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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盃状穴 再々

2024-07-24 23:17:14 | 民俗学

 かつて長野県民俗の会で『長野県道祖神碑一覧』を発行した。平成30年だったからもう5年以上前のこと。その後その一覧から派生した自然石道祖神への視線は、いまもってわたしの中では大きな課題となって追い続けている。最近記した西内や武石の道祖神はそうした意図をもって尋ねたものだ。何より東信地域の道祖神については、主たる引用文献が小出久和さんが著された『信濃路の双体道祖神』(敬和 2003年)であって、タイトルの通り双体道祖神ががまとめられたもの。したがってそれ以外の道祖神についての情報はなく、東信地域の道祖神一覧はごく一部に過ぎない。道祖神といえば人々の視線は双体道祖神に向きがちで、そのイメージとして確立されている。絵にならないから文字碑は見捨てられ、それ以外の道祖神も注目されなかった。なぜ東信地域では他の地域のような石造文化財報告書が作成されなかったかはわからないが、それを補うように岡村知彦さんという方が東信地域の道祖神に限らずすべての石造物を悉皆的に調べられてまとめられている。ところがそれらの多くは私家版として印刷されているが、閲覧は容易ではない。なにしろ10部しか印刷されていないから、限られた図書館にしか蔵書として置かれていない。ようはわたしの周囲で閲覧することはできない。ところがその岡村さんの私家版にも、自然石の道祖神しか無いような場合は一覧化されているが、付属物は一覧化されておらず、コメントもされていない。ようは東信地域の道祖神の実態はよく分からないのである。まだ未見であるが、同氏が昨年発行された『東信濃の道祖神』にどこまで書かれているのか、いずれ閲覧したいものである。

 さて、とはいえ『長野県道祖神碑一覧』を見ていて、備考欄に興味深いことが記されていて注目している。ひとつはは盃状穴である。道祖神の盃状穴については、最近では西内に関連して「盃状穴のある双体道祖神」で松本市三才山小日向にある双体道祖神の上部にそれがあったことについて触れた。伊那市下新田でも同様の道祖神を見ており、やはり子ども達にとって道祖神が身近な神様であったことがうかがえる。東信地域の一覧にそれらしい道祖神がいくつか記されており、以下の道祖神にそれらしい記述を見る。

①上田市上堀 双体像 「頭部損傷幾つも穴」
②高森町下市田四区南沢会所裏 文字碑 「周囲の石垣に子どもが削った穴」
③坂井村安坂中村 文字碑 「前の凹んだ石があり、かつてこの凹部で子どもたちが草餅をついて供えた」
④大町市平源汲下原 双体像 「上部台石に凹穴」

 ①が盃状穴かどうかはこれだけでははっきりしないが、ほかの3例は盃状穴と思われる。本体に盃状穴を作ることもあるが、周囲にそうした石が存在するというケースは、道祖神に限ったことではない。ただ、道祖神が子どもたちにとって身近であったという証ともいえる。


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