十沢地蔵尊
昨日、用足しに辰野まで行った帰りに、箕輪町長岡集落を通過して帰った。長岡の「十沢地蔵尊」のことは、この道を通ると看板もあって昔から知ってはいたものの、一度も立ち寄ったことが無かったので、お詣りがてら道端なので寄ってみた。
「大祭」が4月だと聞いて「いつですか」と、ちょうど除草剤を散布されている方がおられて聞いてみると、お地蔵さんのところに「書いたものがある」と聞き、行ってみると「十沢のお地蔵さんとその周辺」というパンフレットが置かれていた。「4」のつく日はお地蔵さんの縁日というのはどこでも言われていることとか。とくに「24」日はお地蔵さんと縁の深い日。そういえば夏の地蔵盆も「24」日である。したがって「4」のつく4月24日が「大祭」というのもわかる。
パンフレットには十沢地蔵尊の謂れが詳細に書かれている。昭和49年に箕輪東小学校の先生方とムラの人たちがムラに残る民話を採録されたものから引用したという「お地蔵様の話」、引用が長いが全文をここに掲載してみる。
今の三日町にある澄心寺は、ずっと昔長岡にあったそうだ。今でも寺原という地名が残っているところがある。たぶんそのあたりにお寺があったろうということだ。
それが何かの都合でこのお寺を三日町へ移すことになったので、大勢の村人が毎日々々お寺をこわしたり、仏像や仏具を運んだり忙しく働いていた。
そうして一番最後に取り残されたのは庭に座っておられたあのお地蔵様だった。村の子供たちはよくここへ遊びにきた。そうして鐘つき堂のまわりで鬼っくらをしたり、かくれんぼをしたり、いたづらの子供は鐘つき堂に登って鐘をゴンゴンとついた。
そうすると寺の小坊主がおこって出てくるので、よけい面白がってゴンゴンとついては、ワーツと逃げ出した。
たまにはお地蔵様の頭に石をつんだりして、いたづらをする子供もおった。お地蔵様は決しておこりはしなかった。それは、それは、子供が大好きだったから。
このお地蔵様もいよいよ明日はお引越しをするという晩のこと、村一番年よりの爺さんがこんな夢を見ました。
或日のこと、お寺へお参りに行った。庭にある大きな桜は今を真盛りと咲きみだれ霞にけぶる春の日だった。爺さんはお地蔵様の前でていねいに頭を下げて拝んでおりました。するとその時どこからともなく細い美しい声で歌が聞こえてきました。
坂を下れば すみなれた
村がかくれる
いたづらずきの うないもの(うないもの=子供)
顔も見えない 声もせぬ
爺さんは誰がうたったんだろうと顔を上げてあたりをみまわしたが人影は見えません。不思議なこともあるもんだと思ってあたりを見まわしているうちに目がさめた。
夜が明けていよいよ今日はお地蔵様を運ぶ日です。大勢の村人達が集まってきて、お地蔵様を縄でぐるぐる巻きにし、太い棒に通し四人ずつ一組でかわりばんこにかついで行くことにきめました。
先ずはじめの四人がかつぎだした。これは思ったより重いぞと歩きだしたが、だんだん重くなってくるような気がする。そのうちに棒が肩に喰い込むかと思う程重くなって、一町(百十米)もゆかぬうちにどさりと地面におろしてしまった。
何んだ意気地がないぞといいながら次の四人がかつごうとしたが地面から少しも上がらない。うんうんと力んでみても、いかなことびくともしません。
「それみろ、お前たちだって弱腰ではないか」
じゃあ仕方がねえ人数を倍にしろ、ということになって八人でかつぎ上げると、どうにか上がるには上がったが一歩も歩けない。
オイオイ誰かぶら下がるやつがおりやせんか。馬鹿に重いではないか、後が見えないので先をかつぐものがどなります。
何をいうんだそれどころじゃねぇ、おれの肩はとれちゃいそうだ、おれだって腰が折れちゃう誰かかわってくれ、皆がうんうんうなって汗だくの態。そこで三人五人とふやしても、じきに重くなってくる。それでも歯をくいしぼり目を白黒させて十沢の坂上まできた。もう一寸も動かない。仕方なく道の真申にどかんと据えて互いに顔を見合わせ、ただ不思議そうに目をぱちくりする外ありません。
近所の女、子供、年寄りたちが珍しがって集まってきた。「どうしたというんだ」 と聞きます。皆の者はかつぎ出すから今迄の話をしました。
先の爺さんが 「ふふーんおかしなことがあったもんだ、実は俺もゆんべこんな夢を見たんだが」 といって夢の話をこまごまと話しました。
坂を下れば すみなれた
村がかくれる
……………… 声もせぬ
「ほほー」 「坂を下ればかー」 「フフンなーーるほどなー」
というわけで、皆が考えこみました。この時或る者が、これはきっとお地蔵様は知らない村へ行くのがいやで、いつまでもこの村にいたいんじゃあなかろうかというと、他の者もそうだそうだそれに違いない、こんなにもいやがるものを無理やりかついでいったら罰があたるかも知れん、そんならどこか良い場所へおまつりしておこうではないか、ということになって坂上の小高いところで桜の大木のもとにかついで行きました。この時は四人でらくらく運べたということです。
それ以来村人たちはお祭りをつづけてきました。今の地蔵尊保存会も村の人たちだけで組織し奉仕をつづけています。永久に続けられることでしょう。
十沢地蔵尊は露天に座している。というかお詣りする所には覆い屋があるのだが、お地蔵さん本体はその外にある。「なぜ、お地蔵さんには屋根がないのか」と、除草剤を撒かれている方にそのことを問うと、「そういう考え方もあるのか」と初めて耳にされた言葉のように捉えられていた。覆い屋が造られたのは遥か昔のことなのだろうが、考えてみれば解説から想像するに、お詣りされる方たちへの優しいまなざしとも言えそう。ようはお地蔵さんは、「わたしよりもお詣りする人が濡れないように」と言ったに違いない。