段丘を上る
ご神体を桜井天伯社へ移す
桜井天伯社での神輿くぐり
桜井天伯社での神事
桜井天伯社でのサンヨリコヨリ
三峰川左岸側に渡されたご神体は、そもそもリュックに入れられて川を渡った。左岸側でこれを受け取ったのは、もちろん両川手の人たち。桜井の神社までは両川手の人々によって送り届けられる。わたしはてっきり左岸側で受け取った人が桜井の神社まで届けると思っていたのだが、急いで駐車場まで戻って桜井の神社まで行くと、神社では受け入れるための準備が始まったという印象。もちろんご神体は届いていない。ということは、対岸まで神輿が行き、そこから再び神輿にご神体を移して歩いてくるのだと察知した。そこで桜井の集落から段丘を下って行くと、三峰川左岸にその集団が見えた。神輿にご神体が移され、神輿の行列が出発するところであった。ここから左岸側のかつての河川敷に当る水田地帯を経て、段丘を上り、桜井の公民館で休憩である。
桜井の公民館には手に七夕飾りを持った子どもたちが集まっていた。ここでサンヨリコヨリの準備をしたよう。求刑した神輿渡御の人たちとともに、子どもたちも行列とともに神社へ向かう。予定では午後2時半神社到着の予定であったが、公民館を出たのがすでにその時間に近かった。桜井の公民館から神社まではまだ1.3キロほどある。この間を神輿を担ぎながらあるくわけで、けっこう遠い。そもそも川手の天伯社から桜井の天伯社まで、2.7キロほどある。昭和62年の写真を見ると、今のルートとは異なり、川手天伯社を出るとその道を東に450メートルほど向かい、上川手集落内の辻を右折して三峰川堤防に向かっていた。したがって渡河地点も現在余里上流だったのではないだろうか。そして桜井の天伯社脇で段丘を上ったと思われる。
桜井天伯社に神輿が着いたのは午後2時50分ころ。かつてのものを見ると桜井川の出迎えを受ける、とあるが、そうした儀式的なものはなく、神輿が着くとすぐに宮司さんがご神体を神輿から出し、桜井天伯社納めると、間もなく神事が始まるわけで、川手側と桜井側の顔合わせ的なものも見落としたが、行われたようには見えなかった。神事には両川手、桜井、北林の区の代表が参列する。この間神輿都議を担っていた川手の人たちは、桜井側で用意したブルーシートに座って休憩となる。
桜井側の神事における祝詞を下記に記す。完璧に聞き取れたかどうかは微妙だが、間違っていたとしても数えるくらいと推測する。なお、川手天伯社ではご神体が神輿の中に納められてから子どもたちが神輿くぐりをしていたが、桜井側ではご神体が天伯社に移されてから子どもたちは神輿くぐりをしていた。
この桜井の里
高遠城までいちいの
ウツボ木のかんなびを
浮世のみやいと静まります
たけまくも賢き片倉天白社とたたえおろがみまつる
ておりつひめのみことのおおまえに
ふうちかしこみかしこみももうさく
みゆかりふかき今日のいく日のたる日に
としごとのためしのまにまに
ひととせにひとたびのみまつりつかえまつると
宮しろの内と外祓い清め
あささきに夕鳥ひいで
ひのぼり打ちなびけ
ゆまはり清まはりてたてまつるゆきのみけみきをはじめ
海川山ののためつもの奉り
また神社本庁よりみてぐら奉り
いにし室町のみよ
藤沢村の片倉から大水出でて
おおかみの宮しろは
この里と川手の里に分かれ流れつき
それぞれ祝い祀り来たりしまにまに
三峰の川は天の川
七夕のゆかりなぞりて
人とてにひとたび会うと
三峰川の向かいの里の天白社から
神輿迎えてともどもに古きためしの
サンヨリコヨリの神ごとつかえまつりおろがみまつる様を
あいらけくやすらけくきこしめし
桜井と北林の人はさらなり
川手の里人はじめ
よもの国民に至るまで
おおかみの広きあつき御たまのふゆを
いや遠長にかがふらしめたまい
作りと作るものは
おきつみとしをはじめ
草の柿葉に至るまで
悪しき風
荒き水にあわせたまわず
ゆたけき秋を迎えさせたまい
おのもおのもににやましきことなく
こころにわずらわしきことなく
はたみにむすびなごみつつ
世のため、人のためにつかえまつらしめたまえと
かしこみかしこみも申す
神事が終わると、神社から下ったところでサンヨリコヨリとなる。桜井側の子どもたちは8名。したがって輪が小さいから、3周回るのもすぐである。川手の誘導者(役員)によって叩くように促されるのは、回り始めてあっという間であり、したがって3回目が終わってしまうのもすぐである。午後3時20分にはご神体が再び神輿に移され、渡御の行列は川手の天伯社へ戻っていくのである。今年の様子をうかがう限り、両川手と富県側の桜井や北林のみなさんとの交流はほぼなく、帰途についたという感じである。
桜井でも聞いてみたが、いずれの子どもたちもサンヨリコヨリのために七夕飾りを作るが、それを自分の家で一時飾っておくようなことはしないという。また、これら飾りは川手では区の役員がまとめて区の土地に持って行き焼くのだという。昔はどうだったと聞いても明確な答えは聞けなかった。