Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

死んでも来い

2019-09-09 23:18:05 | ひとから学ぶ

 台風15号が関東に上陸したが、進路左側に位置した長野県では佐久地域でそこそこの雨が降ったものの、伊那谷ではほとんど雨が降らずにすんだ。すでに9月も中旬に向かう中、台風シーズンにすでに入っているものの、今年は例年の台風とは少し異なった動きをしている。

 今回の台風では、関東に向かったこともあり、驚くような現象を見た。関東圏の鉄道各社は台風が接近する昨日から、最終電車を早めるなどの対応を行っていた。そして本日もJR東日本は、関東圏のすべての在来線で始発電車から午前8時ごろまで運転を見合わせることを予告していた。午前8時に再開すると思い込んでしまっても不思議ではないが、東京メトロなど午前10時まで運転見合わせという路線もあった。朝方の報道がどの程度正確にされたかは知らないが、地方と異なって公共交通を当たり前のように利用している人々にとってみれば、今日の混乱は地方の公共交通をあまり利用していない人々と同じような騒ぎとなった。多くの人々が通勤に向かう途中で足止めをくったわけだが、台風による被害状況を察知して、通勤に対する対応がとれなかったのだろうか。そもそも、必ず勤務先に行かなくてはならないという指示がされたのかどうか。

 むかしと違って、地方でも公共交通機関は安全を見越して、早めに運休を選択してしまう。台風の通過が8日から9日朝方と言われていたのだから、そこそこの時間まで運休が解除されない雰囲気が十分にあったと思う。にもかかわらず、運行再開を見込んでなのかどうなのか、多くの人々が通勤に足を向けた。学校などは休校の措置を素早くするものだが、いっぽうで社会人のこの混乱ぶりに驚く。公共交通機関は、当たり前のように動いている都市圏だからかもしれないが、当たり前のサービスが当たり前に供給されるのは「当たり前」と思い込んでいないだろうか。

 この時代にあっても、真面目に通勤に足を向けようとする国民性は十二分に現したが、対応能力とか応用性という面で、何も変わっていないことに気がつく。正直言って風は強かったかもしれないが、台風としては甚大な被害をもたらした台風ではなかったと思う。もっと大きな台風、あるいは大地震だったらどうなのか。東京集中を続けるこの国にとって、リスクは比例するように高まっていると思う。

 少し検索してみると、

【台風15号】出勤時間に関東直撃です。テレビ等では外出を控える等とか言って居ましたので、一応、そう言う場合はどうしたら、バイト先に聞いてみました。

そうしたら、

 「出勤して下さい、台風では無くても、雪等でもバイクとかで出勤している人はいます。前例を作る訳にはいかない。兎に角、なんとしても出勤して下さい」

との事でした。

という知恵袋への投稿があった。

 この方、アルバイトの看護師だという。自己判断も必要だが、雇主側の低意識には驚く。

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戻らない時間と経験

2019-09-08 23:08:10 | つぶやき

 若いころは、ひとの思いに敏感になっていたもの。ひとは自分のことをどう思っているのか、みたいなことが気になる。ひとの動きとか考えを、楽しむような余裕は、若いころにはなかった。かつて記したことがあるが、何十年も前に同じところで、同じ風景を見ていたはずなのに、当時気付かなかったことを、今は気づく。もともと石造物には目を留めて「なんだろう、これは」、と気づいたはずなのに、気づいていなかった物を、その後訪れて気づくことはよくある。なぜ若いころには目に留まらなかったのか、そして「なぜ」という問題意識を持てなかったのか、そしてそれが単純に年を経たから今は見えているのか、などと考えてしまう。

 まだ二十歳ころのことである、沖縄に会社の旅行で行ったのは。出先の人数が少なかったことから、ツアーに便乗しての旅行であった。長い経験値の中で、会社の旅行をツアーで行っのは、それが最初で最後だった。いろいろな人が加わっての旅行であったから、会社とはまったく無縁の方たちと同じバスに乗って移動をした。そんな中に、孫を連れたおじいさんとおばあさんという方がおられ、まだ小学校低学年くらいだったのだろうか、そのお孫さんがわたしになついて、仲良くなった。ところが、2日くらい一緒にいると慣れてきて逆に鬱陶しくなった。これもまた、わたしにこころの余裕がなかったということだったのだろうと、その後思ったもの。同じようなことはその後も何度か経験したが、他人のこころの動きを、余裕をもって捉えることは、なかなかできなかった。結果的に勝手に苛立ち、自滅するような言葉を吐くことも…。

 繰り返すが、年老いたが故の余裕なのかは、わたしにはわからない。若いころから、今のような見方をしていれば、いろいろ「見えただろう」に、あまたの経験はもったいない経験になってしまったとも思う。これを無駄な経験だとは思わないが、記憶の隅々に見えなかった経験が残っていればよいのだが、現実的には残っていないので、忘れてしまった時間は、手繰り寄せない時間であることは確かだ。同じ場所、経験を、もう一度試してみないと気がつかない、残念ながら、全てを記憶に留めて置くことができないのが、もしかしたら後悔というものなのかもしれない。あらためて同じ場所、経験を試すには、残りの時間はもう少ないのかもしれない。

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走る

2019-09-07 23:25:30 | 農村環境

9月6日撮影

 

 わたしの子どものころと違って、ちまたに子どもたちが遊ぶ姿などほとんど見ない。子どもが少なくなったのも確かだが、外で遊ぶ楽しみを持ち合わせなくなったとも言える。したがって写真のような光景をふつうに見るのは通学時くらい。ところが水田地帯を通うという光景は限られたものとなっている。そういう意味では、西天竜の水田地帯は、段丘下や崖上に学校が置かれることが多く、段丘上の水田地帯と集落との間は、通学路となっている道が多い。写真の道はまさに通学路となっている道で、色づいた稲穂の中を子どもたちが家に帰る姿がよく見られる。来週末あたりは稲刈りも盛んになるのだろうが、このエリアの収穫期間は長く、しばらくの間は、こうした光景が夕方近くになるとよく見られるのである。

 これで西天竜エリアへのかんがい用水は止まる。これまでの湿った雰囲気のあった空間は、来春まで乾いた世界に変わる。扇状地上の空間に水が来なくなれば、乾ききった様相となる。そして風の強い冬へと向かっていくのである。

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稲刈りが始まる

2019-09-06 23:13:34 | つぶやき

 

 周囲は間もなく収穫期という稲の穂ばかりの空間。家もなければ、歩く人も、野にいる人もいない。にもかかわらずひとの声が聞こえる。近くはないが、そう遠くもないところに送電線の鉄塔がある。よく見ると鉄塔の上に作業をする人たちがいた。彼らの声が聞こえてきていたのだ。地上にいて、ひの距離離れていれば、おそらく会話する声など聞こえないはず。ところがあの高いところで発声されている声は、意外に遠くまで聞こえて来るのだ。肉眼では何人いるかわからなかったが、長いレンズで捉えてみたら、5人も上られていた。

 

南箕輪村にて

 

 さて、そんな稲の収穫間近な空間であるが、今年始めての、その収穫作業の光景を目にした。このあたりはハザ干しする家がまだまだ多く、刈り倒された稲がまだそのままの中に、点々とハザが突かれていた。我が家ではこんなハザの突き方はしない、そう思いながらも「早い」と思ったしだい。この方は、竿は乗せただけで杭に縛り付けないのだろうか。

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身体は敏感だ!

2019-09-05 23:56:48 | つぶやき

 現場に出始めると、わたしの身体にも異変が…。ん!、「異変」ではないか、当たり前か…。久しぶりに書く事かもしれないが、わたしはかつて便秘だった。というより、トイレに行くのが面倒くさい!?、いいや、トイレに行って大きなものをするのは恥ずべき行為、などと思っていたかどうか、本気に「出る」と思うまで、小さいのは当たり前に行ったとしても、大きなのには行かなかったのだ。よく言われることに、子どもたちが大便所に入ると、「ウンチに行った」とからかわれるというものがある。子どもたちにとって、ウンチをしに大きな方のトイレに入るのは、敬遠しがちだったことは確かだ。家のトイレなら他人に知られることはないが、学校のトイレともなると、大きなのはやすやす入るわけにはいかなかった。それが災いしたわけではないが、子どものころは、毎日大きなものをするという習慣がなかった。長いと数日から1週間近くトイレに行かないこともあったと記憶する。だからわたしにとっては、今の排泄習慣は、昔にくらべたらずいぶん健康的だ。

 こうした習慣が身に付いたのは、結婚後のこと。他人と生活することによって、自らの当たり前の生活が指摘されて、その後変化を起こす。結婚のメリットの最たる部分かもしれない。

 とはいえ、習慣づいてしまったものは、簡単には変わらないし、便秘気味の身体を作ってしまったから、そこから抜け出すには意識だけではかわらない。あくまでもしだいに変化させてきたという感じ。それが、瞬く間に過去に振り戻っしまうのが、現場が続く時だ。それも単純ではなく、例えば今なら夏場という環境が後押しする。もともと会社にいると、飲料を口にすることが多い。とくに口が乾かなくても、「口が寂しい」と思うと、飲料を口にする。ところが現場に出ると、独り出だと自由に飲料を口にするが、複数人で現場に出るとなかなか口にしなくなる。そして汗によって身体が乾く。結果的に便秘になってしまうというわけだ。加えて外業では、どこでもいつでもトイレに行くという環境ではない。我慢するほどではなくとも、いつでも行けるという環境がなくなると、結果的に行く機会を消してしまう。昨日も記した通り、内と外が入り混じっていればまだしも、外業が続くと、身体には良くない傾向に陥ってしまう、というわけだ。昔だったら、見事に便秘になって、トイレが苦しくなっただろうが、身体が少し変化したから、そこは意識で少しばかり調整する。それでも完全というわけにはいかない。気がつけば昔戻りしているのである。

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どしゃ降りの雨の中で、窓から見えたもの

2019-09-04 23:27:23 | 農村環境

 

 しばらく内業に集中してきたため、現場の仕事が後回しにされた。これからしばらくは、外の仕事が続く。まだ夏の太陽が降り注ぐ中での外業は、確かに年老いてくるときついのだが、真夏の日差しが、少し和らいだだけでも、まだましだと思って久しぶりに現場にでた。ところが強い雷雨に見舞われた。一時的なものだろう、と車の中に身を寄せたが、近くで草刈りをされていた方は、強い雨の下、中断するでもなく、ひたすら草刈りを続けていた。「あと少し」という思いもあったのだろう。それと、草刈りをされていた方は、車ではなくバイクでこられていた。ここには、身を隠す場所もないから、中断したところで濡れることに変わりがないから、「速く刈ってしまいたい」と思われたのだろう。

 これまでにも何度も記しているとおり、草刈の景色には、地域性がある。おじさんの刈られているのは農道の法面。その背後にずいぶん丈の長い草がたくさん生えている。

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「おさんやり」⑥

2019-09-03 23:50:30 | 民俗学

「おさんやり」⑤より

 

 

 フネのことである。

 現在使われている枠となる柱は、平成26年に新調されたものという。フネを壊すという意図からすれば、昔は枠も毎年新しく用意されていたと思うのだが、そのあたりについては『南小河内区誌』には触れられていない。柱には補強材として金具がはめられていて、上下にそれぞれの柱をつなぐ板(「貫」という)を差し込むための穴が開けられている。四方に上下2枚の板が通されることから、幅20センチ弱の8枚の板がそれぞれの柱を繋ぐように組まれる。この板は地区内にある製材屋さんが昔も今も用意するという。板を柱に通すと、板が柱から抜けないように、込み栓が差し込まれる。前掲書によると、フネを壊した際に、込み栓のついた部分を手に入れれば「運がいい」と喜ばれたという。こうした組立ては棟梁の指導によって行われるようで、板には当年の当番棟梁が墨入れをするという。柱と板が繋がれて組み立てられると、帆木がクロスするように片面に2本使って両面計4本縛りつけられる。帆木は、両脇の柱の上下と、クロスさせた真ん中の柱にも括られるが、現在は荒縄を使ってぐるぐる巻きのように縛られる。この縄の巻き方は和服の襟と同様に右前で手前が上に来るように巻くのだという。左前にすると死に装束になるのでしてはならないという。

 帆木の先端と先端を結ぶように芯に麻縄を1本入れて荒縄9本を縒り合わせたものを使う。その真ん中には御幣が取り付けられる。さらに帆木には笹が巻きつけられる。

 さて、壊す様子を見ていて思うのは、頑丈に組まれているため、なかなか壊せないということ。枠は再利用されることから、まず帆木などが外されると、枠と板を外すことから始めるのだが、これがなかなか外れない。枠は再利用するため、なるべく傷つけないようにするいっぽう、板は打ち壊すがごとく槌で叩きのめす。正反対の両者がつながっているから、壊す方も気を遣う。だからなのだろう、なかなか分解できないのは…。

 分解が終わると、村人は破片を手にして家に帰る。帰ると、すぐに玄関脇にこれを掲げる人がほとんどのよう。魔除け、災厄除けとして戸口にものを掲げる例は、長野県内にはそう多くない。以前記した節分のカニ柊は全国的によく知られたものであるが、伊那谷中部に分布する「かにかや」、また角大師をやはり節分ころに掲げる家は、伊那谷中部から南部にかけて多い。壊して、言ってみれば神送りしたものを拾って持ち帰り戸口に掲げる。戸口に掲げる例としては、珍しいモノかもしれない。

終わり

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無用の長物

2019-09-02 23:21:02 | 農村環境

 どうして車が進まないんだろうか、そう思うのは渋滞しているからなのだが、原因となっている交差点までやっとのこと進むと、「なるほど、ここで右折する車がいるからなのだ」と気づく。というものの、そこで右折する車がいることを意外に思うのは、ふだんその交差点は直進車がほとんどで、右折する車が続くことなどめったにないからだ。ある時間だけ右折車が集中するのは、何かしらの目標物へ向かう車が多いからなのだが、その先に右折レーンのある交差点があるにも関わらず、ここを曲がる人たちには、相応に理由があるのだろう。しかし、渋滞の原因になっているのも事実で、そこを右折車しようと運転している人たちは認識しているのかどうか。

 ちょっとした環境の変化で、車の通行量に変化が現れることはよくある。だからこそ、環境変化が予想されるような道路整備とか、人が集まるような施設の新設は、周囲の人たちにとってみれば迷惑な話なのだろう。かつて辰野町新町の国道153号線の山手にある現場にはよく足を運んだ。当時は西天竜幹線水路の管理道路を通る車が、やはり時間帯によって多いことがあった。それは保育園がその近くにあったためであった。保育園といえば送り迎えをするのが当たり前で、それもほとんど車で送り迎えするから、保育園の周囲には広い駐車場が必要となる。時間帯によってそうした送り迎えの車が集中したものなのだが、しばらく前にこの保育園が少し南側に移転して新しくなった。新しくなってから以降、その現場に足を運ぶこともなかったので知らなかったことであるが、移転後の保育園の周囲は、以前にも増して車の通行が多くなった。久しぶりに近くの現場に行って、西天竜の幹線水路沿いの管理道路に車を停めようとしたら、あまりに車の通行量が多くて、狭い道をさらに狭くするように駐車するのには気が引ける。少しばかり停車して駐車する場所を探そうにも、頻繁に車がやってきて、その余裕がないのである。もちろん時間帯にもよるのだろうが、保育園とは関係ない人たちの通行も多くなった。もともとこの幹線水路の側道は、西天竜の管理道路なのたが、辰野町に限っては町道として認定されているから、住民が当然のごとく走る。保育園の通園エリアが変更されたのかどうかしらないが、新しくなって、周辺道路の整備もされて、今やかつてとは雰囲気の違う光景が見られる。なるほどこういう変化が起きると、周辺に暮らす人々への影響は大きい。

 当たり前のことではあるが、新しい道ができれば、人の流れは変わる。わたしの生家は、子どものころは近くに幹線道路もなく静かだったが、バイパスができて以降国道を通行する車で賑やかになった。スピードが出せる区間だったから、事故も多く発生した。ところが今は静まり返っている。もともとバイパスだったのに、さらにバイパスが出きてすっかり環境が変わった。広い道だが、ほとんど車が通らなくなった。元通りになったといえば確かにその通りなのだが、広い国道であった空間だけが、無駄なような空間を醸し出している。賑やかになるところもあれば、すっかり静けさの中に溶け込んでしまうようなところもある。しかし、無用の長物がこの後もずっと残されるとなると、何とももったいない空間である。

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「おさんやり」⑤

2019-09-01 23:28:56 | 民俗学

「おさんやり」④より

 

 辻の真ん中に立てられる木を「おさんやり」ということについては既に述べた。「さんやり久保」で採取したと、文化7年の願書にもあったわけであるが、寺山の山の神から豊久保へ登る西側の山林がその場所だという。とはいえ、毎年、それもかつては3日間伐っていたので、適当な木がなくなる。ということで、区有林を中心に木を調達していたようだが、今は個人山から採取することが多いよう。以前記したようにナラまたはクヌギの木が使われ、終わると子どもたちが持ち帰ったという。誠志社の衆に伐ってもらうもらうと、自分たちで山から引き出してきたという。引き出した木をもらえたようで、早い順に太いものがもらえるということもあって、朝早い時間に競って集まったという。子どもたちが木をもらってくるのを家の人たちは期待したもので、素性の良いものは、稲架木に使われたという。ところが、今は持ち帰っても利用しないので、持ち帰ることはないという(『南小河内区誌』323頁)。

 現在は辻から殿屋敷小路入口まで行って引き返している舟であるが、かつて三方の村境まで曳行したという。そして厄を追い払うように、「さんやり」のような枝を短い槍に見立てて「やあっ、やあっ」と3回村外へ向かって突くような真似をしたという。三方には道祖神が祀られていたようで、賽の神と「おさんやり」を関連づけてものをいう人もいるようだ。とりわけ今年のセレモニーの中で、前掲書の執筆をされた方が、かつて曳行された三方に今ははっきりとした道祖神がないため、「道祖神を立ててほしい」旨を提案されていた。現在はこれとは別に村回りといって、集落内をぐるっと回るように、昼間曳行している。これは前掲書によると、昭和57年に始まったものという。ようはご祝儀をもらうからもっと曳行範囲を広くしようということだったという。

  さて、前掲書には大正6年の記念撮影をした際の写真が掲載されている。真ん中に鉄砲を持った青年がいるが、かつては始める合図に鉄砲を打ったという。青年が28名写っているが、いずれも白い半ズボンと、白のシャツを着用している。白に揃えているのは今も同じである。そして舟の形であるが、今の舟より舳先が高い位置にある。ようは弓なりになっている。より舟の形を意識しているような造りである。

続く

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煽り運転に遭わないために(その4)

2019-08-31 23:23:41 | ひとから学ぶ

煽り運転に遭わないために(その3)より

 

 最後に、高速道路について触れておきたい。近年、県外に出ないので、あくまでも長野県内の場合ではあるが…。

 最近話題になる煽り運転は、高速道路のケースだ。高速道路の場合、制限速度内で走っている車は少ない。とりわけ80キロ制限の多い長野県内では、いっそう80キロ以下で走っている車は少ない。とはいえ、山岳道路だから、速く走りたいと思ってもなかなかスピードの出ない車もある。例えば大型車が坂道を上ろうとすれば、80キロくらいしか出ないこともあり、長野県内の高速道路ては、速度差が大きくなる。速い車は150キロを超えて走る車がいるし、遅い車はか80キロ程度の車がいる。一般道ではありえない速度差である。したがって煽り運転とまでは行かなくとも、後ろからやってきた高速車に接近されることはよくある。もちろんそれが煽り運転ではないかと問われれば、そうかもしれない。が、追越車線をゆっくり走っていれば接近するのも無理はない。

 よく指摘されることであるが、追越車線に移動して、時速100キロ以下で追い越そうとする車を抜こうとする車には、どうしても後続車がつながってしまう。もちろん空いている時はそれでも良いが、実際のところ100キロ以下で追越車線を走っていると、抜こうとしても簡単には抜けない。かなり長い距離を走らないと抜けないので、後ろからやってきた車が接近する。こいうケースで、後ろについてそこそこ車間を開けていると、走行車線を走っている車が間に割り込むことはよくある。「割り込む」と言うと聞こえが悪いが、高速道路では保つべく車間距離は、こういった事例ではほとんど無視される。そして何といっても後ろから急速に接近してきた車のほとんどは、煽るがごとく前車に接近する。接近されるのが嫌なら、あえて追越車線にいても、走行車線に一旦入って、後ろからやってきた車に先に行ってもらう。もちろん前に遅い車がいるからら、それ以上前に行くことはできない。

 追い越そうとする車がいなくとも追越車線をずっと走り続ける車も少なくない。場合によっては安全運転を促すかのように追い越し車線に身を置き、まるでパトカーにでも乗っているかのような行為をする人がいるが、こうなったら煽られても仕方ない。ようは高速道路では走行車線を走っている分には、煽られることはめったにない。いかに追い越し車線に身を置かないかが、リスクを低下させることになる。

 わたしは追越車線を走ることも多いが、後ろから接近してくる車には、常に注意している。自分より速い車なら走行車線に避ける。走行車線が混雑しているときは、通常より速く走って、後ろからくる車が接近する前に走行車線に戻る、といったことを常に意識する。ようは追越車線に入るからには、相応の対応を念頭においておく必要がある。漫然と追越車線を走っていれば、自ずと後ろから接近される。それほどこの空間には格差があるということ。

終わり

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“無視”

2019-08-30 23:46:46 | つぶやき

 昨年3月5日に「ようやくスマホにした」を記した。ちょうど遠い現場に毎日出ていたこともあって、会社に来たメールを転送してもらったり、電話がきたら、いわゆるこれまでも使っていたヤフーメールに事務所からその旨のメールを送ってもらったりと、ずいぶん役に立った。

 ところがその現場が終わって、しばらくは内業中心の仕事だったこともあって、転送メールも必要なければ、不在電話への緊急対応もなかったので、近ごろはすっかりガラケー時代に後戻りしたような感じ。ようは、電話が来ようが、メールが来ようが、まったくスマフォを手にしなくなった。今までどおり、「〇〇には電話をしても通じない」と言われている。そのせいか、最初のうちは毎日のように充電しないと電源切れを起こしそうだったのが、今では数日、いいや5日から7日近く充電しなくても大丈夫になった。久々に手にすると、メール受信に100件以上の蓄積があったりする。もちろんパソコンで確認しているので、すでにほとんどのメールはゴミ箱か、既読になっている。

 確かに都合の良いツールであることに間違いはないが、ふだんの生活ではほとんど手にしなくても過ごせる。もともと電話に出るのが億劫で仕方ないわたしには、こういうツールは不向きなのだ。あえて言えば、「これしかない」という現場にいたなら必要とするが、ふつうに通勤して、会社にほとんどいて、近在の現場に出ている分には、あえて気にしなくても良いわけだ。

 ところが、今どきのツールは、勝手に何やら送ってくる。だから頻繁に「ブーブー」音がするのだが、無視している。いちいち気にしていたら、その時間がどれほど短くても、累積すればかなりのものとなる。だから意識して無視しているわけではないのだが、慣れてきたらスマホのアプローチなどまったく意に介さなくなった。ましてや、この小さな世界に釘付けになっている世間の人々の姿が、わたしには滑稽で仕方ない。

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道祖神と五輪塔

2019-08-29 23:50:21 | 民俗学

虫倉山南麓の村

 

大崩の道祖神と五輪塔

 

 虫倉山南麓、山懐に御山里の集落が見える。信州新町から中条への道は、時おりある長野での会議の途中で通る。先週の21日、時間調整のように旧中条村日下野から長野市七二会に下って市内に向かった。県道小川長野線は、この虫倉山南麓の中腹のあたりを西から東に点在集落を結ぶように走っている。

 この県道沿いに大崩という集落がある。数戸ほどしかない小さな集落である。この大崩には石造物といっても数えるほどしかない。『中条村の石造文化財』(中条村教育委員会 昭和63年)には、11基の報告がある。県道沿いに写真のような比較的大きな「道祖神」文字碑が立っている。「明治三年三月吉日」とあるもので、碑高はちょうど1メートルほど。大崩では銘文のある石造物は、「文化八年」の馬頭観音が最も古く、あとは明治以降のもののよう。とはいえ、この道祖神の脇に転がっている五輪塔の残骸は、おそらく最も古い石造物になるのだろうが、もちろん銘文はない。

 実は中条には、五輪塔の一部を「陽石」と称して道祖神としているところがある。これはあくまでも前傾書によるのもので、五輪塔形ではなく陽石も存在していて、果たして五輪塔の破片のようなものを本当に道祖神と呼んでいるのかどうかは、聞き取りをしてみないとはっきりしない。この道祖神の脇にある五輪塔も、他の石造物はなく、もともと道祖神であったものに、新しい「道祖神」が建立されたのかもしれないが、前掲書では、大崩のものは「五輪塔」として紹介している。

 中条に限ったことではなく、虫倉山の周囲には、五輪塔の欠片が道祖神とともに祀られている例が多い。虫倉山北麓の旧鬼無里はとくにそれが顕著で、鬼無里には道祖神目的で、一度足を運んでみたいと思っている。

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悩ましい光景

2019-08-28 23:33:02 | 農村環境

 ある空間での、悩ましき光景がある。

 ここは水田が広がる、言ってみれば「農村地帯」である。扇状地だから比較的ドライな空間だ。しかし、見渡せば稲が目立つから、手のかからない稲作に傾向したエリア。昔のままだから、区画はそれほど大きくはなく、今どきなら、「もっと大きくしたい」と思って少しも不思議ではない。ところがこの空間は、かなり広範に昔のままの姿を見せている。相応の悩みを抱えているのだろうが、それでも今どきだから、耕作を手放した農家が、担い手に耕作してもらっている。あるいは、部分委託で、いくつかの作業を委託している。

 悩ましき光景は、ただ稲の穂が実り、間もなく黄色くなろうとしている光景の中に、目立たずにあった。そこにはふつうの用水路があった。幅にして1尺程度。その水路の一部が、上から圧縮されたように潰れている。たまたまその部分だけ壊れたのだろう、そう思って他の水田もうかがうと、同じような壊れた箇所が…。

 よく見ると、壊れている箇所は、3尺ほど開けて2箇所に見られる。そして、何といっても農道から見ると、水田の右端に必ず見えるのである。実は、農道から用水路を渡って水田に入るための甲蓋が農道から見ると真ん中あたりに必ず設置されている。その甲蓋を渡らずに、水田の右端から直に用水路の上を渡った跡が、この壊れた部分なのである。もちろん1度や2度のことで同じような光景を見せるほど破壊されることはない。繰り返しているうちに、どこもかしこも同じような圧縮された破壊が起こったのだ。

 繰り返すが、どこの水田も判で押したように右端の用水路が2箇所壊れている。同じ人がここを通ったということになるから、みなが皆、同じ人、あるいは団体に耕作を委託しているから、同じような光景になった証。水田の作業をするのに、右端から入ったほうが作業がやりやすい。だから、甲蓋の上から入るのではなく、直に渡れるから甲蓋のないところから入った結果がこれなのだ。

 この空間では、同じような光景をよく目にする。もっと用水路の幅が広ければ、直に渡ることはできない。ところがさしあたって甲蓋などなくとも、どこからでも進入できるから、作業しやすいところから入る。結局、それは水田の右端となり、繰り返した結果が、この悩ましい光景なのである。これでは何度直しても、同じことの繰り返しである。そう、甲蓋を右端に移せば良い、ということなのだろう。

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おじさんは「女性マーク」のトイレに入る

2019-08-27 23:03:45 | ひとから学ぶ

 昼時のセブンイレブンに入った。もちろん昼を求めて入ったのだが、現場にいたので手が汚れている。そこでトイレに入ろうとすると、先に店に入った男性が先にトイレに…。もちろんその男性は手を洗いに入ったのではなく、トイレに入ったわけで、手だけ洗おうとしていたわたしにとっては、先客でも何でもなかった。ところが、その男性はトイレに入ると、二つある個室のうちの「女性マーク」のついているトイレに入った。昔なら不思議でも何でもないのだが、今のトイレ事情では、女性マークのついた個室は女性用、男女マークのついたトイレはどちらでも、男性マークのついたトイレは男性用、という認識がされている。それぞれトイレ形式は、洋式便座、洋式便座、小用となっていて、女性マークのものも男女マークのものも、トイレ形式は同じ。ようは、女性用には男性は入らないように、という意図が見える。

 前述したように昔なら女性用は大便用、男性用は小便用と認識されていて、女性マークがあろうと、トイレそのものが男女別になっていなければ、当たり前のように男性は女性トイレに入ったものだが、今はあえて男性用と女性用を区別しようとしている。と思っていたのだが、セブンイレブンでも店によっては、「男性は入らないでください」と明示しているところもある。ようは女性からの苦情を意識してのことなのだろう。わたしは、当たり前のように、女性用に入ろうと思ったことはないが、この日女性用トイレに入っていった男性は、大便をしようとしたのか、それとも小便をしようとしたのか、気になって男性がトイレから出で来るまで様子をうかがってしまった。短くもなく、そう長くもなく、どちらだったのか判断できなかったが、ふだんからあまり意識せずにトイレに入っているのだろう、そう思った。ちなみにこの店には、男性マーマのみのトイレはない。ようは女性マークと男女マークの個室のみなのだ。もちろんこのとき、二つとも空いていた。にもかかわらず、男性は女性マークの個室に入った。

 比較的客の少なくなった12時代だったから、女性の客の姿などなかった。果たして、もしトイレが空く時を待っている女性がいたとしたら、どう思っただろう。ちなみに男性は、見るからに「おじさん」であったが、わたしも「おじさん」だから、あえて見るからに「おじさん」などと書く必要もなかったかもしれないが、読んだみなさんに光景をイメージしてもらうために、記すことにした。

 セブンイレブン以外のコンビニにはあまり入らないため、トイレ事情はわからないが、セブンイレブンは店によって多様。一概に「こうだ」という統一感はない。以前にも触れたが、わたしは男性マークのある、いわゆる小便用のトイレが用意されている店が、最もお客さんに親切だと思っている。

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「おさんやり」④

2019-08-26 23:40:02 | 民俗学

「おさんやり」③より

 

 前回引用した安政2年の飯島役所に提出された願書でも触れたように、すでに7月盆に行事が行われていたが、もともとは八幡宮の祭礼として「おさんやり」が行われていた。確かに盆に行われる行事とは様子が異なり、周囲の同様の祭りを見た場合、盆とは無関係に行われているものがほとんどだ。とくにオフネともなると、盆にかかわるものは近隣に見ない。あえて類似性を探すとすれば、祇園の祭りに行われる内容のものに近い。しかし、オフネに限ってみると、やはり祇園でもなく、例大祭などの祭礼として実施されているものが多い。安政2年に行われていたものが、盆とかかわっていたのか、たまたま盆の時期に行われたものなのか、『南小河内区誌』では、旧暦7月15日が山の神の祭りだったからというような関連性を指摘している。そして盆に実施された例が以後も踏襲され、現在に継続したものと思われる。

 現在は13日に舟が造られ、16日のみ曳行されているが、かつては3日間曳行されたという。そして最後の日に舟を壊したというが、揺することは毎日したという。この揺するという行為によく似ているのが、安曇野系オフネ祭りの「煽り」である。ヤグラそのものを壊れるほど揺する南小河内の例と、舟そのものを前後に揺らす煽りとは異なるが、その意図は同じものなのではないだろうか。舟を壊すのに、かつては夜が明けるころになったともいう。もちろん勤め人が多くなり、そもそも16日翌日が平日であれば勤めもあるということで、年々実施時間が早まったともいう。大変興味深い話が前掲書に報告されている。平成9年、人が集まらなくなって盛り上がらないという理由で、現在のような16日1日だけにしたらどうかという話が持ち上がった際、「1日減らして疫病が出たら区長が責任をとるのかといって真剣に議論した」という〈前掲書322頁〉。もうひとつ、舟にある御幣は区長宅に持っていかれ、翌年の盆祭まで飾られると言うが、かつて17日明け方まで「おさんやり」をやっていて、区長宅に御幣を持って報告に行くと、「明日は農休みにするから皆に伝えよ」と布令が出たという。

 さて、現在は盆祭実行委員会が主催している「おさんやり」であるが、もともとは青年会が担っていた。南小河内では「誠志社」という組織がかつてあり、『南小河内区誌』によれば、明治28年までは惣代名で役所に願書が出されていたようだが、その翌年から誠志社の名で提出されるようになったという。誠志社が編成されたのがその年と決めつけることはできないだろうが、以後誠志社が行事の中心であったよう。誠志社は、未婚の青年で結成されていて、結婚すると引退したという。男子のみの会であったが、昭和23年から誠志社の女子部というものができて、女子も加わるようになったという。その後昭和37年には勤め人が多くなり、誠志社の社員が減少し、公民館に協力を求めたという。平成8年にはいよいよ誠志社は解散となり、区が主体となって行事を担うことになったといい、実行主体は公民館分館に任されて現在に至る。

続く

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