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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

防災訓練に見る自治

2025-08-31 20:20:41 | 地域から学ぶ

 防災訓練があった。自治会の役員をしていることもあって、避難指示(訓練)がある前から自治会館に詰めていた。こうした訓練には疑問も多い。誰もが思っているのかもしれないが、終われば「お終い」だから形だけでも何ら異論を口にする人はいない。そもそも自治会の役員なのに、隣組ごとに定められた集合場所は知らない。自治会長にも「そうした一覧はあるの」と聞くと「無い、知らない」という。なるほど役員をするまで隣のことは知らないし、そもそも役員も長く務めるわけではないので、その場限りで良いと思ってしまう。気持ちはわかると、それが当然かもしれない。ただ、本当に避難しなければならないようなことが起きたら「どうするの」ということになる。町主催の防災訓練なのに、説明を受けた際に疑問だらけだし、よくわからないところがあったと自治会長は口にする。資料を見せてもらうと、確かによくわからないことが多い。しかし、それをいちいち質問していたら大変なこと。繰り返すがこの町では自治会長はほぼ1年だけのことだろうから、今年が終われば良い、と誰もが思うだろう。したがって今まで通りにやって、形式的に終わればそれで良いという印象が誰にもある。町では地区ごとに防災計画を作るように、と説明するようだが、本気で作成するようにというような説明ではないという。そして町との間に「区」というものがあって、初めて知ったことだが、安全確認は「区」にするのだという。町、区、自治会、いったいどういう立ち位置なんだ、というところはわからない。そもそも自治組織はあくまでも自治組織で、行政の下部組織でもなければ、自治組織であればやらなくてはならない、という基本形もない。あくまでも任意である。

 先ごろある地域で聞いた話である。そこでは役員をしたくないといって隣組から抜けるという。隣組は組長が回ってくるだけなのだが、隣組の組長をしていると祭典の役が回ってくるという。したがって隣組は辞めるものの、区には入っている、そういう人が何人もいるという。区の役員は区そのものがそこそこ大きいから、区の役員は誰でも回ってくるというわけではない。したがって区に入っていても隣組に入っていない、ということになるというのだ。ふつうなら隣組を辞めれば区も辞めるという意志表示に見えるがそうではないのである。自治組織は地域によっていろいろである。以前にも触れたが、役員をするのが嫌で自治組織を辞めたい、あるいは入らないと思う人は多い。一時自治組織に入らないことがどこでも話題になったが、そもそも自治組織そのものを考え直した方が良いとは思うのだが、前述したように今の自治組織は災害対応もしなくてはならず、役員の負担は多い。もちろんその負担感も、地域によってさまざまであることは言うまでもない。

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季語〝地獄〟

2025-08-25 23:21:18 | 地域から学ぶ

 9月1日まで松本市立博物館において特別展「地獄の入り口  ― 十王のいるところ ―」が開催されている。間もなく終了になるということで、特別展を訪れた。同じような企画展示があちこちで行われていて、9月末まで開催されている「地獄へようこそ 鬼と亡者と閻魔の世界」は三重県総合博物館で開催されている。

 松本市立博物館の展示は18点。駒ヶ根市光前寺の「地獄十王図」と、牛伏寺の「奪衣婆坐像」は県宝である。特別展が行われている2階フロアーで目を引いたのはパンフレットに強烈なイメージを与えている放光庵の閻魔王坐像と、奥まったところに並んでいる牛伏寺の十王関係の像だろう。牛伏寺のものは制作年代が古いものの、県宝指定されている奪衣婆はほかの像とは趣が異なり、時代が違うのだろうとわかる。地蔵菩薩半跏像もほかの像とは少し異なるが、奪衣婆ほどではない。奪衣婆については胎内の墨書銘によって応永29年(1422)波多腰清勝によって造立されたという。もとは小池の牛伏寺大門の地蔵堂にあったものと言われ、十王像もそうだという。地蔵菩薩にも銘があるようだが、ほかの十王像については正確な年代ははっきりしないようだ。とはいえ、十王の全てが揃っていて、圧倒されるその大きさは、「なぜ奪衣婆だけ県宝なのか」と言われても仕方ないほど、価値ある存在と思う。気になったのはそれら十王のうち、閻魔王が少し大きめに造られていることだろうか。十王で製作されたもので十王が意識的に造られている例は江戸時代中期以降のように思う。そうした中で牛伏寺の十王における閻魔王の存在はどのような位置づけであったのか。そもそもこの大きさの十王が庶民に近い堂にあったというあたり、十王の存在を知る上で興味深い点である。

 十王像は木造7点、石造5点(1点はパネル)が展示されている。伊那谷ように石造の十王があるわけではないが、5点のうち3点は個人所有という。松本では廃仏毀釈か激しかったといわれるが、十王信仰が衰退していたこともあって、個人の手に渡っている物が多いのだろう。したがって存在が知られていない石造十王像があっても不思議ではない。旧四賀村の2点は石質が砂岩で、摩耗が進んでいる。左岸の十王像は、あまりお目にかかっていなかったので、意外であった。和田の真光寺と個人蔵のためかどこのものとも明示のなかった石造十王像は、安山岩系であった。

 もうひとつの眼を引いた放光庵の閻魔像は十王に追加される形で閻魔王が存在していて、造立年代は一そろいの十王像より後年にあたるのだろう。わたしの住む近くにある清泰寺の閻魔王は放光庵のものよりもっと巨大であるが、表情はこちらの方が圧倒されるかもしれない。一緒に訪れた人たちの中で話題に上っていたのは、長野市立博物館に寄託されているという「熊野観心十界曼荼羅」の掛軸であった。この曼荼羅図がどのように利用されていたのか、みなさんの想像の豊かさでいろいろ気づかされた。

参考あなたと博物館」252号

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新しい長野県史に向けて

2025-08-09 23:04:14 | 地域から学ぶ

 新しい長野県史に関する意見交換会が、信濃史学会主催で松本市で開催された。令和3年11月県議会において新しい県史編纂に向けた事業が可決され、令和5年から6年にかけて「新たな長野県史編さんに関する有識者懇談会」を開催、そして「新しい長野県史編さん大綱」(以下「大綱」という)が本年3月19日に策定されて公開されている。大綱には趣旨、編さんの基本姿勢、編さんの目的、編さんの方針、県民に親しまれる新県史、新県史の構成、編さんの期間、編さんの組織、編さんに係る庶務といったものが掲げられている。この動きを請願したのが信濃史学会であり、請願に賛同する22団体だった。信濃史学会の役員のほか、賛同団体からおよそ30名ほどの参加者が加わった意見交換会であった。もちろんこうした団体はいわゆる郷土史や文化財、図書館といった関係団体であって、そのまま団体の代表にあらず、賛同団体に掛け持ちで加わっている人も多い。わたしも信濃史学会を含めて賛同団体のうちの6団体に所属している。大綱が公開され来年度から事業が発足するということで、県の担当課から説明を受け、そこへ要望を伝えるという機会をもったわけである。

 会議における県担当課の説明で繰り返されたのが、決めるのは令和8年に組織が立ち上がった後のことで、現在はその準備をしている、というもの。ようは質問してもあまり具体的なことは「言えない」というのが実態のようで、意見交換というよりは、要望をするにとどまった印象であった。そうした要望を聞くにつけ、資料保存に対する意識が参加者の多くに強くあると感じたわけである。そして信濃史学会の会長から県に核となる専門の職員を配置する必要性を求められたものの、そもそも会長が県の職員だったということは、実態としてこれを要望するのは担当課レベルでは無理ではないか、と強く感じたわけである。県に在職していた当事者ができなかったことを、この場に集まったほかの人ができるはずもないということ。やはり政治力、ではないかと強く思ったわけである。

 この日参加した団体は信濃史学会を含めて12団体。それぞれがこうして一堂に介して意見交換をする機会がおそらく今までなかっただろう。故に、それぞれの様子が解っていないという印象を持ったことと、やはり考古学関係者が多く、また意見が強いという印象を持った。これも致し方ないことだが、そもそも考古資料に対しての保存は、補助が篤く、したがって関係者が自ずと多くなる。県史以降の新たな資料というものは当然たくさんあるだろうが、とりわけ近代以前の歴史分野では、考古学がそうした新たな資料が突出しているはずだ。あくまでも既刊県史以降の「現代史」を中心に、という大綱の表現からすると、このあたりが今後請願団体とのすり合わせに課題を残す部分なのだろう。あるいはすり合わせをしないのか…。いずれにしてもこうした団体、あるいは団体に加入されている方の力を借りなければならないところが大きいと思う。もちろんどこかの市のように、そうした人たちを無視して県外の人力に頼った例があるが、それでは「県民に親しまれる新県史」はできそうもない。この後こうした団体が情報交換できる場、あるいは誌面でもウェブ空間でも良いから交流していくことが必要なのではないかと思ったところである。

 

「長野県史編さん事業に関する情報」参照

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下小曽部の馬頭観音

2025-08-02 23:17:11 | 地域から学ぶ

 

 昨日は朝早くに家を出て、現場に行く前に例の観音路隧道をくぐり、小曽部を少し回った。小曽部川の谷は、意外に奥が深い。それほど大きな谷、川ではないのだが、だからなのだろう、集落は奥まで続く。「どこまでだろう」と思いながら川を遡り、奥平の上の水源施設までたどり着くと、「ここが終わり」と察した。いずれにしてもこの谷はその先はなく、行き止まりである。

 道沿いに目立った道祖神は後述するとして、下りながら様子をうかがい小曽部の入口まで戻った。上小曽部に「LA TERRA NAGANO」という古民家の宿があって、みるからに空間とは異次元のお客さんの姿が見えて、ちょっと驚く。

 入口の集落は原口である。実は小曽部の谷には県道は1本もない。みな市道なのだが、下小曽部の水田地帯の真ん中を走るのが市道原口大橋線。洗馬と朝日村を結ぶ県道292号線から分岐する市道に入って水田地帯が見えてくると、その右手に木立があり、その中に四阿とともに小さな祠が見える。もちろん覗いてみると、朱に塗られた不動明王が安置されていた。朝日村もそうだが、この地域には不動明王が多い。とくに道祖神と不動明王が並祠されている例が多い。この地域の特徴と言える。ここの不動明王には道祖神が並祠されていないが、祠の外には彫の立派な馬頭観音が祀られていた。背面には「天保十五辰十一月日 下小曽部村中」とある。「村中」で建てられる馬頭観音はそう多くはないはず。故に立派な馬頭観音が建てられたのだろう。

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本洗馬から小曽部へ

2025-08-01 23:51:12 | 地域から学ぶ

観音路隧道 東側入口

 

観音路隧道 西側入口

 

観音路隧道

 

塩尻市道芦ノ田浄水場沓沢線から沓沢湖提体に入ったところにある記念碑

 

 先ごろの仲間との集まりで、最近朝日村に頻繁に仕事に行っているという話をすると、塩尻市小曽部の話になり、心霊スポットに詳しい仲間から「観音路隧道」のことを聞いた。おおよそ心霊スポットはうわさ話の世界だが、わたしはあまり興味はない。昔から友人たちがその手の話をしていても、話に加わっても興味はまったくなく、噂に上がった場所を意識的に通ることもなかった。ただ、今回聞いた観音路隧道は、朝日村に向かう際に通っている道から少し逸れるだけ。その隧道に迂回しても時間にして数分の違いと知り、ためしに通ってみた。

 観音路隧道は塩尻市道「沓沢線」にある。本洗馬と小曽部を繋ぐ隧道で、長興寺山の尾根が北へ続き小曽部と本洗馬を分けている。その尾根の山々の構成が気になったのでこれは「断層のせい」なのかと思って地質図で調べたが、このあたりに断層はない。この一帯は粘板岩地帯のよう。隧道を本洗馬から抜けたところにかつては沓沢湖というため池があったが、廃止されている。心霊スポットというとこの手のページがたくさん上がっているが、観音路隧道と沓沢湖に関することを記しているものに、「にっぽん旅旅行」というものがあって、両者の「心霊のうわさ」についてまとめられている。 

 沓沢湖は塩尻市にあるが、このため池を管理していたのは松本市奈良井川土地改良区。平成26年1月に建てられた「閉池記念碑」に詳細は記されておらず、経緯はわからないが、ため池の受益地が国営中信平地区の用水が行き届くようになって必要性がなくなったということなのだろう。とはいえ、その規模は満水面積95.5ヘクタール(改修記念碑には963反とあるから一応換算した)、貯水量917831頓とあるから約92万トン近くあったわけで、これほどのため池は近在には多くない。もちろん入水自殺なんていう話があっても不思議ではないが、この沓沢湖にも心霊スポットとしてのうわさがある。そのため池と観音路隧道が近いということもあって、両者のうわさには共通した理由があるのかもしれない。いずれにしてもうわさに過ぎないことで、信ぴょう性は低い。ただ、この隧道、ちょっと雰囲気は良くない。まず狭いから車は1台しか通れない。造られたのは昭和26年ということで、沓沢湖を改修するにあたり(昭和28年竣工)造られた隧道と思われる。この時代の車道隧道としてはあまりにも小さいから、仮設用のトンネルだったのかもしれない。いったん造られた隧道は内巻きして補強されているから、ふつうの隧道とは違う。ふつうではない、というあたりもうわさをかきたてるのかもしれない。

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七夕のころ

2025-07-30 23:28:02 | 地域から学ぶ

願い事の中には「安心して暮らせる日本」がある

 

 昨日、朝日村から権兵衛トンネル越えで帰えろうと、塩尻市宗賀の洗馬を走っていると七夕の飾りが目に入った。最初に目に入ったのは、小学校の入口の門柱に縛り付けてあったものだが、その際はそれほど気にならなかったのだが、さらに集落内を南へ進んでいくと宗賀農林漁業体験実習館の前にも、さらに南へ行った集落外れの神社入り口にも建ててあって、通り過ぎたものの小学校の入口までUターンしたわけだ。ちょうど外におられた方に七夕飾りのことを聞くと、先週末に子ども達が建てたものだという。毎年子どもたちが建てているらしい。今では七夕の飾りも珍しいわけだが、実は安曇ではこの時期、道祖神の端にこうした七夕飾りをするところが多い。これまでにも松本市の梓川梓新屋敷や梓川倭野々宮神社のもの、あるいは中曽根のものなどを日記で触れてきた。いずれも道祖神の祭りにかかわるものだったが、安曇野市豊科の光あたりでも公民館に七夕の飾りを建てている姿が見え、中信地域ではこの季節、道祖神の祭りに限らずあちこちで七夕飾りをするところが見られる。もちろんそのほとんどは子どもたちがかかわっているが、こうした飾りが小学校や保育園などに見られることはあって、路上で見かけることは、伊那谷ではほとんどないこと。

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古見の正徳年間の石造物

2025-07-25 23:45:56 | 地域から学ぶ

古川寺六地蔵

 

 「古川寺の閻魔王と奪衣婆」において正徳年代の石造物について触れ、「朝日村にはこの時代に建てられた石造物がけっこう多い」と文末に記した。正徳年代の石造物は『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)によると9基あるとされている(172頁「時代別分類表」)。前述の閻魔王と奪衣婆、そして古川寺の如意輪観音に加え、同寺の入口には六面体の六地蔵があり、「正徳五乙未天七月十八日」とある。古川寺にはほかに同じく正徳5年の五輪塔もあり、古川寺だけで5基の正徳年間の石造物が存在する。

 

山形村小坂山口の道祖神

 

 そして実は古見といえば芦ノ久保の道祖神をとりあげないわけにはいかない。この道祖神については「道祖神を盗む①」「道祖神を盗む⑤」で触れた。現在古見芦ノ久保に現存する道祖神は天保14年(1843年)のものだが、その背面には

正徳五乙未年十月卯月建之
寛政七年卯年八月六日夜
小坂村山口御縁想
同歳十一月十三日再建立
天保十三年壬寅年二月七日夜
本洗馬村上村御縁想
天保十四癸卯年四月十五日
古見村蘆野窪講中

とある。ここにも正徳5年(1715年)の銘がある。詳細は「道祖神を盗む①」の通りだが、それ以前にも道祖神があったようだが、正徳5年に双体道祖神を建立した。ところが隣の山形村山口に盗まれ(「御縁想」という)、あらためて建立した道祖神も現在の塩尻市洗馬上町に盗まれたいう。三度建て替えたものが現在のものと言うことで、この正徳5年の銘を刻まれた道祖神がそれぞれの地に残されている。残念ながら山口の道祖神は風化していてそれらしい銘を読み取るのは今となっては難しいが、洗馬上町のものには

古見村芦野久保講中拾四人
道祖神
正徳五乙未十月卯

とあり、現存する芦ノ久保の道祖神の銘文からこの道祖神は寛政7年造立と思われるのだが、その年号はない。ようは山口のものも洗馬上町のものも芦ノ久保にある道祖神の刻銘からその経緯が解るというわけである。

 『山形村文化財調査資料-第2輯-』(山形村教育委員会 昭和47年)には山口の方の言葉が掲載されている。

道祖神は縁結びの神として崇拝していたが、山口には道祖神がなかったので、嘉永年間にどこからか嫁入りさせようと話し合い、現在の朝日村古見より嫁入させることに話がきまり夜、力のある2・3人で背負い乗越(上大池豆沢より古見に通じる峠)を越え、峠の峰には山口中の人の出迎えを受けて嫁入して来た。と祖母から聞かされています

と言うのである。ここでいう「嘉永」は寛政の間違いではないか、というのが同書での説明である。このように古見には正徳年間にまつわる石造物が目立つわけである。

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箕輪町中曽根無縁墓地の十王

2025-07-22 23:02:19 | 地域から学ぶ

 

 箕輪町中曽根の八幡社の東側に無縁墓地と言われている場所がある。石碑が20体近く、東を向いて並んでいる。無縁墓地と言うから墓石があるかというと、墓石はわずか。この中に十王像が紛れ込んでいる。箕輪町歴史同好会による『箕輪町の石造文化財』(平成15年)によると、町内には十王の遺物が3箇所にある。十の王が勢ぞろいしている例はなく、かろうじて残った数体をもって「十王」としている。

 八幡社東の無縁墓地には前掲書では人頭丈を含めて3体と数えているが、写真を見てわかるように最低4体は十王と見える。もう1体は人頭丈である。2枚目の写真を見てもらうとわかるが、右端の列前から3体目が人頭丈であり、その前2体と右から2列目の前から3体目、そして右から3列目の前から2体目は、明らかに十王の一部の像と考えられる。

 町内にはほかに富田と沢にそれらしい遺物があるが、ここのものが最も残存数が多い。

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西洗馬血取場の馬頭観音群

2025-07-19 23:10:40 | 地域から学ぶ

 

 朝日村西洗馬の「愛ビタミンロード」沿いの三叉路に石碑群がある。かつての血取場だからすべて馬頭観音である。数にして40基近く並んでいるが、主尊と思われる「馬頭観世音」文字碑が高さ1メートルを越える石碑だが、あとはみな小さなもの。江戸時代後期の1800年ころからの馬頭観音が並ぶ。特別なものはないが、小ぶりな馬頭を載せた観音像群に目が留まった。

 朝日村にはかつて血取場であったと伝わる場所があちこちにある。もちろんそれと思わせる景色は馬頭観音の石碑ぐらいではあるが…。

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流された馬頭観音

2025-07-18 23:57:43 | 地域から学ぶ

朝日村小野沢血馬様の馬頭観音

 

 朝日村小野沢の諏訪神社背後の段丘上に「血馬様」(ちばさま)と呼ばれている場所がある。馬頭観音の石碑群がある場所でかつて血取場があった場所。馬頭観音の石碑群はほとんど「馬頭観世音」などと文字を彫った物だが、並んでいる石碑の中ほどに1体、像を彫ったものがある。だいぶ摩耗していてはっきりしないが、馬頭観音である。南向きに並んでいる石碑群であるが、南側に木々があって日陰になっていて碑の正面は道に対して背を向けていて、言ってみれば陰に隠れている。背を向けていたから気がついたのは、その背面に文字が刻まれていたこと。

当初橋場ニ建立明治十八年七月大洪水ノ際流失
明治四十五年六月廿三日鎖川瀬中ヨリ発見改メテ
當所ニ再建             村中

とある。明治18年の洪水で流され、27年後に鎖川で発見されたというわけだ。

前面に「文久三亥五月□□」とあるようだが(『朝日村石造文化財』)、「文久三」まではわかるがあとははっきりしない。補助光で陰影をつけてみたら、確かに「文久三亥五月」まではっきりする。逆に「文久」」から少し離れた上部にも文字らしきものが浮かぶがはっきりしない。これらは像向かって右側に彫られているものだが、左側にももしかしたら刻字があったのかもしれないが、摩耗していてわからない。

 さて、近くで働いておられた女性に声をかけたことで、ここが「血馬様」と呼ばれていることを知った。驚いたのは話しているとその女性がかつて民俗の会で活躍されていた先生の家の方だったこと。声を掛けてみて良かった、そう思ったわけである。

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光輪寺薬師堂の大日如来

2025-07-17 23:48:12 | 地域から学ぶ

光輪寺薬師堂

 

薬師堂庭 大日如来

 

 昨日触れた西洗馬にある光輪寺薬師堂は、県宝である。宝暦10年(1760年)に建立と言われる茅葺屋根の建物で、見た目でも痛みが目立つ印象。Wikipediaには「昭和初期までは松本盆地一帯に「西洗馬のおやくし」として知られ、堂前から松本市今井の今井神社まで延びる旧道沿いには、薬師堂への道を示す石標が多数現存する」というからいずれそれら石標も見てみたい。

 薬師堂の庭に一風変わった石仏がある。V字型の台石に載せられた智拳印を結ぶ大日如来である。像そのものは小さな石仏だが、台石が目立つ。その前面には銘文があるが、自ら読み取ることはあきらめ、『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)から引用させてもらう。

(梵字)アビラウンケン
願主大阿闍利法印深覚
三界万霊 栄賛
有縁無縁 □右エ門
貴賎霊等 権三郎
皆成仏道 半兵衛
     権之助
     九之亟
     お女郎
     兵九郎
     母女
(梵字)キャカラバア
人足八十八人西洗馬村
元禄三年八月廿五日

「アビラウンケン」は胎蔵界大日如来の真言の意を示し、「キャカラバア」は真言密教において森羅万象を構成する要素である地・水・火・風・空を表す。

 薬師堂周辺には多くの石仏があり、石仏については長く意識してきたつもりだったが、光輪寺にこれほどたくさん石仏があることは知らなかった。大日如来の造立年である元禄3年は、1690年にあたり、薬師堂周囲の石仏は同年代の古いものが多い。先日触れた閻魔王も元禄3年であり、8月24日だったからこの大日如来とは1日違いである。朝日村の石造物を見ていると同じようなケースに遭遇し、ちょっと驚いている。

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木曽路を走る

2025-07-16 23:56:10 | 地域から学ぶ

 何度も足を運んでいる朝日村。グーグルマップで検索すると伊那から高速道路経由で50分ほど。条件を高速道路不使用にすると、権兵衛トンネル経由で60分ほどと表示される。高速道利用と距離は同じくらい。ただし、善知鳥峠経由となると、その距離は10キロほど短くなるが、時間的には権兵衛トンネル経由が数分早い。数分レベルだから、距離の短い善知鳥峠越えの方が安上がりかもしれない。ただ信号で止まることが少ない権兵衛トンネル越えは、気分的には良いルートであり、以前から中信地域に行く際にはよく利用していた。したがって朝日村へは権兵衛トンネル経由を繰り返している。

 実は権兵衛トンネルを抜けると、すぐそこを奈良井川が流れている。奈良井川は日本海に流れ下る水が流れている。ようは伊那谷から見れば正反対のエリアである。しかし、トンネルを抜けた地は「木曽」である。ところが平成の合併で塩尻市になってしまったため、しだいに「木曽」という印象は薄らいでいる。とはいうものの、下れば奈良井宿。漆器で知られた地であり、けして「木曽」ではないという人はいない。これが知名度の低い地だったら、また違っただろう。「木曽谷」と「木曽路」があり、Wikipediaでは前者について

木曽谷―木曽川上流の流域を表す名称。長野県木曽郡の全域(上松町・木曽町・南木曽町・王滝村・大桑村・木祖村)および岐阜県中津川市の一部(旧神坂村および旧山口村)に該当する。

とあり、後者については

木曽路―中山道の一部で、「是より南 木曽路」の碑と「是より北 木曽路」の碑の間を指す道の名称と、その周辺の地名。1948年(昭和23年)5月31日までの木曽郡(西筑摩郡)にあたり、現在の長野県松本市の一部(旧奈川村)・塩尻市の一部(旧楢川村)・木曽郡の全域(上松町・木曽町・南木曽町・王滝村・大桑村・木祖村)および岐阜県中津川市の一部(旧神坂村および旧山口村)に該当する。

とある。ようは木曽谷は木曽川流域だが、木曽路は奈良井川流域と奈川流域が加わる。この旧奈川村が「木曽路」というのはあまり認識がなかった。昭和23年まで旧奈川村は西筑摩郡だった。現在この名称の郡域はなく、現在の木曽郡にあたるが、群名が変更されたのは昭和43年とまだ新しいこと。昭和23年に奈川村は南安曇郡へ変更された。したがって南安曇と認識して長いわたしにとっては木曽郡のイメージはない。

 

「是より南木曽路」

 

 さて、1500メートルほどある桜沢トンネルが開通して以来、国道19号を走っていても木曽路に入ったというはっきりした境界を意識することがなくなった。桜沢トンネルの北側で奈良井川を国道19号は渡るわけだが、塩尻から木曽へ向かう際にその橋を渡らずに「桜沢」の信号を左折すると国道19号の旧道に入る。入ってすぐに道の上に「是より南木曽路」の看板がある。かつて国道を走っていた際には「ここから木曽路」とはっきりわかったわけである。この看板の先、道の右手にWikipediaにもある「是より南 木曽路」の碑がある。脇には「縣立長野圖書館長 乙部泉三郎書」とある。背面にも銘文があるのだが、足場が悪く容易には全容を撮れなかったが、「歌ニ繪ニ其ノ名ヲ知ラレタル木曽路ハコノ櫻澤ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十餘里ナリ 紀元(皇紀)二千六百年正月建立」とある。昭和15年に建てられたものである。ここから鳥居トンネル北出口手前まで、権兵衛トンネル越えの道は、木曽路をおよそ12.6キロ、時間にして12分ほど走ることになる。

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光輪寺薬師堂の閻魔王と奪衣婆

2025-07-15 23:14:29 | 地域から学ぶ

閻魔王

 

奪衣婆

 

 古川寺の閻魔王を見ていると、今風の閻魔王と印象がある。十王の一つとして造られる閻魔王は、ふつうはそれとわからないことが多い。もちろん伊那谷の十王を見ていての経験だが。ところがこの閻魔王は、どう見ても閻魔様だ。正徳6年という1716年において、これほど閻魔様っぽい像が造られていたことに意外と思うのだが、実は近在にもっと古い閻魔様がある。旧波田町の上波田にある。もちろんわたしの日記で既に触れていて、2016年6月7日の「上波田へ」がそれである。仁王門の近くにある線彫りの閻魔王は、天正2年銘がある。天正2年といえば1574年で武田信虎が死んだ年だ。

 さて、朝日村にはもう一箇所、閻魔王と奪衣婆が並んで(間に青面金剛を挟んでいるが)安置されている場所がある。西洗馬にある光輪寺で、古川寺と同じ真言宗の寺である。『朝日村石造文化財』(朝日村教育委員会 昭和53年)に掲載されている写真はそれとはっきりわかる写真だが、現在の閻魔王も奪衣婆も一見してすぐにそれとは気づかないほど苔むしている。あまりに陰影がはっきりしないため、少し補助光を利用して撮ったものが写真のものである。閻魔王の向かって左側に銘文が見える。「元禄三年八月廿四日」とあるから1690年である。したがって古川寺のものより30年近く古いものである。前掲書には奪衣婆について銘文の記載がないが、ここにあけだ写真でもわかるように、閻魔王同様に向かって左側に銘文が見える。はっきりしないが、「元禄」の文字が見える。古川寺同様に閻魔王と同じころに造立されたものと思われる。

 実は観音堂の庭にある両者だが、観音堂の脇に小さな堂があり、小窓から覗くと木造十王が安置されている。十王のみ安置されているから表札はないが十王堂ということになるのだろう。堂そのものは割合近年に建てられたもののようだが、小窓から捉えられた十王は下記写真の通り。本当に小さな小窓から覗いたものだから写真写りは悪い。

 

 

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千手観音ではなく青面金剛だった

2025-07-11 23:57:25 | 地域から学ぶ

朝日村下古見阿弥陀堂跡「阿弥陀座像」

 

朝日村下古見阿弥陀堂跡「青面金剛」

 

 最近「十王」に関する原稿をひとつまとめたところだが、実は長野県内の十王信仰の全容にも触れようと思っていたのだが、そこまでたどり着けず、今少しずつではあるものの、県内の十王についても調べているところ。どうも伊那谷ほど十王信仰が盛んなところは県内にはないようだが、以前栄村の十王堂について触れたとおり、栄村の志久見川沿いの集落には十王堂が多く、十王が残されている様子がうかがえた。けして無いわけではなく、十王の存在はそこそこ認められている。そして現在、松本市立博物館では「地獄の入り口―十王のいるところ―」をテーマにした特別展が開催されている。もちろんそこでも十王が触れられていて、松本と言えば城下の入り口に十王が祀られていたことでよく知られている。

 さて、今盛んに訪れている朝日村には「十王」というものは存在しないが、関係するものとして奪衣婆が単独で残されている事例か見られる。そのひとつである下古見のかつて阿弥陀堂があったといわれるところに奪衣婆があると『朝日村石造文化財』で知り、ちょうど近くを歩いたため訪れてみた。前掲書は朝日村教育委員会が昭和53年に発行したもので、刊行時期としては県内では早い方のものである。したがってほかの石造文化財の報告書に比べると構成が独特である。写真とともに銘文などが併記されていて、一覧表とはなっていない。またとても珍しいのは、その解説内に石質が加えられていることだ。近年自然石道祖神に関係してその石質について注目していただけに、石質を示した報告書に初めてお目にかかって驚いた次第。

 下古見の阿弥陀堂跡にあると言われる奪衣婆を求めたわけであるが、そこには奪衣婆らしき像はなかった。別のところに移動されてしまったのかどうかは定かではないが、その代わりに石造の阿弥陀座像があった。記載間違いかとも思ったのだが、前掲書に掲載されている写真とは異なる。明らかに現在あるものは阿弥陀座像であって、前掲書の写真は奪衣婆である。そもそもこの阿弥陀堂跡にあると言われるほかの石造物はすべて揃っていたが、奪衣婆だけは違っているのである。加えて前掲書にはけっこう記載間違いが多く、このことはかつて「銘文の引用という迷路・後編」で触れた。同じ上古見にある道祖神の銘文について触れたものであった。今回の阿弥陀座像の記載はないとともに、ここにある青面金剛像について前掲書では「千手観音像」と紹介している。紹介されている像の銘文として「元禄十四年十二月八日 古見十二人有志」と紹介している。実際は青面金剛であり、銘文は「元禄十四辛己天十二月八日 古見村施主十二人」とある。ほかにそれらしい千手観音があるのか、と探したものの、それらしいものはなく、おそらく前掲書で触れている千手観音が青面金剛であることは確かなよう。

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新山奈良尾の十王像

2025-06-13 23:07:02 | 地域から学ぶ

閻魔王                 都市王

司録                 奪衣婆

 

 伊那市新山の奈良尾会所は、最近建て直されて新しい。『伊那市石造文化財』(伊那市教育委員会 昭和57年)に「奈良尾公民分館前」と記されていてどこかはっきりしなかったのだが、それらしい場所を訪ねたら見つかった。奈良尾会所の裏側、道の上の高いところに堂はある。堂といっても昔の姿ではなく、先般紹介したプレハブ十王堂のように、十王像を納めるために造られた倉庫のようなもの。一見犬小屋かと思わせる堂は、前面を格子戸で囲ってあり、もちろん鍵が掛かっているから直に触ることはできない。地蔵、十王、司命司録、奪衣婆、人頭杖、鏡とほぼ一そろいである。司命司録は一般的には1体に両者が彫られている例が多い。しかしここの司命司録は、それぞれ単独の像である。はっきりはしないが、人頭杖の両側に立つ地蔵像にも似た像が司命司録である。とくに司命は、右手に筆、左手に巻物を持つとされる。ここのものは地蔵にも見えるが、それらしくも見える。

 人頭杖のみ石質が少し異なるが、火山岩であることは違いなく、ほかの石造は安山岩である。像容としては稚拙さを抱かせるが、閻魔王だけはそれとすぐわかる顔立ちである。そして奪衣婆もほかの石像に比較するとずんぐりむっくりしていて少し異なる。

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