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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

厄落とし

2006-01-16 08:14:17 | 民俗学
 厄年の人は、小正月に厄落としをした。伊那谷中部では、厄年というと男25歳、42歳、女19歳、37歳をいう。全国的には女の37歳は、33歳といわれるところが多いのだろう。伊那谷でも北部では33歳というところが多い。小正月の14日の晩に、日ごろ使っているご飯茶碗に歳の数だけの銭を(昔は銭が足りないと大根を入れたというが、この世の中に大根なんか入れたら、厄が落ちないかもしれない、とはわたしの気持ち)入れて、道祖神のある場所に行って、投げて割って厄を落とすのである。この際、どこに投げて割るかについては、人によって異なる。道祖神の近くの石なのか、道祖神本体なのか、それとも道端の石なのか、わたしの生まれた地域では、明確ではなかったように記憶する。これが、伊那谷でも北部の方へ行くと、道祖神本体に投げつけるといい、中部から飯田にかけてのあたりでは、ただ、石というだけに変わっていく。下伊那郡へ入ると、道祖神のある場所、という認識も薄れてくる。けして南へ下ると道祖神が少ないわけではないが、道祖神と厄落としのかかわりが希薄になっていくのである。
 わたしも25歳のときに、この厄落としをしたが、道祖神のある場所が石積の上だったということもあり、石積に投げつけてきた覚えがある。神様に投げつけるというと、少し躊躇するわけだが、当時はとくに躊躇して石積に投げたわけではなく、それほど深くは考えていなかった。民間信仰の神様ともなると、ずいぶんひどい目に合わされる神様がある。道祖神にしても、いわゆる「道祖神」などと刻まれた碑とは別に、自然石の道祖神も道祖神の近くに置かれていることがある。奇石であったり、単に丸いものであったりと、それも地域性があるが、いずれにしても、そうした石も神様として認識されていた。しかし、扱いはぞんざいで、足で蹴飛ばされることもあったに違いない。そうした奇石の場合、ホンヤリ(ドンドヤキ)の火の中に入れられて、焼かれることもあった。しだいに信仰からホンヤリが離れていくにしたがい、そうした石の存在も忘れられていき、ただの石ころに変化していったように思う。
 またこんなことも行なわれた。上伊那郡辰野町あたりでは、2月8日のこと八日に、朝ついた餅を道祖神に持って行き、「めっつり、はなっつり」といって餅を道祖神の像に付けるのである。目の吊り上った、鼻のひきつった器量の悪い嫁を、道祖神にお世話してくれと願って塗りつけるという。道祖神は天邪鬼だから、逆の願いをすれば器量の良い人を世話してくれるという解釈だという。今もそうしたことが行なわれているのかどうかは知らないが、20年ほど前にこと八日近くに訪れた際には、そうした餅が塗りつけられた道祖神が見受けられた。民間信仰の解釈というものは、なかなか人間の裏の心理をついているようでおもしろい。そうした対象にさらされる神様も、またその願いを文句もいわず(言うわけないか)、受け入れてくれるのだから楽しい。また、「せいの神の神様は、いぢのむさい神様で、出雲の国よばれていって、じんだら餅に食いよって、あとで家を焼かれた エンヤラワーイ」とは、どんど焼などでかつて唄われたものである。「意地が悪い神様で」「家を焼かれた」という形で唄われることは多い。ずいぶんな言われかたをする神様だが、いっぽうでこれほど身近な神様はいない。
 さて、42歳の厄のときは、地元から離れて別家したこともあって、こうした厄落としをしなかった。別家した地域では、茶碗に銭を入れて厄を投げるということを聞かなかった。そこでは、ホンヤリの時に厄年の人がふるまい酒を出して、ホンヤリに点火することが厄落としとされた。昔はもう少し違う方法で行なわれていたのかもしれないが、その当時の厄落としにならった。ほかに同年代で旅行などをして厄を落とすということもされているが、わたしには誘いはなかった(その年代はしなかったという話も聞いた)。とくに大厄といわれる歳だけに、生まれ育ったところから誘いがあって、秋祭りに盛大に厄落としをした。そこでは、厄年の者(ほかの年齢の厄年の人も加わって)が奉納煙火をあげる。大三国といわれる筒花火と、仕掛花火を奉納するのだが、ずいぶんお金が掛かるということもあって、そのために何年か前から貯金を始めた。地区に同年というと10人程度という地域であるが、人が少ない年代は負担が大変である。わたしの年代はそこそこ人数がいたということもあって、奉納煙火後も懇親の意で何度も飲み会をやった。なにしろ奉納煙火はおおごとで、筒の用意から火薬詰めまでたずさわる。そして祭りの日には、庭花火が続く中で、火の粉をあびながら競って厄を落とすのである。けっこう大々的な厄落としの仕方かもしれない。当時会社で同じ歳くらいの人に「厄落としをしたか」と聞くと、「何も」と答える人もけっこういた。これほど事件事故が頻繁な世の中なんだから、常に厄と隣りあわせかもしれないから、特別なことをした方が事故に会いそうで、何もしない方が厄落としになるかもしれないとは、よく考えてわたしの答えである。

 ■関連記事 飯島町高尾におけるホンヤリの変容
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ケチな本屋

2006-01-15 00:13:35 | つぶやき
 以前は本屋に行くことが楽しみであった。そりゃあそうだろう、本を買うのが趣味みたいに思っていたから。その趣味も今はわたしの趣味ではなくなった。原因はお金がないからだ。ほしい本もずいぶん悩んでは買うようになり、今ではほとんど買いもしなくなった。書斎に並んだたくさんの本の中心は地域の郷土本や、歴史や民俗系の専門書であり、本屋で買った文庫本などが混ざる。そんな本もあまり大切に思わなくなった。けっこうこんな具合に、コレクションすることが楽しかっただけなのかもしれない。だから、つまみ読みだから、本すべてを読んだわけではない。そんな余裕もないくらい、本を買ったころは仕事が忙しかった。「あとで読むかもしれない」と思って買うが、並べているだけである。このごろはデジタルデータの方が応用性があるから重宝する。昔なら本の形をしていることで、価値があったように思ったが、そんな価値観を認めてくれる人は皆無の時代となった。
 にもかかわらず、昨日も飯田の方へ行ったが、混雑しているのは本屋である。昔はそれほど大規模ではないが、そこそこの大きさの本屋というものがいくつかあった。しかし、そうした本屋も集約されていって、今では独占的な状態で、ある書店だけが残っている。飯田市から始まって、今では全国的にチェーンを結んでいる平安堂である。平安堂圧倒的かと思われたころから、ほかのチェーン店が入ってきたりしたが、飯田下伊那ではそうした店も長くは続かない。
 本は安売りということをしないから、ある意味計算できる。そして、安売りがないから競争というものもない。とすれば、郊外型で、駐車スペースを持ち、品数が多ければ人は集まる。現在の書店の形態をみると、地方ではそんな店が主である。ところが、もうひとつ形がある。それは、総合店舗として客を呼び込む大型店の中にある書店である。こうした書店はスペースは小さいが、家族で買い物をするのがあたりまえのようになった今では、時間調整としてのスペースとして、誰もが利用する。だから、品数は少なくても、立ち読みに絶えられる品があり、ついでにちょっと読んでみようと思うことができる新刊、話題の本を並べればよいから、大規模店より商売にロスはないかもしれない。もちろんコンビにで本を売るのも、この形に入るだろう。コンビニの原点にも、本は欠かせなかったに違いないし、安売りがないことが、逆にどこで買っても同じという印象を与えて、書籍専門の大規模店もかなりきついにちがいない。それでも大賑わいの本屋なのである。前者の場合、本に付属して総合商品を扱う、あるいはそうした店を隣接させれば、さらに人を呼ぶことができるだろう。そんな意味で、たとえば安曇野市の長野自動車道豊科インターの出口にある店舗街なんかは、その典型なんだろう。
 ところで、安売りがないから「ケチ」さは大したものである。初売りなんていっても、ほかの店舗ならさまざまな工夫を凝らすが、本屋はほとんど通常と変わらない。それでも人は元旦からたくさん入る。平安堂のように地域を独占していけば、もう少しお客への還元があってよいと思うのだが皆無に等しい。それでも本屋といえば、それしかないから嫌でも行かざるをえない。安売りをしないんだから、もし同店の息がかかっていない本屋があったら、そんな本屋で本を買ってやってほしいと思うのはわたしの気持ちである。
 昨日も、久しぶりに平安堂に寄ったが、このチェーン店、なにしろ書棚の模様替えが頻繁だ。前はここにあったと思っていた本が、次に行くと場所が変わっている。だから、毎日行っていればどうということはないが、期間をあけて訪れる者にとっては不親切きわまりない。そして、ケチなだけに、売れない本、マイナーな本は置かないし、どんどん姿がなくなる。
 ここ2年ほど、赴任先での通勤途中にも本屋はあるが、小さい店だと新しく入る本は限られている。だからといって、わざわざ郊外型店舗や、町の中にある大規模な店に足を運ぶほど気力はない。そんなことも、本屋から足を遠ざけている。
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背半纏

2006-01-14 12:10:55 | ひとから学ぶ
 寒いとどうしても外へ出るのが面倒になる。だれしも思うことであるが、だからといって家の中にずっといるわけにもいかないし、ましてや仕事となるとそうもいかない。仕事で積雪が50センチもある世界で1日中いるというのは、ふだん屋内で仕事をしていてたまたま出るともなると、同じように気は重いものである。ところがしっかり暖かい装備をして外で体を動かしていると、そんなイメージとは異なり、なかなか快適なものである。寒いどころか体をうごかしているから暑いくらいである。どの程度体が動いているかによっても、その感覚は違うから、仕事をしていてもあまり動かない役目を担っている人と同じとはいえない。でも、それなりに準備さえしていれば大丈夫だと、現場に出て認識していても、また、屋内でしばらく仕事をしていると、忘れてしまってそとへ出ることが億劫となる。「こんな雪が降っている中で現場に行くの」という言葉を、よくかけられる。そして現場にいても地元の人たちに「雪の中大変だなー」なんて声を掛けられる。昔だったら「ちょっと寄ってお茶でも飲んでいきな」とか、「ストーブにあたっていきな」なんてよく言われたが、このごろはそんな言葉を掛けてくれる人もいなくなった。それどころか、「何してんだ」みたいな目で見られて、気を使うばかりだ。厳寒の世界だからそうも人は外に出ていないからよいが、そうはいっても雪の中で、足跡もないような世界でごそごそやっていると人の目はきびしい。
 このごろ行った現場で、車を止めるところがなくて雪をかいていたら、近くで雪をかいていたおばあさんが「大変だなー」といってミカンを持ってきてくれた。「寄ってくれりゃーいいんだが、忙しそうだで持ってきた」という。このごろにはない言葉に、ありがたかった。世の中が世知辛くなっていると、こっちもあまりこんなふうに声を掛けられるのが苦手になっている。人が寄ってくると、何か文句でもいわれるんじゃないかと考えてしまう。人間へぼくなっていると、つくづく思ったりする。
 さて、この寒さで、近年はあまり使わなかった背半纏を利用している。背中だけ当ててくれる綿入り半纏で、薄手に作ってあるから、作業着の下にも着れる。だから見た目は付けているかどうかわからないほどで、ウォームビズなんていって室内温度を低く設定する環境にはよいかもしれない。この背半纏は、10年ほど前に、下伊那郡天龍村の温泉、お浄めの湯で売っていたものを買った。地元のおばあさんが作ったというものを売店で売っていたのだが、縫い方はおばあさんが手で縫っているということもあって頑丈ではない。しかし、前述したように上着の中に着れそうだということで、妻が最初に手を出した。あとで聞いてわたしも売店に戻って買ったのだが、さすがに余った布で作っているようで、とてもおしゃれな布地ではない。それでもと思って買ったのだが、しばらくはよく使っていた。妻はその背半纏を友人たちに見せたところ、友人たちも気に入ったようで、その一人が型をとって、同じように作ったといい、みんな農作業をしている人たちだから、今も有効に使っているという。当時、80歳くらいのおばあさんが縫ったものだという話を聞いたから、今はお元気なのかどうか。この背半纏にそっくりなものを、おばあさんの住んでいた神原で見たことがある。それは、日除けのミノである。昔は夏場の農作業などてよく利用されたもので、ちょうどそのころの夏に、お浄めの湯から登ったところにある向方(むかがた)集落でこのミノをつけて草むしりをしているおばさんを見たことがあった。そのミノの形に背半纏はとても似ているのである。型をとって作ったという妻の友達に倣って、妻にももう少し今風の背半纏を作ってほしいと思うが、今使っている背半纏にも、そんなおばあさんの地域での経験が受け継がれているようで、今のところはそれを大事に使うこととする。
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合併ふたたび

2006-01-13 08:18:44 | ひとから学ぶ
 katacha67さんのブログで盛んに合併問題を取り上げているが、ここでふたたび合併について触れてみる。katacha67さんは、「住民にわかりづらい課題であればあるほど、公選職は自ら地域の住民に説明を行い、自らの耳で住民の意見を聞き、わかりづらい課題を前にした住民の不安をできるだけ取り除く努力を行い、政治的な判断をきちんと行うべきだと思う。そうした手続をきちんと踏んだ上で、市町村合併の適否に対する住民投票は、最終段階の住民との合意形成作業としてありえると考えている。」という。わたしはいまひとつこの文の意味が理解できないのだが、「政治的判断」は、住民への説明、そして意見をうかがって合併するかしないかを公選職が判断する、という意味なのだろうか。とすると、住民投票が合意形成の手段ということになるのだろうが、政治的判断がされているのなら、住民投票はしなくてよいのではないだろうか。上伊那南部3市町村(駒ヶ根市・飯島町・中川村)長が、合併協議に際し、住民投票は必要ないと判断し、住民投票ではなく、意向調査を行なった(中川村では盛んに住民投票を行なうようにと住民が署名活動をおこなっていたが実現せず)。この場合、公選職が前述の意図に沿ってそう判断したのかそのへんをわたしは認識していないが、結局その意向調査の結果において反対数が多かったため、合併協議は不成立となった。もしここに政治的判断がなされて意向調査が行なわれていたとしたら、その調査の意味は何だったのだろう、ということになりはしないか。意向調査であろうが住民投票であろうが、公選職はその結果が出ることに怯えていただけなのだろう。果たして住民が合併の可否に対して投票を行なうということはどういうことなのか。そして、それを行なう必要性、いつ行なうのか、など考えれば考えるほどに住民にはわからなくなる。お役所が本音を言わない、いや言えない立場ということもあるのだろうが、だから住民も想像しかできない。くどいように言うが、そんな環境にあって、可否を選択することじたいが危険ではないだろうか。
 だれだって今までの環境が変わることには不安が多い。近ごろ転職に対する考え方がまとめられて新聞記事になっていたが、これほど終身雇用が崩れているにもかかわらず、転職には不安を感じ、今の職場にいたいと思う人は多い。当たり前といえば当たり前なことで、環境が変わることにはリスクが大きい。転職でなくとも、転勤することへの不安は大きい。たとえわたしのように嫌で単身赴任していても、その職場に慣れてくると、次の転勤に対しての不安というものは生まれてくる。人は、それほど変わることに不安を感じる。そんな視点で合併問題を見てみれば、そこに金銭的な、あるいはさまざまなメリットを見出している住民ならいざしらず、違う環境を強いられることを望んで選択する人はいないだろう。
 さて、長野県では合併に対してはそんな環境変化に対しての不安が大きく、比較的反対論者が多い。そういう感覚は全国的なものかと思うと、そうでもなさそうだ。一昨日の朝日新聞「私の視点」で、千葉県本埜村長が記事を載せている。「例えば本村が合併相手に擬す隣接市は、千葉ニュータウンの開発で店舗の進出が相次いで地方交付税不交付団体になるなど財政力を強めているが、開発が遅れた本村などは交付団体。財政力の強い団体が弱いところを受け入れるには、市民に説明する大義名分が要る。それが見つからないために、なかなか合併協議に入れないでいる。」という。ちょっと長野県内の感覚とは違う。①として地方交付税不交付団体などというものは、長野県内には軽井沢町くらいしかない。今年から南佐久郡南相木村がその団体に仲間入りするという話題が先日流れていたが、財政力が低いところばかりであり、交付税頼みの地域ばかりだ。その環境がまず違う。②としてこの本埜村のように八千人規模の村が、そうした不交付団体と一緒になったからといって、どれだけ不交付団体の負担になるというのだ。どこか不交付団体の権力誇示に見えてならない。長野県の場合、よほど再建団体寸前というほどに財政力が低い自治体ならともかく、一般的には、大きな団体に小さな団体が協議を申し入れれば、協議会が編成されている。この本埜村長の訴えからは、そんな長野県のような雰囲気はなく、不交付団体への合併協議もままならないようだ。そして「格差を是正し、地域全体の平準化を図るのも県の役目だ」と述べ、県知事の合併勧告があってよいのではないか、合併はある程度強制してもいいのではないかという。積極的な合併推進への政治的判断を望むというのだ。
 行政にいて、住民のために考えているのなら、行政がその判断においてどうすることがベストなのか、というものを自信をもって提示するべきだろうし、その反面、住民はコメントやアイデアを出すことはあっても、プロが判断したものに可否の判定を突きつけるのはお門違いではないのかと少しではあるが思う。もちろん、行政のプロとして判断する力量があることは当たり前であるが。
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報道のいかがわしさ

2006-01-12 08:19:23 | つぶやき
 昨夜の報道ステーションにおいて、豪雪により孤立する集落に入ってのリポートがされていた。長野県飯山市の体育館倒壊の報道がされた後に、孤立集落に入ってのリポートへと続くのだが、この冒頭の報道で疑問がわいたので、そのまま気になって孤立集落の報道に見入った。何が疑問であったかというと、「飯山市の体育館が倒壊した」という言葉で映像が流されたのだか、説明はそれだけであった。そして孤立集落秋山郷の映像へと移っていく。「飯山市の体育館」とあっさりした説明だと、市の体育館という感じがするとともに、とても大きな体育館なのではないかという錯覚に陥る。そして「それは大変だ」と、おそらく知らない人は思うのではないだろうか。実際は戸狩観光協会が所有する旧小学校の体育館で、小規模であって冬季は利用されていない。報道の事実に間違いはないかもしれないが、どこか豪雪を過大に報道しようとしている意図があるようで、そのいかがわしさがどう展開されるかがわたしの興味だったのである。
 秋山郷へ徒歩で向かう映像が続き、雪崩の起きそうな箇所を映像と言葉で綴っていく。そして、集落に入ると、たくわえは大丈夫なのかというところを聞き取る。そのなかで、家庭の冷蔵庫を開けてもらって、食料が底をつきそうな姿を見せ付ける。さらには、女子高生を登場させ、まるでこれから学校にでも行きそうな姿を映し出し、「学校へ通学しようとしていて行けなくなった」と、さぞつい今しがたの出来事のように女子高生にしゃっべってもらう。孤立してからすでに数日たっているのだから、そのままの姿でずっといるはずもない。わざわざその格好をしてもらったのだろうか。報道そのものは断片的で、報道する側のストーリーがあったのかなかったのか、そんなことはどうでもいいのだが気になってしまう。言葉足らずなのか、それともあまりに意図的すぎるのか、事件事故をあまりにも過大に見せ付けてしまう報道の現実を垣間見たようなきがする。そもそも孤立している集落にわざわざ報道が入って映像を流す必要などあるのか。そして、冷蔵庫の中身を見せたり、女子高生の携帯に入った友達が心配するメールを映し出す必要性があるのだろうか。少し身近であったから、疑わしい映像と悟ったが、まったく知らない人が見れば受け取り方は違うだろう。報道が意図的に表現しようとすれば、いとも簡単にその場の空気とは違ったイメージを流すことができることを知る。いかがわしいといえばその通りだが、日常的に、わたしたちはテレビに騙されているのではないかと、疑いたくなる。しかしノンフィクションであっても、映像編集する側は、意図したものを表現しようとするのだから、考え方によればドラマとなんら変わりないのかもしれない。ニュースとはいえ、いくつもある番組が同じであっては個性がなくなる。つまるところ視聴率をあげるがための、策略なのだ。
 報道に限らず、人々は日々、新たな事件事故へと移ろいでいく。つい先日のことも遠い過去のものとなる。まるで今日の勝者も明日は敗者とばかりに、浮き沈みするさまざまな姿を映し出している。人々がそれを望むから仕方がないが、果たして不幸はどこまでつづくのか、と心配でならない。
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飯島町のこと

2006-01-11 08:20:42 | 自然から学ぶ
 昨日、昭和57年の伊那市方面を望む写真を思い出してみたが、同じ日(昭和57年1月3日)同じ場所で撮影した写真があったので、それについてもあらためて見てみる。写真は縦アングルで撮ったものを、下部の陽がまだ当たらない暗い部分をカットして2枚を合成したものである。写っている地域は上伊那郡飯島町である。
 東から西に向いて撮影している。まず山の峯であるが、左手のそれほど冠雪がみられない頂が烏帽子岳である。その奥に冠雪がある山々が続くが、雲がかかっているあたりに念丈岳(2291m)、越百岳(2613m)、そして仙崖嶺、南駒ケ岳(2841m)、赤梛岳と続き、最右端にある頂が空木岳(2864m)である。南駒ケ岳と赤崩岳の間の手前窪みがカールである。これらの山の向こう側は、木曽郡大桑村にあたる。さて、南駒ケ岳から下ってくる谷が左手に降りてきているが、これが与田切川で、わたしはこの谷の中で生まれ育った。南駒ケ岳の下部にある百間ナギといわれる大崩落は、現在も侵食が続いていて、大洪水によっては下流域に被害を与えるといわれている。撮影した当時は行なわれていなかったが、数年前より国土交通省によって流路工の整備が行なわれている。この川の左手が飯島町七久保(昭和の合併以前は七久保村)、右手は飯島町飯島である。右手に与田切川ほど谷は深くないが、谷があるが、これが郷沢川である。そして、手前の陽の陰っているあたりの下に天竜川が右から左に流れている。左端中ほどの家が密集しているあたりが、標高700メートル弱。中央の家が密集しているあたりが標高650メートルほどである。
 少し地形の特徴を見てみる。
 ①与田切川に沿って段丘が2段程度見える。そのまま天竜川に沿った段丘につながっている。この河岸段丘がいわゆる田切地形というやつである。下端のやや左よりの水田地帯を左におっていくと、白く河原が急に見えるが、この河原と水田は標高差50メートル以上ある。水田からいきなり崖になっている。
 ②中央アルプスの山裾に段丘が見える。わかりずらいが、中央やや下のあたりの水田地帯に森林線が左から右へやや下りながら見えている。その森林線は与田切川を渡って七久保川まで続いている。これは伊那谷を南北に三つ走る断層段丘の山側の段丘である。
 ③中央やや下側にある市街地の中にも途切れているが森林線がほぼ水平につながっていて、右手に続いている。郷沢川の谷の中にもその森林線が続いているが、これが三つ走る断層段丘の真ん中のものである。
 ④そして、写真にはかけらしか写っていないが、郷沢川の最下端のあたりに横に森林線が続いているように見えていて、左手に陽の陰った土地が見えている。このすぐ下あたりにその森林線は続く。これも断層段丘で、天竜川に沿うように走っている。
 このように断層段丘が延々と続いているのが、目視できるのが特徴といえるだろう。

 つぎに公共物について見てみる。
 与田切川の中ほどに橋が見える。この橋は中央自動車道の与田切橋であり、ほぼ横に七久保側は水田地帯の中を、飯島側は山裾へ続いている。左下の与田切川に続く水田地帯の中を道路が斜めに右へのぼり、段丘下を西へ向かっている。与田切川と同じ平らに集落が密集しているところを西に向かい、その密集の上あたりで与田切川を渡る。そして、飯島側を東に向かい、市街地がある段丘の下側を段丘崖に沿って道が続いている。この道が国道153号線で、かつては名塩国道といわれた。「名」は名古屋、「塩」は塩尻のことである。左下のその国道が走る平らから段丘を二つあがったところに少し家が密集しているところがあるが、ここにJR飯田線の伊那本郷駅がある。鉄道は、与田切川の谷を国道と同様に西へ迂回し、国道の橋よりは東側で川を渡り、飯島の市街地の下側あたり、写真をつないでいるラインの右手あたりにある飯島駅と続く。現在は中央自動車道と国道の間に広域農道というものがあるが、撮影したときにはまだなかった。
 中央自動車道の与田切橋の上あたり、飯島側の段丘が七久保側に続いているといったが、七久保川の太目の森林線の上、小高いところに少し耕地が見える。その耕地の右手、与田切川の崖上あたりに千人塚といわれるところがあり、城ケ池というため池がある。かつて冬季間が寒かったころには、この池が伊那谷のスケートのメッカであったが、今は厚い氷が張らなくなり、スケートも廃れた。
 撮影した昭和57年というと、全域で行なわれたほ場整備がほぼ終わったころである。広域農道が今はあるが、それほど今と変わらない姿である。
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雪のこと、そして昭和57年

2006-01-10 08:16:30 | ひとから学ぶ
 今年の冬は暖冬だといいながら、一転寒い冬だと訂正するという、まあ珍しいことでもない予報訂正があった。豪雪で飯山など県北部に自衛隊の派遣が要請されているが、先週あたりの様子では、一般人のボランティアもそろそろ入る時期かと思っていたら、そのとおり、このところボランティアのことも報道されている。飯山に暮らしたわたしは、雪おろしなんかも経験済みだから、仕事が暇ならばそんなこともどうかな、と思っているが、なかなかそうもいかない。今年の雪の降り方は例年とかなり違う。県北部には雪が多いが、それ以外のところは近年ではとくに多いわけでもない。むしろ県北部に雪が多いなら、そうでないところもある程度降るような気がするが、少ないくらいだ。ただ、気温が低いということもあって、雪が解けない。だから、一度降った雪が、ほかの地域でもそのまま残っている姿をみる。いずれにしても、春に向かって南岸を低気圧が通るようになると、南の方で雪が降る。年末に盛んに名古屋の方で雪が降ったが、そんな降り方がこれからは多くなるのだろう。
 わたしが飯山にいたころにも「秋山郷が孤立」なんていうことがあった。当時は道路が狭かったということもあったし、雪崩を防ぐ施設もまだまだ整備が進んでいなかった。その後の整備で秋山郷が冬季に孤立するという報道はなかったように記憶す。秋山郷に通じる国道405号線は、新潟県側から通じていて、冬季はこの道しか秋山郷に入る道はない。国道そのものは群馬県の草津温泉へ通じているはずではあるが、現実的には道はなく、秋山郷で行き止まりである。
 そんな飯山に暮らしていた時代に、実家の近く(上伊那郡南部)で撮った写真を紹介する。遠くに見える山々は北アルプスである。その手前の黒々とした山々は中央アルプスの、経ヶ岳から北の比較的低い山々である。ちなみにこの写真は、昭和57年の1月3日に撮影したものである。低いとはいっても、標高1500メートル前後の山なのにまるで雪がない。年末年始はこんな感じに低い山々には雪がないことは珍しくない。山の麓から写真の真中あたりまでは、伊那市の上段である。左手奥が伊那市羽広あたり、その右手は箕輪町の上段である。羽広から手前の上段は西春近あたり。真中あたりに川が右手から左手にやや斜めに流れている。それに沿って家並が見られるが、このあたりをJR飯田線が走っている。上段とその川との間の森林線は、段丘で、いわゆる最近は伊那谷断層といわれている断層段丘である。その右手に街並があるあたりが伊那市の中心部である。やや斜めから真下に蛇行している川は、天竜川である。真中あたり、川の右手は伊那市東春近である。そして、真中より下、右手から飛び出ている山は、高烏谷山のすそ野になる。左手から飛び出ている段丘と、この山裾のぶつかるあたりの天竜川を、伊那峡という。そして、その下流にある赤い橋が見える。宮田村大田切から駒ヶ根市東伊那に渡る橋である。その橋の下流側で天竜川に左から合流している川が、大田切川である。最も手前の天竜川左側が駒ヶ根市下平、右側は駒ヶ根市東伊那である。
 朝陽がようやく全域に当たり始めたころということで、かすみがかかっていて見にくいが、雰囲気はわかってもらえるだろう。
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葛巻町のこと

2006-01-09 10:28:26 | ひとから学ぶ
 新年の挨拶で仲人をしていただいた義理の父母を訪ねた。遠く岩手に暮らす息子さんが年末に来られたということで、久しぶりに顔を合わせた。以前に、わたしは与田切川の沖積地に育ったというようなことに触れたが、この川は源も流末も上伊那郡飯島町である。義理の父母もこの飯島に暮らす。
 息子さんは、岩手の葛巻に暮らす。その子どもたちも学校に通うようになって、学校の話をうかがった。一クラス10人余ということで、学年によっては複式になっているという。町の人口を聞くと8千人余といい、飯島町の1万人余よりは少し少ない。そこで学校の数を聞くと、数えている。飯島には数えるほど学校の数はない。小学校2校、中学校1校である。人口規模からいけば、そんなに数えるほどあるということは大変なことだというのが、わたしの感触である。話によると、町が広範だということで、なかなか学校の統合もままならないという。ちょうどこのごろ通学途中の子どもが狙われる事件が連続したが、こんなに学校があっても、通学は町のスクールバスで行なうという。安心ではあるが、歩くことがほとんどないという。
 そこでちょっとデータを拾ってみた。飯島の面積は約87k㎡、対する葛巻は435k㎡とちょうど5倍ある。飯島は周辺2市村とともに合併協議が行なわれ、結局ご破算になったが、おそらくこの合併協議された3市町村の面積より大きいだろう。この関係市町村には、中央アルプスという高山を有すことから、そうした山々の面積が大きな比率を占めている。とすると、葛巻にも山はあるものの、最高標高が1235m、最低標高234mというからほぼ千メートルの標高差、いっぽう飯島は500m程度から2900m近いところまでの約2400mの標高差。そこからみると、いかに葛巻の方が実感する面積が広いかということがわかる。ちなみに、飯島は田9.7k㎡、畑3.8k㎡、宅地3.34k㎡である。いっぽう葛巻は田5.55k㎡、畑25.07k㎡、宅地2.65k㎡、牧場13.7k㎡というから、水田は飯島が倍くらい多いが、葛巻の畑と牧場を足した面積は39k㎡ほどと広大である。
 この面積差、あるいは空間差が学校の環境の違いを生んでいるのだろう。飯島の場合、平成16年のデータで小学校2校―約600人、中学校1校―約330人である。葛巻の場合は、平成15年のデータで小学校11校―約430人、中学校3校―約240人である。義務教育課程の児童生徒数の合計でいけば、飯島930人に対して葛巻670人と、7割程度である。ところが人口比率は葛巻が飯島の8割強といったところで、児童生徒数比率の方が低い。ということは、人口減少率が葛巻の方が高いわけである。それをよく現すデータがある。葛巻の平成7年データでは、小学校13校―約700人、中学校7校―約430人ということで、飯島の平成7年データがここにないが、おそらく子どもの数ではほぼ同数であった。それが次第にどちらも減少はしているが、その差がつき始めているのである。
 話の中で今年も学校が統合されて減ったという。それでも数えるほど学校がある。平均すれば小学校は、1校100人以下という葛巻。広大になることを恐れてその合併に否定的な伊那の谷の町村ではあるが、岩手県の現状をみると、長野県とは比較にならない問題があるように感じる。いや、そんな観点でみてみると、長野県の町村は、平均的に面積が狭い。長野県より狭い行政区域が並んでいるのは、関東の都会近郊だけである。まもなく伊那市が広大な長谷村を合併して新伊那市になるが、よその県を見回すとちっとも大きくない。それでいて、広大な山岳地帯を含んでいるのだから、実際の居住空間は、けっこう狭い範囲である。とすると、長野県の環境はけして悪くないということになるのだろう。
 そんなことを考えるきっかけとなった、新年の挨拶での出来事であった。
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隣組もいろいろ

2006-01-08 13:53:04 | ひとから学ぶ
 妻の実家の隣組で、大晦日に亡くなった方がいた。正月三が日に入るということもあって、亡くなられた家では、大晦日のうちに隣組長の家に出向いてそのことを告げたが、三が日に入るということもあって、黙っていて欲しいと告げたという。その後、この隣組は元旦に新年会が行なわれていて、その新年会にはその家は用事があるといって参加せず、二日になって新しい隣組長(この地域の自治会の年度は1月から新年度)に電話で亡くなったことを告げたという。
 「そうなんだ」と捉える程度かもしれないが、これが近所で問題になっている。
 その① 新年度になるから葬儀は新しい隣組長が執行することになるのに、電話で連絡した。本来なら、直接隣組長の家に出向いて「お世話になります」と告げるのが本来だろう。隣組長は、隣組の全員に対して、それぞれの家に出向いて葬儀があることを触れるわけだから、当事者がその隣組長に電話ではまずいだろう、というこになる。
 その② 旧組長とは比較的仲がよいから出向いて「黙っていて」と告げたのだろうが、実は隣組のなかでいろいろもめごとがあるとかかわるのがこの亡くなった方の家なものだから、その行動が気に入らない、と問題になっている。亡くなった方の隣の家では、大晦日に花火を揚げた(花火士の資格があって)りして、もし、亡くなったというこがわかっていたら花火など揚げなかったという。
 その③ 隣組に子どもたちがよそへ家を造って出たため、家は残っているものの隣組から抜けた家がある。実はこの家から今回亡くなった方の先代のつれ合いに嫁っている。だから親戚筋にあたり、隣組は抜けたものの母親だけはこの古い家に一人で住んでいる。にもかかわらず、この家に知らせたのは、葬儀の前の晩だという。本来なら真っ先に知らせてもよい関係なのに、5日間くらい知らせなかった。
 ふだんのつき合いでもいろいろもめていたため、そんなことがなければ「ふーん」程度のことだが、隣組中で話が盛り上がっている。それでもってこのごろは葬祭センターがあちこちにできて、そういう会場で葬儀をする人がほとんどになりつつある。それでも地域の集会施設(公民館や改善センターなど)のようなところを利用する人はまだいる。もちろん葬祭センターを利用した方がお金はかかる。三が日がはさまれたということもあって、隣組の葬儀の打ち合わせまで間があった。この間、葬儀をどこで行なうかが隣組中で話題になった。見栄で葬祭センターでするか、金銭に細かいから集会施設でやるか、そんな二者択一でどっちだろう、と話がつきなかったのである。「ふーん」といって話題にもならないのにくらべれば、どう思われようと話題につきないほど盛り上がるのだから、きっとこの事実は忘れられないだろう。
 さて、そんな話を聞いて、わたしは自宅で夕食をとりながら、妻とこんな話になった。亡くなった日から葬儀までが長かったとはいえ、そんなに隣組中で盛り上がれるのにくらべれば、自分の隣組はあっさりしたものだ、という話である。元旦に新年会はあるが、ほかに女衆が顔を合わせる機会は、冠婚葬祭がなければ集会所の掃除当番の時くらいだという。そんな程度だから、葬儀があっても隣組がかかわることは少ない。盛り上がって近所の悪口を言ったりするような環境はない。気楽でよいかもしれないが、つきあいが希薄すぎるかもしれない。
 新年会のことを書いたら、BLsさんに驚かれたのでいかにも田舎かと思いきや、地域は田舎なものの元旦の1日でつき合いが終わるという超短いつき合いの話でした。
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信号機の雪

2006-01-07 21:13:25 | つぶやき
 昨日、長野市から西に隣接する中条村まで国道19号を車で走った。前日も中条村に行ったので、そのときにも気になっていたのだが、ちょうど市内の安茂里差出というところの警察派出所の近くの信号機を見て、信号機がほとんど見えない状態になっていて、警察が近くにあるのになんとかならないのか、なんて思った。なぜ信号機が見えないのかというと、信号機の上に被さっていた雪が少し解けて信号機の前に垂れてきて見えないのである。前日は自分で運転していなかったのため、たまたまその信号が目にはいってそう思った。ところが、今日は自分で運転していて、その信号機だけなのかと思って進んでいくと、そんな信号機ばかり続くのである。そして、どれも青色のところは見えるのだが、黄色、赤色と雪の被りが多くなる。ことごとくそんな信号なので、なぜ、とは思ったが、ちょっと考えればその理由はすぐにわかる。国道側は青色を点灯している時間が長いので、その熱で青色の上が解けるのである。ほとんど赤にならないような信号は、雪が解けないのである。そう思って、国道に交わる側の信号機をみてみると、赤色のところが解けていて、青色のところが解けが悪い。雪国に行くと、信号機が縦型になっているのをご存知かと思うが、長野市あたりにはそんな信号は見当たらない。ところが今年は雪が多く、長野市内でも現在30から40センチくらいある。さすがに例年これだけ降るような地域は、安全のことを考えれば縦型にしたくなる。雪国の信号機の様子をそんな観点でうかがったことがないのでわからないが、縦型でも、赤色ばかりの信号は、きっと上の雪の解け方は悪いのだろう。
 そんなことで、雪国の信号が縦型にされている理由を、実際に体験することができた。そうはいっても、ほとんど黄色と赤が見えない信号なんかがあって、これでまた雪が降ってきて視界が悪かったら大変ではないか。警察に言っても、自分たちが雪を落とすなんていうことはしないだろうから、結局そのうちに解けてしまうのだろう。もう少し、雪が降り続くと、いよいよ苦情も多くなるのだろう。
 さて、そんな信号機ばかりだったので、もう少し観察してみると、常時青色点灯の信号機より、常時赤色信号機の方が、雪の解け方がよいのである。わたしの想像では、同じ信号でも、青色より赤色の方が熱が高くて解けやすいのではないかと思う。そういえば最近はLED発光方式の信号が増えてきたが、そうした信号機はどうだろうと思って気になっていたが、長野市から中条村の間にそんな信号はなく、残念ながらその疑問を晴らすことはできなかった。
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長野県の不幸

2006-01-06 08:21:48 | ひとから学ぶ
 昨日の信濃毎日新聞に、長野県内の市町村長に対してのアンケートの結果が載せられていた。その中の田中知事に対しての評価結果は、評価の比率がどうのこうのいうよりも、その背景に悲惨な姿が見え隠れする。新聞でもその回答内容に対して分析しているが、「評価する」あるいは「どちらかというと評価する」と答えた市町村長は、合併問題で、自律を選択した町村長に突出している。長野県は、全国で見ても比較的合併の進んでいない県である。しかし、県知事が自律支援したり、合併を推進しない方向性を示している環境下では、わたしは合併が進んでいる方ではないかととらえる。基本的に、合併しないということを町村長が表明しているような地域は、住民が意思表示しているというよりも、こうしたリーダーがそう表明した地域といった方がよい。仕方なく自律を選択した町村もあるが、そうしたところへも、県が自律支援しているから、「評価する」という回答が出るのは当たり前である。そして、不幸の一つは、「評価する」と答えたのは、すべて下伊那郡の村長だということである。知事は、下伊那に対して常に気を使ってサポートしている。その一歩となったのは、いわゆる泰阜村に住民票を置きたいとわがままを言ったように、下伊那郡のいくつかの村長のアイデアに入れ込んでいることに起因する。しかし、住民票問題に発したわがままでもわかるように、県内にある多くの市町村に対して、イーブンな見方やサポートをせず、えこひいきがあるため評価の格差を生んでいる。「長野市には税金を払いたくないが、泰阜村には払いたい」といって起こした行動そのものが、えこひいきなのだ。だから、「評価する」という回答をする町村が増えようと、その影で泣きたい気持ちでいる市町村もいるわけだ。ただ、どちらかというと小さな村にえこひいきして、市に対して冷たいというやつだから、なかなかうまいやり方ではある。
 下伊那郡の町村を見る限り、「評価しない」「どちらかというと評価しない」と答えたのは、15も町村があって、喬木村だけである。県内の他地域の人は、単に下伊那に対してのえこひいきと見るかもしれないが、実はこういう回答が出るには理由がある。それは、今までの長野県内の他地域の市町村は、下伊那郡というところに振る向くことはなかった。県庁が北に偏っていたこともあるし、また、山間部であり、観光地としても諏訪以北とはくらべものにならないほど、めぼしいものが何もない地域だったからである。ほとんどの県民が北を向いていて、南の端にあるこの地域は、常に阻害され、日の目を浴びなかった地域といってよいだろう。それが田中知事になってから、わざわざ県が気を使ってくれるので、今までにないとても新鮮なものに写ったことは間違いないのである。しかしである。知事が南を向いてくれたとしても、県民が向くとは限らないのである。むしろ「えこひいき」が目立つことで、今まで以上に県民は下伊那郡を無視するかもしれない。それほど下伊那郡というところは、長野県の中では風が違う。かつて、長野県の職員は、飯田へ転勤すると嫁をもらって帰る人が多かった、といわれる。それほど、飯田の言葉に魅了されたのかもしれない。どんなにみんなに向いてもらえなくても、やさしさがただよった地域に良さがあったように思う。しかし、どんなに肩入れされようと、過疎は著しく進んでいる。その現実はどうにもならない。同じ伊那谷でありながら、上伊那郡の町村長の回答とは空気が違う。それがえこひいきの現実なのだろう。
 続いて不幸の二つ目である。自分の村を援助してくれれば評価は高い。そして、特別な色を出して自律を表明する町村長も評価がよい。つまるところ、自分のところだけよければそれでよい、という身勝手な考えではないだろうか。もちろん、アンケートだから、評価するかしないかといえば、自ら自治体のリーダーであるならば、その地域を考えて答えることはわかるが、もう少しトータルに考えれば、矛盾が多すぎて「評価しない」とまでいわなくても、回答不可能という回答があってよいはずである。確かにそうした判断で、特徴あるリーダーが「何ともいえない」と答えている例も見受けられるが、明らかに「評価する」と答えたリーダーは、予想される人たちである。そこが悲劇なのである。わたしもこのアンケートに回答しろといわれたら、すべてがノーではない。しかし、県政に近いところにいれば、どう考えても不自然さがつきまとい、「評価する」などという回答は考えられない。だからこそ、「評価しない」側の回答の理由の多くが、県行政の矛盾をついているのである。
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たかが年賀状とは思うが・・・

2006-01-05 08:23:56 | ひとから学ぶ
 年賀状を書くのもこのごろ面倒くさくなってしまった。かといって、何も年賀状が来ないのも寂しいものなのかもしれないが、郵便ポストをのぞくことの楽しみが、近ごろなくなったこともその要因なのかもしれない。かつて、十代のころ、盛んに文通を希望したのも、身近にいる友人だけでは満足せずに、違う世界の人たちの言葉を、生に聞きたいという意図があったように思う。当時はこんなコンピューターで通信できる時代ではなかったわけだから、見ず知らずの人へアプローチするには、雑誌などの文通希望欄をのぞきながら、手紙を出してみることから始まった。今でもそんな欄が雑誌にはあるが、昔にくらべれば一部世界の人たちのことになってしまったのかもしれない。手紙を出したからといって、必ずしも返信があるわけではない。話によれば、若い女の子が文通希望欄に投稿したりすると、すごい数の手紙がくるなんて聞いたが、そのいっぽう男の投書に対して手紙はそうくるものではなかった。だから、「文通希望」なんていう投稿はまずしなかった。投稿欄にあって、比較的返信が来るだろうと予想されるような人に手紙を出すのである。当時まだ若きころにそうしてねらった相手は、男性で高齢の方たちだった。別に若い女の子をターゲットにしようとしたわけではないのだから、確実に、そして誠実に、そして長く話ができるような人を探したのである。オタク風な雰囲気はあるが、なかなか回りの人たちと合いいれるものがなかったことも、そうした行動をとらせたのかもしれない。だから当時は、学校から帰り、そして勤務から帰り、ポストをのぞくのは日課だったのである。
 そうして文通を始めたわけであるが、まだ十代から二十代というころの高齢の方たちだったから、その後亡くなった方も多い。以前にも書いたように、写真の仲間で京都に暮らしていた方は、最初に会ったころ、すでに定年退職されていたわけである。それから約30年近くお付き合いさせていただいた。何度も写真を撮りに同行させていただいたし、お互いの家にも泊まったり、泊めていただいた。本当に長いお付き合いだった。孫のような存在であって、いろいろ教わったものである。HPで紹介している尾道を最初に訪れたのも、その方に誘われてであったし、「モノクロの彩り」で紹介している撮影場所にも同行したものである。わたしはお金がなくて国産のカメラしか持てなかったが、その方はライカのカメラを何台も持っていて、焼き付けられた写真は、この田舎のどこの写真屋へ頼んでも再現できないような世界をかもし出していた。いまだにその映像は忘れられない。
 単身赴任しているから、家に届く郵便物が必ずしもわたしの目に触れないこともある。一箇所にまとめておいてくれとはいうものの、あまり整理の得意でない家族は、その通りにはしてくれない。今回も年賀状を書くにあたり、県外の方だけには早いうちに出したいと思い、31日に書いたのだが(とても早いとはいえないが)、元旦に改めて整理していると、文通していた方の息子さんから、「父が亡くなりました」という喪中の葉書が出てきたのである。すでに投函してからのことであった。この30年来の間に、継続してお付き合いさせていただいた方は、そう多くはないものの、そしてそのほとんどの方はお会いしたこともないわけだが、ずいぶん多くの方がお亡くなりになった。まるで郵便によるメールというものが衰退していくがごとく、わたしのこころの中からも郵便の地位が下がっていってしまった。それが、この年賀状に対するわたしの体たらくなのである。

 さて、そうはいっても年賀状である。喪中の方へのご無礼もあるのだろうが、一年に一度のささやかな交流によって、安否を確認できるわけで、印刷されただけの無言の賀状であっても、出した方を想像することができるわけである。たかが年賀状、されど年賀状といったところだろうか。義理の父は、年賀状が発売されると同時に、年賀状を書き出す。そして、今でも年賀状を書いている。千枚近い賀状をすべて手書きで書くとなれば、並大抵なことではない。一人ひとり、それぞれのことをそこに記している。このごろは、住所と「謹賀新年」だけ印刷しているが、残りの空白はすべて字が埋まっている。面倒くさいといっているわたしの年賀状は、無口でもよいように、適度に字をちりばめてある。だから、ほとんどは無口である。にもかかわらず、元旦以降に出すありさまなのだから、果たして、いろいろ言う資格などないかもしれない。
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地方は都会にはなれない

2006-01-04 17:25:28 | ひとから学ぶ
 昨日えべす様のお祝いで店は閉じると言ったが、あれから三つほどの町や村の商店街を通ってみた。中にはシャッターが下りていて、それが休みなのか常にシャッターが下りているかは定かではないが、おそらくそんなかつての慣わしで、店を閉めているという感じの店もいくつか見られた。ただし、やはり商店街を活性化しようとか、町の商店街が寂れているなかで、そこそこ人を集めているような店は、やはり、という感じに店は開いていた。
 さて、仕事でお世話になって、その後地域でも世話になっている友人(ここでは友人というが果たして相手が友人と思っているかは別だが)のブログに、役場の営業時間にかかわることが書かれていたので、恵比寿様のことと含めて、そして今までにも私が何度も触れていることにかかわりながら、少しコメントしたいと思う。
 先ごろ長野市に合併した村の方とこんな話をした。わたしに対して、年末年始に「日勤とかいって出なくてはならない日はないのですか」というのである。わたしは公務員ではないので、とくにそういうことはないというと、「30日は日勤の当番なんです」という。長野市に合併するまでは理解しながらやっていたが、合併したのに日勤が合併した村だけに今でも課せられている、という。合併後は、旧長野市の支所と同じ扱いなのに、合併した村の長野市職員だけに日勤が残るのはおかしいのではないか、という発言に、わたしもうなずいたのである。日勤によって、電話の対応と支所への届けなどは受けることとなる。これはあくまでもわたしの意見なのであるが、合併を望んだのなら、それまでの村とは異なるのだから、どうしても行政と連絡をとりたい、あるいは届けをしたいというのなら、本所は随時窓口を開いているというのだから、そちらに出向くのが住民として当たり前じゃないかと思うのである。けして、住民が望んでそうした日勤が残っているわけではないのだろうが、このごろの役所と住民の関係というのは、明らかに随時商っている店と同じような認識をされていることがふに落ちないのである。
 大都市ならわかるが、地方も大都市並に暮らしをサポートしなければならないのか、という疑問なのである。わたしは、単身赴任しているから、月曜日の朝早いうちに動き出す。すぐ近くにあるセブンイレブンも、そこから数キロ離れたセブンイレブンも、そして家から50キロほどの間にあるすべてのコンビにの様子を見ても、その半数以上に客はいない。いや半数どころか客がいても1割程度の店に一人いればよい程度である。にもかかわらず、店を開けなくてはならないサービスが、もし、温暖化防止のために環境保全をしようという気持ちがあるのなら、それこそを第一に議論することではないかと思わざるをえない。大都市と、人口の少ない地方が同じでなければならないなんていう感覚がナンセンスなのである。ところが、田舎の人間も都会並の生活を身近にすることで納得している。田舎が駄目になったのは、田舎が都会並みの生活を勝ち取ろうとしたことに始まると思う。価値観をおなじにしようとするから、そんな不自然な破壊が始まるのである。都会にくらべれば、ずっと人と人の絆を大事にしていた地方なのに、都会を目指したがために、都会以上に人間関係を希薄にしてきた。それをもし、当たり前だと思っているとしたら、もう地方はないのである。中央と地方などという言葉があること、そしてそれを異様に意識する地方があるからこそ、この国は堕ちたのである。都会を憧れる気持ちは、昔も今も変わりはないだろう。しかし、地方はどうあがいても都会にはなれないのだから、たとえば晴れの日の都会、日常の地方とメリハリをつけさえすれば、地方は地方として存在したはずなのだ。惑わされ続ける地方だから、こんな情けない議論をすることとなる。
 人は、我慢をしなくなった。そして、常に自分がしようとしたことが成り立たないと、文句を言うようになった。このごろの子どもたちが我慢しない、なんていうことを言うが、大人が我慢しないのだから、子どもが我慢などするはずもない。だからこそ、そして、こんな地方の先が見えなくなったからこそ、住民はお役所に文句を言う。気持ちはわかる。そして、安定した職だと思い込んで、安定しない人たちは愚痴をこぼす。このごろつくづく思うのは、わたしは公務員ではないにもかかわらず、そこに近い仕事をしていると、妬まれるようなことを口にする人が多い。ましてや、地方の公務員の方たちは、常日頃そんな悪態を聞いているに違いない。しかしである。それを公務員という人たち、お役所だけに吐いていたら、本当にこの国はおしまいである。もちろんわたしも公務員に対して言いたいことをこのブログでつづってはいるが、つくまるところは妬みや愚痴にすぎないのである。やはり、もう一度振り返ってほしいのは、常に同じでいなければ許せない、なんていう横暴な利己主義に気づいてほしい。まさしく正月もなく年中無休が当たり前だという世界を作り出してしまったわたしたちに責任があるのだ。欲しいものも、今日は我慢しようじゃないか。相手の姿(業務形態)に自分を合わせようじゃないか。そういう気持ちを持ってほしいし、やたらニーズなんていう言葉に惑わされることはないのじゃないか。そうした意識がなくなった、そう三日恵比寿なのに店を開けることをお客様への奉仕と思うところに、問題があると気づいてほしい。

 関連ブログ Governance Archives
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三日恵比寿

2006-01-03 16:25:24 | 民俗学
 3日は恵比寿様を祝う日である。朝飯でお頭つきの鰯を食べるのが慣わしというが、みなさんはどうだろう。農家が行なう行事なら、農家でなければみんなそんなことはしないのかもしれない。

○恵比寿様を祝う日で、燈明をあげご飯にお頭つきの鰯を添えて供え、福が授かるように祈願し、この日一日金銭を出すことを忌む。(箕輪町中曽根)
○ご飯を盛った茶碗を枡に入れ、恵比寿・大黒様に供える。枡一杯金がたまるようにという。(箕輪町鹿垣)
○恵比寿様の日で、朝飯に頭つきの鰯をつけた。財布を神棚へ供えて金銭は使わせなかった。(伊那市手良)
○恵比寿祝。お恵比寿様の棚へ藁の鯛(福縄)を飾り、これに塩鯛二尾をつけ、朝日に松を描いた丸扇をかけ、この親骨へ麻を垂らす。鰯一籠は塩鰯三十尾ほどだが、恵比寿祝の朝食に一匹ずつ出す。掃きだすから掃いてはいけない、お金を使ってはいけないとされた。(宮田村)
○えべす講といって朝飯に小豆飯、おいべす様の神棚へおいべす縄を供え、麻を二掛けさげる。商人は店を閉めて商いを休む。(中川村片桐)

というような事例を『上伊那郡誌』から拾ってみた。
 おわかりのように、この日はお金を使わないものだと昔は言ったものである。中川村片桐のように、商店は閉めるなどとあり、この日は銭を使わないのが当たり前だったわけである。ここまでも正月の変わりようを少しではあるが触れてきた。今では元旦から初売りをして、三が日にもっとも稼ごうなんていう雰囲気すらある。妻の実家でも初売りのことが話題になったが、今では1、2軒しかない店だが、昔はその集落にもたくさんの店があったという。そして、2日の朝5時ごろ、ビクを背負って初売りに出かけたという。今でもその時にもらったバケツがいくつも残っていて、重宝しているなんていう話も出た。必ず全部の店を廻ったもので、欠かすことはないようにと気を使ったという。これがかつての初売りだったが、今はそんな風景はない。もちろん、2日に初売りだから、元旦に買い物をするなんていうことはなかった。元旦も「掃き出してはいけない」というように、当たり前であるが銭を使わないことが、福が逃げないということにつながったわけである。
 今日、3日に昔のように店を閉める商店などあるのだろうか。わたしも元旦に「吐き出さない」ということは覚えていたが、話題に上るまで、3日も吐き出さないということは忘れていた。もちろん銭を使わない、店は閉めるなんていうことも忘れていた。正月それぞれの日にいろいろ意味はあるものの、銭優先の世のなかでは、まったく迷信めいた話でくくられそうである。
 そんなことを聞いたから、今日は銭を使うのは止めようと思ったが、どうしても必要なものがあるから、これから買いに行くが、なるべく大金を使うのはよそう。
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三つの神社を祀るムラ

2006-01-02 16:29:38 | 民俗学
 隣組の新年会で話題になったことがあった。我が家では元旦に三つの場所へ初詣をする。ひとつは地元にある天神さんで、明治年間に建てられた小さな石碑である。小学校の地域のPTAで、毎年2月末ころに天神祭りをするのだが、中学になった今も、一応お参りをしている。天神祭りにいつも子どもたちがお参りしてはいるものの、あまりに目立たない小さな石碑ということもあって、お供えを供えてお参りするのは、我が家くらいである。二つ目は、地域の3つので祀っている産土さまである。そして三つ目は、いわゆる初詣で賑わうメジャーなお寺である。この二つ目の神社は、三つの、約200戸で祀るお宮で、最近痛みが激しいということもあって、数年前、改修するのか建て直すか議論されて、結局建てなおすために積み立てを始めたばかりである。しかし、年寄りだけの世帯もあったり、過疎が進む地域だけに、その負担はけっこう大変だと、みなが認識している。
 そんな状況にありながら、この地域は、地元の産土さまとは別に、下にある三つの集落が祀っている神社の氏子にもなっている。その神社には、それぞれのでそれぞれの神社をもつもう二つのも加わって、合計八つの集落で神社を祀っているのである。わたしの地域の三つので祀る神社をA神社とすると、隣接する一つののB神社、さらに隣接するひとつので祀るC神社があるのだが、さらに隣接して三つのが祀るD神社をABCというそれぞれの神社を祀る氏子が加わって祀っているのである。ABCDそれぞれに獅子舞などの芸能が奉納されているが、それぞれの神社を持つABCはそれぞれのの氏子がそれぞれで奉納し、D神社はABCにかかわらない、Dだけにかかわる氏子が奉納しているのである。もちろん、氏子総代や祭典当番というものは、八つのにまわってくるのに、身近な神社という感覚でいくと、D神社は、ほかのABCの神社を持つ人たちには親近感が持てないのである。簡単に言うと、よそので祀っている神社の氏子になぜかなっていて、奉仕をするものの、自分たちは自分たちの神社にも奉仕しなくてはならないのである。
 前述したように、もしD神社が傷んだからといって、改修なり改築するとなれば、地域の神社の改築にさえ負担を感じているのに、大変なこととなるわけである。まだこれだけならよいのだが、この地域には御柱祭というものがあって、6年に一度は御柱祭を行なっている。この神社は、ふだんは小さな一つで祀っているのだが、御柱祭には、周辺にある旧7か村という広範囲の人々ががかかわって祭りが行なわれる。ということは、わたしの住む地域は、三つの神社の氏子になっているのである。
 話題になったのは、集会施設が古くなって、この先どうしたもんだろう、という話をしているなかで、このごろ神社の積み立てを始めたばかりだというのに、集会所まで負担するのは大変だということだった。そして、よく考えてみれば神社も一つではないということになったわけである。いくつもの神社を祀ることになった要因に、この地域の集落のでき方がかかわっているようで、歴史がある。そんななかで、わがを含めた三つのの見栄のようなものが、今の不自然な氏子形態を生んできたようである。今となっては、それが負担となっているわけである。
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