周囲の みち や 信濃川河畔にある『 親松排水機場の外観をみる

 ことが出来た 。

  書かれた文章の五十年後の風景をみられるなんて ・・・ 🐸 。。

 

 

 

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