Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

旧暦1月10日のお日待・後編

2019-02-17 21:43:09 | 民俗学

旧暦1月10日のお日待・中編より

日曽利

 

お日待

 

 お日待は、旧暦1月10日の午後7時に始まった。本寺である常泉寺の和尚さんが経を唱え、魔除けを混じえた経も唱えられ、また般若心経も唱えられた。これらは祭壇、いわゆる松福寺の本尊に向かって行われるもので、参加者は和尚さんの指示に従って拝礼をして始まり、焼香をした後、再び拝礼があって終わった。もともとのお日待がどう行われていたか、今は知る由もないが、現状は常泉寺主体のお日待となっている。

 会場にはお日待用と言われる掛け軸が3幅掛けられるが、お日待と直接的に関係しているのかははっきりしない。ひとつは涅槃図、いわゆる釈迦の涅槃すなわち入滅 (死) の情景を表わした図だ。二つ目は「尽人事待天命」、ようは「人事を尽くして天命を待つ」、三つ目は鍾馗さんの図である。お日待に無関係ではないかもしれないが、こういった掛け軸が掛けられる例を近在では見ない。

 この日準備をされた役員は8名おられた。そしてお日待に集まったのは総勢15人。ようは役員が8名おられたから、役員外は7名である。20名くらいは集まるのかと思っていたが、やはり平日ということもあって参加者は少なかった。これでは「煮和え」を作る側も大量には作れない。

 お日待に札を立てるという例は、近在はもちろんだが、県内でも例はほとんどないのではないだろうか。とはいえ、ウェブ上で検索していると、お日待に「四方札を立てる」という事例を紹介しているものも見られる(岡山県の日蓮宗のもの)。この札に惹かれたのは、わたしの住む近くの集落で行われる藁草履を掛ける「厄神除け」行事において、昔はムラの四方のうち2箇所に藁草履を、もう2箇所には御札を立てたという話を聞いていたからだ。お日待が祈祷を意図していることから、こうした行事は名前を変えて様々な時期に多様に行われていたことがうかがえるが、現在行われている例はとても少ない。日曽利では各戸に配られる御札は「例会」までに配布、と役員のメモ書きにある。「例会」とは毎月行われる集金のための集まりのことを言う。そして集落境5箇所に立てられる御札は、立札のされる場所に近い役員が後日立てるという。

 

日曽利橋東(道の向こうは駒ヶ根市吉瀬へ)

 

芦ヶ沢(道の向こうは中川村南向)

 

丸山(道の向こうは駒ヶ根市吉瀬へ)

 

山の田 奈良部(道の向こうは駒ヶ根市中沢へ)

 

山の田 大上の上(道の向こうは陣馬形山へ)

 

 本日5箇所の立札を確認してみると、すべて新しい御札が立てられていた。おそらくお日待の翌日あたりに立てられたと思われる。

 日曽利は飯島町でも天竜川東岸にある唯一の地区。もともと現在の旧南向村(現中川村)だったのだが、橋を渡れば飯島に近いこともあって、昭和24年に飯島町に編入された。西岸地域とは環境がだいぶ異なるが、戸数そのものはそれほど変わっていないという。

 

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長野県指定有形民俗文化財「小正月関係資料コレクション」について

2019-02-16 23:34:42 | 民俗学

 長野県民俗の会第213回例会は、長野市立博物館に保管されている481点にのぼる県下各地の「小正月のツクリモノ」等が、「小正月関係資料コレクション」として県有形民俗文化財に指定されたことについて考える例会となった。この指定にかかわられた長野市立博物館の樋口明里さんより指定された481点について説明がされ、そのうちのいくつかのコレクションについて実物を拝見した上で、午後はこれらコレクションを中心にした意見交換となった(平成30年8月29日答申物件)。

 そもそも指定された物件についての長野県文化財審議委員会の答申内容に触れてみよう。答申された際の「長野県指定文化財調査票」によると、

本資料は、長野市立博物館によって平成6 年以降収集された、小正月関係資料のコレクションである。長野市内のものが多いものの、北は下水内郡・下高井郡から南は下伊那郡・木曽郡に至る、広範囲に及ぶ資料が収集されている。
その種類は多岐にわたっており、道祖神像・性器形態物などのA.神体・偶像類、農具雛形・福俵などのB.祈願品類、C.削り掛け・幣束類、箸・鳥追い用拍子木などのD.呪具類のほか、E.製作道具・素材に加えて半製品までが含まれているというのが特徴である。さらにはF.小正月行事の記録類や、G.大正月行事のツクリモノといった関連資料も収集されており、その数は481 点に及ぶ。

とある。そして指定理由について

 高度経済成長に伴う農業構造の変化により、農業従事者が減少するとともに種々の農耕儀礼も簡略化あるいは消滅の一途を辿った。こうした環境において本資料は、農耕儀礼の中でも主要な位置を占める小正月関係行事の、県下における系譜を知る上で重要である。
 また、小正月行事における地域差を把握する資料として高く評価されるとともに、農業に寄せる人々の心情を推し量る資料としても貴重この上ない。

とある。何といってもこうした有形民俗文化財については、その活用に限るだろう。そういう意味でも今後公開されて、人目を浴びることによってそれは活かされるわけだ。

 実はこれら481点について「コレクション」と標記しているように、意図的に集められたものというよりは、たまたま集められたものが481点あったと言った方が正しいだろう。これらを集められたのは、かつて博物館に勤務されていた辻浩子学芸員だ。平成6年ころから数年にわたって集められたものが主で、これらは博物館に埋もれていたモノと言える。それらが文化財として日の目を浴びたことは評価されることだろうし、指定されたことで、他の博物館から貸与依頼を受けることが多くなったとも樋口さんは言う。文化財の活用という面では、やはり指定を受けることに意義があると言えるのかもしれない。

 これらコレクションを見たとき、少なからず違和感を抱いたのは、コレクションだからだろうか、樋口さんの説明にもあったが、実際に小正月に作られた、というよりは展示のために再現されたものがそれらに含まれているということだろうか。考えてみれば博物館に所蔵されていた経緯をみたとき、企画展などの展示のために作られたものが少なからず多いのも無理はないということだ。ようは行事における実際の対象物ではなく、再現されたモノであって、その経緯から実物とは違った作り方がされていても不思議ではないということ。確かに指定理由にある通りなのだろうが、それらが言い方を変えれば模造品とも捉えられる点だろうか。もちろんすでに20年以上経過していることから、今調査に出向いて収集できるものではないことは十分承知している。だからこそ価値があることを認めもものの、それら481点の背景についてはよく調べておいた方が良いのではないかということ。わたし的には、481点のリストよりも、ひとつひとつが、博物館、あるいは集められた辻さんがどう扱われたか(発表された文献とのリンク)を知りたいとリスト一覧を見ながら思ったわけだ。

 さて、意見交換の中では、これら物件が長野市内のものだけではなく、全県下の物件が含まれていることに関連して、あまたある県内の資料をどのように位置づけ、これら指定物件をより活かすためにも県内における小正月関係のモノヅクリについて体系化できないかという話になった。そうした中で浮き彫りになったのは、博物館の連携という課題だ。県内には多くの博物館があるが、例えば学芸員の横の連携がされているかといえばNOである。そもそも学芸員が忙しくて、さらに人数も少なく、他人だから理想を口にするが、現実的には無理な環境にあることは十分承知している。もちろんそれらは、予算措置的な問題なのだろうが、現実的な問題について、そもそも行政下にある多くの博物館が大きな主張をすることもできないのだろう。と考えたとき、こうした現実的な課題を話し合う場面にこそ、行政関係者が足を運んで生の声を聞いてほしいところだが、わたしたちのような趣味で集っている者が愚痴を吐くしかない場になってしまっている。光の当たる場所には足を運んでも、現実の姿には目を留めようとしない行政の姿勢がうかがえる。連携できない博物館に比較すると、図書館はどうだろう。県立図書館が主体となって、かなり連携が取れるようになったと傍目には見える。そう考えると、あまたある市町村にある博物館をつなぐ役は誰がするべきか、自ずと見えてくるのだが…。

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旧暦1月10日のお日待・中編

2019-02-15 23:40:34 | 民俗学

旧暦1月10日のお日待・前編より

 役員の方は夫婦連れでお日待の準備をするのが習わしのようで、女性の仕事は料理。お日待で必ず作られる料理が「煮和え」というもの。大根と人参、こんにゃくを長い時間をかけて煮、くるみ和えを混ぜていく。いわゆる和え物になるが、具は比較的大きめに切られていて、我が家でイメージされる和え物とは少し違う。午前中2時間ほど煮込まれた「煮和え」は確かに和え物に見えてきたが、ここから煮ては和えてが繰り返されたようだ。この「煮和え」はお日待の後の茶話会のご馳走となる。かつてはかなりの量を作られたと言うが、今はお日待に参加される人が少ないことと、若い人たちはあまり食べないらしく、かつてに比べると作る量は減ったという。

 

 「煮和え」のほかに、けんちん汁、ほうれんそう和え、焼き豆腐の煮物、漬物といったものが用意されるが、いずれにしてもかつてに比べると参加者が少ないため「余ってしまう」らしく、年々作る量は役員の中で検討しながら減らしてきているようだ。その傾向をうかがわせる話が、この日のお日待後の常泉寺の和尚さんの口からあった。お日待後に、和尚さんの法和があり、その中で和尚さんはこれまでのようなお日待の継続が難しくなっても「煮和えだけを用意するような形でも続けていってほしい」という言葉があった。ようはお日待に「煮和え」は大事な存在なのだということがうかがえた。

法話

 

「煮和え」

 

 さて、その「煮和え」を、茶話会でお客になった。見た目は今風の食べ物に慣れていると色合いがなくて今ひとつなのだが、食べてみると意外と言うと失礼だがとても美味しい。いわゆる和え物と違って、長時間煮付けられたせいか柔らかい。大根が大根らしくないほど柔らかい上に、酢のせいなのだろう「サクサク」している。こんな和え物を食べたことがない。女性の方々に聞いてみると、自宅で「煮和え」を作ることはほとんどの人はないという。ようはお日待だけで作られる料理のよう。

 午後7時に始まったお日待も30分ほどで終わって茶話会となる。茶話会と言っているようにお酒はなく、お茶だけの直会である。並べられた料理はもちろん「煮和え」のほかお菓子、イチゴだった。前術したほかの料理は、お日待前の役員と和尚さんとの夕食に出されるもののよう。役員以外の方たちはある程度すると各自帰られて行き、お日待は1時間半ほどで終わる。役員の方たちのメモには、総代さんはスーツにネクタイ、そのほかの人たちの服装について「ジーパンはNG」とあった。かつて「煮和え」は地元で作られたものでまかなったのだろうが、今は材料のほとんどは購入品のようである。

続く

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旧暦1月10日のお日待・前編

2019-02-14 23:43:19 | 民俗学

 

 現在も昔からの日取りで行事を行っている例は稀になった。ほとんどは休日に行事日をもっていってしまっており、休日が土日ではない人々にとっては、迷惑かもしれない。これほど働きが多様化しても、やはり土日は休日という当たり前が意識されている。いってみれば土日は「ハレの日」というわけだ。

 さて、2年前に「ムラ境のお札」について触れた。翌年訪れようとしていたら時を逸してしまい、行けなかった待望のお日待に足を運んだ。飯島町日曽利の松福寺という寺で行われるお日待は、旧暦の1月10日が祭日だという。いつから行われ始めたのか、あるいはいつから旧暦の1月10日に行われていたのか、今お日待に関わられている人たちにはわからない。とりわけ旧暦の1月10日が特別な日というわけではないが、現総代さんの記憶では「昔から旧暦1月10日」と言われて実施されてきたという。旧暦であるから、この日が立春前であったり、後であったりと、2月の初旬のこともあれば、まもなく3月ということもあって、その季節感にはだいぶ違いがある。

 松福寺は、戸数40戸余の日曽利の唯一の寺で、無住である。鈴木義道と言われる住職が最後だったと聞き、すぐ近くの道端にある同氏の墓標を見てみると、「大正十一年」と銘があり、無住となって間もなく百年となる。日曽利にあるすべての家がこの寺の檀家ではないが、ほとんどが松福寺の檀家という。無住のため、本寺である中川村大草の常泉寺に頼ることになる。お日待には、その常泉寺の和尚が訪れ、お日待の御札に魂入れをしてくれる。

 当日の午前中、総代さんや世話人のほか、日曽利にある四つの地区から参加した役員の方たちによってお日待の準備が始まる。寺の外回りの掃除や、祭壇の掃除、そして役員の家からは女性も加わってお日待の茶話会の食べ物の用意も同時に進行する。最も手間を要すのは御札作りである。メモ書きには作成数を54札と書かれているが、少し余裕をもって作られるようで、昨年の残り(見本とも言えるが)もあった。その内訳は檀家に配られる御札42(地区外にも檀家の方はいる)、寺に2札、集会所1札、消防詰所に1札、水防倉庫に1札、山の田のお堂に1札、そしてわたしがこの行事を知るきっかけとなった集落境に立てられる札が5札である。「ムラ境のお札」では、4札と記したが、よく聞くと山の田地籍には2札立てられるという。この集落境に立てる札には笹竹がつくため、その竹の用意もされる。

 御札は「ムラ境のお札」でも触れた通り、三つ折にした御札の外包と、中に入れられる御札があり、封入した後金色の帯で閉じられる。三つ折にされる紙は「奉書紙」と言われる和紙で、厚手のもの。中に入れられる御札はそれよりは薄い紙と、別の和紙が使われる。奉書紙は31.5センチ×26センチ角のもので、三つ折りしやすいように型枠が用意されていた。版木も外包用のものと、中の御札用の2種類あるが、いずれもだいぶ使い込んでいて、刷っても文字の周囲がはっきりしない部分が出るほど摩耗している。スポンジで墨汁を版木に塗り、和紙をあててバレンで刷るわけだが、使い込んでいることもあって、墨の塗り方が難しいようだ。封入後外包の表に朱の印が押されるが、この印は常泉寺のもので、この御札を作る時だけ借用するという。

続く

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子守神社へ

2019-02-13 23:19:43 | 信州・信濃・長野県

 

 昨日も阿南町の現場を訪れた。等高線を追って行って、このあたりなら隧道が顔を出すのじゃないかと思い、道なき山をかけくだったら、予想通り隧道がほんの少し顔を出していた。これが経験者のなせる技かもしれないが、とはいえ宝探しみたいな賭けであるのも事実だ。沢をひとつ間違えれば落胆は大きい。降りる時は良かったが、もとの場所まで登るつらさはなかなかのものだった。とはいえ、これが見つからなかったら、またまた山の中で独り言を吠えていただろう。

 さて、阿南町富草の恩沢という集落に入った。阿南町はこれまでにも山深いところをあちこち歩いているが、恩沢は初めてだった。すぐそこに天竜川の谷が見えているが、川が望めるところではない。山懐といった感じで、とても静かなところだが、天竜川沿いを走る飯田線の列車の音がかすかに聞こえてくる。

 集落の真ん中に小高い丘があつて、その上に子守神社という社があった。山道から見上げる鳥居と「子守神社」の碑が印象的に冬の日差しをやわらかく浴びていた。見るからに数戸しかない集落だが、ひとつの神社を立派に維持されている。本殿前にある舞台は、足元がだいぶ朽ちていて、地震でも発生したら倒れるのではないかと思うほど不安定さを見せるが、頭上の柱は太かった。本殿もまたちょっと足元が脆弱化している印象があったが、社殿の前に額が掛けられていて、写真額がふたつ掲げられていた。ひとつは平成28年5月1日に修繕工事をした際の記念撮影で、もうひとつは同じ年の9月25日の伐採記念という写真だ。大勢の参加者が写り込んでいて、そこから神社に対する思いが伝わるような気がした。若い人は少ないが、集落に住まう方、あるいは今は遠隔地に住まわれている関係者も参集したのだろうか。

 祭神は「水分神」(みくまりの神)で、雨水または流水を分配することをつかさどる神だという。水を程よく分配し、五穀豊穣を願ったわけだ。「みこもり」を意味し、「こもり」から「子守」、ようは子供を守り育てる意図がある。

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ハードディスクが、また壊れた

2019-02-12 23:38:36 | つぶやき

 これまでにもPCにかかわることは何度も記してきたが、デジタルデータの場合、スペースを取らずに保存できることが大きなメリットであるし、検索しやすい面もあるが、何といっても壊れてしまうと「それまで」である。これまでにも何度となくハードディスクが動かなくなって、後悔したことは何度もある。そこで複数のバックアップを心がけるようになったが、とはいえ大量のデータを扱うようになって以降、忙しさに追われてバックアップしているかどうか怪しいものもあれば、時代によってバックアップをしたかどうかも記憶にないものもあって、確実なことは言えないのが実際だ。

 会社に置いているバックアップ、あるいは自宅に置いているバックアップ、という具合にあちこちに保存データを置いているので、どれがどうなのかわからなくなっているのも事実だ。そんな中、会社に置いていた平成23年あたりから27年ころまでのデータを収めていたハードティスクが、会社のPCにつないだところ、「フォーマットしますか?」と出てしまった。これが出ると、いろいろ試してみても二度と正常に動かない。それはほかのPCに繋いでもだ。これは論理障害らしいから、記憶媒体そのものの故障ではなく、中のデータ構造に問題が発生してデータが読み出せないタイプの障害だという。物理障害に比較すると軽いとはいえ、いずれにしても素人では媒体を読むことはできない。データ復旧サービスというものもあるが、高額なのでやすやすとは頼めない。結果的に「諦める」人は多いのだろう。ハードディスクによっては、PCとの繋ぎの際になんとなく違和感が(予感)あると、こんなことが起きたりするもの。何にしてもそうなのだが、慌てる人間にはこういう事故がよく起きる。

 ということで、自宅に帰って同じ時代のバックアップがあるかどうか調べているが、完璧に補完することはできない感じだ。とするとデータ復旧も視野に入れざるを得ないが、そうこうしていると、会社のマイコンピューターに古めのハードディスクを繋ぐと、どうも感じが悪い。ようはほかのハードディスクも壊れそうな予感が…。このごろ会社のマイコンピューターの状態が良くないのも影響しているのかも。いずれにしても、もしかしたらちょっとした出費も覚悟しなければならないのかも。昔データ復旧をした時代に比較したら、ずいぶん安価になったが、とはいえ安くはない。

 それにしても、ハードディスクはこれまでにも2.5インチものが何度も壊れているが、すべてIОDATAのもの。これで3台目だろうか。さらに言えば、USBメモリも何度か壊れているが、やはりすべてエレコムのもの。因果関係があるのか知らないが、最近はハードディスクを買う時は、IОDATAのものは避けるようにしている。

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大久保の「口頭念仏」を訪ねて・後編

2019-02-11 22:50:47 | 民俗学

 以前「2月8日の行事を飯田市にみる」において次のように記した。

櫻井弘人氏は、第2回伊那民俗研究集会において、わたしの発表内でこのこと(「伊那谷のコト八日行事」というネーミングには違和感がある)について触れたことに対して補足を行った。文化庁には「飯田の」と名称を付して欲しいと願ったものの、聞き入れられなかったという。

 これまでにも何度か記してきたことだが、飯田市周辺で継承されているコト八日行事は特徴的で、さらにその周辺で行われている念仏のみの行事とは様子が異なる。例えば現在実施されている安曇野のオフネ祭りに関する選択無形民俗文化財の調査においても、穂高型のオフネとそうではないオフネを明確に分けて扱うことで共通認識を持っている。あくまでも穂高型を対象に捉えようというもの。これは選択無形民俗文化財の性格によるところで、調査する側が一定の基準を設けて区分けをするのも許されること。そういう意味では、飯田市周辺のコト八日行事と、具体的に言えば上伊那で継承されているものとは一線を引いても良かったはず。もちろん調査をする範囲として大きく扱うのは良いが、実際の行事内容を把握していない者が選択したと言い切れるほど、この選択は曖昧な事例に影響を与えているかもしれない。

 例えば前編でも触れた駒ヶ根市のホームページだ。「大久保のコウトウネンブツ」について「指定…国・記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財(平成23・3・9)」と紹介している。大久保の口頭念仏が本当にコト八日行事なのかどうかについては、詳細に調べてみないとはっきりしたことは言えない。だからこそ選択無形民俗文化財なのだが、駒ヶ根市はこれを「指定」と標記している。確かに現在は2月に行われる行事だが、同ページでは「昔は節分の前日」と実施日について記している。昭和62年に同地区の中村文夫さんが記した口頭念仏の説明には、「おいしい味付けご飯に豆腐の入った味噌汁、イワシ(メザシ)、煮物…」と念仏後の食べ物について記している。イワシは節分に食べるものとしてよく知られている。ものによっては「豆腐汁」と記されていて、コト八日の食べ物と捉えられなくもないが、よく聞くと「豆腐汁」ではなく「味噌汁」だったと言われる。そして同説明には実施日のことは触れられていない。これは復活にかかわられた中村さんがまとめられたもので、そこには昭和62年から数えて「13年程前私が分館長のとき青少年健全育成会の事業の一つとして復活したいと思い始めたのです」とある。ようは昭和49年ころということになる。

 また数珠について前編で触れたが、書置きの中に手書きの次のように記されたものがあった。

口頭念佛用数珠について、先年大久保各常会にて行っていた口頭念佛も一時期とりやめたためにこの数珠を東伊那小学校へ寄附をし今日まで保管されていた来たが、この歴史的行事を続けていくためにも必要な品物のため小学校へお願いをし大久保自治組合に返品をしていただきました。紐等を直し今後永く行事が続くことを願い備品の一つとして保管してください。
平成15年2月 大久保自治組合長、大久保分館長

 この記録を見る限り、文化庁のまとめた『伊那谷のコト八日行事』の記載は間違っていると思われる。

 さて、地元でこれまで分館長を務められた方が書き記され、引き継がれている文書の中には、国の選択無形民俗文化財にかかわる説明をされているものがある。それら内容をうかがうと、「伊那谷のコト八日行事」として文化財に指定される旨のことが書かれていて、地元でもそうした説明をしていることがわかる。しかし、前掲の文化庁の報告書においても、調査対象にはされているが、コト八日行事と明確に言えるかどうかについては曖昧な書き方をしている。繰り返すが、「コト」とは何か、もう一度触れてみよう。

 コトとは節(せち)の国語的表現で、歳時の折目の意味。折目には多く神祭が行われるのでコトは祭事(神事)の意味も含み、また労働の折目に設けられる休み日のこともさす。(『日本民俗大辞典上』632頁)

 ようは「コト」と「八日」は別の日であり、あえて「コト八日」という以上2月8日、あるいは12月8日に限定された行事と言えるだろう。もちろん飯田市周辺では2月8日を中心に引き継がれるように展開する行事があって、日を追って実施される例があるが、これらは明確にコト八日行事と言える。ところが大久保の例は、現在のところはっきりとコト八日行事と断言できそうもない。上伊那においては「寒念仏塔」が夥しく建立されている。寒が明けるころに念仏の成就を願って建てられたとも考えられ、かつてこの地域で寒念仏が盛んであったと予測できる。寒が明けるころ、ようは節分のころである。そして上伊那には彼岸に念仏をするところも多かった。とりわけ大久保の場合中断していた時期があるだけに、コト八日行事のひとつとして扱うには早計だとわたしは思う。

 さて、この日は総勢18名によって念仏は唱えられた。昔にくらべれば子どもが減ったとはいえ10名を数えた。復活後は大久保一つにまとめられ、新たな口頭念仏が始まったとも言えるが、とはいえ確実ではないことを伝えてはならないと思う。

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大久保の「口頭念仏」を訪ねて・前編

2019-02-10 23:57:07 | 民俗学

 

 かつて「コト八日を探る⑨」で触れた駒ヶ根市東伊那大久保のコートーネンブツを訪れた。コートーネンブツを「口頭念仏」と記しているのは、数珠を納めている箱の表書きからわかる。なぜ「口頭」なのか聞いてみると「口頭伝承」からきているようだ。ようは口伝えに継承されてきたことからそう言われる。箱はだいぶ擦れているが、それほど古いというわけではない。同じ筆跡で「大久保分館」と書かれていることから、公民館分館が主催するようになった際に作られた箱だろうか。

 大久保では戦後昭和26、27年ころに最後まで残っていた本村の念仏も途絶えたという。そもそも大久保には北から田甫、本村、門前という3つの集落があった。それぞれに念仏があったと言い、はっきりしないが集落ごと実施日には違いがあったようだ。最後まで残っていた本村において、昭和45年から50年ころ、公民館分館が主催して念仏が復活したという。中断するまでは集落内の家を当番で回していたと言うが、復活後は最初から集会施設で行ったという。当時の箱の中に数珠を納めていたが、その後その数珠がなくなってしまって、念仏の途絶えていたところの数珠を譲り受けて今の数珠となっているようだ。ただし、文化庁のまとめた『伊那谷のコト八日行事』(文化庁文化財部伝統文化課 平成27年)には、「戦後一時途絶えた時に、数珠が行方不明になり、再開時には念仏が途絶えた地区で数珠を譲り受けようと探しに行った」とある。再開時に関わった方によれば、当時は昔の数珠があったといい、この調査報告とは異なっている。文化庁の報告書では本村の宮北修治郎氏よりの聞き取りで構成しており、複数の聞き取りをした様子はうかがえない。実際に子どものころ経験したことについては正確なのだろうが、再開後の聞き取りは曖昧な部分があるかもしれない。

 曖昧といえば実施日のことである。再開時に関わった方に聞いたところ、最初から2月8日ころ実施したと言うが、『伊那路』第38巻5号(平成6年)に下村幸雄氏が「大久保の口頭念佛」と題して報告した際には、「3月6日」と実施日を記載している。このことについて再開時の方にお聞きすると「ずっと2月8日ころやっているはず、それ(『伊那路』)が間違いではないか」と言われる。さらに以前にも記した通り、かつて別々に行っていた時代には、3月に実施していたという話も聞いた。また駒ヶ根市のホームページ「大久保のコウトウネンブツ」には、「昔は節分の前日常会(集落)単位で当番の家に集まって行い、村中廻って歩いたと云われており、その後「白飯」「豆腐の味噌汁」「いわし」がつきものの食事をとったとのことである。」と記載されている。「節分の前日」とあり、コト八日ではないのである。さらに曖昧と言えば、同ページに「伊那谷の南部を中心に残る節分に伴う「コト八日行事」は、2月8日あるいは9日に、コトノカミオクリあるいはオクリガミ、カゼノカミオクリなどと呼ばれる行事が行われ…」とあり、節分との混同が見られる。

 もう一度確認するが、再開時に関わられた方によると、明確に「2月8日に実施した」と言われるが、コト八日についての認識はまったくなく、あえて言うなら「事始め」のことは認識はされていたが、それがコウトウネンブツと関係しているとは言われなかった。

 さて、実際の行事を記しておこう。現在は2月8日前後の日曜日に行われているようで、主催するのは育成会だと言われるが、公民館分館と言った方が正しいかもしれない。なぜならばこの念仏を仕切られているのは分館長だった。ご存知の通り、分館の役員は毎年変わることから、念仏のことをあまり知らない人が多い。今年も念仏のやり方について主催側の方たちは分からず、毎年参加していると思われる方にやり方を聞いておられた。もちろんかつては子どもが中心に行われていたから子どもが最もわかっていたはずなのだが、今は主導するのは大人である。午前10時に念仏は始まった。

 かつては香炉に立てた線香1本が燃え尽きるまで念仏を続けたと言うが、長すぎるため、今は線香を半分に折って火を付けている。とはいえ、半分でも燃え尽きるまでには数え切れないほど数珠が回されることになる。数珠は右回りに回され、2箇所に木札が付いていて、それが回ってくると額にあげて念ずる。輪の中には年長の子が鉦を叩き音頭をとる。そして「コウトウネンブツ、ナンマイダー」を延々と繰り返すのである。線香が燃え尽きると分館長の合図で終りとなった。

続く

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「他処者」-『伊那路』を読み返して①

2019-02-09 23:32:33 | 地域から学ぶ

 時代と言えば時代であるが、ウェブ上で調べたいことを検索すると、ある程度おおまかなものはウェブ上に散らかっている。もちろんその精度については、扱う側の判断になるが、いっぽう時代を遡るほどに検索数は減り、場合によっては何もヒットしないことも当たり前である。そういう意味では、過去に記されたものをある程度(題名とか内容の要約など)ウェブ上に残しておくことによって、どこかに公開された資料があることは気がついてもらえるのだろう。図書館に籠って「らしい」資料を探し出すよりも、ウェブ上で検索する方が容易だし、簡単だということもあって、わたしもすぐに走ってしまう方だが、丁寧に資料を探していくことが、かつては当たり前であったことが、いつか忘れられてしまうのではないか、と心配にもなる。

 さて、先日「コンブクロ」のことについて『伊那路』(上伊那郷土研究会)の初期記事から引用したところだが、あらためて『伊那路』の過去の目次だけ見ていても、興味深いものが見える。もちろん内容を紐解いたら期待通りではない記事もあるが、あらためて過去の報文の興味深いものをわたしなりに紐解いてみたいと思う。

 中村寅一氏は『伊那路』第1巻5号(昭和32年)において「余処者」を記している。書き出しはこうだ。

 婚礼や葬式の時、その家の近所でもなく勿論親類でもない人が来て手伝っているのを見て、あの人は此の家とどう云う関係の人だろうとの疑問に対して、「あの人はこの家が草鞋ぬぎ場だから」と云う答えを聞くことがある。

「草鞋を脱ぐ」についてはデジタル大辞泉には

1 旅を終える。
2 旅の途中で宿泊する。旅宿に落ち着く。
3 各地を転々とするばくち打ちなどが、ある土地に来て一時身を落ち着ける。

とある。よそ者がどこかの土地に住み着けば、結果的に旅を終えることになり、「草鞋を脱ぐ」ことになる。今ではこのようなことをよそ者に対して口にする人はいないだろうが、意識としいまだ残っていても不思議ではないものだ。こうして住み着くにしても、その地の人々に認めてもらわなければ仲間入りはできない。そのために世話人を介して定住するに当たっての一札を入れることがあった。中村氏は安政3年と萬延元年の北大出村(現辰野町)に残された一札を紹介されている。引受人、いわゆる世話人は当人の身分については一切わ引き受けて役元には厄介をかけないと書き記しているのである。中村氏は次のように記している。

こうして一切を保証して役元へ一札を入れておくのであるから、酒くせが悪いとか、喧嘩口論をしたとか云う時はその尻は引受人に持ちこまれることになるのだから、引受人も余程当人の性質を理解出来ないうちは引受けは出来なかった。だからこの者に対して引受人達の力が働くのは当然であり、従って引受人に対しては終生頭が上がらなかったと云うのも当然であった。この引受人が草鞋ぬぎ場になるわけだから、この家の農事に忙しい時の手伝とか、冠婚葬祭の時一心に働いて手伝うなどと云うことは当然であった。

 わたしも今住んでいる地域にしてみれば「来たり者」であることに違いはない。とはいえ時代は変わり、「よそ者」など言われることもないし、意見も同じように言える立場だが、それでも住み着いてひと世代終わるまでは、同じ仲間には見られないだろう、と感じているのも事実である。

続く

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再び“命懸け”

2019-02-08 23:20:44 | つぶやき

阿南町富草 「馬頭観世音菩薩」

 

 このところ阿南町の現場に入っている。今後も何度となく入る予定だ。かつて「命懸けの水」を記した。さらに「“命懸け”」を記し、その半年後にそう思った現場で「穴の中で思うこと」を記した。いずれも当時は記さなかったが、阿南町のある井水(用水路)で思ったことだ。当時怪我をした左手の薬指は、処置が良かったのか、運が良かったのか、お医者さんには「うまく爪が生えてくるかわからない」と言われたが、幸運にも元通りの綺麗な爪を今は見せてくれている。が、若干であるが、指先を意図的に触ると、今もって違和感はある。きっとわたしの記憶から隧道での危険さを忘れさせないための、神のお告げなのかもしれないと、触る度に思い出させる。

 当時怪我をした現場は特別なところ、と思っていたが、実は阿南町には似たような隧道が多い。というか、同じような環境の井水が多い。ここ何度か訪れている現場は、山の尾根をいくつか越えた大きな沢から用水を取っている。そして隧道がいくつあるかと思わせるほど、いくつかの尾根を越えて水田のある地域に導水しているのだが、尾根を越えるだけではなく、崩落した現場を回避するように隧道を掘ったところも数多い。そうしたほとんどの隧道は、出入り口はコンクリートで巻き立てられているが、数メートル中に入ると素掘りの隧道ばかり。それら素掘りの隧道は、長い間の風化でもろくなっていて、手で節理に沿って力を加えると簡単に剥離して落下する。かつて怪我をした際も、這って歩いていて、ふと壁に手を突いた際に岩片が落下して起こったもの。それまでは平気で素掘りの隧道に入っていたが、それからというもの、隧道に入るのにはためらいがある。とりわけ巻き立て部から素掘りの部分に入ると、岩盤の状態がどうなのか確認するようにしている。しかし、阿南町では、ほぼすべての素掘り隧道が状態はもろく、外力がかかるとすぐに落下するような状態だ。こんな中で地震が起きたら、と思うと生きた心地はしない。とはいえ、地震があってもこれまで持ちこたえていたのだから、そう簡単に落盤が発生するとは考えられないが、脆弱な状態であることに間違いはない。

 こうして山を越えて導水している井水について、どのような経緯で造られたものなのか、少し調べようと地元の書物を調べてみるが、なかなかそうした資料は見つからない。同様に井水のことでなくとも、その地域の歴史を紐解こうとしても、現実的には書き記されたものは少ない。以前にも記したが知ろうと思ったことが、地域の歴史書にも記されていないし、もちろん今は人に聞いてもわからない。戦後のことはある程度記録があるだろうと思っても、無いのが現実なのである。

 さて、写真は阿南町富草のある畑の脇にあった馬頭観音である。境界の目印に植えられたと思われる木に、この正月に供えられたオヤスがあった。おそらくこの端に昔の道があったのだろうと想像するが、今は井水を管理する人くらいしか通らない。

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コンブクロ

2019-02-07 23:40:35 | 民俗学

 「御神木」においてコンブクロについて触れた。現代では聞きなれない単語なのかもしれないが、意外にも上伊那郷土研究会の『伊那路』が発行を始めた時代の同誌には、「こんぶくろ」という単語を何度か見ることができる。初見は「赤いこんぶくろ」(『伊那路』第3巻9号 昭和34年)である。松村義也氏が記したもので、冒頭

赤いこんぶくろに栗一升 ナアニ

と始まる。今ではあまり聞くことのない謎かけを収集しているのだが、冒頭に記した謎かけをもって報文の題としている。松村氏はこの謎かけをとても気に入られたのだろう。この答えは「ほおずき」である。

ほうずきが畠の隅で赤く熟しているさまは一寸した風情である。実はつぶらで好ましく子供はこれを取って鳴らす。ほうずきの袋の実を抜いてそれを下唇にあてがい、上顎の葉で押しつぶすようにしては鳴らすのである。そんな子供の姿に素朴で豊かな山村を想い描くのは私ばかりではあるまい。自然の贈り物に恵まれぬ町方の子供たちは、以前店で売っている安物のゴムほうずきを買って鳴らしたという。「赤いこんぶくろに栗一升」とは、何と微笑ましく適切な表現であることか。これなど割合古くからいほれてきた謎の一つであった。

と記している。松村氏はこの続編を後年同誌に記している。

 同様に「こんぶくろ」について記されたものに、向山雅重氏の「ゆんめこんぶくろ」(『伊那路』第4巻6号 昭和35年)がある。副題に「草とこども」と記しているように、野にある草と子どもたちがどう接しているかというところを拾い集めたもので、現代ではあまり視線をあてるほど事例のない、時代性を与えてくれる興味深い報文である。向山氏は題にとりあげた「ゆんめこんぶくろ」のことを報文の最後で扱っていて、松村氏のそれと正反対な印象を受ける。「ゆんめこんぶくろ」についての記述は次のようなものである。

 守屋山や入笠山のつづきの山へ行くと、稀に、五月の花のなかにアツモリサウの咲いているのに出あふ。袋の形をしたその花を、敦盛が一の谷の合戦の折の母衣になぞらへての名前とか、これを藤沢谷ではユンメコンブクロとよぶ。そのユにアクセントを置く発音は、どこかエキゾチックな響きさへもっている。これを手良ではエンメコンブクロとよんでいたと向山鉄人さんの話である。
 ユンメコンブクロ、夢小袋-野山の草も木も、いずれも幼い者の夢の小ン袋へはいらぬものはない。そして、そのいずれもがその人一代の夢を育て、延命の小袋を成さぬものはないといひ得るであろう。少年の日の思いは、人の世の夢をあたたかく育ててくれるものなのである。

 実は向山氏の挿絵がそこには添えられている。守屋山で同年5月24日に、このアツモリソウを捉えて描かれたものだ。もちろん「ゆんめこんぶくろ」と記されている。夢の小袋は、子どもたちの夢を育ててくれる「袋」だと言うのだ。向山氏の暖かい視線が見えてくる。

 さて、この二つの報文から分かることは、「コンブクロ」とは「小袋」という捉え方である。御神木に限らず、傘の下に吊るされるコンブクロも、縁起をもたらす「小袋」なのだろう。また、当時は「こんぶくろ」と言えば「小袋」という解釈が当たり前にあったようにうかがえる。

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ヒイラギのこと

2019-02-06 23:11:15 | 民俗学

 『長野県史民俗編』(第1巻(一)から第4巻(一)「日々の生活」)には、屋敷図が掲載されている。4冊で12枚だからそれほど多い事例ではないが、この屋敷図には、屋敷内に植えられた樹木名も書き記されている。事例として取り上げられているだけに、その地方の農家の代表的例と言えるのだろうが、当然のこと、屋敷が広い家が多い。その中で唯一、旧東筑摩郡四賀村中川金井の小宮山家の例に「ひいらぎ」が見える。南向きのホンヤの南側にクラがあり、その裏手になるのだろう、さまざまな樹木の中に柊が植えられている。

 屋敷内に植えられる樹木について、同書の中で特別に項目を立てて記したものはない。したがって地域的に屋敷内の樹木にどういうものがあったかについて知る由はない。本文内に「屋敷内にある森や林」という項があるが、そこに「ヒイラギ」は登場しない。

 『長野県上伊那誌民俗篇上』(上伊那誌刊行会 昭和55年)にもあまり詳しい記載はないが、「屋敷内の植木」の中の「その他の植木」内に「柊」の文字は見えるが、特別に記載されるほどのものではない。

 実は我が家にも柊の木が1本植わっている。亡くなった母が「屋敷に1本はあった方がよい」と言ってもらったものだが、好かないが仕方なく植えたものだ。なぜ好かないかと言えば、葉が尖っていて「痛い」からだ。さらに雑草を手で取る際に、柊の枯れた葉っぱは、枯れていても尖っていて、触ると「痛い」。ようは扱いやすくない木なのである。葉に棘があることで、「魔除け」とされるのはよく知られているようだ。「防犯目的で生け垣に利用することも多い」は、ウィキペディアにも記されている。棘のある木々を魔除けとするのは、そもそも人も寄り付きたくないから意図がわかるだろう。節分に門口にそれを掲げなくとも、既に日常から屋敷への侵入をを防ぐ意図で生垣にする人もいるという。とはいえ、扱いづらいから生垣に柊を見ることはほとんどないが、実際のところそんな家があったら、鬼どころか泥棒も入らないだろう。「かにかや」の「かに」は蟹、「かや」は榧とすれば、いずれも寄り付きたくないもの。もちろん全国的に分布する蟹柊も同様である。

 この節分に、周囲の様子をうかがったが、同じ自治会内に複数戸、今年も「かにかや」を玄関戸脇に貼り付けた家があった。そのうちの1軒は柊に鰯が掲げられていた。来年はそうした家を訪れて話を聞きたいところだ。ちなみに、以前紹介した中川村沖町で唯一と言われていた「かにかや」は、今年は実施されなかったという。今後も実施される確率は低い。

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好かれる存在への“こころ持ち”

2019-02-05 23:09:17 | ひとから学ぶ

 もう何十年とつきあってきた同僚たちのことだから、性格はわかっているし、どういう場面でどういう問題が起きそうか、くらいは予測がつくもの。それでも性格の不一致というものもあって、誰と誰は仲が悪い、などという話はよくある話だ。わたしも短気だったし、比較的上に対して批判を繰り返したから敵を多く作った。最近は記していないが、もう10年以上続けている本日記にも、それとなく書いてきたことだ。人が少なくなればなるほど、空間での逃げ場がなくなり、周囲に悪態を吐くこともないわけではない。とりわけ若かったころは、大人社会への矛盾にたてつき、納得できないことはいつまででも引きずったものだ。若いからこそのもの言いだったが、若くても要領のいい人は、軽くかわしていた。だから若いころから「穏やかだ」と好かれる人はいたもので、そういう人へ妬みを持つのも無理はないことだった。

 先ごろ「遠い存在、でも近い話題」を記した。この日記の主人公は、医者になる原点に中学時代の同級生の女の子があったと本音を口にした。彼女は1年で転校していったが、確かにあか抜けていて可愛い子だった。田舎にはいないタイプ、と言うのは単純すぎるが、彼はそんな彼女に恋をしたのだろう。どうしたらあんな子と仲良くなれるか、それが医者へ目指すことになる始まりだったのだ。彼には小学校時代から近くに誰にでも好かれた特別な友だちがいた。そんな彼に憧れてもいたのだろう、その対抗心なのか友だちに「俺は医者になる」と宣言したという。友だちは「無理だ」と軽くあしらったらしいが、そうした対抗心や、「あんなふうになりたい」という憧れが、結果的に彼を強くしていったのだろう。これは結果だけ見れば良い事例と言える。

 そんな子どものころの初な、そしてレベルの高いところの話とはまったく違う。同じ会社の同僚の中にも、同じような感情は、とりわけ同年代に育まれる。それでいて誰にでも好かれるような存在は、とりわけ中心に居たいと思う人ほど邪魔に思うもの。そんな存在を、もしよく思わない周囲に好かれるタイプの人は、実は問題から逃げることが得意だから、そうした人たちの意識が解らない。だからこそ、周囲で見ていると、とても面倒くさい存在に見えたりする。どちらもどちらだと思うのだが、両者、ともにそれでは納得いかないのである。どこまでいっても平行線の関係は、けして交わることはない、とは思いたくないのだが、現実的に年老いても関係が変わることはない。

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節分に“燻す”

2019-02-04 23:39:10 | 民俗学

 

 「かにかや」については以前に何度か触れた。この節分前後には「かにかや」の検索数がとても多くなる。いまもって「かにかや」を検索する人が多いということは、「かにかや」をしている人もある程度いる、ということなのかもしれないし、かつて行っていた「かにかや」を思い出して検索される方もいるのだろう。

 一昨年節分後に訪れた松川町大島の大場さん宅を今年訪れてみた。あらかじめ時間を確認しに訪れると夕方暗くなるころとお聞きし、あらためて午後5時ごろうかがった。「続〝かにかや〟」で触れた通り、大場さん宅では節分に4つのことをされる。まず冒頭にも触れた「かにかや」である。あれから2年も経っているということもあって、当時新聞報道時に行事の中心を担われていたお孫さんも、こうしたことをするのには少し恥ずかしさが出てきたよう。あえて訪れたわたしのために写真のモデルになっていただいたが、2年前とは気分的に違うようだ。「かにかや」と書かれる和紙は、幅5センチ、高さ6センチ角ほど。ずいぶん昔に貼られたものが蔵の戸に残っていて、大きさはまちまちだが、平均的には今年使われた大きさくらいだろうか。聞けば息子さんが子どもだったころに貼ったものが今も残っているという。数えれば半世紀以上になる枚数が残っているから、当たり前かもしれない。3世代前のものまで残っているといってもようのだろう。とくに外的要因がなければ、1世紀くらい残っても不思議ではないと、蔵の大戸を見て思った。ちなみに貼られた紙に書かれた文字は、すべて「かにかや」であった。蔵の大戸、物置への入口の戸、もちろん玄関の戸、といったように戸のあるところにはすべて「かにかや」を貼るようだ(わたしの子どものころもそうだったから、珍しいことではないが)。ようは鬼が入ってこないように、という意味である。

 「かにかや」とは別に玄関の戸の脇には鰯と柊が飾られた。柊の枝に鰯の頭が3つ刺されていた。柊は屋敷の中に植えてあり、その枝が使われるという。そして今回見たかったのは、匂いの出るものを燻す行為である。コトエブシなどといって松本あたりでは盛んに同じような行為がコト八日に行われたと言うが、このあたりでは節分に行う。以前にも触れたが、コト八日行事が盛んなところでは節分の行事が希薄で、節分の行事が盛んな所ではコト八日行事が希薄だという印象がある。藁の束の両端を折り返して包んだようにしたところに、玉ねぎの葉やとうがらし、にんにく、ムシを入れる。昔は髪の毛を使ったと言うが今は入れない。船のように作られたツツッコについて、呼び名はないという。これを焼くことについて、先代からは「鬼退治」と聞いたという。「鬼ヶ島に鬼退治に行くぞ」といってこれを持って行って焼いたという。実際は、風呂を炊くオキをツツッコの上にかけて焼く。暗くなって焼くと、小さい子どもは「鬼が逃げるぞ」と言って怖がったという。

 節分の日の行為4つ目は、どこでも行う豆まきである。

 近在における節分の事例を拾ったものは『松川町の年中行事』(松川町教育委員会 昭和46年)くらいだろうか。そこに記載されている事例をいくつか引用してみよう。

〇(「かにかや」について)鬼(悪魔、いろいろの悪いこと、悪い病気、災難)が家の中に入ってこないようにするためである。
 かにははさみで鬼の目をつき、かやは榧と書き、火にくべると目が痛い程強い煙が出るから、これで農作物の病害虫を防ぐというまじないらしい。
 また、かにははさみで切り、ひいらぎやかやは葉のとげで鬼をさす意味だというところもある。
〇鰯の頭の部分だけを竹の串にさして、つばきをかけながら囲炉裏ばたで焼き玄関の横にさしておいた。鬼が来るとこのように首を取って火あぶりにしてしまうぞと見せしめにするのだと、年よりから聞いた。
〇かに・かやの紙のかわりに、ひいらぎまたはかやの木の小枝の先へむしたつくりの頭をさしたものを使う家もあった。
〇本物の蟹やかやや、ひいらぎの葉を門口にさしたのを略して紙に字を書いてはるようになったのだという。
 これらの意味について、蚊よけのため、虫よけのためということもいっているところもあった。
〇かに・かやの意味は、昔宮中で煤はらいのことを「かにはらい」という。節分は旧暦の新年を意味するから、この「かにかや」は去年一年の悪魔をすっかり払ってしまう意味とも考えられるという人もいる。

〇藁でつつっこを作り、中へこしょう・かみの毛・すす・(たつくりを入れるところもある)を入れ、夕方門口でいぶす。

 「かに・かや」について「紙のかわりに」という例もあれば「略して紙に」という例もあって、どちらが先か、という議論になるが、両方実施する家もあることから、紙に書くのが略された形、という見方が常識的かもしれない。

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現実を見る

2019-02-03 23:27:48 | 農村環境

 

 節分を前に、かつて調査で話をうかがった家を訪ねてみた。しかし、かつて綺麗にされていた生垣に弦のような草が枯れて巻き付いている様や、周囲の雑草の様子からして、「住まわれていない」そんな予感がした。その通り、玄関の戸は鍵がかかっていて、ここ最近住まわれている雰囲気はなかった。実はこの方の家は、別の意味でよく知られていて、その季節になるとアマチュアカメラマンも訪れるある目的物が庭先にある。観光パンフレットにも掲載されることは多く、いってみれば勝手に観光の餌にされている、そんな対象物なのだ。こういう例はあまたあって、「観光」を掲げる人々のわたしにしてみれば身勝手にも映る事例だ。

 かつてお世話になったが、考えてみればあれからもう20年近い。当時年齢の高い方を選んで話をうかがっていたのだから、それから20年も経てば、健在である可能性は下がる。それは分かっていても、期待をもって訪れたのだが、現実を見せられた気分だ。自分も還暦をそう遠くないところに迎えているのだから、かつてわたしにご教授くださった方々が、超高齢域に達しているのも当然だ。わたしにとってはそう昔ではないこと、と思っていても、世の中は明らかに時を刻んでいる。そして自らが年を重ねたことを、こうした現実から知らされる。近親者が亡くなって久しいのだから、当たり前なのに、それを現実的に悟っていない自分がそこにはある。

 周囲の家々の様子をうかがっても、無住らしき光景が目に入る。山間の環境は、数年単位でも大きく変わってしまうもの。20年も経ていれば、かつての光景とはまったく異なっている。そしてそんな現実から、もっと足を運べていたら、と悔やむのだ。訪問先を後にして、近くにあるお堂を覗いてみた。かつてたむけられたと思われる埃のかぶった線香の姿を見て、もう何年も祈りの姿がないことを知らされる。堂内に納められていたのは、薬師如来の石仏である。隣に立つ炭化した像は、元あった薬師如来なのだろうか。焼失したお堂を再建して、燃えないお薬師様として、石仏が祀られたのかもしれない。高さにして30センチにも満たない程度の小さな丸彫りのお薬師様だ。薬壺を左手に持って、右手は施無畏印を示していた。近くでこれもよく知られた道祖神を道下から仰ぎ、この正月の信仰の様子をうかがったが、期待するような跡形はなかった。いっぽうでいまだ信仰の篤さを見せられることもあるが、多くはこうした現実に出会うことになる。

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