Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

風穴のこと

2018-11-05 23:35:09 | 地域から学ぶ

 風穴と言えば自然にできたものを言う、というのがわたしの印象だった。しかし、人為的に造られたものも同じように風穴と言われている。松本市旧安曇村稲核(いねこき)にある風穴は「かざあな」とも地元では呼ばれていたようだが、最近、頓に注目を浴びてきている。その理由は、世界遺産にもなった「富岡製糸場と絹産業遺産群」のひとつにもなっている荒船風穴が、この稲核の風穴を参考に造られたからだ。荒船風穴を紹介したページにも「長野県を発祥とする天然の冷風を利用した風穴技術を研究し、日本で最大規模を誇る貯蔵施設として運営され、日本全国を相手に事業を展開しました」とある。荒船風穴が蚕種の貯蔵施設として利用されたことは言うまでもないが、現在は石垣のみ残っているわけで、現に利用されているわけではない。

 ところが稲核でも蚕種の貯蔵施設として利用された前田家の風穴がよく知られているが、それも現存していて現在も蚕種ではないものの利用されているし、何といっても家庭用(個人)の風穴が群を成して現存していることに特徴がある。

 風穴をなぜ自然のもの、という印象を持っていたかといえば、わたしの近くにも風穴が現存する。中川村南向美里の黒牛というところに、風三郎神社というものがあって、奥ノ院に風穴がある。ここでいう風穴はいわゆる荒船や稲核でいう風穴とはちょっと違う。洞窟、あるいわ岩窟のようなもので、そこを風が抜けるから風穴とも言っているのだろう。中には幣束があることから、神のいますところとなる。したがって風穴をのぞくと大風が吹くとか、暴風雨になるとも言われ、さらには女人禁制とも言われた。風穴、ようは通りが良いという意味でそれになぞらえた信仰もあったようだ。

 こうした風穴と稲核の風穴、何か繋がらないだろうかと考えるのだが、今のところ稲核の人々の言葉からそれを解く糸は見つかっていない。どのように利用されてきたか、といえばいわゆる「稲核菜」による漬物を貯蔵するのに利用したというのだ。稲核菜といえば、かつてはわたしの住んでいるあたりでも野沢菜以上に作られていた菜っ葉だ。『安曇村誌』に記述がないかと探すが、意外と少ない。風欠の取り上げ方は、この村を特徴づけるほどの印象を与えていない。「当たり前」のことだったから、村の人々にとって、象徴的なものではなかったということなのか。しかし、ようやく脚光を浴び出している。

  なお、稲核風穴のことは以前、「稲核へ」で触れている。

 

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地域史研究のこれから

2018-10-20 23:30:05 | 地域から学ぶ

 信濃史学会の第3次『信濃』70周年記念研究集会があった。第3次の70周年であって、第1次、ようは設立からすれば昭和7年1月からだから、87年目に入っている。第1次が戦前に途絶えたものの、第2次は戦時中の言論統制下にも継続された。戦後の物資難によって昭和22年に休刊したが、2年後、『信濃』は再開された。これを発行してきた主体は一貫して教員だった。学習院大学名誉教授の高埜利彦先生は、記念講演においてこうした戦前・戦中・戦後の『信濃』の果たした功績に触れられた。そして担い支える気運が喪失すると消滅した『歴史地理』の例から、将来に向けて「誰が支えるか」という課題を投じられた。第3次第1巻発行時776人だった会員数は、20年後の昭和43年には1170人に。そして会員数ピークであった30年後の昭和53年には1532人を数えたという。以後しだいに会員数は減少し、現在は550人。いずれの地方史学会がそうであるように、高齢化社会の必然的な課題で葛藤している。

 『信濃』については、2年前に“『信濃』800号発行に思う”で触れた。数少ない地方史誌の月刊誌のひとつと触れたが、論文を主に掲載し80ページだてという内容の雑誌を発行しているのは、全国でも『信濃』だけである。故に一般人が読み物として捉えるような軽いものでないことは、裏を返せばそれだけの内容を維持しているということになる。会員減少という課題を抱える多くの地域史(郷土史)研究団体が、会員確保のために読み物とした内容に体裁を変えているのも事実だ。この日のシンポジウム「地域史研究の役割と課題」の主旨も、今後の地域史研究を考えてのこと。懇親会においても何度となく聞こえたのは、「かつては○○人、現在は○○人」という現実の悩みが多かった。長野郷土史研究会の小林竜太郎氏は、会を運営することの苦労について「共感」しながら、助言を求めようと熱心に多くの方からの意見に耳を傾けられていた。次代を担う一人だからこそのことだろうが、高埜先生も指摘されているが、全国的にも稀有なほど多くの地域史団体が研究誌を発行している県下の状況について、「分散」という単語で表現された。小林氏も、会員減少の中で、具体的には中南信の会員が、祖父の時代に比して減少率が高いと言われていた。祖父の代に中南信の会員を多く勧誘されたというが、祖父が亡くなられたころからそれら会員が会から退かれていったという。「長野」という名称からして全県的研究誌という捉え方もされがちだが、実際は北信域が中心の研究誌。しかしながら全県的話題にも取り組みながら、会員の減少を食い止めているようでもあり、体裁はもちろんだが、どのような内容のものを掲載していくか、という悩みも多いという。「分散」していることによって、課題を他団体と共有することもできず、かつて定期的に会報を発行していた団体が、それができなくなって活動停止に近い状況に陥っているところもあるようだ。地域に分散しているからこそ、その地域の話題で会誌を構成することができる。いっぽうで限定的な地域のため、会員勧誘も限られる。それぞれの団体を繋ぐ役割も、今後信濃史学会には求められるのだろう。

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再び「にゅうやま」

2018-10-12 23:58:06 | 地域から学ぶ

 昨年「新山」と「にいやま」「新山」と「にゅうやま」を記した。「新山」とは伊那市富県にある一地域名である。富県は、三峰川左岸にある段丘によって生成された地域で、背後に山を置く。ところがこの山の反対側の谷に「新山」があり、ちょっと別空間を成しているのが「新山」なのである。新山川の谷間にある地域で、山間地であることは言うまでもない。富県には富県小学校があるが、「新山」にもそれとは別に新山小学校がある。同じ富県にふたつの小学校が存在するのは、やはり「新山」が富県の中でも奥まっていて、離れていることからと言える。

 さて、富県小学校において学習会があって、お客さんから呼ばれて参加させてもらった。その中で「新山川」のことが何度も触れられたわけであるが、説明をされた方は、盛んに「にゅうやま」と言われた。この方は富県の方。“「新山」と「にゅうやま」”において、同じ富県の人たちは「にいやま」と呼んでいると言ったが、どうもそうでもないようだ。説明をされた方は、すでに80歳代の方。そして周囲でその話を聞いていた関係者の口からも、「新山」のことを「にゅうやま」と当たり前のように発せられていた。ほとんどが富県にお住まいの方たちだ。この事実から感じたのは、そもそも同じ富県の人たちが、「新山」のことは「にゅうやま」と呼ぶ、と広めたのではないかということ。“「新山」と「にいやま」”で触れたが、「にゅう」は「丹生」からくるものだという説があり、かつて「新山」は「丹生山」と充てられていたという話もある。しかし、あらためて現代の中から捉えると、なぜ「にい」を「にゅう」と呼ぶようになったのかという要因が、どこにあったのかと考えたりする。単純に「本来は」とか「昔は」という理由で、頑なに「にゅう」を使うとは思えない。「新山」に対する特別な視線があったのではないかと、外から見ると感じてしまう。

 一昨日も記したように、赤木大沼のことをかつては「おの」と呼んだという。地名の呼び方は漢字ありきではない呼称というものがある。したがって漢字としっくりこない呼称も存在する。漢字が先か、呼称が先か、という捉え方だけにあらず、漢字があっても呼び方が訛ることもある。とはいえ、地元では「にい」と呼んでいたのに、いずれこの調子では地元でも「にゅう」に変化する、そんな事例になるかもしれない。そもそも同じ地域の子どもたちの前で、当たり前のように「にゅう」が使われているのだから。

 この日説明をされた方は、三峰川のことを盛んに「みぶかわ」と言われた。わたしたちは通常「みぶがわ」と呼ぶのだが、この方にすれば「みぶかわ」なのである。濁点がつくかつかないか、こういう事例もあまたあるのだろう。かつて「大鹿村」のことをラジオ番組で盛んに「おおじかむら」と呼ぶ方のことについて触れたことがあったように思う。「本来は」などという議論につながる場合もあるだろうが、明らかに間違っている例が、公に流れることも珍しいことではない。

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赤木大沼へ

2018-10-10 23:58:57 | 地域から学ぶ

 今年もわたしが企画した研修旅行が今日と明日、行われる。今年は、共感できる環境が良いというお客さんの声に応じて、伊那に近い環境を求めて研修先を決めた。山育ちの人々は、「海が良い」という印象が強く、お土産のことを考慮して、どうしても海岸端に足を運んでしまう。それを、あえて同じような山の中に求めるのだから、ちょっとためらいはある。長野県人の悪いところかもしれない。ということで、あえて求めて向かったのは群馬県である。赤木山麓の水利施設の研修を行ったわけであるが、確かに伊那と似通った事業が行われている。水を求めて延々と引いてくるあたりは、まさに長野県と同じ。赤城山という山のことは記憶にはあるが、もちろん足を運んだことはない。名前は知っていても知識のないことは多く、赤木山が火山であることもまったく知らなかった。それも活火山である。上毛三山のひとつにあたり、「赤城山」という名称の峰はない。火山体の総称としてそう呼ばれていて、最高峰は1828メートルの黒檜山(くろびさん)で、1685メートルの駒ケ岳、1674メートルの地蔵岳などがあり、火口に大沼というカルデラ湖がある。「大沼」を「おおぬま」と今は呼んでいるが、地元では「おの」と呼び、大沼に対して小沼があり、こちらを「この」と呼ぶらしい。この大沼から水を引いているのが旧富士見村(現在は前橋市)の地域である。

 大沼の水は、西側に谷が形成され、地形上は沼尾川に排水される。その先は10キロほど流れ下ると利根川へと下る。沼尾川沿いにも少なからず水田は展開されているが、大沼そのものの水利権はなかったようだ。これを有効利用しようと、大沼から西南にあたる、富士見村へ大沼の水を引こうとしたのである。すでに江戸時代に企てた者もいたと言うが、現実化したのは昭和になって、戦時下である。昭和16年に大沼から白川へ向けての隧道が掘り始められたというが、湿地帯の下に掘るという難工事は、なかなか進まず、結局、全ての工事が完成したのは昭和31年だったという。約1700メートルの隧道が掘られ、白川側にある隧道口は、県道4号線沿いで顔を見せている位置図/+字の箇所が隧道出口)。一旦白川に下った水は、「箕輪」集落の下で、頭首工によって再び取水されている。ここからほぼ県道4号沿いに、赤木大沼用水の水路は一気に受益地まで下っていく。県道を赤城大沼に向かって走ると、左側に石積み水路が延々と続いていることに気づく。これが赤木大沼用水なのである。県道沿いに造られているということは、その管理が容易なことが理解できる。理想的な水利環境と言えるだろう。これによってかんがいされる水田は、記念碑によると、553ヘクタールだったという。現在この水利施設を管理されている赤木大沼用水土地改良区によると、受益面積346ヘクタールと言うから、かなり面積が減少していることがわかる。一時改良区の運営に支障をきたし、経費節減を図って現在に至るという。こうした改良区の運営に対して、参加された方たちは興味を示されていた。

 いわゆる赤木山麓の扇状地は、透水性が高く「白川」と言われるように、水が無かったという。わたしたちの地域にも「箕輪」と名のつく町村があって、挨拶の中でその単語を発すると、赤木大沼用水土地改良区の理事長さんが興味を示された。それは白川取水口のすぐ上に「箕輪」という集落(地名)があることによるものだというのは、あとで気がついた。わたしたちの「箕輪」と名のつくエリアにも、扇状地で水の流れない川がある。そこまで意識して共通性を見出していたわけではないが、あらためてよく似た環境にある地域だと気がついたわけである。

 

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北海道胆振東部地震

2018-09-06 23:47:46 | 地域から学ぶ

 朝テレビをつけると、北海道での地震報道がされていた。厚真町は旧石器時代の遺物も発見されているようで、古き時代より栄えた地域という。その吉野地区における土砂崩れの光景が映し出され、違和感を覚えたのは言うまでもない。当初最大震度6弱(後に7に修正)と報道されたこの地震、山の崩壊の様子を見ながら「なぜここまで崩壊が…」と思った。出勤前の短時間であったが、すぐさまテレビ映像からその場所を探った。以前から触れているように、今はGooglemapを利用して、場所を推定することは容易だ(良きも悪しも)。苫小牧の東側あたりと分かって、おおざっぱに探っていくと、すぐにこの場所は判明した。「吉野」という地名は、その時点では報道されていなかったのでわからなかったが、Googlemap上に示されていて、わかったしだい。

 吉野に限らず、驚くような光景がネット上にはたくさん掲示されている。たとえば読売新聞Yomiuri Onlineから提供されたYouTube 動画を見てみよう。山のいたるところが茶色い肌を見せている。火山灰土の表層が崩れたとは言うが、であるならば、こういう光景は想定できなかったことなのか。同じことは吉野地区についても言える。地質上に弱点があるのなら、山裾に住処を求めるということへの戒めのようなものはなかったのか。降雨による表層崩壊は、ここ数年の豪雨災害でたびたび言われてきたこと。雨の少なく、地震も比較的少ないと言われる北海道であっても、まったくそのリスクが無いとは言われていなかっただう。自然災害の度に、「想定外」が口にされるが、ではその道の専門家、学者は、こういった状況を予測できないものなのか、近ごろの災害を見ていて一層違和感が募る。

 こうした光景を見ると、山の中にある長野県にとって、どこでも起きるような災害と考えてしまうが、火山灰というキーワードで見ても、単純にそれだけではない、地域差があるだろう。吉野地区のかつての光景はどうだったのか、Googlemapで確認してみよう。

 たとえばこの映像である。山裾に家々が立ち並ぶが、右側の道を入っていった奥は今回の地震で崩れたが、真ん中にある家々の背後は崩れなかった。そして左側の家はすっかり押し出された土砂で移動してしまっている。見ての通り、山の傾斜はかなり緩い。このような場所でこれほどの土砂崩壊が発生するとなれば、例えれば長野県中全崩壊だ。これほどの緩い土地でも土砂が崩壊するということは、そのメカニズムをよく解明してほしいものだ。そもそも歴史上でこうしたことは起きていないのかどうか、もちろん厚真町周辺の過去の歴史からも紐解いて欲しい。

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ある村単道路改良工事

2018-04-23 23:38:37 | 地域から学ぶ

 ある村の「村単道路改良工事」のことである。そもそもふつうの人は「村単道路改良」と言っても何のことか解らないかも、しれない。単独事業だから県や国の補助金はない。すべて持ち出しである。

 図を見て欲しい。ここからどういう問題が浮かぶかはあえて言わない。

 

 

 この工事の請負額は14,526千円という。「村単」でこの金額だと聞くと、それだけで違和感がある。ようは「村としてどうしても単独でもやらなくてはならない工事」なのだろうが、この例からはそれが浮かんでこない。図のピンク色の部分が公図上の道路敷である。この部分約80メートルほどの工事である。八ッチングしてあるところを含め、グレーに塗った土地はA氏の所有地。八ッチングした筆は登記上はともかくとしてほぼ宅地として利用されている筆。見ての通り、A氏の敷地境界から同じA氏の敷地エリアで完結する工事である。この工事は継続事業、いわゆるこの路線の他の部分も近年工事がされたわけではない。いきなりこの部分だけ発注されたのである。A氏の土地沿率が8割に上るうえに、前述したように工事の始まりはA氏の境界からである。

 現在進行形の工事であるため、工事エリアは推定であるが、工事看板から推定するとおそらくこのエリアが工事範囲である。現状の道路は幅員4メートルあるかないかといったところ。乗用車が行き違いするには狭い。そのため今回の工事でこのエリア内に待避所が設けられる。確かに待避所は必要かもしれない。ほかにも必要性のある項目はあるのだろうが、ではなぜこのエリアだけ工事が実施されるかはわからない。繰り返すが現在進行形の工事のため、できあがりがどうなるかはまだこれからだ。しかし、80メートルほどでこの金額。元々は農道で整備された道路なのだろうが、ここだけ改修されるから、完成後はこのエリアだけ見違えるのは言うまでもない。A氏の土地沿率8割、いかがだろうか。ちなみにA氏は平成29年度の地域の偉い(!?)方だったよう。今どき「こんなことってあるんだ」…。忖度か、それとも…。先日も触れたが、近ごろお役所がおかしい。

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廃村へ分け入る

2018-01-13 23:35:21 | 地域から学ぶ

東筑摩郡生坂村小立野入 丸木七社

 

境内の神像

 

 先日の「生坂村小立野泥沢の道祖神」で触れたように、道祖神が転げ落ちているのを見つけたのは、丸木七社まで山中を歩いて行った帰りのこと。そもそも泥沢の道祖神を確認したら、丸木七社にあるという道祖神も目指してみようと考えていた。それには一旦沢沿いの道に下りて、奥の集落まで行ってからと思っていたが、小立野の奥まった地域があまりにも荒廃していることから、それらの道に期待感はなかった。そこで地図上で見ると泥沢から尾根伝いに歩いていけば、それほど遠くないのではと思い、そのまま山を下らずに尾根伝いに登ることにしたのだ。それにしても確かに廃屋があったり、かつて人の行き来があったらしい気配はあるものの、それは時が止まったかのようにずいぶん過去に遡る印象が強かった。

 尾根伝いに登っていくと、旧明科町との境界にあたる尾根に出る。そこまで行くと明科側から通じる車道がある。この道をしばらく歩いて行くと泥沢の対岸とも言える斜面に通じるらしい歩く道があってそれを下った。わたしの感もだいぶ鈍ってきたようで、一度「この道か」と思ったものの迷って引き返すほど、確実に「これだ」と思うような道ではなかった。そして下ると地図にはない車道らしき道に出、その道を進むと目的の丸木七社が目の前に登場した。写真のように草むらの中にあって、おそらく夏場だったら鬱蒼とした藪中のような光景だっただろう。

 丸木七社は寛政4年(1792)に小立野村中によって建立されたものという。生坂村で最も優れた神社建築の一つということで、村の指定文化財となっている。境内には石造物が点々としており、「常夜燈5基、石祠14基、神像、道祖神など」と村指定文化財看板に記されているが、荒廃している感は否めない。「廃絶した山間小部落の民間信仰の深さを物語る貴重な文化財である」とされているが、現状を見る限り、文化財という印象もない。むしろすでに廃村と化しているこの奥まった地域に、これほどの神社を建てたことに驚く。いまでこそ神社まで車道によって導かれるようだが(この後車道で神社まで行けないかとめ試みたが、倒木などがあって今はたどり着けない)、それはそれほど昔のことではない。『生坂村誌 歴史・民俗編』に「小立野の家数」というものがある。元禄11年には小立野全部で49戸、丸木には2戸、泥沢にも2戸だったようだ。そして明治8年には全村で129戸、丸木には5戸、泥沢にも5戸だった。いずれにしても小立野入と言われる奥まった地域には、点々と集落が数戸単位で散在していたようだ。だが、それら小集落は、今やすべて廃村と化している。立ち入ってみれば解るが、おそらく現在の限界集落の10年、20年後の姿かもしれない。

 なお、丸木七社にあるという双神は、神社拝殿内にあるということで、見ることはできなかった。

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会員負担軽減という意図はどこへ・・・

2017-12-18 23:36:16 | 地域から学ぶ

 先ごろ“「慣例」という圧力”において自治会の役員会のことを触れたが、昨日はそれを受けての総会が行われた。どうも「役員上層部が練った提案は通らなかった」ではなく、「役員の一人が練った提案は通らなかった」が正しかったようで、総会には役員会に提案された内容はあまり触れられず、役員会での意見をどう解釈されたのか、いきなり会則の改正案が示された。提案された役員の方はとっても頭の良い方なので、役員会の際の意見を先走って捉えてしまわれたよう。そもそもの発端は高齢者世帯の会費負担を軽減しようというのが原点にあって、もちろん会則の見直しも年度当初に議論にあがっていたが、それは拙速に見直すべきではなく、時間をかけて検討していったらどうか、というものだった。むしろ会費負担軽減が優先だったはず。ところが総会に出された会則改正案には、会費軽減のことは何も触れられていなかった。どうしたことか…。

 そもそもこの話題が議題にあがるまで、会則なるものがあることを役員はあまり認識していなかった。会則が最初に作られたのは平成17年4月1日だったことは、現行会則の末尾に附則として示されていた。というか、このような会則を見たのは初めて。当時議論になって総会で決議されたという記憶がない。にもかかわらず会則が存在するのは、当時なんらかの理由で会則を作らなくてはならない事態に陥ったのものなのか。数年前に集会施設を立て直し、いろいろな手続きの中で自治会の会則が必要だということになって、調べたら「会則があった」みたいな感じで、住民が必要と思って作成された会則ではないのである。したがってお役所の誘導的会則になっていることでも、会則の作成意図が見えてくるもの。とはいえ、現存している会則を会員が持っていないというあたりからして、おかしな話なのである。役員会の時、負担軽減にあたって該当部分だけ示して会則改正を役員会に図ったら、出席者の中から会則そのものがどういうものかよく解らない的な感じで「会則を示して欲しい」と言われたら、総会には会則そのものの改正案が登場してしまった、というわけだ。

 そして初めて見た会則を眺めると、違和感が増幅する。そもそも地方自治法で促しているものに違和感があるということになるのだろう。ウェブ上には雛形がたくさん登場するが、たとえば「会員」のこと。現行会則には「会員は第○条に定める区域に住所を有する個人とする」とある。「世帯」ではないのである。とすると総会の出席者数の規定にどう触れてくるか。その点については「総会は全会員数の過半数をもって成立する」とある。ようは個人とすれば世帯主だけ出席すれば良いということにはならない。そもそも世帯主以外の家族が会員であるという認識を持っているかどうかも怪しい。このあたりについて、たとえばあきる野市の「町内会・自治会の法人化に向けて ~「地縁団体」の認可申請手続き~」というページの「認可の要件」に

(3)その区域に住所を有するすべての住民が構成員になることができ、その区域の住民の相当数が構成員となっていること(地方自治法第260条の2第2項第3号)

認可地縁団体は、その区域に住所を有するすべての個人が構成員となることができ、現にその相当数のものが構成員となっていなければなりません。「すべての個人」とは「年齢・性別等を問わず区域に住所を有する個人すべて」という意味です。したがって、世帯単位を構成員とすることは認められません。

と書かれている。末尾の「世帯単位を構成員とすることは認められません」というところ。厳密にそうなのかどうかはわたしにはまだはっきりわからないが、地方自治法第260条の2第2項第3号にある「その区域に住所を有するすべての個人は、構成員となることができるものとし、その相当数の者が現に構成員となっていること。」から解釈しているようだ。構成員名簿、ようは会員名簿には「世帯主のみではなく、子どもから高齢者まで構成員となる個人を記載のこと」のよう。だからといって世帯単位では認められない、と明確に示されているものなのか。従来の自治組織、ようは「部落」の構成員は世帯だったといえよう。ようは「家」だったのである。ところが今は個人それぞれに権利があるのだから「家」ではないのは当然だとしても、だからといって会則上だけの条文がひとり歩きする。「お役所に作れ」と言われて作られた会則の不自然さが現れる。こんなように会則を眺めていくと、違和感ばかり目立っていくことに。住民が求めて会費負担軽減を目指したのに、進む先は意図の違うところに行き着き、結果的に「こんな会則で縛られるのなら辞めたい」という別の意識が派生しそうだ。

 そもそも入会届には世帯主しか書かれていない。条文通り組織が動いていない、お飾りの会則なのに、それにこだわっているのだから不思議な世界だ。

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押場の観音さん

2017-07-10 23:54:25 | 地域から学ぶ

日曽利押場

 

観音の衣に彩色の痕

 

 「ヨケ道」について触れたが、三間畝(さんましょう)と同じように観音さんがまとめて祀られている場所が飯沼の先、日曽利(ひっそり)にもある。「ヨケの観音さん」で触れたように、三間畝にはヨケ道にあった三十三観音のうち、一番から十七番までが祀られている。ようは十八番からあとの三十三番までは日曽利側にまとめられたということになる。ということは、一番が飯沼側に、三十三番が日曽利側に祀られていたということなるのだろう。もともと同じ南向村だった両者が、今は中川村と飯島町に分かれている。南向村の中心が飯沼より南にあったのだから、当然ムラの中心から日曽利に向かえば、手前が一番になるのはごく普通のこと。そう考えるとこの山道というか川沿いあった危険な道は、主に日曽利のためにあった観音さんということになるだろうか。

 主要地方道伊那生田飯田線を飯沼から日曽利に向かって行くと、「飯島町」という看板が見えてくる。もちろん振り返ると反対側に「中川村」という看板が立っているわけであるが、ちょうど小さな沢が天竜川に流れ下っている。おそらくこの沢が丈ケ沢と言われる沢なのだろう。この看板の上手に少し先の日曽利側から上ると、意外にも現在は転作されているが数枚の水田がある。その山付けに石仏群が見える。ここを押場というらしい。看板が立っていて説明書きがある。


善光寺道と押場の石造群

 古くから天竜川左岸(竜東)の山づたいに開かれたこの道は、日曽利から中川村の飯沼と駒ケ根市吉瀬を結ぶ重要な生活の道でした。
 この道は、日曽利と飯沼に残る道標から、古く善光寺道と呼ばれ、また古瀬に残る道標から高遠道とも呼ばれました。
 昭和の初め、天竜川電力株式会社の報償道路として竜東線(現在の竜東線の前身)が完成してからは、この道を使用することはなくなりました。
 この押場地籍は、中川村との境界で、この先の丈ケ沢を渡ると、「よけ」と呼ばれた大変な難所がありました。
 押場には、現在三十四基の庚申塔、馬頭観音、観音立像、墓碑があります。かつて「よけ」の道筋に祭られた三十三体の観音立像は、飯沼の観音塚とここに分けられ、押場には十八番から三十三番までの十六体が集められました。
       平成九年三月飯島町教育委員会

 初めて訪れたと思っていたらそうでもない。まだ看板が立てられる以前に立ち寄ったことがある。この石仏群については『長野県中・南部の石造物』(長野県民俗の会編)に掲載している。丈ケ沢を渡ると大変な難所だったという通り、町村界を過ぎると主要地方道伊那生田飯田線は、しばらくの間落石防止用のモルタル吹付区間が続く。いわゆる絶壁となっているようなところ。この難所があったが故に、かつて南向村だった日曽利も飯島町へ分離して合併することになったのではないだろうか。

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ヨケ道

2017-07-09 20:09:21 | 地域から学ぶ

三間畝観音さん

 

ヨケ道の地蔵

 

ヨケ道

 

草刈をする老人

 

 かつて「ヨケの観音さん」を記した。2006年以来、中川村飯沼の三間畝(さんましょう)というところにある観音さんを訪れた。今でこそ車の通れる道幅で観音さんまで行けるが、わたしが初めてここを訪れた時代には、まだ歩く程度の道しかなかった。対岸には飯島町本郷の段丘が展開し、その向こう側には南駒ヶ岳の峰々が望めるはずなのだが、「ヨケの観音さん」でも触れた通り、今は周囲の木々の枝が伸びて視界が良くない。かつて陣馬形山までよく望めたと言われるほど、天竜川東岸の山々には木が少なかったというが、戦後になって木を盛んに植えたものの、結果的にそれらの木を伐採するに至る前に林業が廃れてしまって、今や山々は鬱蒼とした木々で覆われることに。戦後の山の景観変化は著しかっただろうが、今はただただ木々の伸びる姿を望むだけ。

 ヨケと呼ばれる道は現在の主要地方道伊那生田線より高い位置にあった。飯沼神社脇の道を100メートルほど北へ進むと、山手へ登っていく急坂がある。かつては同じ位置に歩く程度の観音さんに上る道があったのだが、その道が3メートルほどに拡幅された。上っていくとすぐに 左手にお地蔵さんが1体立っている。「安永九子」と見えるから1780年造立。三間畝にある観音さんには「安政七年」(1860)銘のものがあるから、その観音さんよりちょうど80年前に建てられたものだ。道沿いに建てられた三十三観音以外にも、このように道を通る人たちを見守る石仏がそれ以前からあったというわけだ。

 お地蔵さんから少し道を上ると道下に1軒家がある。家の上を下って飯沼神社の方に向かう歩くほどの道が今もある。おそらくこの道がかつてのヨケ道と呼ばれた道なのだろう。ここから三間畝にある観音さんに向かって坂を上っていくと、大きな斜面を手鎌で草刈をされている方に出会った。斜面の上に電柵が見えたから耕地があるのだろう。「畑ですか」と聞くと「水田」だという。今は転作されているというが、この尾根に水を引くのも容易ではなかっただろう。ヨケ道のことを聞くと、いまひとつピンと来ないよう。飯沼側では日曽利側に比べると「ヨケ」ということを言わなかったのかもしれない。「どこまで刈るんですか」と聞くと「上まで」と言われる、大きな斜面をみな手鎌で刈るのだと知り、思わず「大変ですねー」と発してしまった。「仕事だから」と言われるおじいさんに山仕事で鍛錬された背中を見た。

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「新山」と「にゅうやま」

2017-06-02 23:54:00 | 地域から学ぶ

「新山」と「にいやま」より

 新山でいろいろ活動をされている方に話を聞くと、「にゅうやま」と呼んでいるのは「よその人たち」と言われる。ようは周囲の人たちがそう呼ぶようになって、内側にいると「にいやま」なのに外へ行くと「にゅうやま」になっているよう。ここから解るのは、よその人たちが「にゅうやま」を広めたとも言える。前回も触れたように、新山の周囲とはいえ、同じ富県の人たちは「にいやま」と呼ぶ。外部から自分たちの地域の呼び名が変わってしまったとしたら、ずいぶんお節介な話だ。

 歴史を辿って「かつてはそうだった」という呼称にまつわる話はよくある。とくに地名研究によってその意味を解き始めると、現在付されている漢字さえ異なったものとなる。「新山」が「丹生山」だとしすればこれも同例である。また「新山」については「新」を英語読みして「new」、そこから語呂合わせのように「にゅう」が付されたなんていう説明も登場している。

 「かつてはそうだった」そんな例で近年頓にちまたの呼称が変わってきたのが、本日記でも何度か触れた「風越山」だ。わたしの記憶では「ふうえつざん」だったが、現在ではほぼ「かざこしやま」で統一されている。そもそもなぜ「ふうえつ」になったかなのだろうが、ウィキペディアには次のように記されている。

中世の和歌にも「風越の峰(かざこしのみね)」と詠まれ、飯田市内の小学校・中学校・高校の校歌にもみな「風越山(かざこしやま)」とうたわれている。 昭和24年、飯田西高等学校と飯田北高等学校が統合され、飯田風越高等学校(いいだふうえつこうとうがっこう)が誕生し、その後、「ふうえつざん」と呼ばれるようになった。現在、地理書、各種の資料、行事等でも「ふうえつざん」という名が使われているが、「風越山」の正式な読み方は「かざこしやま」である。

ようは高校名が山の呼び名に変化を与えたというものだが、それにしてはずいぶん「ふうえつざん」が常態化していた。もしかとたらこれも外部の人々によってもたらされたものかもしれないが、わたしにとって飯田とかかわった時代背景からは「ふうえつざん」しかありえない。これはそれぞれの人によって捉え方が異なることなのだろう。

 「新山」にしても歴史を紐解けば「丹生山」と表記され呼び方ももちろん「にゅうやま」だったかもしれないが、今は「新山」であり「にいやま」である。現在住んでいる人々の想いもあるだろうし、「新山」になった歴史もある。本来に合わせて「にゅうやま」と呼ぶのなら漢字も「丹生山」と変えるのならまだしも、地域がそれを求めているわけでもないのに、なぜか「にゅうやま」に変わりつつある根源には何があるのか、今後も注意深く探っていこう。

終わり

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「新山」と「にいやま」

2017-06-01 23:17:25 | 地域から学ぶ

 かつて「日本で最も小さいトンボ」で「新山」の呼び方について触れたことがある。伊那市富県の一部であるが、昔はひとつの村を形成していた地域。三峰川の支流新山川沿いに展開する、伊那市内にある集落では平成になって合併した高遠や長谷をのぞくと、少し景色の異なる山間地域である。「日本で最も小さいトンボ」では、「新山」のことを「「新山」を流れる新山川のことを「ニュウヤマ」川という。この「ニュウ」も地すべりから発した地名かもしれないが、「ニイヤマ」と呼ぶ人と「ニュウヤマ」と呼ぶ人がいて、正しくは「ニュウヤマ」と呼ぶものだという人が多い。実はかつては集落の名も「ニュウヤマ」だったのだが、新山村という村が合併で誕生した際に「ニイヤマ」と正式に読むようになった」と記した。仕事上で「新山」のことをどう読んだら良いかと思って、あらためて「新山」でいろいろ活動されている年配の方に確認をしてみた。すると「にいやま」と読むのが本当だという。「日本で最も小さいトンボ」に書いたこととちょっと違う。

 『角川日本地名大辞典20長野県』(「角川日本地名大辞典」編集委員会 1990年)には、「にいやま」(851頁)と記されており、戦国期大永4年(1524年)2月吉日の諏訪神社前宮三之柱造営料請取日記に「新山之分」とあり、中世は「新山郷」、近世には「新山村」とされていた。ここからも元来「にいやま」であったことははっきりと解るわけだが、とりわけ地名の分野からこの「新山」を解釈する際に「丹生」から説くものが広まった。松崎岩夫氏は、『伊那地方の地名』(信濃古代文化研究会 1984年)において、「に」を「丹」と解釈して説いており、〝「にゅう」の語源は「丹(に)であ〟るとしている。そもそも「新」を「にゅう」と読んでいたわけではないが、「新」は「丹」であるというところから始まっている。ようは呼び方にはこだわっていない。松崎氏によると大永年間の記述には「丹生山」とあったものの、「新山」に変わってしまったと記している。

 松崎氏がこのように地名を説いたのが昭和59年。松崎氏の説が広まって「にいやま」が「にゅうやま」に化けていったかどうかは解らないが、いま伊那市内に限らず周辺地域の人たちに「新山」を何と読むかと問うと、かなりの人たちが「にゅうやま」と答える。今日も会社の女性にそう質問してみると、「にゅうやま」と答える。「たしか小学校は〝にゅうやま〟小学校と言ったはず」と。そこで新山小学校のホームページを閲覧してみると、そもそもアドレスにhttp://www.ina-ngn.ed.jp/~newyama/とある。「newyama」はどう見ても「にゅうやま」である。さらにこのところ子どもたちが大型紙芝居というものに力を入れていたようで、そのタイトルが「丹生山物語」なのである。なぜ丹生山をあてたのか定かではないが、明らかに学校では「にゅうやま」を意識している風に捉えられる。もちろん冒頭の話をしていただいた方によると、小学校も「にいやま」小学校と呼ぶのが本当のよう。そもそも「新山」を「にゅうやま」と呼ぶ固有名詞はないという。

 会社で聞いた際に若い彼は間違いなく「にゅうやま」でしょと言う。それは国道361号から県道210号へ分岐する箇所にある信号機に「Nyuyama」とローマ字表記されているからだという。「にいやま」と読むのだと教えていただいた方によると、この信号機、最初は「Niyama」と表記されていたという。ところが気がつくといつの間にか「Nyuyama」に変わっていたと。この信号機を通る方たちにとっては「新山」は「にゅうやま」なのである。以前にも記したように、そして松崎氏が言うように「丹生山」であったのかもしれないが、しばらく前までは「にいやま」であったことは確かで、村内でもそう読むのが「本当」のよう。会社にいる富県の方も「にいやま」と答えられた。ようは新山村から後に富県村の一部になり、現在は伊那市富県となっているが、そうした明治以降の流れの中では、明らかに「にいやま」だったようだ。

続く

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和合

2017-05-28 23:16:09 | 地域から学ぶ
 「あの道の悪さときたら〝天下一品〟」そう路線バスのドライバーに言わしめた道は、かつての県道深沢阿南線。もちん今もそう状況が変わったわけではないだろうが、そう言わしめた昭和時代にくらべたら、だいぶ整備されたといっても良いが、きっと地元のひとはもちろん、よそからやってきたひとには「危険」だと思わせる箇所はまだまだ多い。以前「お鍬祭り」に関連して同じ阿南町日吉のことについて触れたが、日吉もこの県道が走る和合の一部。しかし日吉はこの県道とは谷が異なり、売木川沿いにある集落。何度となく日吉を通る道のことはこの日記でも触れてきているが、阿南町の中心部と売木村の中心部を結ぶ県道は、日中ほとんど通る人がいない。おそらく日吉の集落関係者、あとは釣り人だろうか、通るとすれば。飯田方面から阿南町を経て売木村へ連絡するには別ルートの方が当然早いが、ちょっと別の道を走ってみようというひとにはお勧めだが、何より「落石」がいつあってもおかしくない。冒頭の深沢阿南線より険しい。
 
 さて、冒頭の言葉は昭和55年7月7日付け信濃毎日新聞朝刊に掲載された特集記事「道ー新たなアングル」の26回目の記事のもの。山間地の多い下伊那地域にあって、その公共交通を担う信南交通のドライバーの口から語られたもの。同特集には大きな写真が掲載されているが、「落石注意」の標識とともに、ロックシェードの上に「これでもか」というほどに落石が留まっていて、いつかロックシェードが押しつぶされるのでは、と思うほど。話題の中心はこの道沿いにある和合集落だ。当時地区には159戸の家があったという。現状を調べていないが、険しい道沿いにあるだけに、戸数の減少は否めないだろう。とりわけ整備されたといっても「落石注意」の状況から変わっていない箇所が今でも多い。西條の早稲田神社裏手のあたりから林道が整備され、もし県道がストップしたとしても和合まで連絡する道は確保されているかもしれないが、あくまでも林道であって、そちらも通行止めにならないという保障はない。近年豪雨というものがこの地域にはなかった。したがって比較的穏やかな山間の景観を保っている〈ようは地肌がむき出しになったような箇所は目につかない〉が、ずっと災害が起きないという保障もない。とりわけ山間の孤立した地区として和合は比較的大きな集落。行政にとってもこの地区をどうしていくかというのは課題に違いないのだが、とりわけ「念仏踊り」に代表されるように民俗という視点で貴重性が高い地域というあたりが足かせにならなければ良いが、などと思ったりする。
 
 記事では飯田下伊那の国道県道改良率は県平均を10ポイント下回る38パーセントと記している。もちろん県下最悪だという。「ここにだけ光をあてろというのは無理かもしれない」がギリギリの状況を「道」という観点で示すには十分な例だったよう。同特集には同様の扱いの記事がほかにも登場するが極めつけとも言える事例だった。ちなみに同記事において「そこから先の国道151号線も改良されなければならない」とあげられた国道151号線は、この後、平成の時代を迎えるまでにほぼ全面改良されている。
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自治会は行政の下部組織か

2017-04-24 23:50:48 | 地域から学ぶ

 近ごろ「議会だより」なるものが配布された。議員が何をしているんだ、と疑問符をあげる住民に対しての証拠品なのかもしれないが、いまどきは議会の内容が有線放送で流されるし、議事録もネット上に公開されているので、証拠品はいくらでもあるのだが、それでも日々忙しい住民に告知する意味では大きな証しなのだろう。そんな議会だよりに「自治会」という単語が頻繁に登場するのは、それだけ自治会に行政が頼っているせいなのかもしれないが、議員が自治会をどう捉えているによっても登場する頻度は違ってくるのだろう。とりわけ気になった議員の発言が二つほど。

 ある議員は「今後、自治会再編成の取り組みが必要と思うが」と投げる。その理由なのだろうか、「持続可能な行政運営に効率、効果、コストより進める必要と考える」と言う。自治会が自治会費を徴収して運営している部分に効率とか効果とかコストなんて行政が口にする必要もないこと。自治会とは行政に対してどういう存在と考えているのか、そこから説明してもらわないと意図が見えないのだが、こうした発言に疑問なく応える行政側は、自治会を役場のコストダウンのために存在している組織だと、少なからず考えているのだろうか。考えてみれば自治会ほどムラ社会の姿を今に継承している存在はないかもしれない。もちろんかつてのムラ社会のことなど、今の自治会にかかわっている人たちなど知る由もないのだろうが、とはいえ毎年役が変わっていくような変転の著しい中で、それほど変化なく継承されているのは、そもそも役員任期が「短い」が故のことなのかもしれない。短期間に変えることはできないし、慣れないから前例に倣うことになりがち。そこへ継続している行政が口を出すと、その風になびいていく。言ってみれば行政が自治会を意図のまま操ることも容易いのかもしれないが、行政はもちろん自治会が行政の下部組織ではないこともよく知っている。返答の中で町長は、「住民生活に重きをおいた行政運営を図っていきたい」と言う。ここでいう住民生活とは、住民の考えに従うということだろうから、そもそもの議員の発言に価値は見られない。

 もうひとつは自主防災のこと。震災以降にわかに自主防災が叫ばれ、その単位は結果的に自治会というところでまとまる傾向にある。ふだん顔を合わせる人々によって組まれるのがごく自然なのだろうが、「自治会によって防災対策の温度差がある」とある議員は言う。そもそも自主防災とは自治会に任せて整えるのが良いのかどうなのか。とはいえ、「自治会で防災会議をを開いて周知させていく」という町長の応えに、やはり自治会は町の下部組織か…、などと納得したりする。

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ある自治組織のこと

2017-04-23 23:57:07 | 地域から学ぶ

 「石尊信仰の今を訪ねて・後編」で触れた鍛冶町会館の入口脇に、「鍛冶町」という町を解説した看板が立っている。そこには「天正十一年(一五八三)真田幸村の父昌幸が、上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷海善寺村(現東御市)の鍛冶屋を移して造った町。宝永三年(一七○六)には三十二軒、明治五年(一八七二)には十六軒の鍛冶屋があった」とある。海善寺は東御市金井まで4キロほどのところ。東御市旧東部町に石尊信仰がよく残っているところからも、鍛冶町に移り住んだ鍛冶屋さんが持ち込んだ石尊信仰だったのかもしれない。

 鍛冶町会館の2階に階段を上ると、そこに「自治会役員」という役員それぞれの名前を記した表札が掛けられている。自治会役員を示す表札についてはこうした自治会館や集会施設でよく見かけられるが、黒塗りの表札に白字で示した風格のあるものは初めてみた。同じ空間に「平成29年 鍛冶町自治会役員名簿」なるものが貼り出されていて、そこには「1月26日」と示されている。確認してみなかったが、ここでは1月から12月が役員年度なのかもしれない。こういうとき、わたしの住む地域の自治会とすぐに比較してしまう。鍛冶町では隣組が22組あり、それを五つの「部」に分けている。部ごとに「議員」という人がいて、隣組の多い部には2人、あるいは3人の議員が割り当てられている。したがって議員は10名を数え、そのほかに議長と副議長という役割の人がいる。自治会内に「議会」というものがある例は初めて見たように思う。隣組は1組から31組であるが、前述したように22組しかない。ようは「4」とか「9」といった組はない。そのほか「15」とか「「17」といった欠番があるのは、統合されたのだろうか。隣組の役員とは別に多様な役員が配置されているのは、わたしの住む地域と同じこと。そんな役員名を見ていてわたしの地域にはない役員が割り当てられている。例えばこの日石尊講の話をしていただいた小宮山さんだ。その役名は「河川愛護委員」というもの。マチの中ということ、そしてとりわけ小川が流れているということが、こうした役員を配置するきっかけになっているのだろうか。また、町中らしいと言えるのが「商工振興会長」。「シニア鍛冶町会長」とはかつての老人会にあたるのだろうか。ほかに「壮年会長」というものもある。こうして一覧を見ていくと、最後の欄外に「青少年推進委員、育成会長、北小・三中PTA支部長は4月改選」と書かれている。やはり鍛冶町では1月から12月が任期のよう。黒塗りの表札があったり、議員がいたり、そして今でも1月から12月を年度としているところから、自治がこの空間だけで成り立っていることを強く感じる。わたしの住む地域の名ばかりの自治組織とは構え方が違う、そう思った。またわたしの住む地域と役員一覧を見ていて大きく異なるものがある。信仰に関することだ。わたしの住む地域では、神社に関する役が自治会に組み込まれている。裏を返せばだからこそ自治組織とも言えるのかもしれないが、こうでもしないと神社が維持できないからなのだろう。以前にも触れている通り、農村部よりマチの中の方が、自治会への関わりが高いのではないか(もちろん意識も)、そう思わせる役員一覧である。それを証すように、役員一覧の横に「会館清掃当番表」が掲げられている。月に2度行われる清掃について年間に行われる24回の清掃日と、その当番が誰なのかを年の始めに決めて一覧化している。「すばらしい」と思わず独り言を口にしてしまった。こういった自治組織の予算を見てみたい、そう思った。

 

 

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