Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ケチな本屋

2006-01-15 00:13:35 | つぶやき
 以前は本屋に行くことが楽しみであった。そりゃあそうだろう、本を買うのが趣味みたいに思っていたから。その趣味も今はわたしの趣味ではなくなった。原因はお金がないからだ。ほしい本もずいぶん悩んでは買うようになり、今ではほとんど買いもしなくなった。書斎に並んだたくさんの本の中心は地域の郷土本や、歴史や民俗系の専門書であり、本屋で買った文庫本などが混ざる。そんな本もあまり大切に思わなくなった。けっこうこんな具合に、コレクションすることが楽しかっただけなのかもしれない。だから、つまみ読みだから、本すべてを読んだわけではない。そんな余裕もないくらい、本を買ったころは仕事が忙しかった。「あとで読むかもしれない」と思って買うが、並べているだけである。このごろはデジタルデータの方が応用性があるから重宝する。昔なら本の形をしていることで、価値があったように思ったが、そんな価値観を認めてくれる人は皆無の時代となった。
 にもかかわらず、昨日も飯田の方へ行ったが、混雑しているのは本屋である。昔はそれほど大規模ではないが、そこそこの大きさの本屋というものがいくつかあった。しかし、そうした本屋も集約されていって、今では独占的な状態で、ある書店だけが残っている。飯田市から始まって、今では全国的にチェーンを結んでいる平安堂である。平安堂圧倒的かと思われたころから、ほかのチェーン店が入ってきたりしたが、飯田下伊那ではそうした店も長くは続かない。
 本は安売りということをしないから、ある意味計算できる。そして、安売りがないから競争というものもない。とすれば、郊外型で、駐車スペースを持ち、品数が多ければ人は集まる。現在の書店の形態をみると、地方ではそんな店が主である。ところが、もうひとつ形がある。それは、総合店舗として客を呼び込む大型店の中にある書店である。こうした書店はスペースは小さいが、家族で買い物をするのがあたりまえのようになった今では、時間調整としてのスペースとして、誰もが利用する。だから、品数は少なくても、立ち読みに絶えられる品があり、ついでにちょっと読んでみようと思うことができる新刊、話題の本を並べればよいから、大規模店より商売にロスはないかもしれない。もちろんコンビにで本を売るのも、この形に入るだろう。コンビニの原点にも、本は欠かせなかったに違いないし、安売りがないことが、逆にどこで買っても同じという印象を与えて、書籍専門の大規模店もかなりきついにちがいない。それでも大賑わいの本屋なのである。前者の場合、本に付属して総合商品を扱う、あるいはそうした店を隣接させれば、さらに人を呼ぶことができるだろう。そんな意味で、たとえば安曇野市の長野自動車道豊科インターの出口にある店舗街なんかは、その典型なんだろう。
 ところで、安売りがないから「ケチ」さは大したものである。初売りなんていっても、ほかの店舗ならさまざまな工夫を凝らすが、本屋はほとんど通常と変わらない。それでも人は元旦からたくさん入る。平安堂のように地域を独占していけば、もう少しお客への還元があってよいと思うのだが皆無に等しい。それでも本屋といえば、それしかないから嫌でも行かざるをえない。安売りをしないんだから、もし同店の息がかかっていない本屋があったら、そんな本屋で本を買ってやってほしいと思うのはわたしの気持ちである。
 昨日も、久しぶりに平安堂に寄ったが、このチェーン店、なにしろ書棚の模様替えが頻繁だ。前はここにあったと思っていた本が、次に行くと場所が変わっている。だから、毎日行っていればどうということはないが、期間をあけて訪れる者にとっては不親切きわまりない。そして、ケチなだけに、売れない本、マイナーな本は置かないし、どんどん姿がなくなる。
 ここ2年ほど、赴任先での通勤途中にも本屋はあるが、小さい店だと新しく入る本は限られている。だからといって、わざわざ郊外型店舗や、町の中にある大規模な店に足を運ぶほど気力はない。そんなことも、本屋から足を遠ざけている。
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