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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

五輪塔残欠と道祖神

2024-07-14 23:47:28 | 地域から学ぶ

 「旧丸子町西内の自然石道祖神④」において旧丸子町西内平井公民館の庭にあった石碑群について触れた。その中に道祖神とはほんの少し離れていたが、お地蔵さんの前に五輪塔の残欠のようなものがいくさも並べられていたことについて記した。五輪塔の残欠といえば、上水内郡内で集中的に五輪塔残欠を道祖神と称している例があること、そして本日記でも何度となく道祖神と五輪塔残欠が同居している写真を紹介してきた(例えば「道祖神と五輪塔」「虫倉山の麓へ繭玉型道祖神を訪ねて 後編 その1」など)。東信エリアである西内や東内で同様の光景を見て、五輪塔残欠が道祖神と同居する事例の広がりを知った。しかし、自然石道祖神が多数現存する伊那市周辺地域で五輪塔残欠を見た覚えはない。そもそも五輪塔というものそのものが、それほど多くはないとともに、よそで五輪塔残欠と言っているような小さな五輪塔は、伊那谷は少ない。道祖神空間に五輪塔残欠が見られる地域には、それほど五輪塔が多く存在するのか、と最初見た時には思ったわけであるが、わたしとしては五輪塔が道端にころがっているという光景が当たり前でないため、違和感を抱いたわけである。

 実は同じような光景、いわゆる道祖神と五輪塔が同居している、あるいは道祖神と呼ばれているのではないか、と思われる地域が神奈川県で見られる。それに気がついたのは、今回あらためて書棚に入れたままになっていた『相模の石仏』(松村雄介 木耳社 昭和56年)を開いて写真を見ていてのこと。双体道祖神と五輪塔が並んでいる写真がいくつか見られたためだ。気がつくとともに同じ書棚にあった『秦野の道祖神・庚申塔・地神塔』(秦野市立南公民館道祖神調査会 平成元年)を開いて見ると、悉皆的に写真が掲載されていて、自然石はほとんど見られなかったが、そもそもそれしか道祖神の対象となっていない事例がいくつか掲載されていた。それらには五輪塔残欠が道祖神とされている例があり、上水内と同じ例があることを知った。そこでウェブ上で検索してみたわけだが、やはり神奈川県の道祖神は五輪塔との関係性が高いことを知った。下記に松田町の例を取り上げてみた(クリックするとグーグルストリートビューで確認できる)。とりあえず松田町の例だけだが、おそらく神奈川県内にはよく見られる光景なのかもしれない。

 なお、松田町のこれら情報は「神奈川県内の道祖神と寺社の散策散歩」からのもので、そのうちの「松田町」を今回検索してみた。

中沢道祖神(松田惣領1932付近)

沢尻道祖神/石仏群(松田惣領1526付近)

寄弥勒寺道祖神(寄弥勒寺2189付近)

寄田代道祖神(寄田代5326付近)

神山北村氏道祖神(個人所有)


 また、松田町の道祖神を検索してみると、まさに自然石を道祖神と称している例も掲載されていた。下記の例である。

稲郷道祖神(寄稲郷4337付近)

寄中山道祖神(寄中山3252付近)

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田んぼの脇の大日如来

2024-07-12 23:52:58 | 地域から学ぶ

5月26日撮影

 

 旧武石村上武石の市野瀬の路傍、道ではなく田んぼ側を向いて建っている仏像があった。なんの変哲もない路傍の、それも田んぼに向かって建つ、それも仏像である。よく見てみると智拳印を結んだ大日如来である。なぜ大日如来がここに、という印象であった。ちょうど田植えを終え、水の管理に来られていたお婆さんに謂れを聞いたのだが、「昔からここに」と言われるだけで、その背景は分からなかった。

 大日如来といえば、地域によっては牛の供養で祀るところがあり、その関係なのかとも思うが、大日如来の立派な像の例は珍しく、あくまでも想像の域である。先日来参考にしている『武石村誌 民俗』にも像のことはもちろん、牛供養に関する記述も無い。

 ところで、武石では修験の影響を強く抱く。例えば小寺尾の一心祭である。この祭典行事は上田市の無形文化財に指定されている。一心は小寺尾に生まれた御嶽行者で、この一心行者を偲ふ祭が一心祭である。一心講の信者は関東方面に多く、その数は20万人にも及ぶと、小寺尾にある公民館前の説明板にある。祭りでは上、下小寺尾地区が中心となって行者の火渡りや、剣梯子の刃渡りを見せる。一名を一心霊神祭ともいう。祭りには関東各地から御嶽行者十数名が集まり、民家から集めた薪を井の字形十段に積み、講社長の行孝が火をつけた薪の上で祈靖を行うという。行者による火渡りが済むと一般の人たちも渡るというもので、地域で支えられてきた行事のよう。したがってこの地域が修験者とのかかわりが強い地域と捉える。故にそうした背景が、自然石道祖神に影響しているようにも思え、この大日如来もそうした背景と関わっているのではないかと想像する。

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人災

2024-06-29 23:36:40 | 地域から学ぶ

 先週18日だっただろうか、妻が家に帰ってきて、「帰りがけにお宮の坂を下りてきたら、洞の中が湖のようになっていた」と言ったのは。その洞はそれほど大きなわけではないが、村道の暗渠の上流側に幅15メートルほど、高さで4メートルほど、奥行きは30メートル以上あるだろうか、ポケットがある。そこが湖のようになっていたということは、1000トン以上の水が溜まっていたということになるだろうか。先週末、草刈に出かけたついでにその洞を確認してみると、村道の暗渠であるヒューム管が、口元は半分ほどだが、中を覗くと下流側の明かりは見えず、途中でほぼまんぱいに土砂が溜まっているようだった。口元は勾配が緩いが、下流側はけっこう急にヒューム管が布せられている。したがって緩い区間の土砂を、下流側へ流してしまえば溜まっている土はなくなると思うのだが、これを地元の人たちでするのは無理で、消防のポンプなど利用して水撃で流さない限り、容易に土砂を除くことは困難と見た。我が家には区の役員がいるので、そのように伝えたのだが、区を通して村にそのことが伝わっていたのかどうかは不明である。

 ところでこの土砂がなぜ溜まったのか、推測すると、この洞の村道側の法面は近年何度となく崩落していて、そのたびに土建業者によって直されていた。もちろん推定であるが、法面が崩落したから、その土砂がヒューム管の中に溜まっていたと推測するのはふつうの推測。法面を直した際に詰まっている土砂を取り除いたという可能性も否定できないが、それほど流域が広いわけではなく、経年で溜まった土と、崩落した土とが相まってヒューム管を塞いでしまった、とはわたしの推察である。もちろん何度となく法面の工事をしているというのだから、竣工後の検査時にこの中を村の関係者が覗いて、その状況を認識していたかは、これもまたわからないことであるが、いずれにしても、一気に詰まったものではない。加えて、法面の工事をした業者が中を覗かなかったとは思いたくない。ようは暗渠の中を覗いて、状況を確認する機会が何度となくあったのに、「放置された」のかどうか。これは一つの問題点であることは、とりあえず置いておくとして、実は、28日の雨でこの村道の法面が見ての通り、「決壊」したのである。申し訳ないが、つい1週間前のことである、わたしが暗渠の中を覗いたのは。そしてこのまま放置すれば、当然このようなことになると推測されたのに、「なぜ放置されたのか」。聞くところによると、この村は災害が発生すると「区を通せ」という。妻が以前直接村に連絡したら、みごとに周囲から批判された。「なぜ区を通さないのか」と。加えて「嫁に行ったよそ者が」と口撃を受けた。そもそも村道なのだから、異変があれば(気がつけば)通行した人が村に連絡する、が当たり前だと思うが…。

 この時代に「よそ者」がまかりとおる村だ。村の人間だけが村には「住んでいる」、あるいは「村の権利者」と勘違いしているムラ。さて、今回何が大問題かといえば、事前に察知して、連絡していたのに、このザマなのである。地域も、行政も、勘違いしている「ムラ」であることは間違いない。

 なお、28日の日雨量は現場で98ミリ程度であったという。これは災害発生雨量を越えているが、繰り返すが、事前に対応していれば発生しなかった「人災」である。さらに妻が「湖になっていた」という日の日雨量は72ミリほどであった。

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楡の集落を歩く

2024-06-24 23:59:52 | 地域から学ぶ

 安曇野市三郷楡の集落を歩いた。知らない土地ではなかったが、今まで特別意識することも無かった「楡」でもある。記憶が定かではなかったが、この集落にあった同僚(先輩)の家を遥か昔に訪れたことがあった。何かの研修の後に、「ちょっと寄れや」と言われて立ち寄ったことがあった。40年と近く前のことだ。したがってその家が「楡」であったのかどうかも定かではなかったが、歩いていると同一姓の家が多かったこともあり、「もしかしてこの集落だったのかも」と思ったわけだ。そこで地元の方にかつて同僚だった方の名を口にすると、「この家」と示されたのは、直前に説明を受けた家だった。歴史上に名が刻まれた家とは、これまで全く知らなかった次第。

 安曇の三郷といえば「貞享義民」が知られる。後に「義民」として祀り上げられた印象はあるが、原点は江戸時代貞享3(1686)年に松本藩に起こった百姓一揆である。かつて明治維新後松本城は存続される道を歩んだが、当時の松本城は傾いていたと言われる。その傾きは貞享騒動の首謀者多田加助が磔となった際に、松本城をにらんだせいで傾いたと語られるようになった。この話は明治以降につくられたものと言われているが、それほどこの地域において貞享騒動は、歴史上の大きな出来事であったと言われている。その貞享騒動の詳細は、ウィキペディアなど多くのページで記されているのでここでは触れないが、磔となった者8名、獄門となった者20名と言われ、磔となったのは多田加助のほか、小穴善兵衛、小松作兵衛、川上半之助、丸山吉兵衛、塩原惣左衛門、三浦善七、橋爪善七、以上8名だった。多田加助に次いで一揆を首謀したと言われる小穴善兵衛、その末裔がかつての同僚とはまったく知らなかったこと。ナンバー2と言われた小穴善兵衛は、16歳の娘と子、弟とその子、さらに弟、と6名が磔、獄門となっている。さらには磔となった小松作兵衛の妻は善兵衛の妹だったという。何より当時は女性が処刑される例は珍しかったと言われている。ちなみに説明するまでもないが、磔は罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑をいい、獄門は死後に首を晒しものにする刑を言う。見せしめとはいえ、非道な処刑とは今だから言えることかもしれない。

 

楡の集落と本棟造り

 

 さて、現在の楡の集落を歩いて思うのは、豊かな村であるという印象。もちろんそうした集落であっても広い屋敷が無住となっている家も少なくない。燕返しの付いた本棟造りの家も見えるが、多くは戦後の建物と思われる。こうした光景は安曇野には顕著に見られるが、背景としてなぜ本棟造りが好まれたか、興味深い点でもある。実はかつての同僚の家も本棟造りの母屋があり、そのあたりを聞いてみたいと思い、立ち寄った次第。

 

北村の道祖神と墓地

 

上手村の道祖神と墓地

 

住吉神社

 

 北村と上手村の道祖神の写真を取り上げたが、いずれも墓地の入口に建てられている。集落と墓地、そして道祖神の立地を見た時、そもそも墓地は集落において中心に当たるのかもしれない、そう見えた。その上でこれも安曇野らしい光景だが、それらと堰との立地も興味深い。それほど堰(かんがい用水路)が多い。そもそも江戸時代に一揆が発生した要因に、水が乏しかったという事実がある。堰が開発されたことにより今のような豊かな姿を作り上げたわけであるが、そのいっぽうで楡の地には不思議な光景がある。今でこそ下流側に排水路が整備されたが、かつては黒沢川が楡の集落直上で消えていた。ようは川の末流がなく集落西側にある住吉神社の直上で消滅していたのである。広大な社有地は、黒沢川の水を吸収していたとも言われ、集落を護るための住吉神社であったとも。扇状地面であるからこういうケースは他にもあるのだろうが、これほど歴然とした例は珍しいのではないだろうか。

北村の墓地内にある貞享騒動50周年忌供養塔

 

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子供組行事

2024-06-19 23:16:57 | 地域から学ぶ

 この2日間、旧長門町長久保の道祖神と祭について触れてきたが、思い起こせば、上田民俗研究会の前会長であった酒井亻玄(もとる)先生から、昭和62年と63年に訪れた長久保と和田の道祖神獅子舞についての写真を提供してほしいという話があったのは、平成元年のことであったと記憶する。子供組の行事を扱った写真として先生がかかわられている雑誌に載せたいという依頼だったのだが、掲載誌『上小教育』と具体的に聞いていたかは記憶にない。発行されてしばらくしてから送られてきた雑誌が『上小教育』の第33号だった。特にその雑誌に子供組についての記事が掲載されていたわけではなく、ただ、巻頭に子供組の行事の写真が特集されていたもの。わたしの写真のほか、酒井先生、亡くなられた小林寛二先生の写真が掲載されている。

 

 

 

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「踊念仏供養塔」

2024-06-15 23:02:57 | 地域から学ぶ

 

 旧武石村に自然石道祖神を求めて訪れた際、武石川左岸の小寺尾において珍しい石碑を見た。見た目「墓石」かと思われる石碑の正面には「踊念仏供養塔」と刻まれている。念仏供養塔の類は多数県内に見るが、頭に「踊」を刻む塔は、わたしの記憶では初めてである。集落内のメイン道路から少し水田内に外れたところに石碑群があり、その中央前面、いわゆるこの空間では中心的存在の碑と捉えられるこの塔については、横に説明板が立てられている。管理されているのは上小寺尾自治会で、由来には次のように記されている。

天明期は気候が不順で凶作がつづいた上、浅間山の大噴火があり、村人達は祖先の伝えてきた踊念仏を上州沼田に譲り渡してしまった崇りと考えた。そこで、天明3年に踊念仏供養塔を建立し、八十八夜の日を祭日とし供養するようになり今日に至っている。

というもの。「踊り念仏を上州沼田に譲り渡し」たというところの意味が今一つだが、踊り念仏の道具を譲り渡した、という意味なのか踊り念仏そのものを譲り渡したのか…。祟りと考えて復活させたというのならわかるが、そうではないよう。とすると復活できない背景のようなものがあったと思われ、例えば道具がなければできない、というのならわかりやすい。

 向かって右側面に「天明三年癸卯八月下旬」と建立年が刻まれている。

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描かれた図から見えるもの㉞

2024-06-07 23:58:28 | 地域から学ぶ

描かれた図から見えるもの㉝より

 宮田村の例は一貫して山(中央アルプス)を図上に置くレイアウトの例であったが、ここで紹介する飯島町の観光、というか告知用パンフレットは宮田村の例とは異なる。まず最近公開されているいくつかのものを見てみる。

 

「いいじまという町で」

 

 「いいじまという町で」というA5版よりは一回り大きいパンフレットは、観光用というよりは移住者向けの案内誌という感じ。表紙裏の文言の始まりは、

ここは、長野県の南部、
伊那谷の中央に位置する飯島町。

西は中央アルプス、
東は南アルプスに囲まれた
ふたつのアルプスが見えるまちです。

移住して夢を叶えた人
理想の暮らしに出会えた人
てつものアウトドアを楽しむ人
子どもと豊かな時間を過ごす人

“いいじま”には多様な暮らしを
送っている人たちがたくさんいます。

“いいじま”という町であなたは
どんな時間を過ごしますか?

というもの。多様な人の冒頭に「移住して夢を叶えた人」を持ってきているように、移住者へ視線を送っているものとすぐにわかる。そしてこれを作っている方も、きっと地元ではない人、なのかもしれない。この案内誌の最後に略図が掲載されている。上は「北」であり、その方位も記載されている。図には申し訳なく程度山が描かれているが、中央アルプスの頂までは示していない。それと天竜川の東側、図では右端にあたる部分に伊那山地の山々が描かれている。この案内誌を発行しているのは飯島町地域創造課である。

 

 

「飯田線の車窓から」


 次のパンフレットは「飯田線の車窓から」というもので、B4版1枚を三つ折りしたもので、略図を示して飯田線の撮影スポットを写真で紹介している。略図は図のとおり、本当に簡単なものであるが、これもまた配置上は図の上を「北」にしている。線ものを中心に展開する場合、わたしたちには横に配置した方が見やすいのだが、それをあえて縦版に配置しているところは注目すべき点である。このパンフレットは「まちの駅いいちゃん」であり、編集は地域おこし協力隊とされている。

 

 

「いいじま まちあるきガイドマップ」


 最後に紹介するのも現在公開されているものであるが、「いいじま まちあるきガイドマップ」というもの。B5版を縦に1/2にしたくらいの大きさの変形版である。飲食店などを案内したもので、表題通り地図が中心である。その地図はやはり略図であるが、図上を「北」にしている。当たり前かもしれないが、暮らしのエリアを案内しているから、山をアピールする必要も無く、「山」を意識する必要も無いのかもしれない。編集は「まちの駅いいちゃん」である。

 聞き取りをしていないが、これらすべて地域おこし協力隊がかかわっているのかもしれない。飯島町のパンフレットというと、以前「描かれた図から見えるもの⑧」で1回触れている。9年前に当るが、その当時のパンフレットも残念ながら頭上を「北」に配置していたようだが、その際「5年ほど前」のパンフレットとして紹介した図は、山を図上に示していた。飯島町の古いパンフレットが手元に見つからないため、これ以外に図上に山を配置した事例を示せないが、飯島町のパンフレットはここ10年以上図上を「北」にしたものしかないことがわかる。とりわれ、編集している人たちには、当たり前に「北」が図上という意識、あるいは空間認識があるのかもしれないが、古い人間には違和感があっても不思議ではない。

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描かれた図から見えるもの㉝

2024-06-03 23:25:35 | 地域から学ぶ

描かれた図から見えるもの㉜より

 これまでさまざまな図を示して配置上の方角を捉えながら説いてきた。そろそろトータルに考察する必要があると思うのだが、過去と現在という捉えたかはあまりしてこなかった。今後少しの間、過去の図と現在の図を比べながら、その地域の意識の変化のような部分に焦点を当てていこうと思う。

 1回目は宮田村の観光パンフレットを例に考えてみたい。ここに三つのパンフレットを用意した。古いものから示していこう。

 

 

 「雪形の現れている山々」でも触れたが、「さわやか信州」のキャッチフレーズは昭和時代末から平成の初頭にかけてのものと思うから、もう30年ほど前のパンフレットと推定する。繰り返すがこの手のもの、発行年が印刷されていないのが大きな欠点。したがって正確に「いつ」印刷された物かはわからない。A5版変形の22頁という冊子風のパンフレットは、写真を主体にしたもので、最後に地図を示している。実寸図ではなくイラストであるが、配置上少し傾けている(南側の村境にある大田切川を、左下から斜めに図上に示している)が中央アルプスを上部に配置しており、天竜川や飯田線、あるいは中央自動車道は左右に配置されている。図には北を示すいわゆる方位表示はなく、目標は中央アルプスといった印象を受ける。このパンフレットを発行しているのは、宮田村と宮田村観光協会である。

 


 二つ目のパンフレットはA4版折り込みのもので、平成10年代のものと推定する。企業と商店を位置図に番号を付して示しており、その地図は略図であるが、やはり上を中央アルプス側にしているが、山までは記載せず、山麓までにとどまっている。今回は方位を地図内に示しており、真右ではなく、ほんのわずか上に傾斜している。いずれにせよ、上に山を配置していることは、前例と同じである。前例同様に宮田村観光協会の発行である。

 


 三つ目の地図は現在のパンフレットからである。A4版10ページ立てのもので、裏面に地図が掲載されている。これまでと変わらず、中央アルプスを図上に配置しており、中央自動車道、広域農道、飯田線、国道153号といった交通路線を左右に平行に配置した略図である。実際の図とは異なるが、イメージとして村人が捉えている空間配置と思われる。こうした略図をパンフレットに採用する例が少なくなってきている中で、注目すべき事例と言える。1例目と同様に、この図も方位は表示していない。そして、これもまた宮田村と宮田村観光協会の発行したもの。

 それぞれの時代のパンフレットの表紙と案内図のみここでは取り上げて見た。どの時代のパンフレットも、中央アルプスを図上に配置した一貫した空間イメージが踏襲されている。宮田村だけで過去から現在までのパンフレットを見てくると、何の変哲もなく捉えられるが、一貫して山を図上に配置しているということが特筆できることなのである。それは今後示すほかの自治体の観光パンフレットを見ていただくとよく理解できるはず。

続く

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田植えのころ

2024-05-18 23:30:22 | 地域から学ぶ

駒ヶ根市火山(令和6年5月18日)

 

 定年を機に、本を発行したことについて触れている。きっかけは『伊那路』に連載している「図説上伊那の民俗」を1冊にまとめたいとかねがね思っていたからだが、たまたま西天竜土地改良区の百周年記念式典用にパンフレットを印刷する際に、わが社に内容構成から印刷まで依頼があり、『伊那路』を印刷されている会社の担当の方が携わってくれたことで、その際に「いつかまとめたい」と漏らしていたもの。したがって『伊那路』を印刷されているプリンティアナカヤマさんにそのままお願いするつもりだった。『伊那路』は伊那毎日新聞社が長く印刷していたが、平成4年の1月号からプリンティアナカヤマさんに変わった。当時は中山印刷と称していて、会社の沿革を記したホームページによると、平成6年から現在の社名になったよう。実はプリンティアナカヤマさんが『伊那路』を印刷するようになった最初の平成4年1月号に、わたしは寄稿している。「道祖神の祭りと嫁祝い・婿祝い」という題名のものだったが、印刷なのか、あるいは校正の失敗なのかわからないが、わたしのぺージ、ちょっと変なのである。ページ中に空白ができてしまっていて、どう見てもおかしかった。それでいてこの寄稿、わたしにとって『伊那路』への最初の投稿だった。印刷会社が変わったばかりで、編集と印刷会社の間でやり取りがうまくいかないまま印刷された、という印象で、わたしの心象は良くなかった。

 それ以来何度か投稿し、地元のことを記した記事は『伊那路』へ、と思いかかわりを持ってきたが、平成29年の4月号から冒頭の連載を受けて7年。そのうちに飽きられてそう長くは続かないだろう、と思っていた連載は今もって続いている。本来なら連載終了後にまとめられれば良かったが、定年を機に、と思っていたから、連載途中ではあるが、これまでの78編をまとめて発行したというわけである。78編の内訳を見てみると、伊那市関係の記事が最も多く、31編ある。ちょうど4割が伊那市ということで、伊那市へ傾向しているわけではないが、意外と多い。そのうち旧高遠町が5編、長谷村が1編である。次いで多いのが飯島町で18編ある。2割強と傾向しすぎている理由は、もちろんわたしの出身地だからだ。加えてコロナ禍においてなかなか記事のネタに困った際に浮かぶのは地元のことだったため、割合が高まってしまった。情報源としても地元の声がよく聞こえるから当たり前に出身地の記事が多くなった。あとは駒ヶ根市8編、辰野町と箕輪町が7編、あとの町村は2から3編程度と少ない。加えて旧上伊那郡だった、現在の下伊那郡松川町上片桐に関するものも2編掲載している。長く続けているうちに、この割合を気にするようになっていた。一昨年までの5年間には宮田村に関する記事が1編もなく、あえて宮田村のことを書かなくては、という意識を持っていて、ようやく昨年宮田村のものを2編投稿できた。

 地域バランスを考慮したいという気持ちはあるものの、やはり行動範囲にかかわるエリアに傾向してしまうのは仕方ないこと。気にはしているのだが…。ということで、行事があまりなく、加えてこれまで触れてきていないものを、と思うと「何を書こうか」と悩むことに。今日はそういう意味で今の季節にしか撮れないものをと思い、天気が良くて「もったいない」日であったが、暇そうに外出をした(我が家の草刈がたくさんあるのに)。やはり天候が悪いと、外出している人がおらず、らしい写真が撮れないこともあり、「天気の良い日」が良いことは言うまでもない。

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「さわし柿」-『伊那路』を読み返して57

2024-05-17 23:15:54 | 地域から学ぶ

「廃れきった十王堂の話」-『伊那路』を読み返して56より


 『伊那路』昭和40年11月号の「さわし柿」は、駒ヶ根市中沢の竹村直人氏が寄稿したもの。「中沢では昔から畑や畦畔に何処でも二本や三本の「せんぼ柿」があった」という。このせんぼ柿をさわして畑地の広い箕輪の方へ売りに行ったという。実際には「売る」というよりは物々交換をしたようで、馬の餌にするため稗などと交換したらしい。ようはそれらは畑の多い地方に多かったため、そうした地域へ売りに出向いたよう。「何時頃から行きはじめたものか不明であるが、私の祖父が天保の末期生れで若い頃は二匹馬で盛んに行った」という。そして竹村氏が上伊那農学校に入学した際に紹介されると、北の方から通学していた生徒に「“せんぼ”いいぞ」とやじられたという。したがって「中沢の「せんぼ」と炭焼きは有名で知られていた」という。山奥の人に対して「おっさんどこだい、炭焼きかい、どうりでお顔が真っ黒だ」と言われたものと共通している。また「さわし柿の匂いが一寸風呂の匂いに似ているので御風呂に入ってからその湯を使って柿をさわしたのだろうなどいろいろな悪口をいわれた」とも。

 こうしたさわし柿「秋になり柿が熟するともぎ取って柿をさわす専門の大桶に入れる。その周囲と底には藁を並べ熱の発散を防ぐのである。一石ばかり入る大桶で、それは今現存しており果樹の消毒用に使っている。一方大釜で湯を沸かして熱湯を柿の上まで注ぎ粟がらをおいてその上を筵やネコで覆って縄で結びなお周囲を筵やネコで包む。大体一昼夜で渋味がとれて柿が甘くなる。柿がさわれて甘くなると桶から取り出し藁の上に拡げ水気を去り叭に入れ、馬につけて若い衆や男衆の柿売り出発の準備完了となる」。夕食後提灯や蝋燭を持って東春近の田原よけを通って六道原まで一緒に行ったという。そこで分散し、西箕輪の大萱や与地、あるいは南箕輪から中箕輪に行ったといい、あるいは天竜川左岸の牧や福島、さらには東箕輪の長岡の方まで行った。そのため昔の人は北部の地理に詳しかったという。

 「子供が大勢遊んでいると持っていた笊で柿をやると子供はすぐ家に帰って柿売りが来たからと云ってねだ」ったという。そこで商談が始まり、「柿にもよるが笊に柿いっぱいとその笊にいっぱいの稗との交換で稗を米でいうならば今の米選機下の二流品を柿の交換用として準備してあった」という。こうして馬の餌を確保して、農繁期の馬のはげしい労働に備えたわけである。竹村氏がこう記した昭和40年には、既にせんぼ柿はわずかに残っているのみだったよう。半世紀、いや1世紀も前の「せんぽ柿」売りの話である。

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「廃れきった十王堂の話」-『伊那路』を読み返して56

2024-05-09 23:00:42 | 地域から学ぶ

「枝義理」-『伊那路』を読み返して55より

 『伊那路』昭和40年9月号に赤羽篤氏が「廃れきった十王堂」を報告している。わたしは、現在でも常に意識しているものに「十王」がある。先ごろから記している「志久見川沿いの集落景観」でも扱っている十王。葬儀といえば今では当たり前に寺に依存しているが、過去には寺ではなく、もっと身近な形で存在していたと考えられる葬儀。引導を渡すのは墓地周辺だったとも捉えられる痕跡は、今でも時折見ることができる。そのひとつが「十王」なのである。「志久見川沿いの集落景観 前編」でも触れた通り、十王と葬儀用具が同一の空間に収められている姿を今も見かけることがある。さすがに葬儀用具は無いとしても、十王は石造が多いこと、加えて神様仏様を容易に捨てることができない意識が現在まで残存させている背景にある。したがって十王があるところにはかつての葬儀の臭いがする。したがって十王を見かけると、周囲の状況も含めて「なぜここにあるのか」を含めて、常に注意深く探ることにしている。その原点にあった報告のひとつが赤羽氏の本報告であり、もう半世紀ほど前から認識していた報告文である。

 さて、赤羽氏は大清水川に架かる「寿翁橋」の名から「十王」を想像し、調べてみたらここに十王堂があったということを報告している。伊那市大萱は伊那インターの西側地域の集落。集落の真ん中を大清水川が流れているが、この川は水無川といって良いほど水が乏しい。したがって川の幅もそう広くはない。集落の中ほどにこの大清水川を渡る10メートルにも満たないほどのコンクリート橋が架かっている。この橋がここでいう「寿翁橋」であり、ガードレールにその橋名板がはめられている。赤羽氏によると、延享年間(1744~1748)に成立した『伊那神社仏閣記』にも大萱に十王堂があったことが示されているという。「延享以来今日までわずか二百年ばかりの間に、ちゃんとあった筈の十王堂が全くなくなって、遺物遺跡はもとより、その伝承さえ消失し、「寿翁橋」という宛字の橋名でかすかにその名残りをとどめている現状に世の移り変わりの激しさを如実に感じた」と述べているが、赤羽氏が報告されて既に半世紀以上経過しているため、300年を経ようとしている。実は十王の遺物はあちこちに残存するが、意外と十王の信仰は廃れ切っている。なぜこれほどまで十王が忘れ去られたかといえば、現代も葬儀の変化が著しいが、過去にもそうした時期があったことを示す遺物と言えるのが十王なのである。十王堂がある場所、あるいは墓地の中に石台のようなものが残存する光景を見ることがある。この台は、いわゆる棺桶を置いた台。引導を渡した場所とも言える。こうした背景が見られなくなった原因は、寺院の葬儀への関与が影響している。そもそも寺院は葬式を業としていたわけではない。今でこそ檀家檀那寺関係で築かれているが、昔は葬儀はもっと地域住民の手の内にあったといえる。寺の関与によって十王が忘れられていったともいえる。

 赤羽氏はどこかに遺物がないかと探した結果、寿翁橋から200メートルほど西に大清水川を遡った場所にある阿弥陀堂の脇(現在は堂の北側格子戸の中に安置されている)に半ば埋もれていた十王を発見した。「堂の脇の竹藪との境にすっかり崩れ果てた石垣の石塊の中に墓石などとの石造物が入り交ざっている」中からそれを見つけたといい、阿弥陀堂の掃除に集まった老人たちもその存在どころか十王そのもののことを全く知らなかったという。

 赤羽氏は十王信仰の歴史を振り返っている。前掲の『伊那神社仏閣記』に掲載されている上伊那の十王堂は11箇所ほどあったが、記載がまちまちで明確な数は掌握できないと言う。「延享時代に十王堂がどのくらいあったかを知ることはできない」と述べた上で、相当数あったのではないかという。「人はこの世においてひたすら善行につとめ、冥界において十王のさばきをうけないように仏道に精進しなくてはならない」という戒めのために十王が存在していたと説く。そして「十王堂はまず密教寺院の境内に造られ、そして次第に村々に建立されていったと考えられる」と述べ、その時代ははっきりしないが、室町時代であったのではないかと言う。また、その衰退期は明治初期だったのではないかと想定している。「悪いことをすると地獄へいって閻魔様に舌を抜かれる」とは、わたしも子どものころよく耳にした戒めの言葉であるが、故に十王は知らなくとも閻魔王はよく知られている。もちろん現代の子ども達が認識しているかは知らないが、十王の遺物はそうした過去の葬儀を垣間見ることのできる物であることはもちろん、空間でもある。

 

「さわし柿」-『伊那路』を読み返して57

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意外な降車客

2023-04-05 23:21:21 | 地域から学ぶ

 この電車に乗るようになった初期、もう15年ほど前のことになるだろうか、最寄りの駅で乗る人はわたしを含めて一人、ふたり。乗った車内でも誰も乗っていない、ということは当たり前にあった。最も乗客の少ない時代、だったのかどうかについては判然としないが、その後毎日乗っていた経験を経て、今は飲み会の際にしか利用しないわたしの印象では、当時に比較したら乗客が多い、という印象がある。もちろん乗った際のイメージであって、1時間ほど乗る車内での出入りする乗客の姿からは、昔に比較したら絶対数は減少したと思う。何より郡境域の閑散とした車内の光景はそれほど変わらないものの、朝乗る際の光景だけは変化した、と感じる。長距離通勤の人が多くなったのか、それとも越郡通学の高校生が増えたのか、答えは定かではない。

 郡境域で電車に乗ると、しだいに乗客が増えていき、わたしの目的地である。「伊那市」で最も多くの乗客が降車する。伊那が中心的位置づけである証でもあるが、同じ市でも駒ケ根駅での降車客は少ない。当たり前のことではあるが、高校の最寄りの駅なら降車客が多い。わたしの乗る駅の最寄りには、松川高校があるから、降車客の比較的多い駅である。もちろんどこかの時間帯には乗車客も多い。同様にわたしの乗る電車では沢渡駅も降車客は多い。そこには伊那女子高の存在がある。伊那市駅の降車客が多いのは伊那弥生ケ丘のせいであり、隣の伊那北駅は上伊那農業高校と、伊那北高校の最寄り駅だ。いずれ伊那弥生ケ丘高校と伊那北高校が統合されれば、伊那市駅の降車客は激減するのだろう。

 伊那まで乗る電車でかつてと全く異なる光景を、乗って間もなく見かける。伊那田島駅のこと。この駅は郡境域であるとともに、駅のすぐ近くに1軒家はあるものの、環境はまったくの畑地帯である。秘境駅という言葉があるが、もちろんそれに該当するような駅ではないが、利用客が多いという印象の環境ではない。中川村にある唯一の駅ではあるが、村中心からは外れていて、中川村民で最も利用度の高い駅は、ここではないだろう。最寄りとは言い難い駅である。実はこの駅でわたしの乗る電車から10人以上の客が降車する。なぜ畑地帯で周囲にはそれらしい建物がないのにこんなに降りるのか、理由は段丘上にある工場へ勤める人たちが利用しているのだろう。とはいえ降車した客が会話を交わすこともなく、彼女たちが(男性もいるがほとんどは女性)同じ会社の同僚かどうかは、その様子からはうかがえない。前述したように飯田線のこの時間帯の利用客は、ほとんどが高校生。したがって高校生が昇降する駅は賑やかなのはあたりまえだが、一般客がこれほど降車する駅は、わたしの乗車している間では、伊那市駅に次ぐ人数である。車通勤が当たり前の地域であるが、飯田線を残そう、あるいは利用しやすくしたい、と考えるのなら、通勤客の利用数を増やす環境を整えるべき、とはこうした光景から察する。

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往生院「庚申塔」

2023-03-24 23:15:05 | 地域から学ぶ

 

 同年齢の同僚が定年になるのはわかるが、自分より若い人たちが定年になるとなると、「順番違うよね」と思うもの。世の中には順番というものがあるから、そうした環境下に身を置くのはこころもち「重たさ」を覚える。その自分より若い同僚の定年を「祝う」には、正しい表現とは言えない状況下で、彼と二人で送別会をした。

 待ち合わせの時間に余裕があったので、少し送別会をしようとした界隈を歩いた。長野で「権藤」といえば、知らない人はいないほどかつて賑わったマチである。花街の芸姑たちの信仰を集めたといわれる弁財天が、権藤のアーケード通りの一角にある。「宇賀神大弁財天堂」という堂が往生院の庭にある。「信州最古」と説明板にあるが、堂に納められた弁財天が古いということなのだろう。それを拝見できるのは開扉される8月27日の午前10時から12時の間だけだと説明板からうかがえる。弁財天だけに、かつてここには蓮池があったといい、往生院を蓮池庵とも言ったという。

 往生院は大同2年(807)に弘法大師が善光寺参詣のおりにここに寶乗寺を創建したのが始まりだという。正治元年(1199)に法然上人が善光寺参詣のおり、ここに逗留したともいう。さらに建久8年(1197)源頼朝が善光寺参詣の際に善光寺再建を発願し、善光寺如来をここに移して仮堂としたという。仮のお堂のことを権藤と言ったことからこのあたりを「権藤」と呼ぶようになったと言うから、「権藤」の発祥地とも言える。マチの中にある小さな寺であるから、目立たないことも事実。

 この寺の庭に庚申塔が2基祀られている。一つは「庚申塔」と刻まれた文字碑。台石に「講中」とあり、背面に「万治元戊戌年三月上旬」に併記して「寛政十二庚申年十月再建」とある。もう一つの庚申は石祠型のもので、正面には二鶏と二猿が彫られ、台石には文字碑同様に「講中」とある。実は背面に「庚申塔」とあり、もしかしたらこちらが正面なのかもしれないが、縁取りされているからやはり二鶏二猿側が正面なのだろう。向かって左側面に「元禄七甲戌年三月上旬」とあり、右側面に「寛政十二庚申年十月再建」文字碑とまったく同じ年号が刻まれている。おそらく同じ時に再建されたものと思われる。文字碑の万治元年は1658年、石祠の元禄7年は1694年にあたる。「再建」とあるから元も文字碑と石祠だったのかははっきりしないが、同じとすれば文字碑の方が古かったということになる。近隣には茂菅の飯縄神社や箱清水に「万治三年」銘の石祠型の庚申が現存する。さらに吉田界隈には「慶安三年」銘と言うさらに古いものもあり、それらはいずれも石祠あるいは宝塔型のもの。そう捉えると、再建された文字碑の元の姿は石祠だったかもしれない。

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天竜川下流域を訪れる

2023-02-06 23:24:41 | 地域から学ぶ

 

1.開削
 静岡県磐田市にある寺谷用水という農業用用水路を訪れた。昨年10月に世界かんがい施設遺産に登録された用水で、開削された古さはとびぬけている。開削は天正16年と言うので1588年までさかのぼる。完成したのは2年後の天正18年という。天竜川左岸に12キロほどの水路を開削し、その取水口が磐田市寺谷だったことからそう呼ばれるようになったよう。開削によって400ヘクタールが開田され、1700ヘクタールほど水田に寺谷用水はかんがいしたという。概略は「世界かんがい施設遺産 寺谷用水」という資料が把握しやすい。
 さらに詳しいものとして『寺谷用水』という冊子があり、ホームページ上でもPDFで閲覧できる。表紙に安政年代の古い図が印刷されているが、上下の赤いラインが当時の寺谷用水。おそらく現在の水路とほぼ同じ位置を示している。この図の左側の水色は天竜川、「大池」は現在も存在していて、その右側の川が今之浦川、右端の川が太田川で、この右側が袋井市になる。上から山と思われるグレーのエリアが垂れ下がっているが、これが磐田原にあたる。現在はほぼ茶畑になっているところで、住宅地も広がった。ちなみに、ヤマハ磐田工場やスズキの磐田工場は磐田原に沿ったあたりに存在する。
 何といっても開削年代が古いことが寺谷用水の特徴。徳川家康の家臣平野重定が、徳川家康から天竜川左岸域の治水と利水の整備を命じられた伊奈備前守忠次と諮って用水路開削事業に着手したものといわれる。全国的に著名な9000ヘクタールをかんがいするといわれる福島県の安積(あさか)疏水が明治14年(1881年)、関東15000ヘクタールを潤す見沼代(みぬまだい)用水が天保13年(1728年)、2600ヘクタールをかんがいする新潟県の上江(うわえ)用水が天明元年(1781年)、上伊那とも縁がある五郎兵衛用水が寛永7年(1630年)、岐阜県美濃市の曾代用水が寛文12年(1672年)、三重県の立梅用水が文政6年(1823年)といったように、いずれも寺谷用水開削以降のもの。

2.天竜川流域の水利
 当初の寺谷の取水口は天竜川の変化とともに上流側に移っていった。隣の掛下(かけした)、さらに隣の平松、さらに北上して神増(かんぞ)、さらに現在の新東名のある一貫地(いっかんじ)と北上した。明治になって水量不足に悩んでいた太田川の流れる磐田原東側の地域において天竜川からの導水を考え、社山(やしろやま)にトンネルをくり抜く社山疎水を計画したのは明治16年という。このとき寺谷用水も共同で神田に取り入れ口を造ることにし、明治17年に取水口は完成したと言う。しかし、社山疎水のトンネルは失敗して明治21年に中止になった。
 その後寺谷用水は神田取り入れ口でも取水困難となり、昭和8年にさらに上流に取水口を計画。その際断念していた社山疎水の計画も併せて再計画を行い、寺谷用水と併せて「磐田用水」と称して事業化されることに。二俣にある「磐田用水旧取水口」が当時の取水口となる。完成したのは昭和18年、磐田原東側まで通水したのは昭和22年という。
 天竜川へ佐久間ダムや秋葉ダムが完成し、土砂がせき止められるようになると、河床がさらに下がって取水が難しくなったといわれる。昭和53年に発電と用水のために船明(ふなぎら)ダムが完成する。翌年に左岸導水路が完成し、二俣の取水口が廃止され、船明ダムからの取水に変わったというわけで、現在の水源は船明ダムとなる。
 天竜川左岸にあたる寺谷用水は、磐田用水とともに明治以降歩んできたわけだが、天竜川右岸においては、北西部は三方原用水、西部から南西部にかけては浜名用水がある。いっぽう天竜川左岸においては、天竜川に沿った左岸は寺谷用水、その東側の磐田原台地は磐田原用水、その更に西側の太田川沿いには磐田用水東部水系によってそれぞれの地域を潤している。それぞれの創設時期を見ると、三方原用水が昭和40年(1965年)、浜名用水が昭和21年(1946年)、磐田原用水が昭和57年(1982年)、磐田用水東部水系が昭和19年(1944年)といずれも昭和になってからのもので、寺谷用水の歴史的古さが際立っており、全国的に見ても古いことは前述したとおり。寺谷用水が古いから、周囲のかんがい施設も古いかといえば、そうではないわけで、裏を返せば、なぜ周囲の地域で同じような企てがされなかったのかは興味深い点である。一説にはほかの地域では藩政時代に水利事業に熱意のある藩がなかったともいわれている。

3.現在の寺谷用水
 現在の寺谷用水は、『寺谷用水』の5ページから6ページに施設の写真が掲載されている通り、「寺谷コントロールセンター」が整備されている。それまでの開水路での管理ではなく、全体1500haのうち700haほどがパイプライン化されたという。平成6年度事業着手、平成29年度完了。総額110億円を要したとも。補助残の地元負担分の約9割を磐田市が負担たという。どうして磐田市が事業に協力してくれたのかというと、もともと寺谷土地改良区の管理する施設は幹線用水路や付帯施設の基幹施設のみで、小用水である末端施設は磐田市が管理していたという。したがってパイプライン化することにより、そうした施設の維持費が低減されるということから磐田市が支援したようだ。
 1590年の旧取水口の大圦樋(おおいりひ)跡に記念碑が建てられているが、「遺産」とは言うものの、かつての遺物はほとんどなく、この大圦樋跡ぐらいだろうか、それらしい場所は。

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稲核風穴その後 前編

2022-12-14 23:22:13 | 地域から学ぶ

 旧安曇村稲核は、現在は梓川のダム湖の段丘上にまとまって集落がある。『安曇村誌』第4巻「民俗」によれば、昭和40年に着工された電源再開発事業によって発電所やダム建設に関わる人々が流入し賑わったといい、昭和43年には249戸を数えたという。昭和44年にそれら工事が終了すると戸数は減少し、平成6年には127戸となったという。もちろんその後も減少を続けているのだろうが、環境的には南側に急峻な山を背負っているため、日陰になることが多い。そして何といっても「風穴」だろう、その特徴は。しかし、その風穴も実際のところよく活用されているかと言えばそうでもない。それらを見直そう、あるいは次代に残そうという意識は少なからずあるものの、集落の盛衰がそのまま風穴にも繋がっているようにもうかがえる。

 この風穴が最も利用された時代が蚕種の孵化調整に風穴が使われた明治30年代から大正時代にかけてであったという。全国への発送のため稲核に郵便局ができたのもその時代である。この風穴がそれ以前いつごろ発見され利用されるようになったか明確なことはわかっていない。「宝永年間」(1704年から1711年)に発見されたと書かれたものがよく見受けられるが、この元は蚕種業で栄えた前田家が大正時代に発行した『前田風穴案内』に記されていることから引用されたものだろう。蚕種で栄える前は、稲核菜などの貯蔵用に利用されていたようである。

 さて、風穴とはいえ、形式的には「穴」ではなく小屋である。斜面を掘削してできた壁面に石積みを築き、その上に木造の切妻屋根を構えるという形式で、石積の小屋と言えばわかりやすい。半堀込み式で、完全に彫り込んだものは少ない。もちろん背後から冷たい風が流れてくるから自然な冷蔵庫として利用できる。繰り返すが何といっても風穴が栄えたのは蚕種の貯蔵用に利用された時代のことであり、すでに100年ほど前のこと。前田家のもののように大型の風穴も造られたが、多くは小型の家庭用程度のものだったことは、現存している風穴からうかがえる。これを登記簿から眺めてみると次のようなことが言える。

 諏訪神社周辺には家庭用の風穴群が存在するが、前田家の風穴もそれら風穴群と隣接する。稲核に限られたことてはないが、かつては今では山となっているような場所に畑がたくさん存在していた。したがって閉鎖登記簿といったかこの登記簿も眺めていると諏訪神社背後の現在針葉樹となっているような空間も「畑」であったことがうかがえる。そのほとんどは国土調査が実施された昭和54年に「畑」から「山林」に地目変更されている。山の斜面の山林は、縦長に細長く地権者が分けられていることが多いが、現在風穴が残されている場所は、意外に小さく分筆されている例が多い。そして明治期から売買による所有権の移転がされている例が見られる。また抵当権が設定されていたりするのも風穴が建てられている場所であったりする。そうしたなか共有名義の土地に風穴がある筆が一筆ある。7名による所有となったのは昭和8年のことで、当時は「宅地」であった。現在も共有ではあるが、国土調査の際に「原野」に変更されている。その近くには昭和6年に「畑」から「宅地」に変更した些少な土地があり、ここにも風穴が建っている。さらに諏訪神社西方には、やはり昭和6年に「畑」から「宅地」に変更された風穴が所在する筆があり、売買は明治37年に行われている。いわゆる蚕種による風穴利用が盛んになったころ、売買や足並みを揃えるように「宅地」への地目変更が行われたことが登記簿からうかがえる。

続く

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