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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

三つの神社を祀るムラ

2006-01-02 16:29:38 | 民俗学
 隣組の新年会で話題になったことがあった。我が家では元旦に三つの場所へ初詣をする。ひとつは地元にある天神さんで、明治年間に建てられた小さな石碑である。小学校の地域のPTAで、毎年2月末ころに天神祭りをするのだが、中学になった今も、一応お参りをしている。天神祭りにいつも子どもたちがお参りしてはいるものの、あまりに目立たない小さな石碑ということもあって、お供えを供えてお参りするのは、我が家くらいである。二つ目は、地域の3つので祀っている産土さまである。そして三つ目は、いわゆる初詣で賑わうメジャーなお寺である。この二つ目の神社は、三つの、約200戸で祀るお宮で、最近痛みが激しいということもあって、数年前、改修するのか建て直すか議論されて、結局建てなおすために積み立てを始めたばかりである。しかし、年寄りだけの世帯もあったり、過疎が進む地域だけに、その負担はけっこう大変だと、みなが認識している。
 そんな状況にありながら、この地域は、地元の産土さまとは別に、下にある三つの集落が祀っている神社の氏子にもなっている。その神社には、それぞれのでそれぞれの神社をもつもう二つのも加わって、合計八つの集落で神社を祀っているのである。わたしの地域の三つので祀る神社をA神社とすると、隣接する一つののB神社、さらに隣接するひとつので祀るC神社があるのだが、さらに隣接して三つのが祀るD神社をABCというそれぞれの神社を祀る氏子が加わって祀っているのである。ABCDそれぞれに獅子舞などの芸能が奉納されているが、それぞれの神社を持つABCはそれぞれのの氏子がそれぞれで奉納し、D神社はABCにかかわらない、Dだけにかかわる氏子が奉納しているのである。もちろん、氏子総代や祭典当番というものは、八つのにまわってくるのに、身近な神社という感覚でいくと、D神社は、ほかのABCの神社を持つ人たちには親近感が持てないのである。簡単に言うと、よそので祀っている神社の氏子になぜかなっていて、奉仕をするものの、自分たちは自分たちの神社にも奉仕しなくてはならないのである。
 前述したように、もしD神社が傷んだからといって、改修なり改築するとなれば、地域の神社の改築にさえ負担を感じているのに、大変なこととなるわけである。まだこれだけならよいのだが、この地域には御柱祭というものがあって、6年に一度は御柱祭を行なっている。この神社は、ふだんは小さな一つで祀っているのだが、御柱祭には、周辺にある旧7か村という広範囲の人々ががかかわって祭りが行なわれる。ということは、わたしの住む地域は、三つの神社の氏子になっているのである。
 話題になったのは、集会施設が古くなって、この先どうしたもんだろう、という話をしているなかで、このごろ神社の積み立てを始めたばかりだというのに、集会所まで負担するのは大変だということだった。そして、よく考えてみれば神社も一つではないということになったわけである。いくつもの神社を祀ることになった要因に、この地域の集落のでき方がかかわっているようで、歴史がある。そんななかで、わがを含めた三つのの見栄のようなものが、今の不自然な氏子形態を生んできたようである。今となっては、それが負担となっているわけである。
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