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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

旧暦7月22日の夜

2023-09-06 23:01:20 | 民俗学

島畑の二夜様(令和5年9月6日)

 旧暦の7月22日の夜(今年は今日)、月待ちのひとつ二十二夜様の祭りが伊那市近在で見られる。ひとつは高遠町の街中島畑で行われているもの。コロナ禍の3年間もこぢんまりと地区内の人たちだけで行われたといい、ようやくオープンな姿で二十二夜様の夜を迎えた。三峰川の天女橋端の岩場に祀られた石造の「二十二夜」は、写真の左手の祠に祀られる守屋貞治作延命地蔵尊のさらに裏手高い位置に同じように祠に祀られている。道端に設けられた祭壇は、雨の予報があったためブルーシートで覆われたが、祭りの始まる午後6時にはすっかり雨はあがった。島畑町会によって昔から行われてきたが、軒数も減って今は9軒だけだという。

 午後6時、町内会のみなさんが整列するなか、沢尻の恩徳寺住職によって読経があげられた。もともとは近くの香福寺の住職にお願いしていたが、無住になってから南箕輪村沢尻の恩徳寺にお願いするようになったという。読経が終わると祭壇へのお参りが始まり、しだいに近在の参拝者もお参りに訪れ参拝者には護符が配られる。護符は菓子店の千登勢に依頼している。「二十二夜尊御守護」のお札は町内会で用意され、今年は30枚刷ったという。前年に刷ったものもあって、50枚くらい用意しておくと言う。お札1枚200円で譲られているが、それほど多くの参拝者が手に入れるわけではないよう。お札の効果について、受付の貼り紙には「安産祈願、商売繁盛、家内安全、大願成就」と掲げられている。島畑町会内に貼り出されている「二十三夜」を知らせるビラには「大願成就」と「安産祈願」が記されていて、この祭りに参加されている町内会の方もこのふたつの祈願が中心だと答えられていた。「二夜」の翌日は「三夜」にあたることから、ここでは翌日二十三夜様も祀るというものの、ここの石碑群の中に「二十三夜」の碑はない。二夜様の祭壇に鉦が置かれていたので「いつ使うのですか」と聞くと、「三夜」の際に鉦を叩くという。身体の痛いところを数珠でこすって「鉦を叩く」のだという。「二夜」と「三夜」はセットで祀られている風にもうかがえる。

 

坂下の二夜様(右側)

 同じ日、坂下常円寺においても二十二夜様の祭りが行われた。かつては仲本町商工会によって行われたというが、商工会が縮小するなか実施が難しくなって平成14年に区の方に相談されたという。区が応援し、実行委員会によって実施するよう引き継いだという。以来実行委員会によって祭りが行われてきたが、今は坂下女性の会のみなさんが応援してくれて賑やに祭りが盛り上げられる。「二十二夜尊」の碑は「法華経一千部供養塔」と「蚕玉尊」とともに三つの碑が並んで浄円寺境内に祀られている。珍しい大理石の石碑は、『坂下区誌』によると仲町の中村庄助翁が四国・西国・秩父・坂東の霊場めぐりをした記念に大正3年に建てたものという。その中村家がかかわって祭りが行われてきたが、昭和42年から仲本町商工会が中心になって引き継いでいたという。

 さて、いずれの二十二夜様も安産祈願にローソクが用意されており、祭壇に供えられたローソクを持ち帰り、陣痛が始まったらローソクに火を灯すとローソクが燃え尽きるまでに丈夫な子が生まれると言われ、できるだけ短いローソクが好まれた。かつては手良野口蟹沢でも旧暦7月22日に二夜様の祭りがされていたというが、今は8月末の土日開催に変わっている。いずれにしても伊那市近郊に、目立って二夜様の祭りが今も行われている。

島畑のお札

 

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六道地蔵尊 仏迎え

2023-08-06 23:12:00 | 民俗学

 

 六道の杜を訪れたことについて、2年前の今日触れた。既に六道地蔵尊の仏迎えは終え、執行されていた寿クラブの方たちが片付けをしている時間帯に訪れた。その際にも「昨夜最初に仏迎えに来られたのは何時頃だったのですか」と聞き、「午後10時半ころだった」と聞いた。

 今年は長野県民俗の会の例会として、六道地蔵尊の祭り見学を企画した。前日からの宿泊例会であり、六道の祭りを未明に訪れて朝方解散という例会であった。今年も同じように何時に最初に仏迎えの方が来たか聞くと、やはり午後10時ころだったという。もしかしたら毎年訪れている方なのかもしれない。寿クラブの方たちの予定を聞くと、今年は上川手寿クラブの担当で、次のような日程であった。

8月5日 午前9:30 六道の杜男性全員集合 準備 
    午後3:00 全会員集合 お札、松穂の袋入れ 
    午後4:00 洞泉寺住職による安全祈願ご祈祷 
         終了後慰労茶話会 
    午後8:00 お札販売会場準備、夕食(宿泊者) 
8月6日 午前0:00 お札の販売 
    午前4:00 宿泊者以外会員集合 お札の販売 
    午前11:00 区執行部お賽銭回収 
          後片付け

 この日程からわかるように、お札の販売は午前零時となっており、一応暦の新しくなった6日からということになる。しかし、実際は宿泊担当の寿クラブの方たちは、前日の午後8時に集合し、夕食をとるとすでに仏迎えの人々を迎える体制に入っており、前日から訪れる人がいることを前提に準備をしていることがわかる。もちろん前日のうちに仏迎えに訪れる人は少なく、参拝者の姿が目立つようになるのは午前4時過ぎのよう。その通り、日程でも6日午前4時が宿泊当番以外の寿クラブ会員の集合時間となっている。

 ということで例会の再開は午前4時を目途だった。5年前に訪れた際の印象でも、午前4時以降に参拝者が目立つようになった。そしてピークは午前6時ころ。今年はこの間、参拝者にできる限り質問を試みた。①新盆で訪れたかそうでないか、②どちらの地域か、と。できれば仏迎えの対象者の住まいまで確認したいところだが、長い質問だと全員にアプローチできないと察知し、とりあえず新盆かそうでないか、そして居住地の確認をした。おおよそ午前4時から6時までの2時間。全員とまではいかなかったが、9割以上の方たちには聞き取れたと考えている。

 2時間に聞き取りさせていただいた方は164人。ちなみに参拝には家族や親戚の方が一緒に、という考え方がかつて同様にあり、参拝後に帰途に着く方、いわゆるお札を持たれている方を対象に行った。85名の方が「新盆の迎え」で参拝され、75名の方が「毎年来る」と答えられた。新盆の方が多かったが、予想外に「毎年」という方もおられた。また新盆から3年間は「六道へ」という考え方も生きているようで、3年目と答えられる方も3名おられた。「毎年来られる」と方も聞いていると、新盆で迎えにくるようになってから「ずっと」と答えられる方がいて、新盆がきっかけで六道詣りが続いているというわけである。もちろん毎年とは言うものの、その人数は参拝エリアの戸数から推定すればわずかなものであるが、とりわけ「毎年」と答えられる方は、六道のおひざ元である美篶地区の方たちで、「毎年」と答えられた方のうち52パーセントを占めた。

 参拝者の範囲であるが、次のような結果である。

伊那市天竜川右岸 9パーセント
伊那市天竜川左岸 68パーセント
内美篶地域 38パーセント
内両川手 13パーセント
旧高遠町 15パーセント
旧長谷村 1パーセント
箕輪町 3パーセント
南箕輪村 4パーセント
宮田村 1パーセント

 意外であったのが宮田村である。『宮田村誌』にも六道詣りのことは触れられていない。具体的な地名もできる限り聞いたが、天竜川右岸の比率はかなり少ない。とくに西春近と答えた方は表木の1名のみ。西春近にあるある寺では、六道と同じ仏迎えを始めて、「六道行く必要はない」と寺が諭すという。同様に西箕輪と答えられた方も少なく、そのほとんどが「与地」の方だった。羽広のある寺も六道詣りと同じようなことをしている聞く。ようは六道へ仏迎えに行く人が減少した理由は、てらに起因しているといえる。いっぽうで「与地」から何人も訪れているのには興味深い。与地は天竜川右岸でも、最も西山の麓の集落で、六道からも与地の地は望めるが、当然与地からも六道の杜は望めるのだろう。何かしら意味があるのかもしれない。

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久しぶりでも、書きたくなった「こと」

2023-07-22 23:59:59 | ひとから学ぶ

 「やっぱり書いとかないと」と書いておきながら、間もなく1か月。今年は現役最後の年になるのに、最悪な年を迎えている。もはや日記など書いている「場合ではない」、というわけである。遡りの記事を書くにも、放っておけば過去の日記など書けるはずもない。昨日のことすら記憶から飛ぶこのごろである。ということで、わたしが常に携帯しているメモ帳に、その日の「キーワード」を残している。その「キーワード」ですら書き忘れる始末だが、とりあえず「キーワード」というかその日の日記のタイトルを残しておくことで、過去に遡って日記を書くことができないこともない。そう思ってのことだが、もう3年くらい前に、この日記に空白が目立ち始めたころ考えた最低の「記し」である。しかし、その空白はメモ帳に「キーワード」が残されたにもかかわらず、今もって埋め合わせることはできない。もはや埋め合わせるにはあまりにも「遠い日々」である。

 さて、ここ数年来、国家プロジェクトレベルの事業に関わったほ場整備に付き合っている。そう言えばその事業は「あれか」と気がつくだろうが、残土を受け入れてほ場整備を「する」という例は、過去にも度々あったこと。しかし、噂の大事業だから、そして民間の行うことだから地元は「好きなことを言う」。

 今日もまた、草刈三昧だった。昨年「続 本日の成果」にあげた写真のような草刈をした。今日はカメラを持ち合わせていなかったから、撮ることができなかった。併せて来週末にはため池の草刈が行われるということで、我が家の耕作放棄地に続くため池の草も、我が家分刈り払った。このことも、「ため池の草刈2020」などに記している。今年は草刈を怠っているため、いまだ一度も刈ってない空間があるほど。これまでにも繰り返し記してきているように、我が家にはよその人では経験しないほど、草刈をする空間がある。もちろん畦畔の法面であって、さすがに災害復旧したばかりの法面は、滑ってとても刈りづらい。ようはほ場整備などをすると、畦畔はよく突き固められるから、その法面に足を踏ん張って草を刈るのは、難題かもしれない。しかし、昔なら当たり前のことだった。

 話を戻して、前述のほ場整備である。ふつうはほ場整備で法面に土留工を施工することはない。構造物を施工しないと法面が安定しないというのならいざ知らず、大事業、それも補償工事ともなれば地権者は思う存分だ。ようは「草を刈らなくてもよいように」というのが理想、とはいっても全面とはいかないので、畔上から届くところまでは土羽でよいが、それ以上は防草対策をして欲しいという。どれほどわたしが草刈で苦労していても、さすがに「こんな程度なら草刈りなど簡単じゃないですか」などとは口にできない。

 まだまだ昔の農村環境や農村社会意識が残っている事実を垣間見ることはあるが、もはや昔の常識は今は通用しない。この打ち合わせに出席している人たちは、ほぼわたしより高齢だが、おそらくわたしよりこれまでも草刈に苦労はしていない。そもそも草刈意識がまったく過去の社会と異なる。もはや農村はとてつもなく「やりきれない」ところまで達していると、わたしの空間認識から捉えると断言できる。それが残念なことなのか、それとも常識なのか、わたしにも糸口がつかめない。冷静にさまざまな線から結んでいくと、必ずしも彼らが発している意見が正常だとは思えないのだが、実はその絡んだ線を皆が理解できるように説明できる人は、今の世の中には「いない」。

 なお、今年に限り、本日記はいつ書き込めるか、「わからない」。

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「やっぱり書いとかないと」

2023-07-01 23:31:50 | つぶやき

 「あれもやりたい」「これもやりたい」、そういえばすっかり「そのままになっている」、気がつけばそんなことばばかり頭の中で通り過ぎていく。結局「何もできていない」、これが「年老いた」ということなのかどうなのかも、考えたくもない、というより考える隙もなく日々は過ぎていく。年老いた者が、一人前ではなくなっていくことが、この歳になってわかり出した、というところだろうか。でも周囲を見ていると、「何をやっているんだ」と口にしたくなる。人間、どんどん悪い方向に向かっている、そうも思うし、そう見える年寄りを批判するのも問題だと、気づいてはいるものの、「とはいえ」やっぱり「許せない」と他人にも口にしてしまうし、自分にもその言葉を返してしまう。

 こうした悶々とした言葉を綴ったことは、過去にも何度もあるのに、飽きることなく同じ言葉を並べる。きっと歳を重ねるほどに愚痴のように繰り返すのだろう。

 さて、冒頭の言葉の通り、「あれもやりたい」ではないが、「あれも書かなくては」「これも書かなくては」と思うこと、貯めていることがいくつもある。『伊那路』1月号に寄稿した西天竜に関する「小史」の2回目を、そろそろと思っているうちに数か月。書いたらすぐに掲載してもらえる連載とは違うのだから、掲載までの期間を考慮すると書いて事務局に届けないと1年以上空いてしまう。悪い癖が「すぐに書ける」という安易な心持ちだ。これがわたしの悪い面で、こうして仕事も貯めてきた。後がなくなったのだから時間の貯金はないはずなのに、相変わらずである。その証拠がこの日記である。今日の日記を書き込む時点で、すでに10日ほど空白となっている。もちろん埋め合わせるつもりでいたのに、「明日でいいか」を続けてしまう。あっという間の10日である。

 あれやこれやと考えながら次の原稿の構想が出来上がったから、と掲載誌の短編はどの程度の分量で良いかと、と過去誌をあらためて開いて見る。そこで当時時間がなくて読まなかった記事を、あらためて読んだりして「へー」と感嘆する。時間ないのに、なんで「今読むの」状態である。でも、「今読んだ」のには理由もある。自分自身が何か「民俗」だったりする。その理由を紐解くのも良し、と思いながら言い訳をして、結局そこからヒントをもらう。「なるほど」とは思うが、その「なるほど」も二日三日で泡と消える。それすら記憶に遺すのではなく、ここにでも残さないと、わたしの痴呆レベルではみなリセットされてしまう。「やっぱり書いとかないと」…と思い、いきなり「こうなった」。

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次へのステップ

2023-06-30 23:52:38 | つぶやき

 叙勲の祝賀会というものがあった。そもそもわたしには縁のない世界であり、こういう場に招待されるのは最初で最後だろう。たまたま今の立場があったからの縁であり、そうでなければ一生無縁の世界だ。公共の場で働いた方々に縁があり、そうした世界にかかわっていても、受託側には無関係だ。もちろんそうした立場でも受賞される方はいるが、めったにないし、よほどの立場でよほどの功績がなければあり得ない世界。このことはだいぶ昔に触れている。

 コロナ禍明けということもあって、参集者を絞っての祝賀会だったという。故にわたしは締めの音頭を依頼された。まさに唯一の経験だったと言える。当たり前の言葉を添えるのも寂しいと思い、わたしが印象深く思っていた当人のエピソードを添えさせてもらった。長らくお付き合いがあったからこそのものであり、また、日ごろ気にかけている「問題意識」のなかで捉えていた情報を交えた。わたしなりに、わたしだからこそ語ることのできる「言葉」であったと思っているが、当人や、周囲のみなさんがどうとらえたかは不明である。

 「いつも若かった」わたしがずいぶんと経験を重ねて年老いたわけだが、だからこそできることがあると、最近おもうようになった。年寄りは排除される世の中になったが、これまでの恩返しのつもりで、さまざまな人々を支え、また助言できることは多い。もちろん仕事で得たものである。金銭の絡まない助言が、この後のわたしの役割だと、今は考えている。

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鼠除け札の版木

2023-06-20 23:42:55 | 民俗学

版木

 

 親戚の修験行者だった方の堂は平成になってから建て替えられたもので表向きは新しく見えるが、時間が止ったように古い時代のままの姿が堂内に垣間見えるわけだが、かつて使われた道具が箱などに納められて残されている。数日でそれらは確認できるかと思っていたが、捨てられずに残されているものは多く、「簡単ではない」というのが2日調べてみての感想である。慌てずに調べていく、今はそう思っている。

 今日は祭壇の下の物入れに入っていた衣裳箱の中を開いて見た。そこには版木がたくさん入っていた。とりあえず二箱を開けたのだが、写真を撮って大きさを確認していたら、全てを記録することが叶わなかった。ほかの箱にもまだ版木が入っているのか、それともこの二箱だけなのかは、まだはっきりしない。何より版木がこれほどたくさん残っているという予測をしていなかった。

 さてその版木の中で興味深いものがあった。写真のものである。上部には「猫」と「鼠」の文字が並んでいるが、漢字10字。真ん中に「鼠」が1字あり、その周囲を「猫」が9字、「鼠」に向かって囲い込んでいる。この構図から「鼠」を退治しようとする意図が見える。下部の文字は何と読むものか・・・。いずれにしても「鼠」退治を意図していて、養蚕のためのお札なのだろうか。

 ちなみに世間には鼠除けのお札というものがある。例えば八海山尊神社のお札はには、「八海山鼠除」とあり、猫の絵が刷られている。ホームページには「昭和三十年代まで農村ではその多くが米作や養蚕を営んでおり、ねずみの被害は共通の悩みで、どこの家でもねずみ除けのお札が貼られていました。猫はねずみ捕りのために飼われ、その図像はねずみ除けのシンボルだったのです。」と記されている。

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描かれた図から見えるもの㉜

2023-06-19 23:12:23 | 民俗学

描かれた図から見えるもの㉛より

 

昭和21年生まれ男性の描いた遊びの空間(天竜川右岸)

 

 前回同様に10歳ころを思い出して描いていただいた遊びの空間である。天竜川右岸の、それほど天竜川と山との距離がないエリアのもので、描かれたのは昭和21年生まれの男性である。

 実はここに描かれた上部の農道と、天竜川に並行している国道は、描かれた方の10歳ころにはなかった道である。今や当たり前にこの道が生活上の主要道路になっているため、構図上に自然と描かれてしまったといって良いのだろう。「この道無かったですよね」と聞くと、「そういえば」ということになった。したがってここには描いていただいたままに示したが、二重線で描かれた道は見る際には消して見てもらいたい。家が現在学校のすぐ近くにあるが、この家も現在の位置情報であって、実際はもう少し離れていたよう。

 さて、図の配置であるが、上は西にあたり、木曽山脈側にあたる。農道のすぐ上の遊び場はもう麓にあたる。右が北、左が南であり、わたしの空間イメージとまったく同じで、ほっとした印象である。やはり図の上を山と捉えるのは、伊那谷に限らず長野県内の人々の構図ではないかと、わたしは想像している。遊びの空間を読み取ると、農道の上の石器や矢じりを探した場所以外は、すべて「水」にかかわるところが印象的だ。天竜川はプールがまだなかった時代の学校の水泳授業の場であったもので、学校の授業で行く以外には天竜川まで行って遊ぶということはなかったという。A川やB川といった天竜川の支流の方が天竜川より距離的に近く、自ずと両者が身近な「川」となっていたようだ。A川の端にあったマチの飲食店の氷貯蔵蔵に「忍び込んで」あたりが昔の子どもたちの冒険心を描いている。

 この地区はすぐ東側に大きな段丘があり、その段丘崖には清水の出る場所が多くあった。そうした場所には冷たい水が湧出し、図にもあるようにサワガニを取ったりして遊んだのも、今の子どもたちには見られないものと言えよう。

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寺坂を歩く

2023-06-18 23:16:24 | つぶやき

寺坂

 

階段上の建物が十王堂

 

参道

 

十王堂内

 

 最近十王めぐりをしているが、飯島町にはその手のものが少ない。全町で認識しているものは2箇所のみだから、集落ごとにある駒ヶ根市中沢に比較したらその様子が異なる。やはり寺の影響と言えるのだろう。どの時期に寺が地域住民のための信仰になり得たのか、というあたりに関係するのだろうが、飯島氏の影響で甚大な力を要した西岸寺にとって、現在のような地位を得た背景に関わってくる。

 その西岸寺にも十王が存在する。参道の入口に堂があり、その中に納められているが子どものころからこの道をよく知っているわたしにとって、ここに十王があるという記憶がなかった。この場所はかつて「駒つなぎの松」という松があったのだが、今はその木はない。この参道入り口までの段丘崖を上る道は、わたしの名前をつけていただいた父母のお仲人の家への道で、「義理の道」とでもいって良い「道」だった。その家へ行く際には、必ず通った道で、盆や正月には子どものころ毎年歩いたものだ。またそうした「義理」にかかわらずとも、「寺坂」と言われたこの道は、子どものころ何度となく歩いた空間である。その段丘崖下からの登り口に「千成地蔵」というお地蔵さんがあって、今とは違って少し暗がりのようなところにあったように記憶する。昭和58年にお地蔵さんのあった背後の十王堂沢が荒れて、災害を引き起こした。小さな川なのに、どこからこのような土砂がやってきたのか、と思うほど沢は土砂を押出し、それまでも天井川であったが、そこがすっかり埋まってしまったのだ。明治から大正期には、この坂元のあたりに「十王堂学校」という学校があったという。

 この寺坂は現在も当時と同じ姿を見せるが、今は通る人はほとんどいない。しかし、写真でもわかるように参道入口の踊り場にある石段の幅はずいぶん広い。4メートルほどあるだろうか。参道もまたほぼその幅で続いており、当時としては広い道だったといえる(段丘崖の道は2メートルほど幅)。その踊り場に十王堂が現在あり、かつての十王はもっと下の方にあったのではないだろうか。ここの十王は木造であり、おそらく上段の真ん中に据えられている大きめのものが閻魔王なのだろう。奪衣婆はあるが、地蔵菩薩の姿はない。左側の厨子に入っているのは弘法大師である。右側の逗子は閉扉されていて中が見えないが、もしかしたらこれが地蔵菩薩なのかもしれない。

 踊り場から階段を登ると約百メートルほどの見事な参道となる。

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10分単位の表示のない目覚まし時計

2023-06-17 23:49:23 | つぶやき

 最近、長く利用してきた目覚まし時計が設定した時間に「鳴らない」。これでは目覚まし時計の意味がないわけで、「叩いたり」スイッチを「入切」して様子をうかがったりするが、鳴ることもあれば鳴らないこともある。ようは確実性に乏しくなってしまって、「使えない」道具になってしまった。確かに置時計としては立派に使えるが、主旨は「目覚まし」だから、無用の道具となってしまったことは確かだ。

 そこでたまたまあった新しい別の目覚ましを利用したのだが、どうみても安っぽい。その目覚まし時計には、秒分針を読む刻みの印線があるが、目覚ましようの設定印線がない。初めて使った日、秒分針のために振られた線に合わせて目覚まし時間を設定したのだが、翌朝思い込んでいた時間から遅れて鳴った。よく考えたら、設定を間違えていた、ということになる。ようは秒分針のための指示線は時間単位で5秒(分)割となっている。ようは12~1の間に線は4本降られていて、5分割となっているから、例えばひと目盛りが10分ではなく1時間の5分の1となる。従って5本あると思って合わせると、実は4本しかないので設定時間を間違ってしまう。

 目覚まし時計のいわゆるデジタルではないスタイルのものは、基本的に秒分針とは別に目覚まし針を設定するための10分単位の目印が記されているもの。ところがこれがない目覚まし時計が存在する。小さく簡単なものや、多機能スタイルの安物には10分単位の線が示されていないものが多い。こうなるとすごく曖昧な設定しかできず、それこそ5分割線を目安に「だいたい」に合わせるしかないわけである。「目覚まし」を意図している以上、最低でも6分割線を示してほしいものである。

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中沢本曽倉の十王

2023-06-16 23:18:30 | 民俗学

 

 駒ヶ根市中沢の本曽倉(ほんそぐら)の十王堂を開けていただき、十王の石質を確認してみた。やはり「安山岩」であった。

 もともとここに十王堂があったわけではないのだろう。地元の本曽倉の人々が寄付されて十王堂は新しくなっている。信仰が篤いと言えばその通りなのだろうが、その信仰は過去の信仰とは趣が異なる。何よりここの十王の姿を見てみると、痛々しい。接着剤で繕われているが、それ以前の無残な光景がうかがわれる。何といっても奪衣婆が典型的といえる。首から上が分離しているのはまだしも、胴体も縦に真っ二つに割れている。どっしりとした体形で、それでいて小さい石の塊をこのように「割る」とは容易ではない。そこらの石に投げつけてもこのようにはうまく割れないだろう。あえて3分割するように割ったとなれば、意図的であるとともに、なぜこのような割り方をしたのか、と問いたくなる姿だ。ほかの十王も割れてはいるものの、首が割れ目。あと司命司録も頭はなく、胴体が真っ二つとなっている。奪衣婆と同じ意図で割られている。廃仏毀釈時代の行為と想像されるが、とはいえこの2基の割れ方は並々ならぬもの。それらをつなぎ合わせて今は祀られており、その上で堂も新築された。その堂が新築されたのは昭和56年のこと。堂内にある寄進者一覧を記した「出資者芳名」板に記されている。全戸均等に1万2千円が寄付されている。さらに特志寄付者によってそれは賄われている。廃絶寸前、あるいはその姿から見ると廃絶したといって良い十王の信仰が、あらためて現代において再生されたといって良いのだろう。

 さて、堂を再建した際に十王ごとに名を付して名板を設置してあるが、必ずしも正しくはないよう。そもそも「閻魔王」と記された名板のところには地蔵菩薩が置かれている。しかし、この堂内の名札通りに『駒ヶ根市の石造文化財』もまとめられており、ようは正しくないというわけである。同書には「閻魔王」として「光背付」と記している。もちろん光背のついているものは地蔵菩薩のみである。ここにはしぞヴ菩薩のほか十王9基、奪衣婆、司命司録、そして人頭杖あるいは浄玻璃鏡と思われるもの、以上13基の十王関連石像が残されている。

 中沢にある寺はほぼ曹洞宗の寺という。したがって十王に対して寛大であった天台宗ではなく、冷淡であった禅宗である。その通りの姿をここ本曽倉の十王に見いだすわけであるが、にもかかわらず、十王は中沢に多く残されている。この本曽倉の十王の無残な姿は特別である。

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考える機会に

2023-06-15 23:42:44 | ひとから学ぶ

 おそらく、今回行くとあと1回、仕事で東京へ行く機会である。今回もいわゆる「陳情」である。もちろんあと1回も主旨は同じである。「繰り返すことに意味がある」とは経験値からくるもの。同じことでも「繰り返す」。今回ある先生は「今度やりましょう」と口にしたが、同席した同僚は「1度も実践されたことはない」と、現実的なことを口にした。しかし、「繰り返すことに意味がある」というのなら、いつか実践されるという期待値がまったくないわけではない。しなければ実践されないわけで、たとえ実践されなくとも「やらなければ」さらに実現性は下がるということになる。こうしたものが日本の悪いところ、という人もいるだろうが、これは「経験」と同じで、体験しなければ「解らない」ことだし、やらなければ記憶にも残らない。無駄と思えども「繰り返す」。実践せずに抵抗していても何も始まらない、という現実の狭間で、どれほど無駄であろうとも行動する、の繰り返しなのである。

 さて、かつてはお客さんの代表にを伴っての東京行きだったが、近ごろは女性の方たちに足を運んでもらう。女性参画を叫ぶ世の中になって、「女性に参加してもらう」が合言葉になっている。とはいえ、例えば理事に女性を、というが「形ばかり」という印象が強い。もちろんそれが第1歩で内容を充実していくのはこれからなのだろう。そもそも女性に参加してもらわなければ、結果的に従来となんら変わらない。したがって形ばかりでもそこに女性が入ってくることで、男性は女性に耳を傾けようとするし、少なからず雰囲気は変わってくる。長野県では「女性に・・・」といっても、お客さんのところの事務員さんがいいところ。役員に女性などほぼ皆無。それだけいまだに男性社会の長野県といえるのだろう。しかし、このごろその事務員さんたちと会話を重ねていると、事務員へ頼っている事象の重さである。そこまで事務員さんが「やるの?」と口にしそうなくらい、男が「さぼっている」とは言わないまでも重責を担わせている。にもかかわらず報酬を聞くと「わずか」。したがって「力」とすれば女性は偉大だが、正当な評価がされていない、というのがわたしの印象である。そう捉えるとわが社でも、事務員さんは忙しいが、正規の社員には、あるいは再雇用の社員には、「いまそれをやっていて良いの」と問いたいほど、暇であったり、仕事をしていない者が少なくない。「力」は大きいが、それが「等しい」とはなかなか言えないのである。

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桃源郷

2023-06-14 23:59:11 | つぶやき

 桃源郷(とうげんきょう)は、俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとほぼ同意で、陶淵明の『桃花源記』はかつて存在した武陵郡地域の話なので「武陵桃源」(ぶりょうとうげん)ともいう。

 Wikipediaにある「桃源郷」の説明である。もちろん桃の花が咲き誇る世界をそう呼ぶことも多い。けして俗界を離れていなくとも、桃源郷と思うような空間に遭遇することがときおりある。あくまでもわたしが感じる桃源郷であって、多くの人はそう思うことはないだろう空間であったりもするが、わたしのイメージする桃源郷は、確かに存在する。ずいぶん以前に日記にも記したことがあるが、飯田市竜東のある洞の中に仕事で訪れたとき、その洞に入り込むように迂回した道沿いに家があり、それより奥には家はなく、その先は山林から尾根に続いていた。山林と田畑の境界域にため池があり、水田の水源はそのため池であった。そしてその家の背後に見える空間は、すべてその家が所有する土地だった。ようは洞の中すべてが一人の所有物で構成されていて、他人が入り込んでくることはない。洞の中だから、確かに眺めという点では開放感はないが、他人には左右されないその空間を、桃源郷ではないかと感じた。

 洞の中というのは、その空間が自分だけでなにかしらイメージできるのなら、まさに桃源郷と成す好条件となる。県内、とりわけ伊那谷ではハナモモを植えているところがあちこちに存在する。阿智村の月川温泉周辺はまさに「桃源郷」として知られていて、今や大勢の観光客がその季節に訪れる。それほどでなくともハナモモを傾斜面に植えて、桃源郷たる光景をつくりあげている空間が、今はあちこちでもてはやされている。

 最近十王のことを触れているが、かつては野ざらしであったり、堂内に置かれていてもその堂に鍵がかかっていないことが多かったが、今は間近で見られない十王が多くなった。ようは堂内に、あるいは集会施設などに納められて、よそから出向いてもすぐには見られないという例が多い。今日ある会議が終わったあとに事前にお願いしておいた十王堂を開けていただき、十王を確認してきた。その際鍵を開けていただいた方が、たまたま仕事でお世話になった方でびっくりしたわけであるが、十王を確認したあと、その方のお宅にお邪魔してひと時を過ごさせていただいた。戦時中に近くにあったという秘密の施設の話を、その方と案内をしていただいた方にお聞きし、今どきにしては生々しい話をうかがったわけであるが、その方の家の真ん前の道には10メートル近い擁壁があり、その下にその方の畑が洞の中にある。畑はきれいにされていていろいろ植えられてあったが、ちょっと高低差がありすぎて作業は「大変だなー」とは思ったが、洞の反対側斜面にはまさにハナモモがたくさん植えられていて、花が咲けば斜面が家側に向いているため、家からその光景がよく見えるだろう。迎えていただき誘導された部屋からは、その斜面が見えるとともに、その向こうの山々はもちろん、地域の中心的な施設がはるか向こうに見えている。小学校もあれば、支所も見え、それらは川の向こうに並ぶ。これもまた「桃源郷」であると思ったわけである。ふだんの暮らしの視線の先に、こうした光景が見られるというのは、前述した洞の中という環境とは異なり、視界という観点では見事な「桃源郷」なのである。選んでも、なかなかこういうところに住むことはできない。

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続々 十王における安山岩という選択

2023-06-13 23:05:45 | 民俗学

十王における安山岩という選択 後編より

 

下伊那郡松川町古町八幡神社の十王

 

 「十王における安山岩という選択 後編」において下伊那における十王の一覧を示したわけであるが、この中の松川町古町の十王が写真のものである。見ての通り、手前側には白い石に彫られた十王が、奥に黒っぽい石に彫られた十王が並んでいる。岡田正彦氏による「南信州の十王信仰と十王堂(中の一)」(『伊那』2014年11月号)には、製作年代の異なる2か所の十王を合祀しているものとしている。この十王は古町的場の八幡神社の境内に造られた祠に納められているもので、「堂」というほどのものではない。かつてこの南側の小字十王にあったと推定されるものをここに移転したものといい、その際にこのような2種類の十王が祀られるようになったようだ。

 総数22基の石像が数えられるが、白い石に彫られたものが11基、黒っぽい石に彫られたものが同じ11基数えられる。前者は十王が10基、5段に祀られた最奥向かって右端にあるものが地蔵菩薩と推定されるが、ほぼ半分破損して紛失している。後者は十王が7基、地蔵菩薩、人頭杖、浄玻璃鏡、奪衣婆で11基となる。黒っぽい石は安山岩であり、白い石はこのあたりで一般的な花崗岩である。花崗岩製のものの方が少し大きくて像高は平均25センチほど。安山岩製のものは十王は20センチほどの像高であり、もちろん地蔵菩薩は大きい。前後者ともに同じ十王でも像高にばらつきがあって珍しい。後段の十王にも、4段目の中ほどに並んでいるものはほかの石にくらべると黒くなく、石質が違うのでは、とも思えるが、そこまで確認はしなかった。

 一堂に白黒2種類の十王が並ぶケースはないわけではないが、典型的な例で面白い。

 

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「せいの神」という違和感から その15

2023-06-12 23:46:01 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その14より

 前回『長野県上伊那誌民俗編』(上伊那誌刊行会 昭和55年)の第5章「年中行事」に記載されている火祭り以外の行事を取り上げたが、今回は本旨である「どんど焼き」を取り上げて最後としたい。

 

どんど焼(せいの神・ほんやり・三九郎)

〇十四日の昼、棒を組んだ上に門松をおき、下には枯葉などおき、一番上にはだるまや鯛などつけて、下の枯葉に火をつけて焼く。この時「せいの神のおんばあは、意地のむさいおんばあで、梨の木に上って××××くすいで、隣のぢぢい呼んで来て、うんとこどっこい抜いたとさあ」と唱える。このあと繭玉や餅を焼いて食べる。この餅を食べると風を引かない。また門松を長く家におくと厄が入るから焼くという。(伊那市西春近)
〇十四日の晩、子供達は各戸から集めた門松注漣縄を前日までに、合掌型に組立てておいて、暗くなった頃火をつけて焼きせいの神といった。場所は道祖神のある辻の広場、又は血下場で、子供ばかりでなく大人も行って、餅など焼いてたべた。(伊那市小出)
〇十三日の晩、子供達はその年齢毎に仲間のうちの一軒を宿に選び、ここで夕食を一しょにし、翌朝定められた範囲の家々の門松・注連縄を集めて歩く。同級生が一しょにその晩は宿の心づくしの「さんま飯」を御馳走になって、一晩中話しながら十四日の未明を待つ。お頭仲間の合図で注連飾りを集め、宮坂の道祖神の上手に小屋形に積みあげてどんど焼をする。昔は大人が林から木を伐ってきて小屋掛けの芯を作ってくれたという。後には木の大きさを定めて子供達に任せた。立てかけた柱となる木に注連縄をかけ、これに火をつけて焼く。
 塞の神の神様は いぢのむさい神様で 尻へとぎをくすいで よきで掘って掘れないで 餅で掘って掘れんで ワアイ ワァイのワァイワイ
とうたいはやし、また
 塞の神の神様は いぢのむさい神様で あの餅、この餅たべえ下って 留守にうちを焼かれた ワァイワァイ ワァーイワイ

などと唄って焼いた。書初めの草紙をこれにくべて焼きそれが高く燃えあがると字が上手になるといった。火が衰えるとそのおきで餅を焼いて食べ、虫歯にならないといった。燃え残った木は売って子供仲間の経費のだしにした。これで味噌焚きをすると味のいい味噌が出来るという。ずっと以前は二十日正月後にどんど焼きが行われたともいわれている。(伊那市山寺)
〇村はずれのせいの神の所で、子供達が各戸から集めた注連飾や門松を焼く。昔は集めに行くとお祝いを紙に包んでくれたが、今は部落で総代が一括購入して子供にくれる。物作りに書いたのや書き損じたもの、あるいは書き初めをもっていって燃やすと手が上る(上手になる)といった。子供達は稲穂や繭玉を持って行って焼いて食べる。せいの神は欲の深い神様だという。焼きながら「せいの神の神様は、いじのむさい神様で、生餅かじりついた。ワイショワイショ」とうたった。一本もあまさず完全に焼く。残すとその年借金が残る。(伊那市天狗平)
〇どんど焼きといって十四日に行う。「せいの神の神様は、いじのむさい神様で、なま餅かじりついて、わあいのわいの わあいとしょ」「さえの神の神様は、欲の深い神様で、餅かじっちや梨の木にのぼって、べべとげくすいで、針で掘れなんで、つむで掘っても掘れないが、つむんどの大まらで、ついてついてつきぬいた」とうたいながら、集めたお注連を焼く。できたおきで餅を焼き、それを家へ持ち帰って食べると家中風を引かない。(伊那市東春近)
〇二十日に年神様や松飾りを全部とり、道祖神の広場でどんど焼きをする。この火で餅を焼いて食べる。(長谷村中非持)
同村の中尾では十七日に道祖神の前で焼く。(長谷村)
〇十四日のどんど焼きは大正月、二十日のどんど焼きは小正月といって二回やった。大正月のどんど焼きの日には、道祖神の前に家の外飾りの松や注連飾りを持って集まる。その外にボヤを一戸で一把か二把位持ちよって用意した。夕方になると大人も子供も繭玉を枝にさしたのを一本と、書初めを持ってくる。組の人達が大方集った頃火をつける。飾り物やボヤ把を火の中へ投げこむ。よその部落より大火になるよう子供達は懸命だ。「どんど焼きほういほい」と叫びながら焚火を大きくする。書初めを投げこむ。高く上れば上る程その人は字が上手になるといった。やや下火になると厄おとしが始まる。厄落しの騒ぎが一段落する頃にはどんど焼きの火が小さくなりおきが沢山できる。この火に繭玉を枝のままつき出して焼く。こんがり焼いて持ち帰り家中の人や馬に食べさせる。燃えさし一本を火の消えないよう持ち帰っていろりに入れ火種とし、これで火を焚きながら繭玉を食べお茶を飲む。病気になったり不幸にならぬという。(高遠町芝平)

 

以上「どんど焼き」である。伊那谷では小正月の「どんど焼き」とともに二十日正月の「どんど焼き」があるため、「二十日」の行事もここに引用する。

 

二十日

〇二十日正月の簡単な年取りをする。歳棚もほんだれ様も正月の飾りは一切片付け、氏神様の庭でどんど焼きをする。(伊那市手良)
〇二十日正月で一切の正月の飾りを取り下げ、我勝ちに道祖神に持って行って焼く。どんど焼きという。(伊那市新山)
〇二十日正月、繭かき、稲扱きといって十四日に作ったのをとる。繭玉は初午に煮て食べ、繭玉の木はこの晩にせいの神で焼く。(伊那市小出)
〇二十日正月といって簡単な年取りをする。歳神様や神棚のお飾りをとり、繭かきといって繭玉をとり、稲穂もとる。お飾りは集めて、せいの神でどんど焼きをする。(伊那市天狗平)
〇歳神様や松飾りをとりどんど焼きをする。この日は女の休む日になっていた。(長谷村中非持)
〇二十日正月で家の飾りは全部とって道祖神の所でどんど焼きをした。(高遠町芝平)

 

 そもそも「どんど焼き」と項目のタイトルとしているあたりは、上伊那では「どんど焼き」が「一般的」と著者である竹入弘元氏は捉えている。長野県に限らず、小正月に行われる火祭りの一般的呼称が「どんど焼き」で通るから当然のことではあるが、例えば松本や安曇野において項を立てる際には、「どんど焼き」とすることはまずない。この地域では「三九郎」が「一般的」である。むしろ「三九郎」地帯が広がって現在があるようにもうかがえる。竹入氏は「どんど焼き」に副題として「(せいの神・ほんやり・三九郎)」と記載しており、「一般的」である「どんど焼き」のほかにカッコ内のような呼称もあることに触れている。若いころから竹入氏の記述に触れてきたわたしには、上伊那では「どんど焼き」が普通で、伊南の郡境域から下伊那にかけて「ほんやり」、点々と「せいの神」と呼ぶ地域もあるというイメージを抱いていた。確かに呼称としては周辺環境(道祖神そのものの呼称やはやし歌に見る「せいの神」といった例)から捉えると、古くは「さいの神」であったものが「道祖神」に変化したとともに火祭りも「どんど焼き」化したのかもしれないが、一般的に「どんど焼き」で通るのが実情である。

 事例からうかがえるのは、確かに木曽山脈の麓には「せいの神」地帯があることは事実のよう。これは権兵衛峠を介した木曽谷からの影響があるかもしれない。しかし、伊那市の火祭り呼称として「せいの神」を代表化してしまうには行き過ぎのように思う。やはり天竜川左岸や合併した高遠町や長谷村の例から考えると、「どんど焼き」呼称は多く、現時点で捉えると「どんど焼き」は一般的と言えよう。まさに竹入氏が昭和時代に捉えたイメージはに間違えはなく、時を経ているだけに「せいの神」は「どんど焼き」に移行しつつある。もちろん「せいの神」を広報することによる、その移行傾向を鈍化させていることも事実かもしれないが、昭和時代に竹入氏が捉えた事実は見逃せない。

 以上をもって「せいの神」という違和感に幕を引くこととする。

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「せいの神」という違和感から その14

2023-06-11 23:27:05 | 民俗学

「せいの神」という違和感から その13から

 ここまで『長野県上伊那誌民俗編』(上伊那誌刊行会 昭和55年)の第6章民間信仰の第三節「道祖神」に記載された伊那市関係のものを取り上げてきた。最後に同書の第5章「年中行事」に記載されているものを取り上げて今回の項を締めたいと思う。

 基本的に年中行事にある記載は小正月行事となる。伊那谷では中信のように小正月以外に道祖神の祭りを見ることはほぼないといって良い。

 

厄落とし(671~673頁)

〇七才の男の子は十五日の朝暗いうちに道祖神に参詣し、飯の茶碗に年齢の数だけ銭を入れ(銭は一枚あとは大根の輪切)道祖神に投げつけて帰る。帰りは来た道と違った道を帰り、絶対に振向かず、人に逢わないようにする。これにそむくと厄払いの効果がないという。厄年の男女は氏神様の拝殿に集まり、神主に祝詞をあげて穢れを払ってもらい御神酒をいただいて、厄除けのお守札と御供物のお洗米と鰯をもらって帰る。(伊那市手良)
〇厄年の者は年中自分の使った飯茶碗に、年齢の数だけ銭(一厘銭か大根の切ったもの)を入れて行って、宮坂にある道祖神に投げつけ、後ろを振り返らないで帰ると、門口でナンバソ(胡椒)を焚いて魔除けとし、邪神の家へついて入るのを防いだ。(伊那市山寺)
〇厄年の人は日頃自分で使っている御飯茶碗へ、銅貨と大根とを自分の年の数だげ入れて、道祖神へ自分で持って行って投げつけて茶碗を割る。厄を投げたという。家へ帰る時は絶対に後を見ない。後ろを見るとまた厄が取りつくという。道祖神は道の四つ角に立っていて、厄を四方にはらってくれる。(伊那市西春近)
〇いままで自分の使っていた茶碗に、自分の年の数だけ銭を入れ、道祖神へ行って投げて、振り向かないで帰る。(伊那市東春近)
〇厄年の者は自分の茶碗に、年の数だけ大根を四角に切って入れ、村はずれのせいの神の所に持っていき、茶碗が割れるように投げつける。これで厄が落ちるという。他人に見られてはいけないという。厄年殊に大厄(男二十五・四十二、女十九・三十三才)に当る者は、厄落しといって、主として小正月に近隣親戚友人を招待する。盛込みをつくりお吸物で酒肴を出し、いなだや鱒を引物とし、多勢に厄落しをしてもらう。今日は誰さん、明晩は何家となかなか大変であった。今はまったく行わなくなった。(伊那市天狗平)
〇十四日の晩厄年の人は自分の平常使っている飯茶碗に、年齢の数だけ銭を入れ、道祖神に行って人に見られぬように後ろ向きになって、茶碗を道祖神の石に投げてこわす。年齢の多い人は大根を輪切りにして銭に加える。(長谷村)
〇十四日の晩厄年の人は毎日使っている飯茶碗に、自分の年齢に相当する銭と、大根と人参を輪切りして年の数だけ入れて来て、道祖神に投げつける。子供達は争って拾う。絶対に振向かないで家へ帰った。(高遠町芝平)
〇十四日に部落全体で厄年の人をよび、厄払いの酒盛りをする。(高遠町荊口)
〇十三日に道祖神の所へおんべを立てる。長い三十尺もあるような棒の上端から八尺位の所へお注連を縛りつけ、これに柳といって竹を細く割った物に、細かい紙片を貼りつけたものを何本もさす、子供達は十四、十五と二晩ここへ集まり、藁や麦からをもって来て焚き、十六日の晩おんべを倒してこれを焼き払う。少しでも残すと病気がはやるという。焼きながら「道祖神のおんばかは出雲の国へよばれて行って、ジンダ餅を食いよってあとで家を焼かれた。ヤハ-イ」とはやす。(長谷村)

 

おんべ(673~674頁)

〇十三日に道祖神の所へおんべを立てる。長い三十尺もあるような棒の上端から八尺位の所へお注連を縛りつけ、これに柳といって竹を細く割った物に、細かい紙片を貼りつけたものを何本もさす、子供達は十四、十五と二晩ここへ集まり、藁や麦からをもって来て焚き、十六日の晩おんべを倒してこれを焼き払う。少しでも残すと病気がはやるという。焼きながら「道祖神のおんばかは出雲の国へよばれて行って、ジンダ餅を食いよってあとで家を焼かれた。ヤハ-イ」とはやす。(長谷村)

 

おんべうちわ(674頁)

〇一月十三日に古寺部落三十三軒から、一人ずつお堂に集まる。堂役(部落の世話役で年番)の世話で、男は青竹を二尺五寸位に切り、女は紙を刻んでオソベウチワと、ヒフセ(火伏)と御幣を作る。オンベウチワは青竹の上に竹ヒゴで輪を作り、下はりをした上に赤い紙をはってウチワのようにして、これを山から伐って来た二間位の松の頂上に結びつける。ヒフセは竹ヒゴに紙を巻きつけて柳のようにして三十三本(各戸一本)作り、松の木の下の方を飾る。オソベはオンベウチワのすぐ下につける。厄年の人は色紙で作った短尺に、道祖神などと字を書いて松の枝に結びつける。この松の木は道祖神の脇の電柱に結びつける。その晩は皆でお祝いをする。松の木は二十日までそのままでおき、二十日の午前零時になると一つしかないオンベウチワとオンベを取ろうと、部落の人は闇の中で争う。オンベウチワとオンベを手に入れた家では、その年は良いことがあると上座敷に飾る。ヒフセは各戸一本ずつ持ち帰ってまるめて輪にし、屋根の上に投げて家の厄払いをする。(伊那市東春近下殿島字古寺)

 

だいもんじ(674~676頁)

〇正月七日頃までに責任者から各戸へ各戸の女手の数に応じて、短冊様の色紙赤・黄・緑・青の四枚を一組にしたものを二乃至四組位配布する。各家庭の女の人達は夜なべにその紙を縫い合わせて、おひねり袋をややふくらませたようなものを作る。材料が紙であるから時々破れることがあるから、それを見越して、多少余裕のあるように配るわけである。その袋に籾殻をはち切れる位につめて口をくくる。そしてその底の部分に各戸独特の意匠をこらした縁起ものを糸で吊り下げる。手まり・大福帳・俵・宝舟・大判・小判といった具合に。
 十三日の晩までにそれを用意して、いよいよ十四日の朝になると、部落の中央の三つ辻で道祖神のある場所へ手に手に得意の作品をもって集まる。そこには氏神のお祭りの幟枠と同様の枠が常設されてあり、既に若い衆が大きな棹を仕掛けて、袋の飾りつけの用意をしている。
 棹の中央よりやや下の方に穴があいていて、それに二尺位の竹をさす。その上部に石油箱大の木製の直方体に、親棹の通る位の穴をくり抜いたものを通して竹の所で止める。その直方体に紙が貼られて、その一方には「天下泰平」他方には「大文字」と筆太に書かれている。その上部に錐の穴位の小穴を全面にあけてある四尺四方位の板を親竿に通し(勿論この板には親竿の通る丸い穴が中央にくりぬいてある)前述の箱でとめる。その板の穴に持ちよった袋の糸を通し、背面でとなりの袋の糸と結び合わせて止める。板の下面には百個以上の袋が吊るされるので、殆んど板の地は見えない位になる。なおその上に親竿を通す穴以外には水気の浸みるところのない板を一枚重ねて、雨や雪で濡れるのを防ぐ。その一間程上部には、酒がいっぱい入った三升樽が結びつけられ、尚一間程のぼったところに青竹と御幣を結びつけ、最先端には麦稈でべんけいを作り、それに長い竹串に色紙のみじん切りを貼りつけた「花」と称するものを二三百本さす。なお大風に耐えさせるために井戸縄用の縄を三方につるために結びつけておく。
 これで装飾は一切終了。若い衆が先達でかけ声高らかに、相当目方のついた竿を立てる。縄は三方に三十間位の距離まで張られる。その途中には太い注連縄が飾られてある。このまま二十日正月までおかれるわけだが、この飾りものを「でえもんじ」(おそらく大文字の訛であろう)と称している。
 子供達は「でえもんじ」の立っているうちはお正月気分に浮かれて、嬉々として楽しんだものである。雪の朝など厚く積った雪の下に、色とりどりの袋がこみあってついているところなど、又雪の目方で天空に大きく孤を描いて三方に垂れ下っている綱などなかなか風流なものである。二十日正月で正月行事は一切終わりを告げるわけだが、この朝「でえもんじ」を倒し、各戸で再び集まって、今度は自家の作品を避けて、他家のものを貰って帰るわけだが、なるべく袋のできのよいもの、お飾りの意匠のよいものを貰いたがって大騒ぎになる。これを花と共に持ち帰って、花は大戸口の板壁の継ぎ目にさし、袋は戸棚のえびす様に供え、一年間そのままにして置く。そして一年たつと昨年のものと取替え、古いものはこの晩行われるさいの神で焼かれる。三升樽の酒の処分は若い衆の権利になるもので、近く行われるおごりっこに用いられる。以前一時止めたことがあったが、その年は疫病が流行したので、また始めたと古老のいい伝えがある。(伊那市上戸)


 以上である。「厄落とし」では天狗平にのみ道祖神のことを「せいの神」と称している例が見られる。また「だいもんじ」は上戸の事例であるが、ここでも「だいもんじ」を倒した後に前年の飾りを「さいの神で焼かれる」と記しており、焼く行事を「さいの神」と称している様子がうかがえる。いずれも木曽山脈の麓での事例である。

続く

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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****