明治初期村絵図に見る空間認識⑤(描かれた図から見えるもの㊵)より

前回も触れたが、いよいよ東北信のデータ作成を始めた。今回は北信のデータを載せたが、北信地域の明治初年の村の数は299ある。東信の228も次に多い中心に比べれば圧倒的に多い。中信87、南信84だから合わせても171と、東信よりも少ない。中南信の集落単位が、東北信の村なのだ。集落のことを「ムラ」と言うのもわかるような気がする。ということで数が多いことから長野県図で示そうとすると今までの記号の大きさだと重なってしまう。そこで前回小さく下記号を、さらに60パーセントほど小さくして図化したものが下図である。記号が小さくなると傾向が見づらくなる。しかし、同じ図に北信も示そうとすると、これが限度だろうか。
まずここでは県全体図で傾向を見てもらいたい。黒色及び赤色記号だけを見ると、県全体にまんべんなく配置されているように見える。しかしそれらを見ないようにして、白抜き記号だけに目をやると北信域に圧倒的に白抜き記号が多いことに気づく。いっぽう南信には白抜き記号は極めて少なく、北へ進むほど白抜きが多くなる印象がある。今後東信地域の記号を配置してどうなるかであるが(一部すでに投信にも記号は落ちている)、割合的に北信域は南北に向いている図が多いということが言える。その上で、赤色と黒色の配置に中南信ほど規則性がないことがわかるだろう。とはいえ、千曲市の千曲川沿いの記号からは「川」の両岸で方向が逆になる傾向は見え、中南信に見えた傾向が若干うかがえる。村の中から見たとき、標高の高い山々を図上に配置する傾向は見えるものの、とくに南信ほどの明確な空間イメージは育まれていないと考えられる。理由のひとつには、北信域には高山がないということだろう。もちろん2000メートル級の山々もあるが、中南信に比較すると山は低い。もちろん長野市あたりからは北アルプスも望めるが、遠くにある高山であって、象徴性は低いと思われる。また中山間地域に入ると、象徴的な山が望めない地域も多く、西山地域ではとくに白抜き記号が目立つ。そのいっぽうこの地域に暮らす人々には象徴的な山がないわけではない。北信五岳と言われる山々は明らかに誰にでも捉えられている山々である。千曲川右岸に西向き傾向が見られるのは、背後よりも前面の展開を意識する地域なのかもしれない。

さて、県全体図では記号が小さく、また重なりがあって見づらいため、北信だけの部分図も作成してみた。県全体図より見やすいと思う。中野市、山ノ内町、木島平村の境界にある高社山は、けして高い山ではないが、独立していて地域の象徴的な山である。この山を図上にするように高社山に矢印が向いていることがわかるだろう。不規則である北信域の中で、象徴的事例である。
今回北信域を郡別に色分けしてみた。NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブに公開されている「明治初期の村絵図」は、統一した図の描き方ではない。ただ、同じ人が描いただろうとおもわれる図がある。例えば308番高野村から312番赤田村の5村の図は同じ描き方をしている。こうした隣接地域が同じ傾向になるのは、そもそも描いた人が同じことから派生するとも思われる。とはいえ、この5村、2村が「北」、1村が「北西」、もう2村が「南」を向いており、必ずしも描き方が同じだから同じ方向を向くというわけでもないのも事実である。
いよいよ次回で全県の図が完成する。繰り返すが村の数に格差があるため記号の密度に目を奪われてしまうかもしれないが、それでも地域傾向が表現されることが期待される。
続く