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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

令和7年〝サンヨリコヨリ〟後編

2025-08-10 23:46:44 | 民俗学

令和7年〝サンヨリコヨリ〟中編より

 

段丘を上る

 

ご神体を桜井天伯社へ移す

 

桜井天伯社での神輿くぐり

 

桜井天伯社での神事

 

桜井天伯社でのサンヨリコヨリ

 

 三峰川左岸側に渡されたご神体は、そもそもリュックに入れられて川を渡った。左岸側でこれを受け取ったのは、もちろん両川手の人たち。桜井の神社までは両川手の人々によって送り届けられる。わたしはてっきり左岸側で受け取った人が桜井の神社まで届けると思っていたのだが、急いで駐車場まで戻って桜井の神社まで行くと、神社では受け入れるための準備が始まったという印象。もちろんご神体は届いていない。ということは、対岸まで神輿が行き、そこから再び神輿にご神体を移して歩いてくるのだと察知した。そこで桜井の集落から段丘を下って行くと、三峰川左岸にその集団が見えた。神輿にご神体が移され、神輿の行列が出発するところであった。ここから左岸側のかつての河川敷に当る水田地帯を経て、段丘を上り、桜井の公民館で休憩である。

 桜井の公民館には手に七夕飾りを持った子どもたちが集まっていた。ここでサンヨリコヨリの準備をしたよう。求刑した神輿渡御の人たちとともに、子どもたちも行列とともに神社へ向かう。予定では午後2時半神社到着の予定であったが、公民館を出たのがすでにその時間に近かった。桜井の公民館から神社まではまだ1.3キロほどある。この間を神輿を担ぎながらあるくわけで、けっこう遠い。そもそも川手の天伯社から桜井の天伯社まで、2.7キロほどある。昭和62年の写真を見ると、今のルートとは異なり、川手天伯社を出るとその道を東に450メートルほど向かい、上川手集落内の辻を右折して三峰川堤防に向かっていた。したがって渡河地点も現在余里上流だったのではないだろうか。そして桜井の天伯社脇で段丘を上ったと思われる。

 桜井天伯社に神輿が着いたのは午後2時50分ころ。かつてのものを見ると桜井川の出迎えを受ける、とあるが、そうした儀式的なものはなく、神輿が着くとすぐに宮司さんがご神体を神輿から出し、桜井天伯社納めると、間もなく神事が始まるわけで、川手側と桜井側の顔合わせ的なものも見落としたが、行われたようには見えなかった。神事には両川手、桜井、北林の区の代表が参列する。この間神輿都議を担っていた川手の人たちは、桜井側で用意したブルーシートに座って休憩となる。

 桜井側の神事における祝詞を下記に記す。完璧に聞き取れたかどうかは微妙だが、間違っていたとしても数えるくらいと推測する。なお、川手天伯社ではご神体が神輿の中に納められてから子どもたちが神輿くぐりをしていたが、桜井側ではご神体が天伯社に移されてから子どもたちは神輿くぐりをしていた。


この桜井の里
高遠城までいちいの
ウツボ木のかんなびを
浮世のみやいと静まります
たけまくも賢き片倉天白社とたたえおろがみまつる
ておりつひめのみことのおおまえに
ふうちかしこみかしこみももうさく
みゆかりふかき今日のいく日のたる日に
としごとのためしのまにまに
ひととせにひとたびのみまつりつかえまつると
宮しろの内と外祓い清め
あささきに夕鳥ひいで
ひのぼり打ちなびけ
ゆまはり清まはりてたてまつるゆきのみけみきをはじめ
海川山ののためつもの奉り
また神社本庁よりみてぐら奉り
いにし室町のみよ
藤沢村の片倉から大水出でて
おおかみの宮しろは
この里と川手の里に分かれ流れつき
それぞれ祝い祀り来たりしまにまに
三峰の川は天の川
七夕のゆかりなぞりて
人とてにひとたび会うと
三峰川の向かいの里の天白社から
神輿迎えてともどもに古きためしの
サンヨリコヨリの神ごとつかえまつりおろがみまつる様を
あいらけくやすらけくきこしめし
桜井と北林の人はさらなり
川手の里人はじめ
よもの国民に至るまで
おおかみの広きあつき御たまのふゆを
いや遠長にかがふらしめたまい
作りと作るものは
おきつみとしをはじめ
草の柿葉に至るまで
悪しき風
荒き水にあわせたまわず
ゆたけき秋を迎えさせたまい
おのもおのもににやましきことなく
こころにわずらわしきことなく
はたみにむすびなごみつつ
世のため、人のためにつかえまつらしめたまえと
かしこみかしこみも申す


 神事が終わると、神社から下ったところでサンヨリコヨリとなる。桜井側の子どもたちは8名。したがって輪が小さいから、3周回るのもすぐである。川手の誘導者(役員)によって叩くように促されるのは、回り始めてあっという間であり、したがって3回目が終わってしまうのもすぐである。午後3時20分にはご神体が再び神輿に移され、渡御の行列は川手の天伯社へ戻っていくのである。今年の様子をうかがう限り、両川手と富県側の桜井や北林のみなさんとの交流はほぼなく、帰途についたという感じである。

 桜井でも聞いてみたが、いずれの子どもたちもサンヨリコヨリのために七夕飾りを作るが、それを自分の家で一時飾っておくようなことはしないという。また、これら飾りは川手では区の役員がまとめて区の土地に持って行き焼くのだという。昔はどうだったと聞いても明確な答えは聞けなかった。

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新しい長野県史に向けて

2025-08-09 23:04:14 | 地域から学ぶ

 新しい長野県史に関する意見交換会が、信濃史学会主催で松本市で開催された。令和3年11月県議会において新しい県史編纂に向けた事業が可決され、令和5年から6年にかけて「新たな長野県史編さんに関する有識者懇談会」を開催、そして「新しい長野県史編さん大綱」(以下「大綱」という)が本年3月19日に策定されて公開されている。大綱には趣旨、編さんの基本姿勢、編さんの目的、編さんの方針、県民に親しまれる新県史、新県史の構成、編さんの期間、編さんの組織、編さんに係る庶務といったものが掲げられている。この動きを請願したのが信濃史学会であり、請願に賛同する22団体だった。信濃史学会の役員のほか、賛同団体からおよそ30名ほどの参加者が加わった意見交換会であった。もちろんこうした団体はいわゆる郷土史や文化財、図書館といった関係団体であって、そのまま団体の代表にあらず、賛同団体に掛け持ちで加わっている人も多い。わたしも信濃史学会を含めて賛同団体のうちの6団体に所属している。大綱が公開され来年度から事業が発足するということで、県の担当課から説明を受け、そこへ要望を伝えるという機会をもったわけである。

 会議における県担当課の説明で繰り返されたのが、決めるのは令和8年に組織が立ち上がった後のことで、現在はその準備をしている、というもの。ようは質問してもあまり具体的なことは「言えない」というのが実態のようで、意見交換というよりは、要望をするにとどまった印象であった。そうした要望を聞くにつけ、資料保存に対する意識が参加者の多くに強くあると感じたわけである。そして信濃史学会の会長から県に核となる専門の職員を配置する必要性を求められたものの、そもそも会長が県の職員だったということは、実態としてこれを要望するのは担当課レベルでは無理ではないか、と強く感じたわけである。県に在職していた当事者ができなかったことを、この場に集まったほかの人ができるはずもないということ。やはり政治力、ではないかと強く思ったわけである。

 この日参加した団体は信濃史学会を含めて12団体。それぞれがこうして一堂に介して意見交換をする機会がおそらく今までなかっただろう。故に、それぞれの様子が解っていないという印象を持ったことと、やはり考古学関係者が多く、また意見が強いという印象を持った。これも致し方ないことだが、そもそも考古資料に対しての保存は、補助が篤く、したがって関係者が自ずと多くなる。県史以降の新たな資料というものは当然たくさんあるだろうが、とりわけ近代以前の歴史分野では、考古学がそうした新たな資料が突出しているはずだ。あくまでも既刊県史以降の「現代史」を中心に、という大綱の表現からすると、このあたりが今後請願団体とのすり合わせに課題を残す部分なのだろう。あるいはすり合わせをしないのか…。いずれにしてもこうした団体、あるいは団体に加入されている方の力を借りなければならないところが大きいと思う。もちろんどこかの市のように、そうした人たちを無視して県外の人力に頼った例があるが、それでは「県民に親しまれる新県史」はできそうもない。この後こうした団体が情報交換できる場、あるいは誌面でもウェブ空間でも良いから交流していくことが必要なのではないかと思ったところである。

 

「長野県史編さん事業に関する情報」参照

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令和7年〝サンヨリコヨリ〟中編

2025-08-08 23:49:53 | 民俗学

令和7年〝サンヨリコヨリ〟前編より

 

円陣から逃げる男

 

三峰川右岸に着くとご神体を神輿から取り出す

 

宮司さんの手にご神体

 

ご神体を対岸へ渡す

 

神輿はトラックで三峰川左岸へ運ばれ

 

 サンヨリコヨリとは、子どもたちが「サンヨリコヨリ サンヨリコヨリ」と唱えながら菅笠を被った男二人を中心に回る行事を言う、とはわたしの捉えていたもの。しかし実際は天伯社の祭事一切をそう呼んでいるといるのかもしれない。『長野県上伊那誌 民俗篇上』では、「子供たちによってサンヨリコヨリの行事がある」と述べており、また「桜井の子供たちによって青柴の枝をもって、同様にサンヨリコヨリがあり」としており、子どもたちの行う所作をもってサンヨリコヨリという印象を与えていた。故にわたしの捉えていたサンヨリコヨリはここからイメージしていた。会社の先輩に上川手の方がいて、サンヨリコヨリの主体となる区の役員もされた。先輩にあらためて氏子の話をしたわけであるが、あまり「氏子」という域はないよう。そもそも両川手にとって1年で最も大きな祭りなのに、氏子都市の意識が希薄というあたりは、ほかの地域の氏神とは少し捉え方が異なるのかもしれない。聞けばいずれの川手にも別に神社はあるようだが、神社の大きさからいけば天伯社の方が大きい。秋祭りがそれら神社で行われるというが、神事のみで終わる。やはり両川手地区において、天伯社の存在は秋祭りの神社より大きいのかもしれない。かつて出店も出たというように、子どもたちにとって天伯社の存在は大きい。そのはずで子どもたちが主役の行事てもある、サンヨリコヨリは。

 午後12時30分ころ、サンヨリコヨリを始めるという区の役員の案内があり、子どもたちは神社東側の空き地に集まり、事前に円形に引かれた白線を目印に円陣になる。令和元年に訪れたときは、こうした白線が引かれていなかったと記憶する(サンヨリコヨリ」の写真を見ても見られない)。昭和62年の写真を見ると、子ども達とともに何人か親御さんも円陣に加われていた。しかし、令和元年も今年も子どもたちだけの円陣。そして今年は報道関係者が大勢いて、これまで以上に自由に写真が撮れなかった。できれば円陣内に入りたいと思っていたが、報道のカメラに写り込む可能性があったので、避けざるをえなかった。円陣が大きいから3周回るにも時間を要す。前編で神輿の下をくぐる際の方向が依然と異なっていたことに触れたが、写真を見て気がついたのは、「サンヨリコヨリ」と唱えながら回る子どもたちの回る方向が、昭和62年や令和元年と異なっていた。ようは両年とも時計とは反対回り(左回り)だったのだが、今年は時計回り(右回り)だった。今年が間違いなのか、歳によって異なるのか、あるいは昔が間違っていたのか、確認はしていない。もちろん今年の時計回りは、3回行われるすべてが同じ回り方であったことを触れておく。

 菅笠を被って円陣の中心で太鼓を叩かれる二人は、両川手から一人ずつ選出される。担ぎ手同様に班から選出される奉仕者にあたり、その中からこの役が選ばれるという。したがってこの役はめったに回ってくることがない。今年上川手で担われた方は、奉仕者の中では高齢の方だったが、もちろん「初めての役」だと口にされていた。

 子どもたちによるサンヨリコヨリ、3回行われるが、およそ10分で終わる。これで両川手の子どもたちの役割は終了で、神輿の渡御となる。担ぎ手が神輿の左右に分かれて神輿を担ぐと、いよいよ出発である。五色の旗を先頭に太鼓を担ぐ男二人、そして神輿と神輿を置く台を持つ者と続き、行列の最後には色とりどり(五色)の旗10本が続き、尻にも五色旗がつく(行列が桜井に着くまでには、それら順序が変わることもあったが基本形は異常の順とみられる)。

 渡御は三峰川を渡り、富県(かつての川向こうの隣村にあたる)の桜井まで歩いて行ったわけであるが、今年は三峰川で河川工事をしているということもあり、三峰川右岸まで神輿を運ぶと、そこでご神体を神輿から出して宮司さんの手で川まで行き、ロープで川を渡すという形式を取られた。近年は神輿で川を渡るのではなく、宮司さんが手にして川を渡ったというが、今年は少し異なった渡御となった。渡御にかかわる人たちは、宮司さんも含めてマイクロバスで対岸まで移動した。なお、移動する際は、下流にある竜東橋を渡った。以前上流にある三峰川橋(距離ではこちらの方が近い)を渡ったことがあり、その年は悪いことがあったため、下流の橋を渡るようにしているという。

続く

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令和7年〝サンヨリコヨリ〟前編

2025-08-07 23:26:00 | 民俗学

「サンヨリコヨリ 前夜」より

 朝方はずいぶん強い雨が降っていたが、行事が始まるころには雨が上がりそうな予報だったので、午後は仕事を休んでサンヨリコヨリを訪れることにした。「棚機の祭りには三粒でも雨が降るものであり、降ることがその年の幸の約束である」(『みすず-その自然と歴史-』昭和37年 352頁)とも言われるが、サンヨリコヨリの日は天候が悪いことが多いと地元でも言われているものの、これまでわたしが訪れた年は快晴の日ばかりだった。昭和62年に訪れた際のことは、〝昭和62年の記憶㉑ 川手の「サンヨリコヨリ」〟に詳細に当日の写真を掲載している。また令和元年に訪れた際のことは〝サンヨリコヨリ〟に報告している。とりわけ今回は一通り見たので、前者の昭和62年のものと比較して記しておくこととする。なお、『みすず-その成立と発展-』(美篶村誌編纂委員会 1972年)に記されているサンヨリコヨリについて以下に引用する。


祭事「サンヨリコヨリ」詳記
 昔から毎年七月七日の祭であるが、現在は八月七日にする。六日の六道祭の晩に宵祭をし、七日の当日は宮司、神社総代会長、当番区長および係が集まって(上川手と下川手年番交代)祝詞をあげてお祭をし、本殿の前に安巴された御神典に宮司が幣束を移納する。一般氏子のお昼が済むと、両川手の子どもたちは誘いあって、五色の短冊に、天の川、天伯社、棚機様、などと書いたのを枝つきの青竹に結びつけその飾りをかついで、揚々と集まって来る。農事の多忙のときであるが、老若男女が子どもといっしょに集まって来るのは他では見られない。
 一時ころになると、区長「さあ踊りを始めてください」の合図で、子どもらは青竹の飾りをかついで広場に大きく輪を作ると、その・中にふたりの男が股引法被で菅笠をかぶり、太鼓を持ち込んでしゃがみ、合図で太鼓を打ちながら、円陣の子どもたちは元気な声を張りあげて「サンヨリコヨリ」と連続叫びつつ回る。三回回ると輪の中の男ふたりが激しく太蚊を乱打して、円陣の囲みを破って逃げ出す。子どもたちは出さず逃がさじと竹の飾りで激しく鬼男をたたく追うの大活躍の後、ふたりの男は元の輪の中へ帰る。こうして繰り返すこと三回で終わり、鬼男ふたりは菅笠はめちゃめちゃに破れて引き掛げる。青竹の飾りは全部踏み折ってしまう。輪の中の男は骨だけになった笠を脱いで笑って終わる。この輪の中にはいった者は丈夫になるといって志願する者さえある。
 これが済むと宮司、区長が先頭で御神典、その台、五色の幟一五木を、両川手より選出した各係が神酒を立ち飲みしながら、行列を作り勇ましく穂朶の青田を縫って三峯川に至り、行列整然と渡河する様は真に神々しい限りである。行列が川原を過ぎ桜井の丘に上って村内に休むと、氏子が迎えに出て御神輿の下を三回くぐる。これは体が丈夫になり、女は安産ができると信ずるからである。
 かくて桜井の天伯社において川手より渡御した人々が桜井の天伯社において同様の「サンヨリコヨリ」を繰返し、お神酒(直会)を済ませて、行列を作って戻って来る。区長が「神事が滞りなく相済みおめでとう」と告げ直会をして一同退散する。
 ちなみに元禄以後三峯川の氾濫は六〇回以上におよぶというが、どんな大出水のときでも神輿の行列が押し流されたり、事故があったとことのないのも不思議と言われている。

 

古い神輿

 

 実施される時間帯は昔と変わらない。正午ころ神事が天伯社で始まる。参列するのは区の役員であり、上川手と下川手からそれぞれ5名、ほかに市会議員が加わる。上川手では区長、副区長、会計、土木部長、衛生部長の5名である。区の執行部5名ということになる。参列者に並んで神輿が置かれ、神事後ご神体が神輿に移される。周囲には神事を見守る人たちが群がるが、法被を着用している人たちは神輿の渡御に加わる人たちで、両区からほぼ均等に選出されるよう。上川手では区の下に班があり、班から一人ずつ選出される。

 神事が正午に始まるということで、それまでにはサンヨリコヨリに参加する子どもたちはおおかた集まってくる。境内では地元の人たちで出店が出されるが、かつてはいわゆる祭典に集まる出店が何店も展開されたという。集まる子どもたちは手に笹竹に飾りを付けた七夕様を持ってくるのだが、そうした人たちに「作った七夕を家で飾ったりはするか」と聞くとサンヨリコヨリのために作ってくるため、そういうことはしないという。もちろん別に七夕の飾りを家ですることはないよう。参加する子どもたちには近くの保育園の子ども達もいて、保育園関係で参加される子どもたちの七夕は作ったあとに保育園で飾っているということは耳にした。子どもたちが持ってきた七夕飾りはサンヨリコヨリが始まるまでは、会場の空き地にあるフェンスに立て掛けたり、あるいは地べたにそのまま置かれたりしていて、物によっては人に踏まれたりしているが、そもそもどれが誰のものか、たくさんの飾りの中から始まる前に手にすることができるのかどうか、心配にもなった。

 宝蔵に神輿はふだん納められているが、その中にはもう1基古い神輿が保存されていた。宝蔵は昭和25年に造られたものだが、それほど広くなく、神輿2基を納めればいっぱいになる程度。〝昭和62年の記憶㉑ 川手の「サンヨリコヨリ」〟にある神輿と、現在利用されている神輿は異なり、当時は宝蔵に保存されている神輿が使われていたと思われる。形式はほぼ似ているが、屋根の四方にある細工が、明らかに当時のものと今のものとは異なる。

 神事が終わるとご神体が神輿に移され、川手天伯社での神事一切終了する。すると子どもたちが神輿の下をくぐり始めるのだが、3回くぐるものとされている。〝昭和62年の記憶㉑ 川手の「サンヨリコヨリ」〟の写真を確認すると、当時は神輿の下を東から西へくぐっていたが、今回は西から東に向かってくぐっていた。どちらが正しいのか確認しなかったが、当時より明らかにここでは子どもが多い。前述したように保育園の子どもたちも加わることも要因なのだろうが、川手地域には新しく住まわれる人が多い。

続く

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サンヨリコヨリ 前夜

2025-08-06 23:04:50 | 民俗学

上川手区が用意した竹

 

区内各所に置かれた灯ろう

 

 

道上に渡された灯ろうと下川手の灯ろう

 

 

 明日は8月7日、月遅れの七夕である。先日塩尻市宗賀洗馬の七夕飾りについて触れたが、県内に七夕の大きな行事は見られず、伊那市美篶川手で行われるサンヨリコヨリは、県内では代表的な七夕行事と言えるのだろう。友人がサンヨリコヨリを見に行かれるというので、天候が悪くなければ「わたしも」とは思ったわけだが、予報はあまり良くない。とはいえ、行事が行われる時間帯には雨があがる可能性もあるので、天候次第と考えている。

 ということで明日のことも考慮して、前日の様子を夕方うかがってみた。川手には上川手と下川手というふたつの区があり、両川手の区が祭りの執行役となる。今年の当番区は下川手で、当日までの準備は下川手が段取りをするよう。そして祭り当日はそれぞれの区から区の役員と神輿を担ぐ役が選出されて参加する。そうした当日かかわる役は両区から平等に選出されるよう。上川手手ではサンヨリコヨリの際に子どもたちが手にする七夕飾りの竹は区の役員が用意し、公民館に置いておくのだという。必要な家でその竹を持ち帰ってサンヨリコヨリ用に用意する。もちろん自分で竹も用意する人はいる。公民館に竹が置いてあると聞いていたので、公民館に立ち寄ってみると、公民館の玄関横に竹が置かれていて、まだ15本くらいの竹が残っていた。

 天伯社横野道には幟と五つ灯籠が揚げられており、これらは5日に揚げられるという。そして下ろすのは8日だという。集落内には灯籠が各所に置かれていて、けっこう目立つ。ようはそこそこの数の灯籠が置かれていて、これらも幟や五つ灯籠を揚げる際に置くのだろうが、区の役員の負担は多いという印象である。

 天伯社について『みすず-その成立と発展-』(美篶村誌編纂委員会 1972年)に記されている内容を触れておく。天伯社については天伯大神社あるいは天伯様と称すという。祭神は本殿祭神として「大棚機姫命」、ご神体は幣束で、前立鏡がある。創立は応永34年(1427年)「丁末七月」と言われ室町時代に当る。氏子の範囲は両川手であり、当時の記述では上川手140戸、下川手151戸とある。そして青島区も氏子であったと言われるが、昭和になって青島は氏子から離れたよう。祭典における行事には、サンヨリコヨリのほか、神輿渡御、弓引、相撲、俳句とあるが、現在はサンヨリコヨリと神輿渡御のみとなっている。縁起について下記のように書かれている。

 応永年問大洪水の際、藤沢村片倉天伯が流され、桜井片倉の平岩潭に入り流れて来て川手裏の川原に止まった。鎮水後、桜井等より神酒等を持参して一体を迎え奉り、川手から送って行く。これから一体は裏川原に社地を求め社殿を造営してここに祀った。以後毎年七月六日、七日を祭日と定め送り迎えするを例とし、川手天伯神前において神輿に奉幣して、神主村役員等神前に祝詞を上げ、終わって社殿東広場において「さんよりこより」の踊りを行ない、いかなる出水時といえども神輿の行列は、三峯を渡御し、桜井の天伯社に着いて、同様の祭事を修行する。往時は五か村祭と称し、両川手村、青島村、両大島村の五か村と神主が前夜から通夜して奉仕した。
 また一説には応永の昔、洪水の際、藤沢村片倉天伯が流され、桜井の三峯川原に漂着、村人はこれをうつぼ木の片倉の巨大な平岩に祀り、一体は川手の岸に漂着したので村人が迎え祀ったものであるともいう。

 信仰について神輿が神前に飾られた時、また桜井に渡御して村内に休む時などに、村人は老若男女を問わずその下を三度くぐると健康になり、また安産になると言われている。

続く

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右折車への配慮 後編

2025-08-03 23:03:45 | ひとから学ぶ

右折車への配慮 前編より

 ずいぶん昔にここに記した記憶があるが、駒ヶ根市内を南北に通過しようとすると、けっこう渋滞にハマる。その理由について過去には南北の道路よりも東西の道路を優先している傾向があると述べた。今もってその傾向はあるがかつてほどではなくなった。かつて通勤時間帯に大渋滞を起こした交差点に「大徳原」があった。伊那中部広域農道を飯島町から駒ヶ根市に入ってすぐの信号機だが、昔はこの東方に大きな工場があったからそのせいだったかもしれないが、このごろはこの「大徳原」が渋滞を起こすことは皆無となった。通勤時間帯でもこの信号機が赤色で停止する確率は20パーセントから25パーセント程度かもしれない。かつてなら必ず停止し、さらに渋滞が起こった交差点である。

 いまもって駒ヶ根市内で通過するのに厄介な交差点が、以前にも触れた駒ヶ根インターとのアクセス道路と交差する「北原」だ。先ごろ通過する際に今どきはアイドリングストップが付属していて、どうでもよいのにその停止時間を計測してくれる。停止してからちょうど30秒で交差する道路(インターのアクセス道路)の信号機が赤色になり、その後の右折レーンの青矢印がちょうど10秒だった。もちろんアクセス側青色30秒はけして長くない。しかし、南北に連絡する広域農道側は車が繋がっていると青色に変わってからせいぜい6~7台しか通過できずに赤色に変わる。南北の方が通行量が多いから、自ずと南北方向の広域農道が渋滞する。信号が青色になってから通貨台数が6~7台はけっこう少ない。駒ヶ根市内はこうした例が多いから、当り前に「どうぞ」という人が少なくなる。さもなければ渋滞がもっと長くなるから…。ようはこんな田舎で渋滞を起こすような環境があちこちにあるから、ここに暮らす人々にこころの余裕がなくなる、とわたしは思っている。もちろん今回の例の交差点には、前編の交差点と異なり右折レーンがあるから、あえて「どうぞ」などとしなくても専用の空間と専用の青色信号が用意されているから、それ以上の渋滞は致し方ないということになるかもしれない。したがって右折レーンがある交差点では、さすがのわたしも滅多に右折車両に譲ってあげることはない。

 が、これも昔ここに書いたことがあるが、通常の車間距離をとっていればその車間に割り込んで右折することは可能だ。とはいえ昔に比べるととるへ車間距離が短くなっている。今は一般道では2秒程度の車間と言われていて、距離にすれば時速40キロなら25メートル、60キロなら35メートルとも言われる。センターラインが5メートルピッチであることから25メートルとなると白→空白→白→空白→白が目安となる。こんなに車間をとっている人、どれほどいるものか。例えば40キロの25メートルなら、右折車は右折可能とみる。もちろん右折車にその気がなければ無理だし、対向車もいきなり曲がられるとびっくりする。けして安全なことではないが、そこに少しでも右折してあげる気持ちがあれば、ふつうなら右折できるのである、田舎の道なら。わたしはその程度の車間だと右折車がその気にならないので、右折しようとしている車の後ろに車が繋がっていると、遠くからパッシングして「曲がるように」と合図をする。もちろんその気を起こさせるためで、アクセルは踏み込むことはなく、少し車間を空けてあげる。それならわたしもブレーキを踏むほどでもないし、わたしの後続車にそれほど迷惑にもならない。ちょっとしたことなのだが、どうもそれさえ許さない人は、世には多い。

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本洗馬から小曽部へ

2025-08-01 23:51:12 | 地域から学ぶ

観音路隧道 東側入口

 

観音路隧道 西側入口

 

観音路隧道

 

塩尻市道芦ノ田浄水場沓沢線から沓沢湖提体に入ったところにある記念碑

 

 先ごろの仲間との集まりで、最近朝日村に頻繁に仕事に行っているという話をすると、塩尻市小曽部の話になり、心霊スポットに詳しい仲間から「観音路隧道」のことを聞いた。おおよそ心霊スポットはうわさ話の世界だが、わたしはあまり興味はない。昔から友人たちがその手の話をしていても、話に加わっても興味はまったくなく、噂に上がった場所を意識的に通ることもなかった。ただ、今回聞いた観音路隧道は、朝日村に向かう際に通っている道から少し逸れるだけ。その隧道に迂回しても時間にして数分の違いと知り、ためしに通ってみた。

 観音路隧道は塩尻市道「沓沢線」にある。本洗馬と小曽部を繋ぐ隧道で、長興寺山の尾根が北へ続き小曽部と本洗馬を分けている。その尾根の山々の構成が気になったのでこれは「断層のせい」なのかと思って地質図で調べたが、このあたりに断層はない。この一帯は粘板岩地帯のよう。隧道を本洗馬から抜けたところにかつては沓沢湖というため池があったが、廃止されている。心霊スポットというとこの手のページがたくさん上がっているが、観音路隧道と沓沢湖に関することを記しているものに、「にっぽん旅旅行」というものがあって、両者の「心霊のうわさ」についてまとめられている。 

 沓沢湖は塩尻市にあるが、このため池を管理していたのは松本市奈良井川土地改良区。平成26年1月に建てられた「閉池記念碑」に詳細は記されておらず、経緯はわからないが、ため池の受益地が国営中信平地区の用水が行き届くようになって必要性がなくなったということなのだろう。とはいえ、その規模は満水面積95.5ヘクタール(改修記念碑には963反とあるから一応換算した)、貯水量917831頓とあるから約92万トン近くあったわけで、これほどのため池は近在には多くない。もちろん入水自殺なんていう話があっても不思議ではないが、この沓沢湖にも心霊スポットとしてのうわさがある。そのため池と観音路隧道が近いということもあって、両者のうわさには共通した理由があるのかもしれない。いずれにしてもうわさに過ぎないことで、信ぴょう性は低い。ただ、この隧道、ちょっと雰囲気は良くない。まず狭いから車は1台しか通れない。造られたのは昭和26年ということで、沓沢湖を改修するにあたり(昭和28年竣工)造られた隧道と思われる。この時代の車道隧道としてはあまりにも小さいから、仮設用のトンネルだったのかもしれない。いったん造られた隧道は内巻きして補強されているから、ふつうの隧道とは違う。ふつうではない、というあたりもうわさをかきたてるのかもしれない。

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右折車への配慮 前編

2025-07-31 23:05:35 | ひとから学ぶ

 渋滞が起きるのには理由がある。なぜこんなところで渋滞しているのか、田舎でも珍しい場所で渋滞を起こす。もちろん通行量が多いせいだが、ふだんは起きないことが、通勤時間帯ともなると起きてしまう。でもそれを解消する方法はあるのだが、「先に、先に」という意識が強いと、それは起こり、裏を返せば遅くなるというわけだ。

 塩尻市の国道20号、「長畝」信号機。度々渋滞が起きるが、特に渋滞が長くなるのは、東山山麓線を北に進んだところにある長野県総合教育センターで会議か何かがある時。あちこちから学校の関係者と思われる人たちが集まるのだが、国道20号を塩嶺峠側から下りて来た車が「長畝」で右折しようとする。会議に集まるわけだから時間帯が集中する。右折車が多いと、右折レーンに留まれるスペースが数台分しかないから、本線上に繋がる。したがって大渋滞となるわけで、今年の春先、その渋滞にハマったことがあった。松本市内で会議があって、同様にわたしも右折しようとしたわけだが、右折するまでに信号が何度「赤」になったか数えきれないほど。時間に余裕があったから良いものの、いつも通りと思っていたら会議の時間に間に合わなかった。通勤時間帯を過ぎた時間帯にいきなり渋滞に遭遇すると「事故か?」と思うわけだが、たんなる会議に集まる人たちが大勢いたためのこと。この信号機、対向車線もそこそこ通行量がおおいので、繋がっている。繋がっていれば右折しようにも右折できない。ここの信号機では、ほぼ対向車が右折させてくれるようなことはない。ほんのわずかな車間に、無理やり曲がらない限り車列が解消するか、信号機が赤になるまで曲がれない。そして右折用に設定される時間が短いから、信号機が赤くなってしまうとほぼ1台か2台くらいしか曲がれない。したがって大型車が右折しようとしていると、渋滞が長くなる。塩尻市内から塩嶺峠へ向かって走る車はほぼ直進車だから、問題が発生するのは塩嶺峠から下りてくる側の車線。みんな知っていることだから、たまに車間を開けて右折させてあげる車がいれば良いのだが、ほぼ皆無だ。

 飯島町の七久保の県道飯島飯田線。田舎なんだから渋滞とは無縁だと思うのだが、通勤時間帯には「七久保小学校入口」と「すぐ北にある「七久保駅入口」信号機によって渋滞を起こす。理由は右折レーンがないため。とくに南から北に向かう車が七久保駅へ右折する。ここには工場があったりするから、通勤時間帯には右折車が多い。専用スペースが無いのだから、当り前に右折車がいれば前進しない。「赤」になるまで前進しないこともよくある。同じような交差点が、同じ七久保の「柏木」信号機でも起きる。ここも南から北へ向かう車が右折しようとすると、右折レーンがないため前進しなくなる。右折車が何台も続くわけでもなく、頻繁というわけではないので、対向車が右折させてあげればよいだけのことなのだが、なかなかそんなことをしてくれる人はいない。

続く

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七夕のころ

2025-07-30 23:28:02 | 地域から学ぶ

願い事の中には「安心して暮らせる日本」がある

 

 昨日、朝日村から権兵衛トンネル越えで帰えろうと、塩尻市宗賀の洗馬を走っていると七夕の飾りが目に入った。最初に目に入ったのは、小学校の入口の門柱に縛り付けてあったものだが、その際はそれほど気にならなかったのだが、さらに集落内を南へ進んでいくと宗賀農林漁業体験実習館の前にも、さらに南へ行った集落外れの神社入り口にも建ててあって、通り過ぎたものの小学校の入口までUターンしたわけだ。ちょうど外におられた方に七夕飾りのことを聞くと、先週末に子ども達が建てたものだという。毎年子どもたちが建てているらしい。今では七夕の飾りも珍しいわけだが、実は安曇ではこの時期、道祖神の端にこうした七夕飾りをするところが多い。これまでにも松本市の梓川梓新屋敷や梓川倭野々宮神社のもの、あるいは中曽根のものなどを日記で触れてきた。いずれも道祖神の祭りにかかわるものだったが、安曇野市豊科の光あたりでも公民館に七夕の飾りを建てている姿が見え、中信地域ではこの季節、道祖神の祭りに限らずあちこちで七夕飾りをするところが見られる。もちろんそのほとんどは子どもたちがかかわっているが、こうした飾りが小学校や保育園などに見られることはあって、路上で見かけることは、伊那谷ではほとんどないこと。

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〝暑い、熱い〟

2025-07-29 23:04:44 | つぶやき

 先週は連休明けから4日間炎天下で働いた。今週も月曜日と火曜日と続き、人には「焼けたね」と言われると気落ちする。現実的にずいぶん黒くなったから当り前ではあるが、ここ1週間ほどで、ずいぶん日に焼けた。帽子もつばの広いものを被っていたし、腕は日焼けしないようにアームカバーもしているのだが、顔が「黒く」なった。まあ、それはともかくとして、さすがに毎日炎天下に居ると、疲れる。このごろは床に入るのも早くしている。というかちゃんと睡眠をとらないと翌日にかかわる。みな執務室内にいるのが「一番」と言うが、わたしは会社にいるのが嫌だから、たとえ炎天下でも外がいい。

 とはいえ、先ごろも外出先から帰ると、会社の執務室がムッとしている。すでに勤務時間を過ぎているからエアコンが停まっている。残業するのならエアコンのない世界で働かなくてはならず、わたしは「こんなところで仕事はしたくない」。とはいえ、どうしても会社で処理しなくてはならないことがあって少し働いているのだが、「暑い」。エアコンが停まってどれほど経過しているかしらないが、風の動きもなくムッとしている。執務室内では上司と幾人かが働いている。エアコンが停まったというのに、窓も開けず、ドアも開けず、もっといえば外の風が最も入ってくる廊下のドアも開けずに、エアコンの残冷気だけを頼っているのだが、もはやそんなものは飛んでいる。窓を開けて風が動くように気を遣えば良いのに、この熱気の中が好きなのかどうかは知らないが、息苦しい中で仕事をしている。

 部屋の中を涼しくする方法は、風が入り込んでくる側に扇風機。入り込んでこない方向に向けて室内の風を送るように扇風機を外に向けて動かすのが一番だ。我が家にはエアコンがないから、家に帰るといつもそうして家の中を涼しくする。まだ扇風機で息苦しくない世界を作り出せる。「エアコン入れる」と毎年妻と会話をするものの、いまだエアコンは設置していない。きっとシロがまだ元気だったら昨年のうちには導入したのだろうが、シロがいなくなって人間様はなんとかなくてもやっていける。だから部屋の中を涼しくする方法は、いろいろ考えている。だから会社でも同様に涼しくなることを考えていたものなのだが、人が変わって、今の上司は窓を開けない。涼しくすることなど何も考えていない。「頭を使え!」と言いたいのだが…。

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恒例行事

2025-07-27 22:25:21 | つぶやき

 

 ため池の草刈をしたが、この草刈のことを最初にここに記したのは「ホタル舞う」だろうか。12年前のことだ。この年はため池の土手の北側の草刈をした。なぜ北側を刈ったかというと、共同作業で草刈りをすると、このため池の下にある我が家の耕作放棄地へ草を寄せる。その我が家の耕作放棄地は、ため池の南側土手の下にある。ようは北側の方がその草寄せをする耕作放棄地より遠いから、共同作業する人たちには負担にならないだろう、と思って北側を刈ったのだ。草刈をした際に、刈った草をすぐに我が家の耕作放棄地へ寄せるため、北側の遠いところの草を刈っておけば、共同作業をする日にはだいぶ草が乾いて軽くなるだろうと考えてのこと。

 毎年この時期にこの日記で記していることだが、このため池草刈にはわたしは参加しない。妻の実家のことだから、実際に住んでいる場所から遠いため、共同作業をする1週間前ほどに事前に我が家の分を刈っておく、というわけだ。当日出られないペナルティではないが、だから余計に刈っておく。12年前の写真を見ても、ため池の土手の3分の1くらいは十分刈っている。共同作業の仲間は7軒だから、7分の1くらいで良いのだが、「文句を言われないように」という思いで余計に刈っている。ところが同年の草刈をした後に、草を刈ったままでは困る、と文句を言われた。我が家は周囲から度々小言を言われる存在で、気を漬かったのにこうだったのだ。

 以来、南側を刈るようにしてさらに草寄せも事前にしておくようになった。草を刈るのはわたしの仕事で、乾いたころ妻が草を寄せる。毎年記していることだから同じころの過去記事には必ずといって良いほど記録されている。近年は我が家の耕作放棄地を1か月ほど前に刈る際に、ため池の太くなりそうな草も刈るようにしている。すると実際に刈る際にだいぶ楽だからだ。以前は手間取った草刈だが、いろいろ考えて草を刈るようになって、この草刈も楽になった。

 ということで下記の写真は本日の成果だ。写真の場所以外にも余水吐周辺の草も刈っておいた。だから共同作業の際にはだいぶ楽なはず。世代が変わって、さすがに最近は小言を言われることはなくなった。

 さて、このため池にはキスゲが咲く。もちろん今までにも触れてきていることだが、今日もなるべくキスゲを残して刈った。そのユウスゲ、陽が沈むと花を咲かせ始める。

 

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中身のあるものにしたい

2025-07-26 23:38:11 | ひとから学ぶ

 ある仕事を手伝う中で、数年前の過去の成果品を参考に現地に入った。ところがあらためて現地を歩き確認すると、間違いはともかくとして認識不足が目立った。経験差や知識差があるから、成果品が異なるのは当然化もしれないが、組織とすれば「誰がやっても同じ成果品」を納められるのが理想だし、そうあるべく策を練るものなのだが、わが社にはそうした余裕がない。ようは同僚がくまなく目を通して成果品をチェックすることはできていない。とくに調査物については歴然と個人差が現れる。調査そのものに同僚が随行して複数の眼で確認することは理想だが、そこに余裕がないし、もし複数の眼で見ていたとしても、担当者がその複数の眼を生かすことができなかったり、あるいは随行した者にそれだけの技量があるとも言えない。ようはそこにかかわる人材差が現れるのは致し方ないのだか、繰り返すがそうならないために上司がいて、相応の視線を向けなくては組織として体を成さないというわけだ。そして問題が発覚するとその原因を究明し、結局組織としての体を成していなかったことを理由に「対策」を図るわけだが、そもそもそのようなことは、わたしは不可能だと思っている。ようは上司の責任は重い、そう思う。

 きっとこうした成果品は「山と」あると思う。もちろんわが社の成果品にだ。しかし、納品先が気がつかないから問題にもならない。おっと、そういうわたしの成果品だって同じかもしれない。だが、業務に対して何がお客さんにとってベストか、ということはいつも考えているし、マニュアルどうりには必ずしも作らない。自分がなっとくできないマニュアルなど、勝手に無視するのは常だ。したがってお客さんが何を求めているかはっきりしていないと、お客さんに対しても無視することはある。嫌われているかもしれないが、「何のためにやっているのか」解るようにお客さんが求められないようなら、わたしはお客さんの言う通りにもしない。もしかしたら間違っていることかもしれないが、わたしの仕事に対する基本的姿勢である。

 実はその仕事、国が整備しろと言ってあちこちの団体がこぞって実施した物件で、いっときに集中した。したがってマニュアルを整備して、言ってみれば誰でも出来るような準備をして実施されたもの。だから上司も「誰でもできる」と仕事を「下」に見ている傾向があったと、こうした成果品を目の前にして知ることができる。国が整備しろと言って整備したものは、お客さんも「形になっていれば良い」程度に捉えている向きもある。お上から指示された仕事には、こうした仕事が多いのも事実。ただ、お金を掛けているのだから、「中身のあるものにしたいよね」。

 今日、長野県民俗の会有志による「倉石忠彦先生追悼の会」が開かれた。先生とかかわりあった先生方が、県外からも参加くださった。生前の先生の話を聞いていて、もちろんわたしが接した先生も含めて、わが社の仕事に対する姿勢とは全く違う、とつくづく思った。

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古見の正徳年間の石造物

2025-07-25 23:45:56 | 地域から学ぶ

古川寺六地蔵

 

 「古川寺の閻魔王と奪衣婆」において正徳年代の石造物について触れ、「朝日村にはこの時代に建てられた石造物がけっこう多い」と文末に記した。正徳年代の石造物は『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)によると9基あるとされている(172頁「時代別分類表」)。前述の閻魔王と奪衣婆、そして古川寺の如意輪観音に加え、同寺の入口には六面体の六地蔵があり、「正徳五乙未天七月十八日」とある。古川寺にはほかに同じく正徳5年の五輪塔もあり、古川寺だけで5基の正徳年間の石造物が存在する。

 

山形村小坂山口の道祖神

 

 そして実は古見といえば芦ノ久保の道祖神をとりあげないわけにはいかない。この道祖神については「道祖神を盗む①」「道祖神を盗む⑤」で触れた。現在古見芦ノ久保に現存する道祖神は天保14年(1843年)のものだが、その背面には

正徳五乙未年十月卯月建之
寛政七年卯年八月六日夜
小坂村山口御縁想
同歳十一月十三日再建立
天保十三年壬寅年二月七日夜
本洗馬村上村御縁想
天保十四癸卯年四月十五日
古見村蘆野窪講中

とある。ここにも正徳5年(1715年)の銘がある。詳細は「道祖神を盗む①」の通りだが、それ以前にも道祖神があったようだが、正徳5年に双体道祖神を建立した。ところが隣の山形村山口に盗まれ(「御縁想」という)、あらためて建立した道祖神も現在の塩尻市洗馬上町に盗まれたいう。三度建て替えたものが現在のものと言うことで、この正徳5年の銘を刻まれた道祖神がそれぞれの地に残されている。残念ながら山口の道祖神は風化していてそれらしい銘を読み取るのは今となっては難しいが、洗馬上町のものには

古見村芦野久保講中拾四人
道祖神
正徳五乙未十月卯

とあり、現存する芦ノ久保の道祖神の銘文からこの道祖神は寛政7年造立と思われるのだが、その年号はない。ようは山口のものも洗馬上町のものも芦ノ久保にある道祖神の刻銘からその経緯が解るというわけである。

 『山形村文化財調査資料-第2輯-』(山形村教育委員会 昭和47年)には山口の方の言葉が掲載されている。

道祖神は縁結びの神として崇拝していたが、山口には道祖神がなかったので、嘉永年間にどこからか嫁入りさせようと話し合い、現在の朝日村古見より嫁入させることに話がきまり夜、力のある2・3人で背負い乗越(上大池豆沢より古見に通じる峠)を越え、峠の峰には山口中の人の出迎えを受けて嫁入して来た。と祖母から聞かされています

と言うのである。ここでいう「嘉永」は寛政の間違いではないか、というのが同書での説明である。このように古見には正徳年間にまつわる石造物が目立つわけである。

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御馬越の庚申塔

2025-07-24 23:51:01 | 民俗学

朝日村御馬越

 

 1か月ほど前、穂高を訪れた際にその地の仲間から「この辺では庚申塔が複数建っている姿は珍しい」と聞いた。対比としてその際にも「上伊那は異常」とまで言われたわけだが、確かに上伊那では庚申塔が複数建っているのが当り前で、むしろ一つだけ建っている姿は珍しいわけである。安曇や松本では上伊那の庚申塔のような光景は見ないわけだが、とくに上伊那では前の「庚申」年に建てた庚申塔より大きくして建つという話がどこでも聞くことができる。どこでも聞くことができるということは、どこでも複数基建っているからこそのこと。

 さて、今盛んに訪れている朝日村では、昭和55年の庚申年に村内で10基以上の庚申塔が建てられている。ここでも昭和庚申の造塔が集落ごと行われたよう。例えば写真の石碑群は鎖川の上流域にある御馬越(おんまご)に建っているもの。「庚申」が4基と、青面金剛が建っている。最も古いものは青面金剛で「享保廿年卯三月九日」とある。1735年にあたるが、この年は「庚申」年ではない。次のものが「寛政十二庚申天(1800年)」銘のあるもので、写真の向かって右から4基目である。その60年後の「万延元年(1860年) 御馬越村中」の明があるものは、写真左から5枚目の「庚申」である。さらに60年後の大正9年(1920年)のものが左から3基目のもの。そしてその左側に建つのが昭和55年の庚申塔である。ここでも背の高さという観点でいけば、年々高いものを建てていると考えられる。このように朝日村では庚申塔が複数建っている姿をよく見る。上伊那に立地上も近いことが影響しているかどうか。

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右傾化

2025-07-23 23:39:29 | ひとから学ぶ

 「SRI消費者経済総研」というところが今回の参議院選における政党を政策公約から「左」か「右」かを解説している。最終更新日2025年7月19日において示された構図は次のものだった(引用)。保守党が右端で、共産党が左端だというのはほとんどの人は理解しているだろう。参政党の位置も納得だが、「国民民主は自民より右なんだ」と知った。さらに政権与党の公明党がれいわ新選組より左だというのも意外だ。まあ、これは政治に疎いわたしの印象であって、常識なのかもしれない。

 ということで、今回の比例代表における政党別得票数というものを、「SRI消費者経済総研」が示した政党の合計値で割合を出してみた。グラフの元となった数値が下記表のデータである。ちなみに票の割合は、その下の得票数を合計値を分母にして計算したもの。政党別得票数の次欄は、自民党と立憲民主党を境にして左側と右側を合計したもので、さらに次欄は現在の政権与党である公明党を右側に加えて集計したものである。

 

グラフ

 

 

 

 グラフを見ての通り、自民党から右側は今回63パーセントを占めている。いっぽう前回は60パーセントであり、実は自民党より右側の割合の方が高くなっている。ここに公明党を加えると今回は71パーセント、前回は72パーセントとなり、かろうじて自民党より右側が割合を落としたかのように見える。

 ことについて世間は意識しているのかどうかは知らないが、この結果を見る限り、自民党を右として捉えたら、立憲民主党より左側が勝利したとはとても言えないわけだ。だからこそこの後は難しいことになる。野党と与党という単純な構図ではない。野党が一本にまとまらないのは当然のことでありる上に、自民党の立ち位置がずいぶん全体的に見ると変わったように見える。世間ではジェンダー問題が盛んだが、自民党より右側がこんなにいるとしたら、世間の流れを内心「ノー」と思っている人がたくさんいるのではないかと思えてくる。それは報道、とくにテレビが本当のことを言っていない、というところにも繋がっていく。テレビの報道は本当に偏っているのかどうか、日々忙しい人々に真偽を判断することはできるのだろうか。そしてできない人たちが投票して構図が変わってしまったらどうなんだろう、などと思ったりする。繰り返すが、こんなに左側が減少しているとは…。

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