Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

衣生活の変化

2022-08-08 23:45:23 | 民俗学

 6月に「本日の成果」の中で、わたしが野良で仕事をする際の「格好」について触れた。若いころはもちろんだが、つい数年前までは何も考えずに、「夏なら半そで」が当たり前だった。もちろん今も半袖で仕事をしているが、草刈の際には腕を覆うようなアームカバーを利用する。したがって今年の場合、夏も残り少なくなったが、真っ黒に日焼けしているいつもとは違う。けして気を遣おうと思っていたわけではないが、年老いたせいもあって、「真っ黒はどうか」と思い、少しではあるが「肌を隠す」ようになった。

 今日も外出した際、道端で作業をされている、いわゆる土木作業員の人たちがいた。これも昔と変わったところだが、ヘルメットは必須だし、相応の安全対策をするのが、今の現場である。そのあたりはわたしの業界とは少し異なるが、とはいえわたしの業界でもヘルメット着用の姿はよく見かける。もちろんわたしはしていないが…。ヘルメットだけならまだしも、着衣に至っても安全管理されたものでないと、もし事故が発生した際に責任が問われる。よって真夏の炎天下でも、それだけでも見た目を「暑く」させる。そして今日見た人たち、けして年齢的に高い人たちではないが、長そで姿だし、顔をすっかり覆う、いわゆるアフガニスタンの女性のような、いやそれ以上にほぼ肌を隠している作業員が目に入った。周囲にいた人たちもほぼそれに近い姿。

 衣生活はもちろん昔と違ってきて当然だ。しかし、見た目はそれほど大きな変化を遂げた、とはこの半世紀思えない。しかし、何といっても「肌を隠す」という意味では、変化を遂げたのはここ10年くらいではないだろうか。女性は昔から隠す方ではあったが、男性の、それも若い人たちが「肌を隠す」ようになったと著しく印象を抱くようになったのは、それほど昔のことではない。とはいえ、まだまだ子どもたち昔のように「肌を隠す」という印象はそれほどない。息子の仕事着を洗濯物取り込む度に見て思うのは、半袖が少ない。若者の多くが炎天下でも長袖を着用するようになったことも事実。当たり前に「半袖」という時代は既に終焉を迎えた。その上で、今日見た現場の人たちを思い浮かべ、世間の衣生活の、というより意識変化を強く感じるところである。

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生き物とともに暮らす

2022-08-06 21:09:18 | 民俗学

 長野県民俗の会第231回例会は、二つの発表を中心に、豊科郷土博物館(安曇野市)で行われた。

 一つ目のテーマは長野県環境保全研究所の浦山佳恵さんによる〝「信州の生き物文化レッドデータブック」作成の提案〟というもの。例えば特徴的なものとして、県内にはザザ虫漁とか、ハチ追い、あるいは田ゴイといった生き物とかかわる民俗文化が育まれてきた。そうした生き物にかかわる民俗も、おそらく人々が自然と共生しなくなった(しなくなった、というよりそうした生活様式から工業製品様式に変化したためとも言える)ため、衰退の一途を辿っていることは、誰でも実感しているところなのだろう。とはいうものの、現実的には生き物と関わりながら、あるいはそうした暮らしを求める人たちもいて、けして完全消滅しているわけでもない、過去の習俗を、いわゆる自然系のレッドデータブックのように、絶滅危惧度を示して人々に紹介したいというのが浦山氏の提案である。前々から聞いていたことだが、同研究所に人文系の研究員は一人だという。ほかの方々は全くの自然系、あるいは環境系の研究者。おそらくそうした人々にとってみれば人文系の存在は違和感があるのかもしれない。そしてその中で自らの実績を残していくために、あるいは自ら存在意義を見出すために悩まれていたことだろう。故に考えられた自然系に対抗するような人文系レッドデータという発想なのかもしれない。

 かつてわたしも同じような意図で業務上で発言したことがあった。大型事業を行う際に、自然環境調査を行い、生物の保護を目的とした報告書を作成することに対しての違和感から発した人文系の報告書は「なぜ作らないのか」という指摘だった。同じようなことは埋蔵文化財にも言えるのだろう。埋蔵文化財に対する対応は、とりわけ神経質に協議が行われ、例えば事業の中に埋蔵文化財調査費が計上される。むしろ自然環境より、さらに手厚く保護される埋蔵文化財である。であるならば、事業化によって変化を遂げるであろう人々の暮らしを調査し「残す」調査がなぜ行われないのか、と問いたくなるわけである。もちろん皆無というわけではない。そうした調査も実施されている例はあるだろうが、埋蔵文化財や自然環境に対する事例とは比較にならない、というか皆無と言っても差し支えない。もちろん「それほど大きな変化はない」という捉え方もあるだろうし、重要性という視点もある。裏を返せば今回の発表後に議論となった「残さなくてはならない、残さなくても良い(変容するもの)」といったところに繋がる。不要なものをあえて調査しなくても良い、という意見があれば、その重要度は低下する。希少意見か、それとも大多数の意見か、という天秤にかけられるのかもしれない。

 さて、浦山氏は「盆花採り」を例にして提案の主旨を説明された。かつて草地で行われた「盆花採り」あるいは「盆花迎え」がほぼ消滅に近い状況にあることから、それをレッドデータブック化し保存することを目的にしたいという。しかし、ここに民俗は「変容するもの」という捉え方を用いると、必ずしも保存し継承する「必要があるのか」という議論に至る。過去の習俗は「良かった」から、「残そう」という視点が民俗ではない。このあたり誤って捉えられている部分で、むしろ「消滅した方が良い」習俗も現実的には存在した。必ずしも「昔が良かった」わけではない。盆花の例で捉えてみれば、確かに草地に盆花を求める姿はなくなったかもしれないが、今もって昔から言われている盆花を盆棚に飾る人はいるし、もし花が購入品となってアルストロメリアやトルコギキョウが飾られたとしても、「盆花」という意識は形を変えて現存する。近ごろ仕事であちこち現場を訪れては気がつくのは、個々の家の庭にキキョウの花が大切にされて花を咲かせている光景だ。聞き取りしていないので正確なことは言えないが、そうした背景には、盆花としてのキキョウの存在が必ずあるはず。でなければキキョウがこれほど大切にされているのは何故か、ということになる。我が家でもいつも苦労して刈り払いをする高畦畔の裾にミソハギが咲いていて、畔草を刈る際には必ず残すようにしている。同じことはオミナエシにも、ヤマユリといったものにも言える。環境変化に伴って過去と全く同じ姿はなくなっても、少し変容した形で残存している盆花の存在を重視しない手はない。確かに元来の姿を望む声もあるだろうが、だからといって嘆く必要はない、そう捉えるのが民俗の視線だと思うのだが、いっぽうで「そんな当たり前な変容ありき」では特徴が無く「地域の活性化に利用できない」という声が聞こえることも確かだ。いずれにしても、生き物にかかわる民俗(暮らし)を捉えて紹介することの意義には、誰もが理解を示すところなのだろう。全くの自然系と人々の捉え方とは異なる生き物と関わる人間の暮らしを表舞台にあげる、その主旨には同感できるわけである。

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詐欺に遭ったようなもの…

2022-08-05 23:00:22 | つぶやき

 通常なら「迷惑メール」ボックスに自動的に入れられるメールが、メールボックスに入ってくることは稀に(稀でもなく、度々あることも)ある。表向きは不通にメールが届いたと思うのは当然のことで、中身を覗くのは当たり前のことだ。中身を見てみると、ふだんは「迷惑メール」に振り分けられているものと、まったく同じものがなぜかそちらに割れ振られずに、こちらにやってくる。もちろんふだん「迷惑メール」ボックスを覗くこともなく、「迷惑メール」ボックスの数値が三桁くらいの数を示すと、気がついて「フォルダーを空にする」。したがってそこにどのようなメールが届いているかなどと、確認することもないので、どのようなメールが入っているかなど「知らない」のが普通だ。たまたま怪しいメールが届いていて、「迷惑メール」ボックス内を見て、同じようなメールだと気がついたもの。

 ということで、最近ときおり「迷惑メール」ボックスから逸れてやってくるメールのひとつに「EТC利用紹介サービス」というものがある。

①メール一覧に表示されたメール

 

② ①の中身

 

③「迷惑メール」ボックスにあった同様のフィッシングメール

 

ETCサービスは無効になりました。
引き続きサービスをご利用いただきたい場合は、下記リンクより詳細をご確認ください。

というもので、2枚目の画像がその内容だ。知らない人は指示に従ってしまいそうなもので、3枚目の画像の方は「迷惑メール」ボックスに割り振られたもの。世間には「ETC」関連のものばかりではなく、本物と見間違えるフィッシングメールが氾濫している。迷惑な話だが、わたしにしたら、マイクロソフトが盛んにウインドウズ11への更新の誘いをするのと、そう「変わりない」と思ったりする、ほどこのごろのパソコン上の意図しない誘いは頻繁だ。もはや必ず「防いでいる」とは断言できないほど、自動の誘いに誘導されている。「自動」だから意図せずに昨日と違う環境を与えられる。まるでタイムマシーンに乗ってしまったかのごとく…。

 以前から触れている通り、「WEB版」と銘打ったソフトに移行されていて、どうもウインドウズ11対応型は一層それが進んでいる。もはやパソコンは「オフライン」では仕事ができなくなりつつある。気がついたのはネットワーク環境が悪くてオンラインできないパソコンを使っていたら、かつて動いていたソフトが起動するものの、データを開けなくなった時だ。オフラインだから、もう絶対に開けない。何の役にも立たなくなるのも時間の問題なのかもしれないが、はっきりしたことは分からない。、そう「はっきりしたことは分からない」という事実が、無駄な時間を費やしていく源となる。もはや都合の良い「機械」から、不都合な「機械」へと転換している。とはいえ、これが無ければ何もできない世の中になっていて、それこそオンラインは平和な世界だから「通じる」が、その環境が壊滅した時には、マジに「仕事にならない」ことになる。ちなみに2020年12月末で提供およびサポートを終了した名刺作成ソフト「合わせ名人」ver.4、ver.5はそのWEB版のためオフラインで使えるものをと思いダウンロードしたが、ウインドウズ11にはインストールできなかった。「何故」と苛立つばかり…。

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久しぶりに〝乗り過ごした〟

2022-08-02 23:05:28 | つぶやき

 昨日は2か月ほど前に東京に同行していただいた方たちとの、ようやくの慰労会だった。近在とはいえ駒ヶ根から伊那までの数人の方たちが集まるということもあって、なかなか日程が折り合わなかった。何度か予定していた日が流れ、同じ店に3回目の予約で実現した、という慰労会。いつもは料理を完食することなくたくさん残してしまうわたしには珍しく、すべて口にすることのできた久しぶりの飲み会だった。もちろんみなさんわたしより年上。それぞれ共通した話題があるなかで、わたしはただただ「頷く」立場だったからできた「完食」だったかもしれない。歳の上の方たちだったから、1次会で終わりだったが、電車の時間まで1時間ほど待ち時間があったため、同じ方向に帰られる方と、「ちょっと」のつもりで店に入った。ところが次の電車の時間にはうまく話が途切れず、結局「終電」というやつに…。さらにいけないのは、次の駅が降車駅という手前の駅を電車が発車するまでは「次、降りるぞ」と記憶があったのに、ふと気がつくと「次の降車駅は〇〇」、???「おい、俺の降りる駅じゃない」と気がつく。見事に本当に久しぶりの乗り過ごしである。迎えに来てもらっていた妻へすぐに電話をして、次の駅まで走ってもらった。ところが次の駅で降りてホーム内のトイレに立ち寄った後、駅を出ると、「あれ、もういる」。とまあ、妻の車は駅に着いていた。わたしの降りる駅と次の駅との間は10分とは言わないが、それ近く時間を要す。飯田線でも長距離スパンだ。したがって車で走ると、電車より先に着くくらい、車道の距離より電車道が長い。

 実は先週末もあるお客さんたちとの懇親会だった。それこそわたしが昨日乗り過ごして降りた駅の近くでの飲み会。総勢7名の飲み会だったが、このコロナ禍。濃厚接触者だったため、この日から出勤したという方も参加していて、身近でもコロナの流行り語りが増えている。今日も両隣の部署から「濃厚接触者のため今日から自宅待機」という連絡があった。わたしの部署ではこれまで感染者はもちろん、濃厚接触者になったという人もなく、「よく出ないね」など言われるほど静かなものだが、先週もお客さんのところに2日続けて立ち寄ったら珍しく連休しているので、気になってふだん仲の良い別のお客さんに様子をうかがっていたら、ご本人から直接電話が入った。「コロナにかかっちゃったんです」と。「でも誰から移ったかもわからないし、周りで掛かった人も、誰もいないんです」と、まったく感染経路は分からないという。もう誰が掛かっても不思議じゃないし、もしかしたら誰でも掛かっていて、たまたまそれらしい症状があっただけ、かもしれない状態。

 盛んに連絡を入れてくれる公民館関係の方は、会社から止められているからといって、「飲み会なんてとんでもない」を繰り返す。いっぽうわたしはこの4月以降、30人規模の飲み会もあったし、数人レベルの飲み会はかなりこなしている。ところが、昨日も一緒に飲んだ方にも繰り返したが、「実は会社の歓迎会は、まだです」なのである。ようは会社の出先全員での飲み会は、それほど多人数でもないのにまだ一度も実施できていない。感染者が落ち着いて「いいんじゃない」と言っていたころ、幹事さんがなかなか腰を上げなかったせいで、このままだと忘年会が歓迎会になってしまうかも…。

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猟犬が迎えてくれた

2022-08-01 23:54:42 | つぶやき

 一昨日予定されていた公民館行事が、この情勢(感染症拡大)で「中止」。かつてはその催しで集まった子どもたちに花火をしてもらったが、コロナ禍以降子どもたちには花火を持ち帰って自宅で楽しんでもらうようになった。そのため中止になったとはいえ、子どもたちへの花火は届けようと、子どもたちの数の花火を用意して配布した。もちろん我が家に小さな子どもはいないから、子どもがどこの家にいるかなどという情報はない。隣組の子どものいる家で該当者の家を聞いて配ったわけであるが、わが自治会には山の上の方に暮らしている家が1軒だけある。山裾にある家から山道を1キロほど登っていく。舗装はしてあるものの、さすがに町道なのだろうが管理するのはその1軒がしなければ誰もしてくれない。したがってこの時期、道端の木々の枝やら草が覆い茂って、車道にはみ出してきていて幅が狭い、というより覆い茂った草は車道側に倒れんばかり。1キロだからそれほどの距離ではない、といえばそうかもしれないが、山の中だから街灯もなく、「この先に本当に家があるのか」と思うような先にある。

 わたしも仕事で山奥に行くことは以前はよくあった。いまの部署のエリアには、あまり山奥がないため最近は山の中に行くことはほとんどなくなったが、例えば下伊那などではずいぶん奥まったところにある家に行ったし、会社に入ったころは車道が連絡していない家へ「道を開ける」なんていう仕事もよくしたものだ。したがってかなりの状況は理解できるが、さすがにこのご時世で山の中の、それも斜面に建てられた家は久しぶりに見た。けして古い家ではない。このごろは山奥の、例えば平家の落人が住み着いた、などと言われているようなところでも昔からの人が住んでいるとは限らない。よそから住み着いた人がいて、たやすく声は掛けられない、が実態だ。ということで、「どこが玄関なんだろう」などと不安に思いながら鬱蒼とした木々の中を家までたどり着いたわけだが、もちろん「よくこんなところに住んでいますね」などと口が滑っても言わない。しかし、さすがにこの状況、先ごろも熊の目撃情報が多いと新聞に報道されていたが、この家の子どもたちは熊に追われたことがあるらしく、「熊」のせいで学校を休むことがあるとも…。なにしろ道を歩いていても草が鬱蒼としていて「見通し」が悪い。おとなでもこのような状況では歩くのは「怖い」。ということで、周囲には猟犬になりそうな犬が何頭もいて、わたしを迎えてくれた。

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今年も、ため池の草刈

2022-07-31 23:45:37 | つぶやき

 

 「続 本日の成果」を記したのは1か月ほど前。毎年8月に行われるため池の草刈に合わせて、事前に我が家の分だけ刈り払っておくのだが、あと1か月そのままにしていると、草丈がずいぶん長くなって、背丈以上になった草を刈るのは容易ではなくなるため、数年前からまだ丈が短いうちに一度刈っておくことにしている。それがちょうど1か月ほど前のこと。そして今日、来週にため池の共同草刈が迫ってきたため、事前の我が家分の草刈とあいなったわけである。

 1か月前はとりわけ丈が長くなって厄介なスイコンボウ(このあたりではそう呼ぶが、正確には「イタドリ」にあたる)を中心に刈り払った。さすがにスイコンボウは刈り残したものもそれほど長くなく、苦労はしなかったが、1か月前に刈り払った残りが地上に10センチほど飛び出していて、それに刈払い機の紐が引っかかる。「もっと短く刈っておけば良かった」と気づく。スイコンボウ以外の草がやはり長く伸びていて、紐の刈払い機ではなかなか厄介だ。それでも一度刈り払っておくことは、最善の策。日当たりも良く、成長の早い場所だけに、一度の草刈ではなく、年二度の草刈が理想だと思うが、あまり関係者と良い関係ではない我が家にとっては、1回の方が気楽だ。

 さて、このため池の土手にはユウスゲがたくさん花を咲かせる。とはいえ、以前よりその数は減った。ちょうど花期のころ草を刈るので仕方ないだろう。それ以上に問題なのは、堤体の変形だ。波打ち際は、堤頂から1メートルほどのところから一気に削れてしまっている。場所によっては堤体側に凹むように削れていて、もともと堤体の天端幅が正規に確保されていないだけに痩せ細っている。直下に家はなく、危険性は低いかもしれないが、ふつうなら改修が必要なレベル。残念ながら前述したように関係者といろいろあるから、我が家がいろいろ言うことでもない。ため池に依存されたこの地区が、この後どうなっていくのか、懸念される材料は多い。

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続・上野庚申総本山を訪れて

2022-07-30 23:46:07 | 民俗学

「上野庚申総本山を訪れて」より

 

 4月16日以来の真光寺を訪ねた。松本市梓川は、旧南安曇郡梓川村。旧郡を示せばわかるように、ここは筑摩ではなく安曇の一部だった。もはや平成の合併から20年ほど経て、松本市という括りが当たり前になってきてはいるものの、安曇地域の姿を垣間見ることができる「真光寺」でもある。なぜなら、ここに納められてくる掛軸の多くは、南安曇や北安曇といった地域のものである。ようは安曇野の庚申信仰を知りたいのなら、ここ真光寺へ、ということになる。

 4月に調査しきれなかった掛軸の調査を、今日行った。4月時より頭数が減って、5人での調査となった。「暑い」さ中ということもあって、納められた寺の2階部屋は、日差しが入り込むわけではないが、自然と汗が流れ落ちるほどの厳しい状況下であった。住職さんのはからいで扇風機が用意されていたが、風によって掛軸はもちろん、小道具類が動いてしまうこともあって、なるべく風を「当てない」ようにしたから、なおさら汗のにじみ出る作業となった。ここにいくつかの掛軸の写真を載せだが、ある講の納品物の塊には、掛軸が入っていなかった。まとめておいてあったこれら納品物と掛軸が離れ離れになってしまったとも考えられるのは、掛軸がないのに関係道具類だけ納めるというのは、これまでの寺の経緯からいって考えられないからだ。しかし、その実態ははっきりしない。

 納められた物の中身は、昭和2年の初庚申らしき日に始められた「預金集金帳」、米を集めた桝、通帳、領収書、米を入れたと思われる布袋といったものだった。その中に平成28年に通帳を新たに作成した際に作られた「庚申仲間の会規約」があった。おそらく団体名の通帳を作成するにあたり、会の規約の提出が求められ作成したものとみられる。こうした場合の規約例も一緒に封筒に納められていて、それにならって作成されたようだ。もちろんそれまでの庚申講での約束が基本となって作られていると考えられる。代表者名が必要なため、その際に代表者を掲げている。そして役員には「「初当」「後当」の当番とする」と書かれている。ようは初庚申と終い庚申の当番が役員であることを示す。そして運営の項には「講員の輪番制により「初当」「後当」として、年2回祭事を行うものとする」とある。この年の初庚申であった日に、規約は成立している。それら規約の入った封筒には、ワープロで講についてまとめられたものが2枚同封されていた。文面からほかの行事と一緒にまとめられていた節があり、全容は2枚ではなかったとうかがえるが、いずれにせよ庚申講にかかわる部分だけ同封されたとみられる。それによると、昭和47年に「庚申仲間の葬儀には手伝い一人に引き物は砂糖一ケだけとする」とあり、庚申仲間が葬儀の手伝いをしている様子がうかがえる。庚申仲間が近い隣組とは別に遠い隣組として存在していたかは、これだけでははっきりしないが、葬儀仲間であったことがうかがえる。さらに盛んに記されているのは、阪台や什器といったものを貸し出していることだ。それはその使用料が定められていることでわかる。さらに破損した際の「破損弁償代」も定められていた。かつての葬儀がそれぞれの家で行われたため、ふだんは使わない大量な台や什器は共同利用していたものだ。やはり庚申仲間が葬儀に強くかかわっていたことが想像できる。

 さらに記録では平成6年の庚申においてそれまで各戸輪番で当屋としていたのを改め、公民館で行うと決めている。そして翌平成7年の初庚申から公民館に集まって講を実施しており、さらにこの際に料理について簡素化するよう確認されている。そこには「ひじき、油揚げ、こんにゃく、味噌汁、ご飯、漬物以上六品と酒一升とする事」と書かれている。また新たに講に入る場合の条件が記された年がある。昭和55年の項に「入講の条件は農家であり入講金一万円を納入すること」とある。そしてその年2名が新たに加わったようだ。講員については平成11年に20戸だったものが、翌年から毎年のように減員し平成16年には17戸となっている。

 さて、これら記録は「預金集金帳」からまとめたもののようだが、同帳の最後は令和2年となっている。記録では令和1月17日に実施された初庚申では、講員14名のうち10名が出席しており、協議の中で2名の脱退が確認されている。そして「これからの庚申のあり方存続について、後当番の時に決める」と記されている。そしてひの年の後当番の記録はない。終いの庚申が実施されたかは定かではないが、これをもってこの庚申講は廃止されたのである。さらにすでにここ真光寺に道具類が納められているこということは、未練なく長い歴史が閉じられたかのようにも映る。果たしてその背景はどうだったのか、実地の検証をしたいころだ。

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杉島コミュニティーセンター前の複合型道祖神

2022-07-28 23:38:18 | 民俗学

杉島コミュニティーセンター前道祖神

 

 旧長谷村(現伊那市長谷)杉島のコミュニティーセンター前の道端に写真のような碑が立っている。向かって右側から「道祖神」、中に「金毘羅山」、左に「馬頭観音」と刻んでいる。こうした複合型道祖神は、下伊那の県境域にたまに見ることがあるが、上伊那ではとても珍しい。先ごろ「箕輪町富田の道祖神・後編」において箕輪町富田にある「道祖神 庚申」という例を紹介したが、この例は神様だけではなく、「馬頭観音」まで一緒に刻んでいる。こうした複合型のものは、明治以降建立されたものに例を見るが、これは「于時嘉永六癸丑孟春吉旦立之」とあり、1853年江戸末期のもの。上部に梵字が刻まれ、「村中安全」ともある。ようは村中安全を願い主たる祈願を併記したというわけなのだろう。見た目から古くても「明治期か」と思わせるのだが、意外にも明治以前の建立。

 さて、この道祖神から少し離れたところに並んでいる石碑に無銘のものがある。いわゆる自然石である。『長谷村の石造文化財』(平成9年 長谷村教育委委員会)に記載はなく、緑色片岩でありごつごつしているところから道祖神の自然石だったのかどうかははっきりしない。

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過去の別の日記を振り返って⑭

2022-07-27 23:18:22 | つぶやき

過去の別の日記を振り返って⑬より

 

 平成23年の7月30日に、かつて飼っていたラブが亡くなった。このことを別ブログに「ありがとう」と題して記している。

 7月18日にまだ元気な姿を見せていたラブが、昨日未明に亡くなった。享年15歳と3カ月だった。15年とは短いようでけっこう長いものだ。ちょうど我が家を新築して間もないころにやってきたラブ。息子がまだ保育園だったこともあって、息子とともに成長し家族同様に暮らしてきた。大型犬だったこともあって、そしてやんちゃだったこともあって、寒風の吹きぬける小屋で暮らした。寒いだろうと周囲に専用のビニールシートを買って来て取り付けてあげたのに、一晩でラブはそれをボロボロにしてしまったものだ。身体が大きいと引っ張られるということで、訓練にも出してそこそこ言うことを聞いてくれたものの、妻のことは甘く見ていて、散歩と言えば妻が引っ張られるばかりだった。ようやくおとなしくなって、妻でも散歩ができるようになったのは10歳を過ぎてからだろうか。アレルギー体質だということで、餌はいつも獣医さんのところで手に入れたし、両耳を手術したし、何度も獣医さんにはお世話になったものだ。しっかりお金をかけさせてもらった印象がある。あれほど馬鹿にしていた妻のことを、晩年は最も慕った。ずいぶん苦しんだ最期のようだったが、穏やかなやさしい顔で逝った。まるでまた目を覚ますのではないかというほどに。15年間、ありがとう。

 実は同じ月の18日、ようは12日前にも同じ別ブログに次のように記していた。

 最近はわたしが行っても顔をあげることもなくずっと寝ているラブ。この暑さはけっこう堪えるだろうに違いないし、ちょうど昨年も真夏の暑い日に体調を崩し「もうダメか」と思うほど弱ってしまったが、なんとか持ちこたえた。暑い日には妻も気を遣っているのだが、ちょっと様子がおかしいとずいぶん心配してしまう。もう15歳を過ぎているからラブにとってはとっくに寿命に至っているようなもの。獣医さんにもいつ逝っても不思議ではない、と言われるからある程度は仕方の無いことと思っているのだが、晩年を妻の実家で暮らしていることもあって、常にそばにいた妻にはべったりのラブ。にもかかわらず最近は妻が近くまでやってきてもあまり反応もしなくなった。よほど身体を動かすのがつらいのか、来たことに気がつかないのか・・・。
 
 そんなラブが久しぶりにわたしに反応してわたしのいる方向に向かって身体を向ける。ほとんど目は見えないようなのだが、本当に珍しく庭を歩くわたしに反応して歩いてまわっている。よたよたしながらも動きまわっている姿に、近くにいるシロもラブにまとわりついたりする。少し元気な姿が見られて「安心」とまではいかないが、「感謝」。

 ラブとひと時同じ「時」を過ごしたシロが、かつてのラブと同じくらいの歳になった。暑いのは堪えるだろうと、妻の家では冷房の入った部屋で日中を過ごす。人間様は冷房のないところで過ごすが、お犬様は冷房の効いた部屋で過ごす。かつてのラブの姿が目に焼き付いているからだろう、妻は暑さに対して気を遣っている。18日の日記には写真も掲載していた。あれから12年である。

 

 

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新型コロナ禍における民俗学

2022-07-26 23:42:05 | 民俗学

 『日本民俗学』(日本民俗学会)の最新号において、研究動向を扱っている。その第1部にあたるのだろう、第310号では「特論」と題し、「災害後の地域社会と民俗学」、「新型コロナ禍における民俗学」、そして「文化政策の転換と民俗学」の三つを取り上げている。とりわけ最もページを割いている「新型コロナ禍における民俗学」については、コロナ禍において民俗学においてそれを盛んに取り上げてきた結果ともいえる。まさに研究動向に取り上げるべき対象と言えそうだ。とはいえ今回取り上げた10編のいずれも「行事」「芸能」といったものを対象にしており、あたかも民俗学における新型コロナウイルスの影響範囲は、その2点に絞られているかのようにも見える。あるいは知らない人は、民俗学とは「行事」と「芸能」なのか、と捉えてしまうかもしれない。それらに加えて博物館活動が触れられているのは、民俗学にかかわる人々が、博物館関係者が多いことを表明しているがごとく見えたりして、ずいぶん狭い分野に陥ってしまっているように、わたし的には見えてならない。もちろん「研究動向」だから研究者の注目しているところは「そこ」ということなのだろうが…。

 しかし、現実的に新型コロナウイルス感染症の影響は、民俗学という広い分野の隅々にまで影響しているのではないかと思う。人々の暮らしを扱っている分野なのだから当たり前でもある。民俗学で取り上げている多様な分野は、日々変容を遂げている。それこそ民俗学の扱うへき視線なのだろうが、わたしが今とくに気になっているのは「社会生活」である。行事にしても集団で行うもの、そして民俗芸能といった盛んにコロナ禍に扱っている分野は、つまるところ社会生活の中に仕組まれているものだ。社会生活に影響があるから、結果的に行事も芸能も中止され、またその実施方針が揺れ動く。このところ記してきた今年わたしが関わっている公民館活動もその一つだ。ようやく行事を再起動させようと計画を練っても、結果的に「中止」という無に等しい状況に陥る。仕事の上でもそうだが、気にしてばかりで計画を立てなければ、状況が改善していても結果的に中止ということになってしまう。もはや延期という選択は少なく、「やるかやらないか」という二者択一なのだ。おそらくこれが長く続けば、二者択一ではない方向を見出すことになるかもしれないが、今のところ二者択一が多い。

 夏場に集中していた企画が軒並み「中止」となって、その先にある「運動会をどうするか」と議論されている。担当している部では「気乗りしない」人が多いと聞く。担当部は比較的年齢層は低いにもかかわらず、そもそもその必要性を問えば、おそらく語ることのできない人は多い。めんどうくさいから、手がかかるから、とコロナ禍以前の気持ちが、こうした議論で足を引っ張る。同じことは社会生活でも意識される。自治組織の活動も、かつてに比較したらずいぶん簡素なものとなった。スリムになって良いかもしれないが、それが故に自治組織の本旨が忘れられそうな感じだ。昨日、ある隣町の区の歩みをまとめてほしいと区長に頼まれた、という方に道端で出会った。明治23年に区ができたということが分かったが、倉庫に雑然とあった資料を年度ごとに整理し、ようやくのこと過去から読み解いてまとめるまで至ったという。その意図について区長が言うには、これからの人たちに区がどのように成立して、何をしてきたか伝えたいのだという。今の人たちは任期だけ負えば良い、みたいに深くものごとを考えない。もちろん意図も知らずあたかも本当のことのように語るが、果たして「それは正しいのか」と疑問もわく。そういう意味でも、過去を知ることは無駄ではなく、その上に自らの区を描くことになる。こうした意識はコロナ禍によって変質しがちだ。あらためてこれまでの民俗誌を紐解くと、「社会生活」はかなり変容を遂げている。そしてコロナである。もっと視線を当てる必要がある分野ではないか、そうわたしは思う。

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お化粧する道祖神-『伊那路』を読み返して㊼

2022-07-25 23:41:10 | つぶやき

続・昭和三十六年梅雨前線集中豪雨伊那谷水害と地形地質との関係-『伊那路』を読み返して㊻より

 『伊那路』昭和38年6月号巻頭には、伊藤堅吉氏による「お化粧する道祖神-〝信州と私〟シリーズ-」が掲載されている。伊藤氏は山梨県河口湖に住まわれていた。その伊藤氏が道祖神を求めて長野県に足しげく通われた思いが綴られている。伊藤氏が著された『性愛の石神 双体道祖神』(昭和57年 緑星社)の巻頭のカラー写真は松本市北新の双体像であり、2ページ目に掲載された写真も、穂高町本郷のものだった。伊藤氏の長野県の道祖神に対する思いが、そこにあるといえる。そしてタイトルに「性愛」を掲げているように、道祖神信仰における「性」に関わる部分をとりわけ扱われた伊藤氏でもあった。手元には伊藤氏の著作として『甲州性的伝説』、『河口湖周辺の伝説と民俗』といった小冊子もある。

 さて『伊那路』では、最古の銘を刻んだ辰野町沢底にある永正2年(1522)銘の道祖神のことに触れ、そして何より題名にもある化粧された道祖神を次のようにとりあげている。

 とまれ信濃の双体道祖神は、全国随一稀にみる美しさです。碑面に刻明な浮彫りを施した碑石は、勿論立派な石像美術品でもありますが、それにも増してこの碑につながる民俗の美しさに、相通じているようです。
 それだけに、信州の道祖神ぐらいおしゃれな道祖神はありません。〝お化粧する道祖神〟、これこそ信濃路のローカル、カラーと申せましょう。
 他地方では殆んど見られない、道祖神のお化粧ぶりを、今朝は少々探訪してみることにしました。

そしてまず取り上げられた道祖神が、本日記の「石仏に彩色するということ⑭」でも触れた朝日村上古見の古川寺の入口に祀られているもの。そのほかいくつかの彩色道祖神を紹介している。

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過去の別の日記を振り返って⑬

2022-07-24 23:49:36 | つぶやき

過去の別の日記を振り返って⑫より

 

 平成23年の7月後半に、下記のような日記を別ブログに記している。タイトルは「午後8時4分発天竜峡行き」というものだ。

 午後8時4分発天竜峡行き列車に乗った。いつも帰る際に乗る電車の2本あとというまだ早い時間帯の列車である。職場の暑気払いがあって少し飲んでの帰宅である。飲み会の後にこの時間帯の列車に乗ることはめったにない。ふつうは最終かその1本前だ。時間制限のある飲み放題食べ放題というやつだったから、飲み会も慌しく時が流れた。仕事も持ち合わせていたし、思うところもあって即座に退席した。
 
 夏休みに入ったためか、この時間帯にしては高校生が少ない。一応伊那市駅でそこそこ乗った乗客も、高校生を中心に駒ヶ根あたりまでには多くは降りていった。もちろんふだんの時間帯もそうは変わりない。ところが飯島で数人降りると、その後伊那本郷・七久保・高遠原と誰も降りる人がいない。この列車ワンマンだから降りるときは前寄り車両の運転席のところまで歩いていくから降りる人がいると気がつく。周囲を見回すとボックス席はほぼ埋まっている。埋まっているといっても独りが独占している状態で埋まっているから乗車している人の数が多いというほどでもない。くつろいでいる人たちの姿を見ると、間もなく降りるという雰囲気の人は誰もいない。年齢層は比較的高い。わたしが降りる際にいつも顔を合わせる高校生が同じ駅で降りたが、静まり返った車内は動きもなく何事もなく駅を発っていった。「この人たちどこまで行くの?」という感じ。ふだん乗っている列車ならわたしが降りるころには誰もいなくなるのだが、この日は遠距離列車の乗客を見ているようだった。こんな時もあるのだ、と教えられた。

 現在は午後8時8分発と、少し時間はずれているが、ほぼ同じような時間帯に電車は走っている。もちろん今は車で通勤しているため、電車に乗ることもなければ、このような光景を目にして感想を漏らすことはない。もう12年も前のことだが、印象からすれば「もっと昔のこと」と思っていた。当時は午後6時を少し回ったころの電車で毎日伊那市駅を発車する電車に乗っていた。当時の本日記には、電車内で感じたことがたくさん記されている。今もそうだが、飯田線は高校生の足のために存在する。もちろん一般客も乗るが、かつてのように通勤客がたくさん乗車することはない。今もたまに乗ると思う時があるが、高校生が休みの際のこの時間帯は、伊那市駅で乗ってすでに乗車している客は、おおかた駒ヶ根までの間で降りていいく。しかし、意外にずっとそのままわたしが降りる駅までたどり着いても、降りる気配のない客がいることがある。そういうお客さんを目にすると、「どういう人なのだろう」と思うものなのだが、そういう人が、あちこちに座っていると、とても違和感がある場面なのである。高校生が席巻する空間とはまったく違った飯田線の姿がそこに垣間見えるのだ。

続く

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共有空間の草を刈る

2022-07-23 23:25:03 | 農村環境

 

 草刈のことは頻繁に記している。土手が大きいこと、共有空間が多いこと、そして耕作放棄している土地もあれば休耕している土地もあって、草が生える空間は広い。休日の度に草を刈っても、刈っても、刈っても、と言う具合に「きりがない」。

 今日の「成果」は、ほぼ共有空間のような場所。以前「草刈をする範囲」を記した。実はこのページ、けっこう閲覧数が多い。そして草刈りをする範囲が「当たり前」ではなく、地域差とか、個人差、そして周囲との軋轢など、さまざまな要因によってそれぞれ異なっているからこそ、閲覧数も多くなるのでは、と考えている。近ごろは、自分の土地の草を刈っても、周囲の公の土地、例えば道路とか用水路といったところを刈る人は、明らかに減っている。確かに自分の土地ではないから、「刈る必要がない」といえば確かにそうだ。しかし、公の土地の草を刈ってくれるのは、国道や相応の道においてお役所が委託して刈ったりするが、そうでない道路はほぼ刈る人はいない。したがって住民が刈るところが多いのだが、刈らないところもある。道路でさえこの状態だから、用水路のような特定の人が利用する空間については、周辺の土地の人が刈らない限り、刈る人はいない。先ごろ「草むらに覆われて」を記した。まさに周囲の関係者が刈らなければ、こういう状態に陥る。近ごろは耕作が委託されるようになって、手の掛かることはしなくなりつつある。こうなるのも当たり前になるのだろう。

 さて、「草刈をする範囲」でも触れたが、我が家では図に示したように、上の法面も半分刈れば、下の法面はもちろんのこと、図にある道路の下の法面も刈っている。もちろん道路面の草も刈っている。世間の知らない人は「なぜ刈るのか」と思うかもしれないが、写真の真ん中にある村道の路面は村のものだが、その下の法面は我が家のもの。法の下にブロック積がされているが、これは道路の災害復旧で施工されたもの。法面には復旧時の植生ネットが残っていて、実は法面の草を刈るにも少し厄介。村道の災害で復旧されたように、この法面はどうみても村道のもの。しかし、昔は路面しか登記しなかったのだろう、その理由は道路を造る際に寄付行為で行ったせい。したがって最小必要面積しか登記しなかったというわけだ。今なら写真に見えているほとんどのエリアは公用地になるはずだが、昔のことだからほぼ全て我が家のもの。そしていけないのが、この部分を刈らなければ、周辺住民から苦情があがる。そもそも明らかに共有空間なのだから、共同の賦役で草刈りをすれば良いのに、それをしない地域事情、というか住みにくい関係が築かれている。

 こういう空間を共同作業して日当をもらえる事業が今はある。いわゆる多面的機能支払いというやつ。ところがこの村ではこの事業を積極的に取り組んでいない。したがって我が家の地域も事業外。いくら草を刈っても、個人の無駄な労力に頼られている。

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杉島橋南の無数の自然石

2022-07-22 23:43:29 | 民俗学

杉島橋南の石碑群

 

 杉島コミュニティーセンタの前に杉島橋があり、橋を渡ると浦への道は左折するが、その山手に大きな岩がある。そのすぐ上(南側)に山手へ上る道があり、橋を真下に見るような場所に石碑群がある。昨日も触れた『長谷村の石造文化財』(平成9年 長谷村教育委委員会)によると、20基の石造物が記載されており、大きなものでも「庚申」と刻まれた天明元年造立のものぐらいで、比較的小さなものが多い。馬頭観音が主であるが、ここにも「道祖神」と刻まれた文字碑と、陽石らしきもの、それと奇石も祀られており、同書にはそれらも記載されているが、いずれも1基ずつである。ところがこの石碑群には、まさにごろごろしたように転がっている石が周囲にいくつも存在する。

 1枚目の写真は前方から撮影したもの。ここに映し出されている石碑を数えると、18基である。2枚目の写真の真ん中にある石碑の裏(右手)に緑色の石が石碑を支えるようにあり、その周囲にも石がごろごろしているのがわかる。これらは1枚目の写真には写り込んでいない石である。緑の石も1枚目には写っていない。いずれも石碑の裏側にあって前方からは見えていない石である。3枚目の写真を見るとわかるように、横一列に並んでいる石碑の裏側に、ごろごろと石が密集している。真ん中の碑が「馬頭観世音」であり、その左手に緑色でごつごつした小さな石があるが、これがいわゆる奇石にあたる。背面奥に折り重なっている石は、祀られているものなのか、石碑の足場を固めるために並べられたものなのかはっきりしない。いずれにしてもまさに「ごろごろ」していて、いずれも祀られたものと言ってしまえば、そうにも見える。これらの背面は崖となっている。

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長谷杉島岩入の奇石

2022-07-21 23:04:02 | 民俗学

 

 長谷の杉島は奥まった集落であり、無住の家も目立つ。岩入には杉島まんじゅうで知られる奥原菓子店がある。その奥原菓子店から200メートルほど東に進むと、道端に石碑群がある。『長谷村の石造文化財』(平成9年 長谷村教育委委員会)によると、ここには14基の石碑が記録されており、道祖神は双体道祖神が1基記録されている。実はグーグルマップで見てもわかるように、向かって左端にごつごつした石が転がっているのではなく、明らかに祀られている。この石については記録に掲載されていない。自然石道祖神に対して注意深く記録されていた竹入弘元先生が同書の編纂に関わっているので、記載漏れとは思えないのだが、とするとこの自然石は「何か」ということになる。「祀られている」と明確に判断できることから、わたしには奇石道祖神に見えるのだが、どうだろう。

 別の機会に触れたいと思うが、杉島とその奥にある浦には双体道祖神がいくつもあるようだ。まだわたしは確認していないのだが、あわせて不明な自然石も前掲書にはいくつか記載されている。そもそも祀られたものなのか、自然に置かれているのか、よくわからないほど、石碑の周囲に石がごろごろしている姿も見える。前掲書に竹入弘元氏が「厄落とし」について書き残されている。

 厄落としに道祖神に向かって茶碗などを投げて壊す習俗が上伊那にあるが、市野瀬・杉島・浦辺りでは、正月十四日夕方どんど焼きの最中に、道祖神を拝んで帰るとき、「鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千年 浦島太郎百六つ わたしの年もその通り」と願い言を唱えて、物を後ろ向きに投げてくる。年齢によって投げる物が決まっている。一例をいうと、二十五歳男が財布、三十三歳女が櫛。それが、大鹿村で聞いたのと同じで、この厄落としの仕方は山間地に相当広く行われていたと思われる。

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