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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

庚申さんと「二十三夜塔」

2025-06-27 23:49:45 | 民俗学

等々力町十王堂東

 

等々力下町

 

 穂高の町の中、等々力町にある十王堂の近くに写真の青面金剛と「二十三夜塔」が祀られている。青面金剛は「享保十六年」とあり、1731年造立である。一緒に歩いていた方から、安曇野では二十三夜と庚申さんがセットで並んでいる例が多いと言われ、これまであまり気にしてこなかったが、この後はそうした視点で捉えてみたいとは思っている。とはいえ、「二十三夜塔」は「文政五年」銘があり、1822年造立となる。ようは庚申さんとは100年も異なる。したがって初めからこうしてセットで並んで建っていたわけではない。享保16年の庚申も古い方ではあるが、安曇野にはそこそこ古い庚申さんが多く見られる。しかし、このように庚申さんは1体のみであり、例えば伊那谷のように、60年ごとの「庚申」年の度に造塔されるという光景は珍しいようだ。たまたまこれが「特徴」と言われ、『穂高町の石造文化財』(平成6年 穂高町石造文化財編纂委員会)の写真編で確認しようとしたが、同書は1体毎写真が掲載されていて、並んでいるかどうかは分からなかった。

 もう1枚の写真は同じ等々力町の下町にあるもので、同セットに道祖神が加わる。双体道祖神が最も古く、「寛政十年」(1798年)。次いで「二十三夜塔」で「文政五年」(1822年)。「庚申」は「万延元」年で1861年である。

 グーグルマップで庚申さんと「二十三夜塔」を探ってみたが、「二十三夜塔」と道祖神が並立しているケースがより目立った。そもそも庚申さんが多くない。そして確かに1箇所に複数造塔されているケースはほとんど例を見ない。伊那谷の庚申信仰とは確かに異なるという感じである。

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自治組織さまざま

2025-06-19 23:27:42 | 民俗学

 地域の末端の自治は、さまざまであることはここでも何度か述べていること。安曇野市では地域を区で分けており、全域「区」という割り振りがされていて、線引きも明確にしているよう。もちろん自治としてもそうだが、土地も「区」によって分別されているから、たとえ自治組織に入っていなくとも地域を呼ぶ際には「区」に割り振られた名称で判別しているようにも見える。いっぽう伊那市のように安曇野市同様に「区」で自治組織を分けているものの、区を構成していない自治組織もあって、市の行政上は「区」を構成していなくとも区と同様の扱いでそうした地域を捉えているよう。伊那市内の「区」にはかなり小さな(戸数が)区もあるようで、区を成していないもっと大きな区ではない自治単位もあるよう。いずれにしても行政側が都合の良い捉え方をしているとも言えそうだ。

 とはいえ、実際の自治組織はさまざま。区を自治組織として行政は扱いながらも、その下にもいくつもの組織があったりする。ある地域では区の下に「班」があるといえば、ある地域では「ブロック」と称していたりする。我が家のある地域では「区」があるものの、行政側が捉える際の自治組織は「自治会」であり、「区」はそうした自治組織のまとまった地域を指している。なぜそうなったかといえば、わが家のある地域の「区」は、昭和の合併以前の旧村にあたる。したがって安曇野市や伊那市の「区」とはあり方が異なる。

 ところ変われば、ではあるものの、結果的には行政と直結する自治組織が何かということになるのだろう。それさえ地域によってさまざまなのである。

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神葬祭について

2025-06-18 23:17:14 | 民俗学

 ある地域でいくつかの神社の宮司を務める年輩の方に話をうかがった。宮司はおおかたいくつもの神社の宮司を務めるのは、地方ではあたりまえだ。そして一般人にはわからないことだが、どこの神社にも宮司がいなくてはならないという。ようは登記簿には「宮司」が記載されるという。かつてちゃんと氏子がいて、今は廃村になって誰も氏子がいなくなってしまったような神社にも、神社を廃止しない限り宮司は存在するという。したがって話をうかがった宮司も、先代の時には祭礼にかかわっていたものの、今は廃村になってしまって神社だけ残っているような神社の宮司を務めているが、一度も行ったことはない神社があるという。おおよそある範囲にある神社を受け持っていて、とくに離れた地の神社の宮司は担っておられないという。ちなみにどんな大きな神社でも、「宮司」は一人で、宮司の下に「祢宜」、その下に「権祢宜」がいる。地域によっては宮司と同じ立場の人を「祢宜」と称す地域があるが、なぜ「宮司」と呼ばずに「祢宜」なのか、これはそう呼んでいる「祢宜」に聞いてみないとわからない。

 さて、その宮司が暮らされている地域は、神葬祭が多いという。もちろんそのほとんどをその宮司が担われているというので、こんな機会はないと思い神葬祭のことについて聞いた。とはいえその地域が神葬祭が多いと事前に聞いていれば、事前に神葬祭を調べて言ったのだが、その場で思いついたため、当たり前のことも聞いていた分、時間をそうした初歩的なことに費やしてしまったことは残念だった。神葬祭については、やはりウィキペディアにおおよそのことは記されている。聞いた際に「いつ頃から」ということも聞いたのだが、その宮司さんははっきりしたことは答えず、いずれにしても江戸時代は「不浄なことに手を出さない」という考え方があったから、明治以降のことだろうと答えられていた。当たり前のことだが、江戸時代には寺請制度があったため、蟹らずどこかの寺に所属しなければならなかった。したがって宮司もいずれかの寺に檀家となっていたわけである。もちろん今は寺の檀家ではないという。

 その地域がなぜ神葬祭が多いかと言うと、地域にあった寺との何らかのいざこざがあったためのようで、その寺から離れて神葬祭になった家が多いという。同じような話はよく聞かれることで、ある寺の住職が嫌いだから、といって寺を辞めようと画策する話はよく耳にする。近ごろは神葬祭の家の葬儀に行くこともあって、神葬祭の経験をすることも珍しくなくなったが、ご存知の通り、線香はない。代わりが玉串である。また位牌の代わりが御霊代であり、「みたましろ」と称し、位牌を納めるいわゆる仏壇に代わるものが御霊舎(みたまや)である。ただし寺から神葬祭に代わった家では、代々の位牌もあるし、それを納める仏壇もある。それらを捨ててすべて神葬祭用に変える家はほとんどなく、仏壇をそのまま利用するケースが多いよう。もちろんその呼び方については、いつ神葬祭に変わったかに関係するので、実際に神葬祭の家で聞いてみないとわからないことである。家では通常「ほとけさま」と言うわけだが、こうした神葬祭の場合何と呼ぶが、宮司さんに「神様で良いのですか」と聞くと、はっきりとは答えられず、いっぽう「神様という呼び方は適さないかもしれない」とも言われた。このあたりも神葬祭の家の方に聞かないとはっきりしない。

 そもそも神葬祭には決まった形式はないといい、同じことがウィキペディアにも「神葬祭には、全国的に統一された祭式(式次第)は無い」とある。話をうかがった宮司も、宮司ごと違うと思うと言われていた。そうした中、寺であれば檀徒による組織ができているが、神葬祭はどうなのか、という気になるあたりも聞いてみた。すると宮司さんの場合はとくにそうした組織化はされていないようで、簡素な神葬祭においては、葬儀後の御霊祭について寺のように規定通りに行わないことが多いようで、場合によっては葬儀のみかかわって、あとは何も関わらない家もあるという。また宮司によっては組織化されている方もおられるようで、「神徒会」のようなものを作っている例もあるという。そもそも葬儀が主ではなく、祭礼が主である宮司にとって、神葬祭は力を入れるべきところではないと考えておられるのかどうか、そこまでは聞けなかった。

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明治初期村絵図に見る空間認識⑧(描かれた図から見えるもの㊸)

2025-06-16 23:59:48 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識⑦(描かれた図から見えるもの㊷)より

 

 

 昨日利用した図を、再度利用してみたい。

 昨日の図は東信地域を主にしていたが、今回は全県を対象にした図に編集した。郡域に着色するかどうかを考えたが、ここではあえて着色した図を利用する。もちろん無地で表すのは簡単なこと。GISの良いところは、図をいくらでも編集できるところだろう。ここまで「山」を意識した捉え方をしてきたが、今回は川の幅を広くして、少し川を強調するように表現してみた。それは川に対して図はどこを向いているかを捉えるためだ。

 例えば典型的な南信地域を見てみよう。伊那谷のセンターを流れる天竜川、その東西ではまったく向きが異なることは以前にも触れた。捉え方を変えると、伊那谷では川を「背にしている」ということである。実は今日も友人とこのことについて雑談をしていると、友人は「山」ではなく展開している光景に左右されるという。典型的な例として伊那市西箕輪の木曽山脈山麓に展開する集落をあげた。与地から羽広、そして箕輪町の富田や上古田といった山麓集落は、眼下に広がる川やそこに展開する集落を上から眺めているという。したがって頭の中で図を展開すると、そうした眼下に展開する空間だという。確かに眺めが良いから山麓に住む人々にとっては「山」よりも「眼下」かもしれない。ただし、そうした環境にある集落に限られることで、川沿いに展開する集落には眼下はない。伊那谷の例を見ても、ほとんどは川を背にしている。やはり位置情報としての「山」や「川」は認識度が高いと言える。そう考えると全県的に川を背にしている傾向は強いと言える。ただし、やはり問題になるのは長野近辺だろうか。川を背にしている例の方が稀な地域である。なお、ここには所有河川しか示しておらず、小河川を示して各々の事例を検証していくと、もっと「川を背にしている」イメージが高まるに違いない。

 さて、これまで明治初期の村絵図を利用しての方角であったが、今後は過去の観光パンフレットに示されていた図の方向を同じような手法でまとめてみることにする。ただし過去のパンフレットがどれだけ手元にあるかも問題である。かつて昭和50年代中ごろに盛んに観光パンフレットを収集したのだが(全国の)、邪魔になったため、家を建てた30年ほど前にほとんど捨ててしまった。まさか今になってこんな利用方法をするとは思ってもいなかった。

 

続く

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明治初期村絵図に見る空間認識⑦(描かれた図から見えるもの㊷)

2025-06-15 23:55:21 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識⑥(描かれた図から見えるもの㊶)より

 

 

 今回で県内全域を網羅したことになる。北信同様に全県の図と東信のみの拡大図を用意した。基本スタイルは北信と同じである。小県郡域では記号が散らばっているが、千曲川上流域へ入ると千曲川に沿ってしか記号が落ちてこない。当たり前なことで、山間地域へ入れば河川沿いに集落が集まるし、そもそも村の中心位置で示しているから、そうした村の中心行きも河川沿いに集まる。北信ほどではないが、やはり上田市近辺には村が多かったらしく、記号が重複するように集まる。そしてやはり長野程ではないにしても、地域の中心には白抜きの記号が多くなる。中南信とは対照的なことが歴然とする。また、昭和初期の村絵図の描き方にもよるが、ど地らを向いているか判断しがたいものが多い。

 例えば509番の大日向村である。当時大日向村は複数あるが、この大日向村は現佐久穂町にの大日向村である。横長の構図のセンターに横に抜井川が描かれ、川より北は文字は北を向き、川より南は南を向いている。文字の絶対数は川より南に多く描かれているため、結果的に南を向いている文字が多かったので、「南」向きとしたが、判断が正しいかどうか…。なお、大日向村の場合は表題も南をむいているから良いものの、こういう例で表題が逆方向をむいている例も珍しくない。完全に「南」と判断しがたい例は多く、文字の向きがあちこちでどちらを向いているか判断しがたいものもある。

 

 

 南佐久郡の場合は千曲川上流域の南部は八ヶ岳を向いているものが多く、北上すると向きがあちこち向くようになり、南北が目立つ。そして北佐久に入ると南北を向く図が優占する。それは小県に入っても同じ傾向で、赤色記号も目立つようになる。北信同様に高山がないというあたりは山の象徴性を低下させているのかもしれない。

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明治初期村絵図に見る空間認識⑥(描かれた図から見えるもの㊶)

2025-06-14 23:37:22 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識⑤(描かれた図から見えるもの㊵)より

 

 

 前回も触れたが、いよいよ東北信のデータ作成を始めた。今回は北信のデータを載せたが、北信地域の明治初年の村の数は299ある。東信の228も次に多い中心に比べれば圧倒的に多い。中信87、南信84だから合わせても171と、東信よりも少ない。中南信の集落単位が、東北信の村なのだ。集落のことを「ムラ」と言うのもわかるような気がする。ということで数が多いことから長野県図で示そうとすると今までの記号の大きさだと重なってしまう。そこで前回小さく下記号を、さらに60パーセントほど小さくして図化したものが下図である。記号が小さくなると傾向が見づらくなる。しかし、同じ図に北信も示そうとすると、これが限度だろうか。

 まずここでは県全体図で傾向を見てもらいたい。黒色及び赤色記号だけを見ると、県全体にまんべんなく配置されているように見える。しかしそれらを見ないようにして、白抜き記号だけに目をやると北信域に圧倒的に白抜き記号が多いことに気づく。いっぽう南信には白抜き記号は極めて少なく、北へ進むほど白抜きが多くなる印象がある。今後東信地域の記号を配置してどうなるかであるが(一部すでに投信にも記号は落ちている)、割合的に北信域は南北に向いている図が多いということが言える。その上で、赤色と黒色の配置に中南信ほど規則性がないことがわかるだろう。とはいえ、千曲市の千曲川沿いの記号からは「川」の両岸で方向が逆になる傾向は見え、中南信に見えた傾向が若干うかがえる。村の中から見たとき、標高の高い山々を図上に配置する傾向は見えるものの、とくに南信ほどの明確な空間イメージは育まれていないと考えられる。理由のひとつには、北信域には高山がないということだろう。もちろん2000メートル級の山々もあるが、中南信に比較すると山は低い。もちろん長野市あたりからは北アルプスも望めるが、遠くにある高山であって、象徴性は低いと思われる。また中山間地域に入ると、象徴的な山が望めない地域も多く、西山地域ではとくに白抜き記号が目立つ。そのいっぽうこの地域に暮らす人々には象徴的な山がないわけではない。北信五岳と言われる山々は明らかに誰にでも捉えられている山々である。千曲川右岸に西向き傾向が見られるのは、背後よりも前面の展開を意識する地域なのかもしれない。

 


 さて、県全体図では記号が小さく、また重なりがあって見づらいため、北信だけの部分図も作成してみた。県全体図より見やすいと思う。中野市、山ノ内町、木島平村の境界にある高社山は、けして高い山ではないが、独立していて地域の象徴的な山である。この山を図上にするように高社山に矢印が向いていることがわかるだろう。不規則である北信域の中で、象徴的事例である。

 今回北信域を郡別に色分けしてみた。NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブに公開されている「明治初期の村絵図」は、統一した図の描き方ではない。ただ、同じ人が描いただろうとおもわれる図がある。例えば308番高野村から312番赤田村の5村の図は同じ描き方をしている。こうした隣接地域が同じ傾向になるのは、そもそも描いた人が同じことから派生するとも思われる。とはいえ、この5村、2村が「北」、1村が「北西」、もう2村が「南」を向いており、必ずしも描き方が同じだから同じ方向を向くというわけでもないのも事実である。

 いよいよ次回で全県の図が完成する。繰り返すが村の数に格差があるため記号の密度に目を奪われてしまうかもしれないが、それでも地域傾向が表現されることが期待される。

続く

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明治初期村絵図に見る空間認識⑤(描かれた図から見えるもの㊵)

2025-06-12 23:59:59 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識④(描かれた図から見えるもの㊴)より

 

 

 長野県の南半分を舞台にしてきた明治初期村絵図に見る空間認識、中信地域を加えたことによって長野県図に発展した。以前にも記したように、東北信は町村数が多いため、煩雑になることが予想される。というか記号が重なってしまうことだろう。したがって図化してうえである程度密集している箇所は間引いて行かないと解りづらいはず。とりあえず今回は中南信のため、それほど記号が密集していない。もちろん前回並みの記号の大きさだと重なってしまうため、記号の大きさをこれまでの60パーセント大に縮小した。それでもこれまでの記号では解りづらかったため、東向き記号を赤色に変えた。もちろんモノクロ原稿ではこれができないため、モノクロ表現の場合は考えなくてはならないが、今は色を使えるため、赤色は東方向、黒色は西方向の記号に統一した。その上で南北方向は白抜き矢印のままとした。

 さて、中信地域を概観すると、北アルプス方向を向いている図が多いことは事実。その上で、犀川河川沿いの村々には東向きも多い。ようは地域の西側は西を、東側は東を、という伊那谷スタイルがここにも存在している。今回はあらためて伊那谷地域がはっきりするようにグリーンで配色した。伊那谷の場合は天竜がを境に東西が反転する。松本や安曇あたりは必ずしも川で反転するわけではないため、伊那谷ほど明瞭ではない。また伊那谷も含めて「北向き」の記号がそこそこ存在する。中山間地域に多いものの、松本周辺では平地の村にもそうした村が多い。山との距離感も影響するのだろうか。

続く

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明治初期村絵図に見る空間認識④(描かれた図から見えるもの㊴)

2025-06-10 23:28:42 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識③(描かれた図から見えるもの㊳)より

 

 

 いよいよ南信地域全域をまとめた地図である。加えられたのは諏訪地域。北東に八ヶ岳を配した地域だが、それら山々に平行するように釜無川が南東へ流下する、あるいは宮川が北西に諏訪湖に向かって流下する。図からわかるように、北東に矢印が向いている村が9村あり、最も多い。やはり山を図上にしている傾向が高く、不可思議な例もあるが、おおかたは山を意識しているといってよく、伊那谷の意識と似ているといって良い。

 次回からは中信地域の図を作成していくこととする。

続く

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明治初期村絵図に見る空間認識③(描かれた図から見えるもの㊳)

2025-06-08 23:35:34 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識②(描かれた図から見えるもの㊲)より

 

 

 少しずつ範囲を広げていくつもりで図化を進めている。3回目は木曽谷の村々を加えた。実は木曽谷の村絵図は掲載数が少ない。したがって記号を落とせない地域がけっこうある。とくに木曽谷南部は空白地帯になってしまった。とはいえ、見ての通り、規則性がない。あえて言えば木曽川に沿って上流を図上にしている村が図から5村ある。確率からいけば高いと言える。王滝村と三岳村は御岳山を図上にしているとも見えるが、実際の図を見る限り御岳山を意識しているようにもうかがえない。やはり伊那谷とは意識風異なると言えなくもない。

 なお、今回の図には主な山々を落とし込んでみた。山を意識しているというわたしの観点に合わせれば「山がなければよくわからない」と、自分でも思った。そこで主だった山を落とし込んでみたというわけである。繰り返すが、山を意識する人々=伊那谷、と言えそうである。裏を返せば山を図上にしていない地域の人々は、少し伊那谷の人々と意識がことなる人々かもしれない。

 いずれにしても今回の図を見て「おもしろい」と思ったのは、木曽谷の木曽川上流を図上にするという意識だろう。

続く

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伊那谷における十王像の分布 後編

2025-06-06 23:18:06 | 民俗学

伊那谷における十王像の分布 中編より

 

 

 図は前編で紹介した「伊那谷の十王像分布」と同タイトルである。もちろん図に落とした記号は全く同じである。その上で背景色に優占宗派を示した。優占宗派とは、その村にある寺の宗派をカウントしたもので、最も多い宗派の寺を「優占宗派」とした。その村にある寺の数は、『長野県町村誌』に掲載した村ごとのもので、本図が大正9年の行政枠を採用していることから、『長野県町村誌』の村と必ずしも一致しない。大正9年の行政枠に関係する村を合算した、あるいは分割して数値化したが、寺の位置がはっきりしないものもあって、若干わたしの勝手な割り振りがあることは承知願いたい。村内の寺の宗派が同数になった場合は、寺の敷地面積で判断した。ようは大きな寺を優先宗派に割り当てた。なお、『長野県町村誌』のデータは、明治8年から12年ころまでのもの。

 十王堂については、信仰の衰退の背景に寺が関係していると考えられている。寺が檀家を囲い込んでいく際に、堂を末寺にしたり、あるいは主尊を置き代えて違う名の堂に変更したりしていった。したがって十王像は不必要な存在になっていったわけで、それは宗派によって差があったともいう。「十王信仰と曹洞宗寺院は相反する」、あるいは「天台宗と十王信仰が深い関わりをもっていた」という指摘を「上伊那における「十王信仰」」(『伊那路』248号 1977年)において中村弘道氏がしている。しかし、図を見る限りそれを証明するほどではなく、むしろ曹洞宗エリアに十王像は多く残存している。天台宗エリアに十王堂が手厚く保存されているとも見えない。そもそも曹洞宗寺院が伊那谷を席巻しているとも見える状況下で、なぜ伊那谷にはこれほど十王像が残存したか、その理由はなかなか解けない。

終わり

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プレハブ物置に納まった「十王」

2025-06-05 23:47:50 | 民俗学

伊那市富県上新山宮下

 

 伊那市新山の上新山区事務所の庭にこの十王堂がある。小型のプレハブの物置を利用しているもので、まだ新しい。もとの姿を知らないが、『伊那市石造文化財』(伊那市文化財審議委員会編 昭和57年)に所在地「宮下組十王堂」とあるもの。古くなった堂を新しくするにも費用がかかることから、安価なプレハブ物置を利用したわけである。開け放った戸を固定して、半分から下は板張りにしたうえで、上部には金網が張ってある。ようは盗難にあわないようにしてあるため、手で触るわけにはいかない。手で触れられないものの、石質は安山岩である。高さは30センチ余のもので、上段真ん中の地蔵だけ大きめである。

 さすがにプレハブの十王堂ははじめて見た。金網越しのためカメラを編に接近させて撮ったものの、やはり金網の影が写り込んでしまう。プレハブで造った堂の経緯を聞くことはできなかったが、この集落に知人がいるので、いずれ聞いてみたいと思う。

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六道地蔵尊仏迎えから民俗地図を作る

2025-06-04 23:31:12 | 民俗学

 

 「長野県民俗の会次回例会(6/28 伊那市創造館)において、再び民俗地図作成を促す例会を予定している」と「『長野県町村誌』から民俗地図を 前編」で触れた。5月初頭に検討を始めたものの、もう1か月。そろそろ具体的な説明資料を用意していかなくてはならない。そうした中、会員からの要望に、地図上に地点を新たに落としてデータを作成する方法を教えて欲しいとうかがっている。もちろんそれも例会で触れる予定だが、「何か良い事例がないか」と友人に相談したところ、かつて例会で行った調査の話が上がった。2年前に開催した第237回例会では「六道地蔵尊 仏迎え」を見学し、その際参拝者の居住地を聞いた。ようは参拝する人たちがどこから来ているかを調べたわけである。それを地図上に落としていくというのが友人の「案」であった。次回例会は伊那市で開催することから、できれば試作は伊那市に関係したもので、と思ったなかで出た友人からの提案であった。

 そこで作成してみたものがここに取りあげた図である。「どこからですか」と聞いて答えられたものを一覧表に当時まとめてあった。それを地図上に地点として落としていくわけだが、詳細な地点名を口にされたかたもいれば、かなり広範に地域名で答えられた方もいた。図化した際に点がなるべく重ならないように曖昧ではあるものの、答えられた地域名の範囲内に散在させて落としていった。図でもわかるように六道地蔵尊の周囲に点が多くなるのは当然のこと。友人ともこの図を見て話題になったのは、三峰川の南側から訪れる方が少ないということ。もちろん天竜川の西側から訪れる人も少ない。最北は箕輪町松島、最南は宮田村大田切の方だった。長谷や高遠から訪れる人も、意外に少ない。聞き取りした際に、毎年訪れているのか、新盆の年のみかという質問もしている。この図ではその点についても色で表してみた。

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伊那谷における十王像の分布 中編

2025-06-03 23:59:59 | 民俗学

伊那谷における十王像の分布 前編より

 

 

 前回は木造石造の別なく伊那谷にある十王像について群をひとつとして数えて図に落とした。今回は石造に限ったうえで、その石質が推定できるものだけ石質別に図化してみた。下伊那地域については岡田正彦氏の「南信州の十王信仰と十王堂」(『伊那』伊那史学会)から石質を引用させてもらっている。以前に自然石道祖神について触れた際にも言ったことであるが、石造物の石質にまでこだわって報告されたものはほぼないといってよい。したがってその石質を知ろうとするなら、あらためて調べて歩かないとわからないわけである。そうしたなか、岡田氏は下伊那の十王については石質を報告している。ありがたいことなのだが、いっぽう上伊那についてはもちろん石質を記したものはない。したがってできうる限り訪ねてみたが、鍵が掛かっていて遠目でしか望めないもの、あるいは完全に閉じ込められていて姿も拝めないものもあって、そうしたものについては図には落とせなかった。また、石質を判別したものの中にも怪しいものはある。なぜかと言えば、苔むしていて表面が変色していて実のところはっきりしないものもある。安山岩質については、表面に気泡のようなザラザラがあるためおおよそそれと判断できるが、遠目からはわからない。したがって図に落としたモノの中にも違っているものがあるかもしれないのは、了解いただきたい。

 これらの石造物、削ってみれば良いのだろうが、そんなこともできない。一番良いのは十王は小さいことから、固定してなければ、ひっくり返して底面から石を見てみると最もわかりやすい。したがってそれができないものはあくまでも推定である。以前にも記したが、安山岩は黒色であり、黒っぽい十王は安山岩質と思いがちである。ところがよく見ると違う。例えば伊那市羽広の仲仙人寺の十王堂内に安置されている十王は、一見安山岩と思ったが、よく見ると違う。この一帯には同じような石質のモノが見られるが、黒色がかっているのは、もちろん含有鉱石のせい。若干緑がかっているので、三峰川上流の緑色片岩かと思ったが、それでもない。広義の花崗岩に含まれると言われる花崗閃緑岩と思われる。ただ花崗岩のように白くはない。かなり黒っぽい。

 図からわかるように安山岩質の十王は伊那谷全域にあるが、西部、南部にはそもそも十王像が少ない。前編で示した図とともに見て欲しいのだが、下伊那地域は木造の十王が多い。それでも安山岩の十王が多く存在し、いっぽう上伊那では安山岩のものも多いが、花崗岩質のものもそこそこ存在する。上伊那では花崗岩を採取しやすい。いっぽう下伊那にも花崗岩は産出されるが、いわゆるふつうの花崗岩は少なく、良質な石材は少ないかもしれない。ようはそういう環境から木造の十王が多いのではないかと推定する。図には安山岩地質の場所を示した。伊那谷には辰野町の北縁にわずかながら安産が見られるが、あとは八ヶ岳山麓である。また南を望むと、東栄町の西部に若干安山岩質の一帯があるようだが、それ以外には見られない。したがって安山岩の十王の石材は、諏訪地域から搬入されたものではないかと、想定する。

 

後編へ

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伊那谷における十王像の分布 前編

2025-06-02 23:31:52 | 民俗学

 

 このところ「十王像」に関する原稿をまとめていた。日記に空白が続いたのはそのせいだ、と言い訳を前置きしたうえで、図は伊那谷における十王像の分布を示したものである。作成に当たっては、下伊那地域は岡田正彦氏の「南信州の十王信仰と十王堂」というタイトルで『伊那』(伊那史学会)へ掲載された9編(62巻1号~68巻11号)と、同じく岡田正彦氏の「鼎町切石 専修庵の十王信仰」(『伊那』69巻12号)から引用させてもらった。また上伊那については各市町村で既刊されている石造文化財報告書と、それらがない南箕輪村は村誌を利用したが、石造文化財の報告書から拾い上げたため、木造十王像については全てではない可能性が高い。加えて宮下明子氏の「十王像のこれから」(『伊那路』760号)、「駒ヶ根市中沢の十王像巡り」(『伊那路』774号)、「春に誘われ十王像へ―駒ヶ根市東伊那・下平―」(『伊那路』789号)、「十王像のつぶやき―飯島町―」(『伊那路』804号)、「十王像を求めて北へ北へ―天竜川西を探す―」(『伊那路』810号)も参考にさせてもらって木造十王像の把握に努めたが、これらについては今後補充して修正したいと思う。とはいえ、下伊那ほど木造十王像が上伊那に存在しているとは思えない。したがって図でもわかるように、下伊那地域に木造十王像は多い。図に落とした石造木造を含めたポイント数は、62箇所、下伊那56箇所にのぼる。若干上伊那が多い上に、木造が全て把握されていないことから、上伊那に十王信仰は篤いということは言えるのかもしれない。

 この地域での十王に関する文献の初見は、伊那史学会を運営されていた原田島村氏の「口 伊那一閻魔大王 十王 松川町上片桐清泰寺」であり、『伊那』7巻1号に掲載されたもので、昭和34年であった。以後『伊那』あるいは『伊那路』で何度となく伊那谷の十王像について紹介されてきた。下伊那地域については、それらを網羅する報告として前述の岡田氏のものがある。

 図では上下伊那を分別できるように色分けしていないが、「伊那街道」と記されているあたりが境界で、上側が上伊那、下側が下伊那になる。図には農業振興地域を示してみたが、こうしてみてみると農業振興地域は下伊那にずいぶん広く見えるが、実際の生産エリアとは異なるだろう。もちろん農業振興地域が人々の住まう地域になるだろうが、下伊那における南西部は、今となっては山林化している部分が多い。それらを差し引いたとしても、南西部に十王像が少ないと言える。なお、十王は単体ではなく、十の王とそれらに付随する奪衣婆などがあるため、これらはその数ではなく、群を1箇所として示している。伊那谷における十王像の分布の偏りについてのコメントは中編に譲る。

中編へ

 

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明治初期村絵図に見る空間認識②(描かれた図から見えるもの㊲)

2025-05-25 23:51:28 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識①(描かれた図から見えるもの㊱)より

 

 

 上伊那での傾向は、明らかに谷の中央から山々を頂においた構図で村を展開していたということ。とりわけ「描かれた図から見えるもの㉟」でも触れた飯島村の図は、村の空間からは外れて山々を横から見たように描き出していた。いかに山々を象徴的に捉えているかわかる。同じように山々を横から描いた例では中箕輪村の例があるが、飯島村の描き方とは少し異なる。飯島村の例は、山が人々の空間とは隔絶している感がある。おおかたの村では例えば片桐村のように、山を上から見た形で図上に描いており、横から描いている飯島村とはまた異なる。

 さて、2回目は上伊那に加えて下伊那の村々を追加してみた、いわゆる伊那谷の地図である。前回詳述しなかったが、正確に「西」を向いているとか、「東」を向いているわけではなく、若干方角はずれている。ただし絵図そのものが現在の地図とは異なり、正確性に欠けるため、おおよそ東西南北で方向は分別できた。例えば東南東は「東」、西北西は「西」としてまとめた。同様に下伊那を割り振ろうとしたら、下伊那では上伊那と違って、谷そのものが若干上伊那よりぶれてくる。したがって東西南北に加えてそれぞれの中間の方角を加えた。煩雑になってくるが、正確性を考慮して追加した。

 上伊那同様に、天竜川の東西でその向きは逆転するが、上伊那に比較すると統一性はなくなってくる。理由は高山がなくなり、山々の標高が低くなるせいもある。やはり象徴としての「山」があるかないかというあたりと関係するかもしれない。とはいえ、前述したように天竜川が南西に向かって流れる飯田近辺では、右岸は「北西」へ、左岸では明瞭ではないが「南東」へ向く村が見られる。意図とすれば、やはり山を図上へ置く上伊那の構図と同様と捉えられる。そうした中で、曖昧になってくるのが南部や西部の村々である。前述したように必ずしも高い山が象徴的に存在しなくなるとどうなのか、ということになるが、それでも天竜川を境に逆転する構図は、ほぼ一致している。阿智村周辺の村に「北」を向く例があるのは特例である。

続く

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