Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

合併ふたたび

2006-01-13 08:18:44 | ひとから学ぶ
 katacha67さんのブログで盛んに合併問題を取り上げているが、ここでふたたび合併について触れてみる。katacha67さんは、「住民にわかりづらい課題であればあるほど、公選職は自ら地域の住民に説明を行い、自らの耳で住民の意見を聞き、わかりづらい課題を前にした住民の不安をできるだけ取り除く努力を行い、政治的な判断をきちんと行うべきだと思う。そうした手続をきちんと踏んだ上で、市町村合併の適否に対する住民投票は、最終段階の住民との合意形成作業としてありえると考えている。」という。わたしはいまひとつこの文の意味が理解できないのだが、「政治的判断」は、住民への説明、そして意見をうかがって合併するかしないかを公選職が判断する、という意味なのだろうか。とすると、住民投票が合意形成の手段ということになるのだろうが、政治的判断がされているのなら、住民投票はしなくてよいのではないだろうか。上伊那南部3市町村(駒ヶ根市・飯島町・中川村)長が、合併協議に際し、住民投票は必要ないと判断し、住民投票ではなく、意向調査を行なった(中川村では盛んに住民投票を行なうようにと住民が署名活動をおこなっていたが実現せず)。この場合、公選職が前述の意図に沿ってそう判断したのかそのへんをわたしは認識していないが、結局その意向調査の結果において反対数が多かったため、合併協議は不成立となった。もしここに政治的判断がなされて意向調査が行なわれていたとしたら、その調査の意味は何だったのだろう、ということになりはしないか。意向調査であろうが住民投票であろうが、公選職はその結果が出ることに怯えていただけなのだろう。果たして住民が合併の可否に対して投票を行なうということはどういうことなのか。そして、それを行なう必要性、いつ行なうのか、など考えれば考えるほどに住民にはわからなくなる。お役所が本音を言わない、いや言えない立場ということもあるのだろうが、だから住民も想像しかできない。くどいように言うが、そんな環境にあって、可否を選択することじたいが危険ではないだろうか。
 だれだって今までの環境が変わることには不安が多い。近ごろ転職に対する考え方がまとめられて新聞記事になっていたが、これほど終身雇用が崩れているにもかかわらず、転職には不安を感じ、今の職場にいたいと思う人は多い。当たり前といえば当たり前なことで、環境が変わることにはリスクが大きい。転職でなくとも、転勤することへの不安は大きい。たとえわたしのように嫌で単身赴任していても、その職場に慣れてくると、次の転勤に対しての不安というものは生まれてくる。人は、それほど変わることに不安を感じる。そんな視点で合併問題を見てみれば、そこに金銭的な、あるいはさまざまなメリットを見出している住民ならいざしらず、違う環境を強いられることを望んで選択する人はいないだろう。
 さて、長野県では合併に対してはそんな環境変化に対しての不安が大きく、比較的反対論者が多い。そういう感覚は全国的なものかと思うと、そうでもなさそうだ。一昨日の朝日新聞「私の視点」で、千葉県本埜村長が記事を載せている。「例えば本村が合併相手に擬す隣接市は、千葉ニュータウンの開発で店舗の進出が相次いで地方交付税不交付団体になるなど財政力を強めているが、開発が遅れた本村などは交付団体。財政力の強い団体が弱いところを受け入れるには、市民に説明する大義名分が要る。それが見つからないために、なかなか合併協議に入れないでいる。」という。ちょっと長野県内の感覚とは違う。①として地方交付税不交付団体などというものは、長野県内には軽井沢町くらいしかない。今年から南佐久郡南相木村がその団体に仲間入りするという話題が先日流れていたが、財政力が低いところばかりであり、交付税頼みの地域ばかりだ。その環境がまず違う。②としてこの本埜村のように八千人規模の村が、そうした不交付団体と一緒になったからといって、どれだけ不交付団体の負担になるというのだ。どこか不交付団体の権力誇示に見えてならない。長野県の場合、よほど再建団体寸前というほどに財政力が低い自治体ならともかく、一般的には、大きな団体に小さな団体が協議を申し入れれば、協議会が編成されている。この本埜村長の訴えからは、そんな長野県のような雰囲気はなく、不交付団体への合併協議もままならないようだ。そして「格差を是正し、地域全体の平準化を図るのも県の役目だ」と述べ、県知事の合併勧告があってよいのではないか、合併はある程度強制してもいいのではないかという。積極的な合併推進への政治的判断を望むというのだ。
 行政にいて、住民のために考えているのなら、行政がその判断においてどうすることがベストなのか、というものを自信をもって提示するべきだろうし、その反面、住民はコメントやアイデアを出すことはあっても、プロが判断したものに可否の判定を突きつけるのはお門違いではないのかと少しではあるが思う。もちろん、行政のプロとして判断する力量があることは当たり前であるが。

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3 コメント

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うむ・・・・するどい! (BLs)
2006-01-13 22:37:20
やはり民俗学の好きな方は、繊細な洞察力をお持ちですね。なかなか鋭いです。trx_45さんが以前、公務員の「いろいろな人がいます」と言われたように、各自治体も一人の人間のように様々です。私の住む町は否合併によって遺恨を残しましたが、たとえば四国の今治市などは、旧今治市長の強い責任とリーダーシップの上で将来への理想的な合併を実現したと聞いております。http://www.city.imabari.ehime.jp/gappei/

ここには、また改めて感想をコメントします。katacha67さんの所にはコメントしておきました。
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少しだけ補足 (Katacha67)
2006-01-15 17:23:51
私のブログのそれこそ「わかりづらい」記述については、文章を書く力の無さゆえご容赦願いたいのですが、言いたかったことはtrx_45さんの解釈のとおりです。

「行政がプロとして判断する力量」についてですが、役所という組織自体が備えていなければいけないプロとしての実力(幹部職員を筆頭にした職員力の結集だと私は思っているのでその点については日々努力したいと思って取組んでいるところですが)が基礎となるものの、力量の発揮という点では選挙で選ばれた首長のリーダーシップやもう一方の公選職である議会のリーダーシップというものが大きく影響を与えるので、住民に対し行政のプロとしてそのベストな判断を示せるかどうかという点では、公選職次第だと思っています。そういう点で課題があるとすれば、公選職は選挙で選ばれるので役場側の問題だけでなく地域全体の課題だというふうに感じています。

「最終段階で住民投票」の意味については補足させていただきたいのですが、trx_45さんやBlsさんの指摘されたことが改善された上で(例えば住民に対し公選職を含めた行政がプロとしての判断(合併する・しない)を提案説明し、住民の質問に答え住民の意見を聞くなどする。ほかにも手続き的には地域によって色々なパターンがあると思いますがとにかく時間的にも量的にも十分な説明や議論の手続きが行われ、行政が合併する・しないという方向性の最終的な判断を示した上で)、住民としてその行政の判断を「認めるか・認めないか」の確認作業の手続きとしてありえるという、一つの考え方なのです。



実態とあっていなければ、実行できないのであれば、残念ながら理想論にということになるのかもしれませんが・・・。

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結局自治とは (trx_45)
2006-01-15 18:37:09
 Katacha67さんのいう「公選職は選挙で選ばれるので役場側の問題だけでなく地域全体の課題」というところは、実は自治の根底になるでしょう。この程度によってその地域のレベルが見えてくる。プロがプロとして結論を出したとして、その説明がうまくできないのはプロの責任かもしれないが、住民の側にもそれを受け入れるだけのスペックがあるかないかということが将来を決めるように思う。そういう意味では、地域ごとさまざまな人間関係や、それまでのしがらみがあるから、田舎はなかなか難しい。だからといって、よそ者の毒舌者がヒーローのごとく現れるのことを期待してもいけない。

 結局住民は年代から考えからさまざまとなるから、今までの生き方がこうした重大事のときに左右することになる。ある意味騙されることも必要なのかもしれない。いや、騙すことだろうか。
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