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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

西大滝の祭りへ 中編

2025-08-17 23:45:47 | 民俗学

西大滝の祭りへ 前編より

西大滝大灘神社獅子舞

 

 前編において「役員が社殿に向かって拝礼して祭りは始まる」と記したが、3名の役員は祭典幹事長を真ん中にし両脇に2名の祭典監事が立つ。二礼二拍手一礼の後に振り返り、コの字形に並んだ芸能を担う氏子のほか周囲に立っている地域の人々に向かって挨拶をして祭りが始まる。その際円陣の真ん中に獅子頭が丁寧に幌の上に置かれるところは、昨年訪れた木島平村豊足穂神社の獅子舞と同様だ。獅子頭を神聖視している様子がうかがえる。役員が座り献杯が行われると、お神酒は周囲の見物している氏子にも振舞われる。献杯の後に手締めが行われるが、浦山氏はこれを天領締めと記している。この輪に加わったのは役員を含めて17名であった。獅子が舞う前に前奏があり、悪魔祓いが始まったのは午後9時15分ころであった。

 「飯山の祭り」(飯山市教育委員会 平成23年)には「近隣に比べ静かで御幣と剣による悪魔祓いの舞いである。雌獅子である。」というが、とても静かな舞いとは思えなかった。そもそもわたしが近隣の獅子舞を見ていないからかもしれないが、桑名川の獅子舞と比較して「静か」という印象は持てなかった。前述した木島平村豊足穂神社の獅子舞ほど長い舞ではないが、それらも含めて奥信濃の獅子舞は内容が濃いと、わたしは捉えている。

 獅子舞の最初はヨタン舞(幌の舞)であり、頭を持つ前方が頭を被らずに持って舞うスタイルのもので頭を持っているから持ち物はない。後半は頭を被って幕を頭の前で水平に持って舞う。斎藤武雄氏は『奥信濃の祭り考』(信濃毎日新聞社 昭和57年)において「本来は神のおいでを願うためのその場を清める目的のものである」(89頁)との述べている。

 続いて回れるのは右手にオンベ、左手に鈴をもって舞う御幣舞である。当初から既に鈴を持っているので、鈴舞というのかもしれない。かなり激しく両手を何度も交差させながら動かす舞で、これを見て「静かな舞」ではないと感じたわけである。後方は幌を絞って幌の隅を首に巻いて舞うもので、悪魔祓いとして舞われる獅子舞ではよくある形式のもの。3分ほどで右手の持ち物を刀に代えて舞うのは「刀の舞」である。これもまた刀と鈴を交差させながら激しく舞うもので、3から4分ほどて終わり、再び持ち物を持たずに最初のヨタン舞の後半部分と同じような舞となり2分ほど続く。最後は幌の端を持つ者が4人ほどになって、幌を高く広く広げて舞う「おこり」という舞となる。いわゆる「本狂い」の舞であり、南信でよく言われる所作としてはそれらしくいところは少ないがノミ取りにあたる。

続く

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西大滝の祭りへ 前編

2025-08-16 23:14:58 | 民俗学

 すっかり忘れていたのだが、間もなく9月と気づいて日程を確認すると盆の時期だと思いだした。そう、北の県境域では既に秋祭りのシーズンなのである。かつてはもう少し遅かったのだろうが、今は盆のころに行われるところが多い。とりわけ栄村ではほぼ盆中に秋祭りが行われる。ということで気がついて今日目指したのは飯山市西大滝である。西大滝ダムのあるところで知られるが、すぐ向こうは栄村白鳥であり県境域にあたる。昨年桑名川の祭りを訪れた際にも記した通り、実は栄村の志久見川沿いの祭りに登場するサイトロメン(鳥刺舞)を見ようと思っていたら、すでに時期を逸していたというのが桑名川を訪れた理由だった。したがって来年は、と思っていたわけである。ところが15日は仕事だったこともあり、諦めて16日に実施される西大滝を選択したわけである。

 西大滝のサイトロメンについては浦山佳恵氏によって「飯山市西大滝のサイトロメン」(『長野県民俗の会会報』42号)で詳細に報告されている。したがって浦山氏の調べたサイトロメンを確認しながらの訪問であった。西大滝の戸数は、現在41戸だという。浦山氏が調べられたのは6年前であるから、その変化はどうかと思ったが、戸数では1割強減少している。浦山氏の報告の中でも度々記されているのが、「他出子」である。地域外に住む住民の親類またはその地域に地縁がある人を言う。さらに「準家族」という単語を浦山氏は使っており、それはその地域に縁もゆかりもない人で、地域住民と関係ができて活動に関わる人を言っている。調査された令和元年時において、獅子舞は4人中3人、サイトロメン5名のうち1名、天狗舞5人のうち3名が他出子。笛7人中2名が準家族であったと報告されている。戸数50戸を割る地域にあって、内容の濃い祭りを実施するのは簡単ではない。もし同じ祭りを、わたしの住む地域で行っていたら、とっくに廃絶していだろう。北信域はもちろんだが、この県境域における祭りを見ると、小さな地域であるにも関わらず、継続されている熱意に驚かされる。とくにコロナ禍を経て衰退しなかったことは救われる。

 この地域の祭りの特徴的なことのもうひとつ、祭りが遅い時間帯に行われることだ。下伊那地域に古い祭りが繰り広げられることはよく知られるが、かつて夜通し行われた祭りが、どんどん時間が短くなるとともに、終了時間も早くなってきた。そのことを思うと何よりこの地域の祭りは夜遅い。祭りが始まるのが午後9時ころというところが多く、終わると暦が変わるというところもある。昨年訪れた桑名川はまさに未明まで行われる。その時間帯が、かつてとそう変化しないのもこの地域の特徴である。

 さて、午後9時を前にして社務所代わりの西大滝農村研修集会施設(西大滝公民館)から神社までの参道を歩いてみた。それほど長い参道ではないが、その間参拝者とは誰一人会わなかった。神社の拝殿にも人はおらず、灯りだけがわたしを迎えてくれた。昨年の桑名川には明るいうちに訪れて周囲を確認したが、今年は祭りの始まる時間を目安に訪れたため、昼間の様子までは確認できなかったが、やはり小さな集落だけに祭りの雰囲気を表していたのは、屋台が集落内を流して囃子の音が聞こえていたことだろうか。その屋台も、今は軽トラックに屋根を載せた形になっている。トーローヅレが特徴のこの地域の祭り。灯篭がいくつも並ぶが、数はそれほど多くはなかった。

 

左から旗灯篭、剣灯篭、御幣灯篭、制札灯篭

 

三十六歌仙灯篭と辻灯篭は、拝殿前にすでに立てられていた

 

社務所代わりとも言える公民館

 

屋台(軽トラック)

 

役員が社殿に向かって拝礼して祭りは始まる

 

 

続く

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七夕 前編

2025-08-11 23:09:17 | 民俗学

 サンヨリコヨリは七夕の行事であることは明白であるが、七夕行事そのものが廃れていることは、七夕の飾りが民家に飾られる姿を見なくなって久しい。サンヨリコヨリにおいて、作った飾りを「家に飾りますか」と何人にも聞いてみた背景には、そもそも個々の家での七夕の様子をうかがいたかったからのこと。もちろん我が家でも飾りなどしないが…。

 七夕の飾り物について『長野県史民俗編第二巻(二)』から南信地方の様子を拾ってみると次のようである。

○竹に短冊をつけて飾る。縁側へかぼちゃやなす、うりなどを盆に盛って供える。家で使うますを全部洗って積み重ねて飾る。(駒沢)
○色紙を細く切り字を書いてつるす。飾り紙もつるす。ますとすずりを洗って供える。(東高遠)
〇竹に短冊をつるして飾る。五合ます、一升ます、一斗ますを洗って供える。(勝間)
○竹に短冊をつるし表庭に立てる。縁側にのし板を出してみ(箕)や一斗ますから一合ますまでを洗って供える。すずり、すずり箱、筆も洗って供える。すいか、なす、かぼちゃ、うりなどの野菜類の中からできのよいものを取ってきて供える。新しい着物を作った場合も供える。(新井)
○六日に短冊を竹につけて飾る。オサナブリにえびす様に供えた苗ですずりと筆を洗って供える。七日には季節の野菜やみ、一合ます、一升ますなどを供える。(久米)
○竹に短冊をつけて飾ります、み、すずりなどを飾る。(伊豆木)
○短冊をつけた竹を飾り、一合ますから一斗ますまで全部洗って供える。(越久保)
○里芋の葉にたまった露をすずりにとって墨をすり、短冊を書く。竹につけて飾る。流れ川へ行って首ですずりやますをきれいに洗って供える。野菜のできたものを供える。(備中原)
○短冊を竹につけて飾り、すずりと筆をきれいに洗って字が上達するようにと供えた。(小坂)
○竹に短冊をつけて飾る。すずりと筆を供える。一升ますにとうもろこし、なす、うりを盛って供える。(中村)
○短冊を竹につけて飾る。新しく縫った着物を供える。かぼちゃ、すいか、なす、ささぎ、里芋、もろこし、うりなどの野菜を奇数にして机の上に供える。(名古熊)
○竹に短冊をつけて飾り、新しい着物を供える。(上虎岩、中平)
○着物を飾る。(門前、沢底、駒場)
○短冊を竹につけて飾る。うどんをゆでて小豆をゆでた中に入れてまぶしたホートーを作り、供え物をする。(門前)
○短冊を竹につけて宵の六日に飾る。ホートーを供える。ホートーはうどんをゆでて小豆をつぶしたあんこをまぶしたものである。(上古田)
○色紙を短冊状に切ってかんじんよりを通して竹につるす。短冊には和歌や天の川などと墨で書く。墨の水は里芋の某にたまった露がよいという家がある。(青島)
○短冊を竹につけて飾る。短冊には、「たなはたや とわたるふねのかじのはに いくあきかきつ つゆのたまずさ」などと和歌を書く。(大草)
○里芋の葉の露で墨をすって短冊に書く。好きな和歌、天の川、星まつり、七夕、ひこ星、おり姫などの語を書いた。いろいろな願いごとを書く人もいた。(恩田)
○短冊を竹につるして飾る。短冊には星まつり、天の川、七夕さまなどの語を書くほか短歌を書いた。「天の川 去年の渡り出ろつろえば 河瀬を踏むに 夜ぞ更けにけり」とか「七夕の いほはた衣 重ね着て 彦星織女今夜あふ天の川」とかという歌を書いた。(城)
○青竹に短冊をつるして庭に立て、縁側に机を置いて夕顔、きゅうり、なすなどを供える。(小和田)
○里芋の葉の露をすずりに集めて墨をすり、短冊を書いて竹につけて飾った。野菜などを供えた。最近は子供たちが学校の行事として行う。(神宮寺)
○短冊を竹につけて飾り、かぼちゃ、うり、トマト、桃などを供える。(南条)
○短冊をつけた竹を立て野菜を供えた。昭和初年ごろまで盛んに行われていたが、戦後はまれにしか行わなくなった。(羽場)
○短冊を竹につけて飾り、野菜をたくさん供える。(座光寺原)
○八月六日に短冊をつけた竹を飾り、野菜を供える。(前原)
○竹に色紙をつるして飾った。色紙には天の川とか七夕とか書いた。ささげやきゅうりなどを供えた。(M末-伊那小沢)
○色のついた短冊に願いごとを書いて竹の小枝につるして庭先に立てる。折り紙や切り紙などもつける。夜は花火遊びを楽しむ。(帰牛原)
○竹につるした短冊の下へ季節の野菜や果物を膳に載せて供える。(中郷)
○短冊を竹につるして飾る。七夕の晩には庭に箱や机の台を出してとうもろこし、きゅうりなど季節の野菜を供える。男の子は花火をして楽しみ、女の子は野菜や山桃を配りっこした。(S61-木沢)
○短冊を竹につるして供える。女の子は花を配りあった。(S30-押出)
○新竹に短冊や人形をつるして飾り、さまざまなごちそうを作って進ぜる。(十原)
○竹に短冊をつけて飾る。(牧童、上辰野、沢底、羽広、小沢、野底、山本、御堂垣外、溝口、北割、市場割、駒場、大島山、箕瀬、下殿岡、松尾、桐林、下清内路、大野、柳平、小川、吉岡、浅野、和知野、新野、和合、売木、金野、大鹿、此田)
○人形を飾る。(湯川、北割、北村、南条、小川、帰牛原、沢井、十原、此田)
○昔は短冊を竹につけて飾るようなことはしなかったが、後に竹につけて飾るようになった。(M末から-市野瀬、T初から-長峰、Sから-笹原、中屋、戦後から-下の原、上野、荊口、最近から-南大塩、菊沢、上槻木、北福地、S30から-湯川、S49から-立沢、下蔦木)

注目するのは最後の「昔は短冊を竹につけて飾るようなことはしなかったが、後に竹につけて飾るようになった」というもの。全ての地区が該当しないが、裏を返せば昔のことはわからずに回答すれば「昔はしなかった」とはならない。もともとこうした風習はそれほど昔のものではないとも捉えられるが、サンヨリコヨリではまさに七夕飾り風のものを利用しており、竹で悪霊を祓うという形式のものはもともとあったと思われる。

 

七夕(下伊那郡松川町上大島)

 妻の友人の家(松川町上大島)では今も七夕行事をしているというので、うかがってみた。玄関先に飾りが立てられるが、立てるのは8月6日という。そして倒すのは8日。七夕の飾りとは別に、飾りを立てる脇の部屋が座敷になっていて、その窓際に七夕の供え物をしている。さのとき採れる野菜いろとりどりと、隣に味噌汁があるが、供えた野菜は7日の日の朝、味噌汁に入れて食べるのだという。県史の場合「飾り物」と題して上記の例をあげており、その飾り物の処理方法には触れていない。もちろん供えた野菜は食べるのだろうが、興味深い話である。

続く

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令和7年〝サンヨリコヨリ〟後編

2025-08-10 23:46:44 | 民俗学

令和7年〝サンヨリコヨリ〟中編より

 

段丘を上る

 

ご神体を桜井天伯社へ移す

 

桜井天伯社での神輿くぐり

 

桜井天伯社での神事

 

桜井天伯社でのサンヨリコヨリ

 

 三峰川左岸側に渡されたご神体は、そもそもリュックに入れられて川を渡った。左岸側でこれを受け取ったのは、もちろん両川手の人たち。桜井の神社までは両川手の人々によって送り届けられる。わたしはてっきり左岸側で受け取った人が桜井の神社まで届けると思っていたのだが、急いで駐車場まで戻って桜井の神社まで行くと、神社では受け入れるための準備が始まったという印象。もちろんご神体は届いていない。ということは、対岸まで神輿が行き、そこから再び神輿にご神体を移して歩いてくるのだと察知した。そこで桜井の集落から段丘を下って行くと、三峰川左岸にその集団が見えた。神輿にご神体が移され、神輿の行列が出発するところであった。ここから左岸側のかつての河川敷に当る水田地帯を経て、段丘を上り、桜井の公民館で休憩である。

 桜井の公民館には手に七夕飾りを持った子どもたちが集まっていた。ここでサンヨリコヨリの準備をしたよう。求刑した神輿渡御の人たちとともに、子どもたちも行列とともに神社へ向かう。予定では午後2時半神社到着の予定であったが、公民館を出たのがすでにその時間に近かった。桜井の公民館から神社まではまだ1.3キロほどある。この間を神輿を担ぎながらあるくわけで、けっこう遠い。そもそも川手の天伯社から桜井の天伯社まで、2.7キロほどある。昭和62年の写真を見ると、今のルートとは異なり、川手天伯社を出るとその道を東に450メートルほど向かい、上川手集落内の辻を右折して三峰川堤防に向かっていた。したがって渡河地点も現在余里上流だったのではないだろうか。そして桜井の天伯社脇で段丘を上ったと思われる。

 桜井天伯社に神輿が着いたのは午後2時50分ころ。かつてのものを見ると桜井川の出迎えを受ける、とあるが、そうした儀式的なものはなく、神輿が着くとすぐに宮司さんがご神体を神輿から出し、桜井天伯社納めると、間もなく神事が始まるわけで、川手側と桜井側の顔合わせ的なものも見落としたが、行われたようには見えなかった。神事には両川手、桜井、北林の区の代表が参列する。この間神輿都議を担っていた川手の人たちは、桜井側で用意したブルーシートに座って休憩となる。

 桜井側の神事における祝詞を下記に記す。完璧に聞き取れたかどうかは微妙だが、間違っていたとしても数えるくらいと推測する。なお、川手天伯社ではご神体が神輿の中に納められてから子どもたちが神輿くぐりをしていたが、桜井側ではご神体が天伯社に移されてから子どもたちは神輿くぐりをしていた。


この桜井の里
高遠城までいちいの
ウツボ木のかんなびを
浮世のみやいと静まります
たけまくも賢き片倉天白社とたたえおろがみまつる
ておりつひめのみことのおおまえに
ふうちかしこみかしこみももうさく
みゆかりふかき今日のいく日のたる日に
としごとのためしのまにまに
ひととせにひとたびのみまつりつかえまつると
宮しろの内と外祓い清め
あささきに夕鳥ひいで
ひのぼり打ちなびけ
ゆまはり清まはりてたてまつるゆきのみけみきをはじめ
海川山ののためつもの奉り
また神社本庁よりみてぐら奉り
いにし室町のみよ
藤沢村の片倉から大水出でて
おおかみの宮しろは
この里と川手の里に分かれ流れつき
それぞれ祝い祀り来たりしまにまに
三峰の川は天の川
七夕のゆかりなぞりて
人とてにひとたび会うと
三峰川の向かいの里の天白社から
神輿迎えてともどもに古きためしの
サンヨリコヨリの神ごとつかえまつりおろがみまつる様を
あいらけくやすらけくきこしめし
桜井と北林の人はさらなり
川手の里人はじめ
よもの国民に至るまで
おおかみの広きあつき御たまのふゆを
いや遠長にかがふらしめたまい
作りと作るものは
おきつみとしをはじめ
草の柿葉に至るまで
悪しき風
荒き水にあわせたまわず
ゆたけき秋を迎えさせたまい
おのもおのもににやましきことなく
こころにわずらわしきことなく
はたみにむすびなごみつつ
世のため、人のためにつかえまつらしめたまえと
かしこみかしこみも申す


 神事が終わると、神社から下ったところでサンヨリコヨリとなる。桜井側の子どもたちは8名。したがって輪が小さいから、3周回るのもすぐである。川手の誘導者(役員)によって叩くように促されるのは、回り始めてあっという間であり、したがって3回目が終わってしまうのもすぐである。午後3時20分にはご神体が再び神輿に移され、渡御の行列は川手の天伯社へ戻っていくのである。今年の様子をうかがう限り、両川手と富県側の桜井や北林のみなさんとの交流はほぼなく、帰途についたという感じである。

 桜井でも聞いてみたが、いずれの子どもたちもサンヨリコヨリのために七夕飾りを作るが、それを自分の家で一時飾っておくようなことはしないという。また、これら飾りは川手では区の役員がまとめて区の土地に持って行き焼くのだという。昔はどうだったと聞いても明確な答えは聞けなかった。

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新しい長野県史に向けて

2025-08-09 23:04:14 | 地域から学ぶ

 新しい長野県史に関する意見交換会が、信濃史学会主催で松本市で開催された。令和3年11月県議会において新しい県史編纂に向けた事業が可決され、令和5年から6年にかけて「新たな長野県史編さんに関する有識者懇談会」を開催、そして「新しい長野県史編さん大綱」(以下「大綱」という)が本年3月19日に策定されて公開されている。大綱には趣旨、編さんの基本姿勢、編さんの目的、編さんの方針、県民に親しまれる新県史、新県史の構成、編さんの期間、編さんの組織、編さんに係る庶務といったものが掲げられている。この動きを請願したのが信濃史学会であり、請願に賛同する22団体だった。信濃史学会の役員のほか、賛同団体からおよそ30名ほどの参加者が加わった意見交換会であった。もちろんこうした団体はいわゆる郷土史や文化財、図書館といった関係団体であって、そのまま団体の代表にあらず、賛同団体に掛け持ちで加わっている人も多い。わたしも信濃史学会を含めて賛同団体のうちの6団体に所属している。大綱が公開され来年度から事業が発足するということで、県の担当課から説明を受け、そこへ要望を伝えるという機会をもったわけである。

 会議における県担当課の説明で繰り返されたのが、決めるのは令和8年に組織が立ち上がった後のことで、現在はその準備をしている、というもの。ようは質問してもあまり具体的なことは「言えない」というのが実態のようで、意見交換というよりは、要望をするにとどまった印象であった。そうした要望を聞くにつけ、資料保存に対する意識が参加者の多くに強くあると感じたわけである。そして信濃史学会の会長から県に核となる専門の職員を配置する必要性を求められたものの、そもそも会長が県の職員だったということは、実態としてこれを要望するのは担当課レベルでは無理ではないか、と強く感じたわけである。県に在職していた当事者ができなかったことを、この場に集まったほかの人ができるはずもないということ。やはり政治力、ではないかと強く思ったわけである。

 この日参加した団体は信濃史学会を含めて12団体。それぞれがこうして一堂に介して意見交換をする機会がおそらく今までなかっただろう。故に、それぞれの様子が解っていないという印象を持ったことと、やはり考古学関係者が多く、また意見が強いという印象を持った。これも致し方ないことだが、そもそも考古資料に対しての保存は、補助が篤く、したがって関係者が自ずと多くなる。県史以降の新たな資料というものは当然たくさんあるだろうが、とりわけ近代以前の歴史分野では、考古学がそうした新たな資料が突出しているはずだ。あくまでも既刊県史以降の「現代史」を中心に、という大綱の表現からすると、このあたりが今後請願団体とのすり合わせに課題を残す部分なのだろう。あるいはすり合わせをしないのか…。いずれにしてもこうした団体、あるいは団体に加入されている方の力を借りなければならないところが大きいと思う。もちろんどこかの市のように、そうした人たちを無視して県外の人力に頼った例があるが、それでは「県民に親しまれる新県史」はできそうもない。この後こうした団体が情報交換できる場、あるいは誌面でもウェブ空間でも良いから交流していくことが必要なのではないかと思ったところである。

 

「長野県史編さん事業に関する情報」参照

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令和7年〝サンヨリコヨリ〟中編

2025-08-08 23:49:53 | 民俗学

令和7年〝サンヨリコヨリ〟前編より

 

円陣から逃げる男

 

三峰川右岸に着くとご神体を神輿から取り出す

 

宮司さんの手にご神体

 

ご神体を対岸へ渡す

 

神輿はトラックで三峰川左岸へ運ばれ

 

 サンヨリコヨリとは、子どもたちが「サンヨリコヨリ サンヨリコヨリ」と唱えながら菅笠を被った男二人を中心に回る行事を言う、とはわたしの捉えていたもの。しかし実際は天伯社の祭事一切をそう呼んでいるといるのかもしれない。『長野県上伊那誌 民俗篇上』では、「子供たちによってサンヨリコヨリの行事がある」と述べており、また「桜井の子供たちによって青柴の枝をもって、同様にサンヨリコヨリがあり」としており、子どもたちの行う所作をもってサンヨリコヨリという印象を与えていた。故にわたしの捉えていたサンヨリコヨリはここからイメージしていた。会社の先輩に上川手の方がいて、サンヨリコヨリの主体となる区の役員もされた。先輩にあらためて氏子の話をしたわけであるが、あまり「氏子」という域はないよう。そもそも両川手にとって1年で最も大きな祭りなのに、氏子都市の意識が希薄というあたりは、ほかの地域の氏神とは少し捉え方が異なるのかもしれない。聞けばいずれの川手にも別に神社はあるようだが、神社の大きさからいけば天伯社の方が大きい。秋祭りがそれら神社で行われるというが、神事のみで終わる。やはり両川手地区において、天伯社の存在は秋祭りの神社より大きいのかもしれない。かつて出店も出たというように、子どもたちにとって天伯社の存在は大きい。そのはずで子どもたちが主役の行事てもある、サンヨリコヨリは。

 午後12時30分ころ、サンヨリコヨリを始めるという区の役員の案内があり、子どもたちは神社東側の空き地に集まり、事前に円形に引かれた白線を目印に円陣になる。令和元年に訪れたときは、こうした白線が引かれていなかったと記憶する(サンヨリコヨリ」の写真を見ても見られない)。昭和62年の写真を見ると、子ども達とともに何人か親御さんも円陣に加われていた。しかし、令和元年も今年も子どもたちだけの円陣。そして今年は報道関係者が大勢いて、これまで以上に自由に写真が撮れなかった。できれば円陣内に入りたいと思っていたが、報道のカメラに写り込む可能性があったので、避けざるをえなかった。円陣が大きいから3周回るにも時間を要す。前編で神輿の下をくぐる際の方向が依然と異なっていたことに触れたが、写真を見て気がついたのは、「サンヨリコヨリ」と唱えながら回る子どもたちの回る方向が、昭和62年や令和元年と異なっていた。ようは両年とも時計とは反対回り(左回り)だったのだが、今年は時計回り(右回り)だった。今年が間違いなのか、歳によって異なるのか、あるいは昔が間違っていたのか、確認はしていない。もちろん今年の時計回りは、3回行われるすべてが同じ回り方であったことを触れておく。

 菅笠を被って円陣の中心で太鼓を叩かれる二人は、両川手から一人ずつ選出される。担ぎ手同様に班から選出される奉仕者にあたり、その中からこの役が選ばれるという。したがってこの役はめったに回ってくることがない。今年上川手で担われた方は、奉仕者の中では高齢の方だったが、もちろん「初めての役」だと口にされていた。

 子どもたちによるサンヨリコヨリ、3回行われるが、およそ10分で終わる。これで両川手の子どもたちの役割は終了で、神輿の渡御となる。担ぎ手が神輿の左右に分かれて神輿を担ぐと、いよいよ出発である。五色の旗を先頭に太鼓を担ぐ男二人、そして神輿と神輿を置く台を持つ者と続き、行列の最後には色とりどり(五色)の旗10本が続き、尻にも五色旗がつく(行列が桜井に着くまでには、それら順序が変わることもあったが基本形は異常の順とみられる)。

 渡御は三峰川を渡り、富県(かつての川向こうの隣村にあたる)の桜井まで歩いて行ったわけであるが、今年は三峰川で河川工事をしているということもあり、三峰川右岸まで神輿を運ぶと、そこでご神体を神輿から出して宮司さんの手で川まで行き、ロープで川を渡すという形式を取られた。近年は神輿で川を渡るのではなく、宮司さんが手にして川を渡ったというが、今年は少し異なった渡御となった。渡御にかかわる人たちは、宮司さんも含めてマイクロバスで対岸まで移動した。なお、移動する際は、下流にある竜東橋を渡った。以前上流にある三峰川橋(距離ではこちらの方が近い)を渡ったことがあり、その年は悪いことがあったため、下流の橋を渡るようにしているという。

続く

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令和7年〝サンヨリコヨリ〟前編

2025-08-07 23:26:00 | 民俗学

「サンヨリコヨリ 前夜」より

 朝方はずいぶん強い雨が降っていたが、行事が始まるころには雨が上がりそうな予報だったので、午後は仕事を休んでサンヨリコヨリを訪れることにした。「棚機の祭りには三粒でも雨が降るものであり、降ることがその年の幸の約束である」(『みすず-その自然と歴史-』昭和37年 352頁)とも言われるが、サンヨリコヨリの日は天候が悪いことが多いと地元でも言われているものの、これまでわたしが訪れた年は快晴の日ばかりだった。昭和62年に訪れた際のことは、〝昭和62年の記憶㉑ 川手の「サンヨリコヨリ」〟に詳細に当日の写真を掲載している。また令和元年に訪れた際のことは〝サンヨリコヨリ〟に報告している。とりわけ今回は一通り見たので、前者の昭和62年のものと比較して記しておくこととする。なお、『みすず-その成立と発展-』(美篶村誌編纂委員会 1972年)に記されているサンヨリコヨリについて以下に引用する。


祭事「サンヨリコヨリ」詳記
 昔から毎年七月七日の祭であるが、現在は八月七日にする。六日の六道祭の晩に宵祭をし、七日の当日は宮司、神社総代会長、当番区長および係が集まって(上川手と下川手年番交代)祝詞をあげてお祭をし、本殿の前に安巴された御神典に宮司が幣束を移納する。一般氏子のお昼が済むと、両川手の子どもたちは誘いあって、五色の短冊に、天の川、天伯社、棚機様、などと書いたのを枝つきの青竹に結びつけその飾りをかついで、揚々と集まって来る。農事の多忙のときであるが、老若男女が子どもといっしょに集まって来るのは他では見られない。
 一時ころになると、区長「さあ踊りを始めてください」の合図で、子どもらは青竹の飾りをかついで広場に大きく輪を作ると、その・中にふたりの男が股引法被で菅笠をかぶり、太鼓を持ち込んでしゃがみ、合図で太鼓を打ちながら、円陣の子どもたちは元気な声を張りあげて「サンヨリコヨリ」と連続叫びつつ回る。三回回ると輪の中の男ふたりが激しく太蚊を乱打して、円陣の囲みを破って逃げ出す。子どもたちは出さず逃がさじと竹の飾りで激しく鬼男をたたく追うの大活躍の後、ふたりの男は元の輪の中へ帰る。こうして繰り返すこと三回で終わり、鬼男ふたりは菅笠はめちゃめちゃに破れて引き掛げる。青竹の飾りは全部踏み折ってしまう。輪の中の男は骨だけになった笠を脱いで笑って終わる。この輪の中にはいった者は丈夫になるといって志願する者さえある。
 これが済むと宮司、区長が先頭で御神典、その台、五色の幟一五木を、両川手より選出した各係が神酒を立ち飲みしながら、行列を作り勇ましく穂朶の青田を縫って三峯川に至り、行列整然と渡河する様は真に神々しい限りである。行列が川原を過ぎ桜井の丘に上って村内に休むと、氏子が迎えに出て御神輿の下を三回くぐる。これは体が丈夫になり、女は安産ができると信ずるからである。
 かくて桜井の天伯社において川手より渡御した人々が桜井の天伯社において同様の「サンヨリコヨリ」を繰返し、お神酒(直会)を済ませて、行列を作って戻って来る。区長が「神事が滞りなく相済みおめでとう」と告げ直会をして一同退散する。
 ちなみに元禄以後三峯川の氾濫は六〇回以上におよぶというが、どんな大出水のときでも神輿の行列が押し流されたり、事故があったとことのないのも不思議と言われている。

 

古い神輿

 

 実施される時間帯は昔と変わらない。正午ころ神事が天伯社で始まる。参列するのは区の役員であり、上川手と下川手からそれぞれ5名、ほかに市会議員が加わる。上川手では区長、副区長、会計、土木部長、衛生部長の5名である。区の執行部5名ということになる。参列者に並んで神輿が置かれ、神事後ご神体が神輿に移される。周囲には神事を見守る人たちが群がるが、法被を着用している人たちは神輿の渡御に加わる人たちで、両区からほぼ均等に選出されるよう。上川手では区の下に班があり、班から一人ずつ選出される。

 神事が正午に始まるということで、それまでにはサンヨリコヨリに参加する子どもたちはおおかた集まってくる。境内では地元の人たちで出店が出されるが、かつてはいわゆる祭典に集まる出店が何店も展開されたという。集まる子どもたちは手に笹竹に飾りを付けた七夕様を持ってくるのだが、そうした人たちに「作った七夕を家で飾ったりはするか」と聞くとサンヨリコヨリのために作ってくるため、そういうことはしないという。もちろん別に七夕の飾りを家ですることはないよう。参加する子どもたちには近くの保育園の子ども達もいて、保育園関係で参加される子どもたちの七夕は作ったあとに保育園で飾っているということは耳にした。子どもたちが持ってきた七夕飾りはサンヨリコヨリが始まるまでは、会場の空き地にあるフェンスに立て掛けたり、あるいは地べたにそのまま置かれたりしていて、物によっては人に踏まれたりしているが、そもそもどれが誰のものか、たくさんの飾りの中から始まる前に手にすることができるのかどうか、心配にもなった。

 宝蔵に神輿はふだん納められているが、その中にはもう1基古い神輿が保存されていた。宝蔵は昭和25年に造られたものだが、それほど広くなく、神輿2基を納めればいっぱいになる程度。〝昭和62年の記憶㉑ 川手の「サンヨリコヨリ」〟にある神輿と、現在利用されている神輿は異なり、当時は宝蔵に保存されている神輿が使われていたと思われる。形式はほぼ似ているが、屋根の四方にある細工が、明らかに当時のものと今のものとは異なる。

 神事が終わるとご神体が神輿に移され、川手天伯社での神事一切終了する。すると子どもたちが神輿の下をくぐり始めるのだが、3回くぐるものとされている。〝昭和62年の記憶㉑ 川手の「サンヨリコヨリ」〟の写真を確認すると、当時は神輿の下を東から西へくぐっていたが、今回は西から東に向かってくぐっていた。どちらが正しいのか確認しなかったが、当時より明らかにここでは子どもが多い。前述したように保育園の子どもたちも加わることも要因なのだろうが、川手地域には新しく住まわれる人が多い。

続く

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サンヨリコヨリ 前夜

2025-08-06 23:04:50 | 民俗学

上川手区が用意した竹

 

区内各所に置かれた灯ろう

 

 

道上に渡された灯ろうと下川手の灯ろう

 

 

 明日は8月7日、月遅れの七夕である。先日塩尻市宗賀洗馬の七夕飾りについて触れたが、県内に七夕の大きな行事は見られず、伊那市美篶川手で行われるサンヨリコヨリは、県内では代表的な七夕行事と言えるのだろう。友人がサンヨリコヨリを見に行かれるというので、天候が悪くなければ「わたしも」とは思ったわけだが、予報はあまり良くない。とはいえ、行事が行われる時間帯には雨があがる可能性もあるので、天候次第と考えている。

 ということで明日のことも考慮して、前日の様子を夕方うかがってみた。川手には上川手と下川手というふたつの区があり、両川手の区が祭りの執行役となる。今年の当番区は下川手で、当日までの準備は下川手が段取りをするよう。そして祭り当日はそれぞれの区から区の役員と神輿を担ぐ役が選出されて参加する。そうした当日かかわる役は両区から平等に選出されるよう。上川手手ではサンヨリコヨリの際に子どもたちが手にする七夕飾りの竹は区の役員が用意し、公民館に置いておくのだという。必要な家でその竹を持ち帰ってサンヨリコヨリ用に用意する。もちろん自分で竹も用意する人はいる。公民館に竹が置いてあると聞いていたので、公民館に立ち寄ってみると、公民館の玄関横に竹が置かれていて、まだ15本くらいの竹が残っていた。

 天伯社横野道には幟と五つ灯籠が揚げられており、これらは5日に揚げられるという。そして下ろすのは8日だという。集落内には灯籠が各所に置かれていて、けっこう目立つ。ようはそこそこの数の灯籠が置かれていて、これらも幟や五つ灯籠を揚げる際に置くのだろうが、区の役員の負担は多いという印象である。

 天伯社について『みすず-その成立と発展-』(美篶村誌編纂委員会 1972年)に記されている内容を触れておく。天伯社については天伯大神社あるいは天伯様と称すという。祭神は本殿祭神として「大棚機姫命」、ご神体は幣束で、前立鏡がある。創立は応永34年(1427年)「丁末七月」と言われ室町時代に当る。氏子の範囲は両川手であり、当時の記述では上川手140戸、下川手151戸とある。そして青島区も氏子であったと言われるが、昭和になって青島は氏子から離れたよう。祭典における行事には、サンヨリコヨリのほか、神輿渡御、弓引、相撲、俳句とあるが、現在はサンヨリコヨリと神輿渡御のみとなっている。縁起について下記のように書かれている。

 応永年問大洪水の際、藤沢村片倉天伯が流され、桜井片倉の平岩潭に入り流れて来て川手裏の川原に止まった。鎮水後、桜井等より神酒等を持参して一体を迎え奉り、川手から送って行く。これから一体は裏川原に社地を求め社殿を造営してここに祀った。以後毎年七月六日、七日を祭日と定め送り迎えするを例とし、川手天伯神前において神輿に奉幣して、神主村役員等神前に祝詞を上げ、終わって社殿東広場において「さんよりこより」の踊りを行ない、いかなる出水時といえども神輿の行列は、三峯を渡御し、桜井の天伯社に着いて、同様の祭事を修行する。往時は五か村祭と称し、両川手村、青島村、両大島村の五か村と神主が前夜から通夜して奉仕した。
 また一説には応永の昔、洪水の際、藤沢村片倉天伯が流され、桜井の三峯川原に漂着、村人はこれをうつぼ木の片倉の巨大な平岩に祀り、一体は川手の岸に漂着したので村人が迎え祀ったものであるともいう。

 信仰について神輿が神前に飾られた時、また桜井に渡御して村内に休む時などに、村人は老若男女を問わずその下を三度くぐると健康になり、また安産になると言われている。

続く

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右折車への配慮 後編

2025-08-03 23:03:45 | ひとから学ぶ

右折車への配慮 前編より

 ずいぶん昔にここに記した記憶があるが、駒ヶ根市内を南北に通過しようとすると、けっこう渋滞にハマる。その理由について過去には南北の道路よりも東西の道路を優先している傾向があると述べた。今もってその傾向はあるがかつてほどではなくなった。かつて通勤時間帯に大渋滞を起こした交差点に「大徳原」があった。伊那中部広域農道を飯島町から駒ヶ根市に入ってすぐの信号機だが、昔はこの東方に大きな工場があったからそのせいだったかもしれないが、このごろはこの「大徳原」が渋滞を起こすことは皆無となった。通勤時間帯でもこの信号機が赤色で停止する確率は20パーセントから25パーセント程度かもしれない。かつてなら必ず停止し、さらに渋滞が起こった交差点である。

 いまもって駒ヶ根市内で通過するのに厄介な交差点が、以前にも触れた駒ヶ根インターとのアクセス道路と交差する「北原」だ。先ごろ通過する際に今どきはアイドリングストップが付属していて、どうでもよいのにその停止時間を計測してくれる。停止してからちょうど30秒で交差する道路(インターのアクセス道路)の信号機が赤色になり、その後の右折レーンの青矢印がちょうど10秒だった。もちろんアクセス側青色30秒はけして長くない。しかし、南北に連絡する広域農道側は車が繋がっていると青色に変わってからせいぜい6~7台しか通過できずに赤色に変わる。南北の方が通行量が多いから、自ずと南北方向の広域農道が渋滞する。信号が青色になってから通貨台数が6~7台はけっこう少ない。駒ヶ根市内はこうした例が多いから、当り前に「どうぞ」という人が少なくなる。さもなければ渋滞がもっと長くなるから…。ようはこんな田舎で渋滞を起こすような環境があちこちにあるから、ここに暮らす人々にこころの余裕がなくなる、とわたしは思っている。もちろん今回の例の交差点には、前編の交差点と異なり右折レーンがあるから、あえて「どうぞ」などとしなくても専用の空間と専用の青色信号が用意されているから、それ以上の渋滞は致し方ないということになるかもしれない。したがって右折レーンがある交差点では、さすがのわたしも滅多に右折車両に譲ってあげることはない。

 が、これも昔ここに書いたことがあるが、通常の車間距離をとっていればその車間に割り込んで右折することは可能だ。とはいえ昔に比べるととるへ車間距離が短くなっている。今は一般道では2秒程度の車間と言われていて、距離にすれば時速40キロなら25メートル、60キロなら35メートルとも言われる。センターラインが5メートルピッチであることから25メートルとなると白→空白→白→空白→白が目安となる。こんなに車間をとっている人、どれほどいるものか。例えば40キロの25メートルなら、右折車は右折可能とみる。もちろん右折車にその気がなければ無理だし、対向車もいきなり曲がられるとびっくりする。けして安全なことではないが、そこに少しでも右折してあげる気持ちがあれば、ふつうなら右折できるのである、田舎の道なら。わたしはその程度の車間だと右折車がその気にならないので、右折しようとしている車の後ろに車が繋がっていると、遠くからパッシングして「曲がるように」と合図をする。もちろんその気を起こさせるためで、アクセルは踏み込むことはなく、少し車間を空けてあげる。それならわたしもブレーキを踏むほどでもないし、わたしの後続車にそれほど迷惑にもならない。ちょっとしたことなのだが、どうもそれさえ許さない人は、世には多い。

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下小曽部の馬頭観音

2025-08-02 23:17:11 | 地域から学ぶ

 

 昨日は朝早くに家を出て、現場に行く前に例の観音路隧道をくぐり、小曽部を少し回った。小曽部川の谷は、意外に奥が深い。それほど大きな谷、川ではないのだが、だからなのだろう、集落は奥まで続く。「どこまでだろう」と思いながら川を遡り、奥平の上の水源施設までたどり着くと、「ここが終わり」と察した。いずれにしてもこの谷はその先はなく、行き止まりである。

 道沿いに目立った道祖神は後述するとして、下りながら様子をうかがい小曽部の入口まで戻った。上小曽部に「LA TERRA NAGANO」という古民家の宿があって、みるからに空間とは異次元のお客さんの姿が見えて、ちょっと驚く。

 入口の集落は原口である。実は小曽部の谷には県道は1本もない。みな市道なのだが、下小曽部の水田地帯の真ん中を走るのが市道原口大橋線。洗馬と朝日村を結ぶ県道292号線から分岐する市道に入って水田地帯が見えてくると、その右手に木立があり、その中に四阿とともに小さな祠が見える。もちろん覗いてみると、朱に塗られた不動明王が安置されていた。朝日村もそうだが、この地域には不動明王が多い。とくに道祖神と不動明王が並祠されている例が多い。この地域の特徴と言える。ここの不動明王には道祖神が並祠されていないが、祠の外には彫の立派な馬頭観音が祀られていた。背面には「天保十五辰十一月日 下小曽部村中」とある。「村中」で建てられる馬頭観音はそう多くはないはず。故に立派な馬頭観音が建てられたのだろう。

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本洗馬から小曽部へ

2025-08-01 23:51:12 | 地域から学ぶ

観音路隧道 東側入口

 

観音路隧道 西側入口

 

観音路隧道

 

塩尻市道芦ノ田浄水場沓沢線から沓沢湖提体に入ったところにある記念碑

 

 先ごろの仲間との集まりで、最近朝日村に頻繁に仕事に行っているという話をすると、塩尻市小曽部の話になり、心霊スポットに詳しい仲間から「観音路隧道」のことを聞いた。おおよそ心霊スポットはうわさ話の世界だが、わたしはあまり興味はない。昔から友人たちがその手の話をしていても、話に加わっても興味はまったくなく、噂に上がった場所を意識的に通ることもなかった。ただ、今回聞いた観音路隧道は、朝日村に向かう際に通っている道から少し逸れるだけ。その隧道に迂回しても時間にして数分の違いと知り、ためしに通ってみた。

 観音路隧道は塩尻市道「沓沢線」にある。本洗馬と小曽部を繋ぐ隧道で、長興寺山の尾根が北へ続き小曽部と本洗馬を分けている。その尾根の山々の構成が気になったのでこれは「断層のせい」なのかと思って地質図で調べたが、このあたりに断層はない。この一帯は粘板岩地帯のよう。隧道を本洗馬から抜けたところにかつては沓沢湖というため池があったが、廃止されている。心霊スポットというとこの手のページがたくさん上がっているが、観音路隧道と沓沢湖に関することを記しているものに、「にっぽん旅旅行」というものがあって、両者の「心霊のうわさ」についてまとめられている。 

 沓沢湖は塩尻市にあるが、このため池を管理していたのは松本市奈良井川土地改良区。平成26年1月に建てられた「閉池記念碑」に詳細は記されておらず、経緯はわからないが、ため池の受益地が国営中信平地区の用水が行き届くようになって必要性がなくなったということなのだろう。とはいえ、その規模は満水面積95.5ヘクタール(改修記念碑には963反とあるから一応換算した)、貯水量917831頓とあるから約92万トン近くあったわけで、これほどのため池は近在には多くない。もちろん入水自殺なんていう話があっても不思議ではないが、この沓沢湖にも心霊スポットとしてのうわさがある。そのため池と観音路隧道が近いということもあって、両者のうわさには共通した理由があるのかもしれない。いずれにしてもうわさに過ぎないことで、信ぴょう性は低い。ただ、この隧道、ちょっと雰囲気は良くない。まず狭いから車は1台しか通れない。造られたのは昭和26年ということで、沓沢湖を改修するにあたり(昭和28年竣工)造られた隧道と思われる。この時代の車道隧道としてはあまりにも小さいから、仮設用のトンネルだったのかもしれない。いったん造られた隧道は内巻きして補強されているから、ふつうの隧道とは違う。ふつうではない、というあたりもうわさをかきたてるのかもしれない。

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右折車への配慮 前編

2025-07-31 23:05:35 | ひとから学ぶ

 渋滞が起きるのには理由がある。なぜこんなところで渋滞しているのか、田舎でも珍しい場所で渋滞を起こす。もちろん通行量が多いせいだが、ふだんは起きないことが、通勤時間帯ともなると起きてしまう。でもそれを解消する方法はあるのだが、「先に、先に」という意識が強いと、それは起こり、裏を返せば遅くなるというわけだ。

 塩尻市の国道20号、「長畝」信号機。度々渋滞が起きるが、特に渋滞が長くなるのは、東山山麓線を北に進んだところにある長野県総合教育センターで会議か何かがある時。あちこちから学校の関係者と思われる人たちが集まるのだが、国道20号を塩嶺峠側から下りて来た車が「長畝」で右折しようとする。会議に集まるわけだから時間帯が集中する。右折車が多いと、右折レーンに留まれるスペースが数台分しかないから、本線上に繋がる。したがって大渋滞となるわけで、今年の春先、その渋滞にハマったことがあった。松本市内で会議があって、同様にわたしも右折しようとしたわけだが、右折するまでに信号が何度「赤」になったか数えきれないほど。時間に余裕があったから良いものの、いつも通りと思っていたら会議の時間に間に合わなかった。通勤時間帯を過ぎた時間帯にいきなり渋滞に遭遇すると「事故か?」と思うわけだが、たんなる会議に集まる人たちが大勢いたためのこと。この信号機、対向車線もそこそこ通行量がおおいので、繋がっている。繋がっていれば右折しようにも右折できない。ここの信号機では、ほぼ対向車が右折させてくれるようなことはない。ほんのわずかな車間に、無理やり曲がらない限り車列が解消するか、信号機が赤になるまで曲がれない。そして右折用に設定される時間が短いから、信号機が赤くなってしまうとほぼ1台か2台くらいしか曲がれない。したがって大型車が右折しようとしていると、渋滞が長くなる。塩尻市内から塩嶺峠へ向かって走る車はほぼ直進車だから、問題が発生するのは塩嶺峠から下りてくる側の車線。みんな知っていることだから、たまに車間を開けて右折させてあげる車がいれば良いのだが、ほぼ皆無だ。

 飯島町の七久保の県道飯島飯田線。田舎なんだから渋滞とは無縁だと思うのだが、通勤時間帯には「七久保小学校入口」と「すぐ北にある「七久保駅入口」信号機によって渋滞を起こす。理由は右折レーンがないため。とくに南から北に向かう車が七久保駅へ右折する。ここには工場があったりするから、通勤時間帯には右折車が多い。専用スペースが無いのだから、当り前に右折車がいれば前進しない。「赤」になるまで前進しないこともよくある。同じような交差点が、同じ七久保の「柏木」信号機でも起きる。ここも南から北へ向かう車が右折しようとすると、右折レーンがないため前進しなくなる。右折車が何台も続くわけでもなく、頻繁というわけではないので、対向車が右折させてあげればよいだけのことなのだが、なかなかそんなことをしてくれる人はいない。

続く

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七夕のころ

2025-07-30 23:28:02 | 地域から学ぶ

願い事の中には「安心して暮らせる日本」がある

 

 昨日、朝日村から権兵衛トンネル越えで帰えろうと、塩尻市宗賀の洗馬を走っていると七夕の飾りが目に入った。最初に目に入ったのは、小学校の入口の門柱に縛り付けてあったものだが、その際はそれほど気にならなかったのだが、さらに集落内を南へ進んでいくと宗賀農林漁業体験実習館の前にも、さらに南へ行った集落外れの神社入り口にも建ててあって、通り過ぎたものの小学校の入口までUターンしたわけだ。ちょうど外におられた方に七夕飾りのことを聞くと、先週末に子ども達が建てたものだという。毎年子どもたちが建てているらしい。今では七夕の飾りも珍しいわけだが、実は安曇ではこの時期、道祖神の端にこうした七夕飾りをするところが多い。これまでにも松本市の梓川梓新屋敷や梓川倭野々宮神社のもの、あるいは中曽根のものなどを日記で触れてきた。いずれも道祖神の祭りにかかわるものだったが、安曇野市豊科の光あたりでも公民館に七夕の飾りを建てている姿が見え、中信地域ではこの季節、道祖神の祭りに限らずあちこちで七夕飾りをするところが見られる。もちろんそのほとんどは子どもたちがかかわっているが、こうした飾りが小学校や保育園などに見られることはあって、路上で見かけることは、伊那谷ではほとんどないこと。

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〝暑い、熱い〟

2025-07-29 23:04:44 | つぶやき

 先週は連休明けから4日間炎天下で働いた。今週も月曜日と火曜日と続き、人には「焼けたね」と言われると気落ちする。現実的にずいぶん黒くなったから当り前ではあるが、ここ1週間ほどで、ずいぶん日に焼けた。帽子もつばの広いものを被っていたし、腕は日焼けしないようにアームカバーもしているのだが、顔が「黒く」なった。まあ、それはともかくとして、さすがに毎日炎天下に居ると、疲れる。このごろは床に入るのも早くしている。というかちゃんと睡眠をとらないと翌日にかかわる。みな執務室内にいるのが「一番」と言うが、わたしは会社にいるのが嫌だから、たとえ炎天下でも外がいい。

 とはいえ、先ごろも外出先から帰ると、会社の執務室がムッとしている。すでに勤務時間を過ぎているからエアコンが停まっている。残業するのならエアコンのない世界で働かなくてはならず、わたしは「こんなところで仕事はしたくない」。とはいえ、どうしても会社で処理しなくてはならないことがあって少し働いているのだが、「暑い」。エアコンが停まってどれほど経過しているかしらないが、風の動きもなくムッとしている。執務室内では上司と幾人かが働いている。エアコンが停まったというのに、窓も開けず、ドアも開けず、もっといえば外の風が最も入ってくる廊下のドアも開けずに、エアコンの残冷気だけを頼っているのだが、もはやそんなものは飛んでいる。窓を開けて風が動くように気を遣えば良いのに、この熱気の中が好きなのかどうかは知らないが、息苦しい中で仕事をしている。

 部屋の中を涼しくする方法は、風が入り込んでくる側に扇風機。入り込んでこない方向に向けて室内の風を送るように扇風機を外に向けて動かすのが一番だ。我が家にはエアコンがないから、家に帰るといつもそうして家の中を涼しくする。まだ扇風機で息苦しくない世界を作り出せる。「エアコン入れる」と毎年妻と会話をするものの、いまだエアコンは設置していない。きっとシロがまだ元気だったら昨年のうちには導入したのだろうが、シロがいなくなって人間様はなんとかなくてもやっていける。だから部屋の中を涼しくする方法は、いろいろ考えている。だから会社でも同様に涼しくなることを考えていたものなのだが、人が変わって、今の上司は窓を開けない。涼しくすることなど何も考えていない。「頭を使え!」と言いたいのだが…。

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恒例行事

2025-07-27 22:25:21 | つぶやき

 

 ため池の草刈をしたが、この草刈のことを最初にここに記したのは「ホタル舞う」だろうか。12年前のことだ。この年はため池の土手の北側の草刈をした。なぜ北側を刈ったかというと、共同作業で草刈りをすると、このため池の下にある我が家の耕作放棄地へ草を寄せる。その我が家の耕作放棄地は、ため池の南側土手の下にある。ようは北側の方がその草寄せをする耕作放棄地より遠いから、共同作業する人たちには負担にならないだろう、と思って北側を刈ったのだ。草刈をした際に、刈った草をすぐに我が家の耕作放棄地へ寄せるため、北側の遠いところの草を刈っておけば、共同作業をする日にはだいぶ草が乾いて軽くなるだろうと考えてのこと。

 毎年この時期にこの日記で記していることだが、このため池草刈にはわたしは参加しない。妻の実家のことだから、実際に住んでいる場所から遠いため、共同作業をする1週間前ほどに事前に我が家の分を刈っておく、というわけだ。当日出られないペナルティではないが、だから余計に刈っておく。12年前の写真を見ても、ため池の土手の3分の1くらいは十分刈っている。共同作業の仲間は7軒だから、7分の1くらいで良いのだが、「文句を言われないように」という思いで余計に刈っている。ところが同年の草刈をした後に、草を刈ったままでは困る、と文句を言われた。我が家は周囲から度々小言を言われる存在で、気を漬かったのにこうだったのだ。

 以来、南側を刈るようにしてさらに草寄せも事前にしておくようになった。草を刈るのはわたしの仕事で、乾いたころ妻が草を寄せる。毎年記していることだから同じころの過去記事には必ずといって良いほど記録されている。近年は我が家の耕作放棄地を1か月ほど前に刈る際に、ため池の太くなりそうな草も刈るようにしている。すると実際に刈る際にだいぶ楽だからだ。以前は手間取った草刈だが、いろいろ考えて草を刈るようになって、この草刈も楽になった。

 ということで下記の写真は本日の成果だ。写真の場所以外にも余水吐周辺の草も刈っておいた。だから共同作業の際にはだいぶ楽なはず。世代が変わって、さすがに最近は小言を言われることはなくなった。

 さて、このため池にはキスゲが咲く。もちろん今までにも触れてきていることだが、今日もなるべくキスゲを残して刈った。そのユウスゲ、陽が沈むと花を咲かせ始める。

 

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