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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

厄落とし

2006-01-16 08:14:17 | 民俗学
 厄年の人は、小正月に厄落としをした。伊那谷中部では、厄年というと男25歳、42歳、女19歳、37歳をいう。全国的には女の37歳は、33歳といわれるところが多いのだろう。伊那谷でも北部では33歳というところが多い。小正月の14日の晩に、日ごろ使っているご飯茶碗に歳の数だけの銭を(昔は銭が足りないと大根を入れたというが、この世の中に大根なんか入れたら、厄が落ちないかもしれない、とはわたしの気持ち)入れて、道祖神のある場所に行って、投げて割って厄を落とすのである。この際、どこに投げて割るかについては、人によって異なる。道祖神の近くの石なのか、道祖神本体なのか、それとも道端の石なのか、わたしの生まれた地域では、明確ではなかったように記憶する。これが、伊那谷でも北部の方へ行くと、道祖神本体に投げつけるといい、中部から飯田にかけてのあたりでは、ただ、石というだけに変わっていく。下伊那郡へ入ると、道祖神のある場所、という認識も薄れてくる。けして南へ下ると道祖神が少ないわけではないが、道祖神と厄落としのかかわりが希薄になっていくのである。
 わたしも25歳のときに、この厄落としをしたが、道祖神のある場所が石積の上だったということもあり、石積に投げつけてきた覚えがある。神様に投げつけるというと、少し躊躇するわけだが、当時はとくに躊躇して石積に投げたわけではなく、それほど深くは考えていなかった。民間信仰の神様ともなると、ずいぶんひどい目に合わされる神様がある。道祖神にしても、いわゆる「道祖神」などと刻まれた碑とは別に、自然石の道祖神も道祖神の近くに置かれていることがある。奇石であったり、単に丸いものであったりと、それも地域性があるが、いずれにしても、そうした石も神様として認識されていた。しかし、扱いはぞんざいで、足で蹴飛ばされることもあったに違いない。そうした奇石の場合、ホンヤリ(ドンドヤキ)の火の中に入れられて、焼かれることもあった。しだいに信仰からホンヤリが離れていくにしたがい、そうした石の存在も忘れられていき、ただの石ころに変化していったように思う。
 またこんなことも行なわれた。上伊那郡辰野町あたりでは、2月8日のこと八日に、朝ついた餅を道祖神に持って行き、「めっつり、はなっつり」といって餅を道祖神の像に付けるのである。目の吊り上った、鼻のひきつった器量の悪い嫁を、道祖神にお世話してくれと願って塗りつけるという。道祖神は天邪鬼だから、逆の願いをすれば器量の良い人を世話してくれるという解釈だという。今もそうしたことが行なわれているのかどうかは知らないが、20年ほど前にこと八日近くに訪れた際には、そうした餅が塗りつけられた道祖神が見受けられた。民間信仰の解釈というものは、なかなか人間の裏の心理をついているようでおもしろい。そうした対象にさらされる神様も、またその願いを文句もいわず(言うわけないか)、受け入れてくれるのだから楽しい。また、「せいの神の神様は、いぢのむさい神様で、出雲の国よばれていって、じんだら餅に食いよって、あとで家を焼かれた エンヤラワーイ」とは、どんど焼などでかつて唄われたものである。「意地が悪い神様で」「家を焼かれた」という形で唄われることは多い。ずいぶんな言われかたをする神様だが、いっぽうでこれほど身近な神様はいない。
 さて、42歳の厄のときは、地元から離れて別家したこともあって、こうした厄落としをしなかった。別家した地域では、茶碗に銭を入れて厄を投げるということを聞かなかった。そこでは、ホンヤリの時に厄年の人がふるまい酒を出して、ホンヤリに点火することが厄落としとされた。昔はもう少し違う方法で行なわれていたのかもしれないが、その当時の厄落としにならった。ほかに同年代で旅行などをして厄を落とすということもされているが、わたしには誘いはなかった(その年代はしなかったという話も聞いた)。とくに大厄といわれる歳だけに、生まれ育ったところから誘いがあって、秋祭りに盛大に厄落としをした。そこでは、厄年の者(ほかの年齢の厄年の人も加わって)が奉納煙火をあげる。大三国といわれる筒花火と、仕掛花火を奉納するのだが、ずいぶんお金が掛かるということもあって、そのために何年か前から貯金を始めた。地区に同年というと10人程度という地域であるが、人が少ない年代は負担が大変である。わたしの年代はそこそこ人数がいたということもあって、奉納煙火後も懇親の意で何度も飲み会をやった。なにしろ奉納煙火はおおごとで、筒の用意から火薬詰めまでたずさわる。そして祭りの日には、庭花火が続く中で、火の粉をあびながら競って厄を落とすのである。けっこう大々的な厄落としの仕方かもしれない。当時会社で同じ歳くらいの人に「厄落としをしたか」と聞くと、「何も」と答える人もけっこういた。これほど事件事故が頻繁な世の中なんだから、常に厄と隣りあわせかもしれないから、特別なことをした方が事故に会いそうで、何もしない方が厄落としになるかもしれないとは、よく考えてわたしの答えである。

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