Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

教育懇談会から

2006-01-23 08:16:52 | ひとから学ぶ
 21日、地元の町で○○子育て・教育懇談会というものが、同会主催、教育委員会後援という形で開かれ、妻が聞きに行ってきた。話題提供者の先生は、不登校の子どもたちの相談役になったり勉強をボランティアで教えていたりする。もともと妻の父親の知人ということもあったり、息子がいじめられていた時に相談に乗ってもらったりしてお世話になっていた。その後も不登校ではないが、勉強を教えてもらいに毎週通っている。そんな縁もあって妻は参加したのだが、この先生の話を聞くのは、2回目である。以前聞きに行った際も、参加者は少なかったので、今回もきっと少ないだろうという予想で行ったようだ。行ってみて気がついたことは、教育委員会が後援とはいうものの、教育委員会の関係者はおらず、やはり一般の参加者は10人余程度だったという。主催者側関係者がそこそこいたので20人くらいはいたようである。そこで知ったことは、主催者側の母体は「憲法9条を守る」人たちで、簡単にいえば共産党関係者と等しいようだ。後援として教育委員会がかかわってはいるものの、共産党関係ということが足を遠ざけているようにも思う。むしろそうした教育の場の関係者がいないというシチュエーションもたまには大事かもしれないが、いっぽうで教育関係者には、本当に悩んでいる人たちの生の声を聞くには、よい機会といえるのかもしれない。
 わたしは共産党とは縁もないが、その行動や考えについて共感する場面も多々ある。ただし、党として締め付けるというケースは、自民党などと同様に共産党にもあり、そうした締め付けの雰囲気を漂わせる主張をするときは、唖然とすることもある。まあ、そうしたイメージはともかくとして、今回は共産党主催ではないのだから、そこに集まる、あるいは主催する人たちで他人がイメージを作ってしまっているとしたら、それは残念でならない。地域を、子どもたちをどうしたらよいかということは、そうしたイメージを抜きにして、さまざまな場面を提供して考えていかなくてはならない、社会の第一の問題ではないかと思う。
 さて、妻からその内容についてすべて聞いたわけではないが、話題になったことについて触れる。
 ①かつては、中学で不登校になっても、高校に行って再び学校でがんばろうと、入試に向けて努力する子どもたちがいたという。ところが、今の16歳くらいから変化が現れているという。高校に行ってがんばろうと思っても、入試が近づいて、その現実が間近に迫ってくると、高校に行ってもまた不登校になってしまうのではないかと、不安が大きくなってがんばれなくなっているようだ。
 ②学校に求められていた人間関係の形成という部分が機能しなくなった。そしてもうひとつの機能である勉強という部分ができない子どもは、学校へ通う必要性を失っている。
 ③子どもたちが少なく、地域で人間形成を育むことができなくなった。「○時になりました。小中学生のみなさんは遊びを止めて、家に帰りましょう」と防災無線を使って流しているが、遊んでいる子どもがいない。
 ④先生が子どものころは、天竜川で泳いだ。その際、波に乗って泳ぐことを教わった。泳ぐ場所が10段階に分かれていて、段階が上がるごとに難しくなる。4段階目入るときは、一人では泳いではいけないと決められていたという。そしてその際には、慣れた子どもが先に泳いで、それにならって泳ぎ始める。すると、あとからも一人泳いでくれて、先生をはさむように泳いでくれる。初めてということで水を飲んでしまったりして溺れそうになるが、「俺たちがいるぞ」という感じに守ってくれるおかげで安心できたという。
 ⑤④につづくが、正月飾りを焼くホンヤリの準備は、そうした子どもたちによって準備され、自分たちではできない紙の飾りだけは、大人に頼んで切ってもらった。そうした大人に頼みに行くのも子どもたちで、作ってもらったらお礼をしなくてはならないということを、認識していたという。すると、各家から米ひとつかみ持ってくるようにと上級生が指示して、それを集めてお礼に渡したという。

 ③の話を聞いて妻とこんな話をした。あの放送はどこがしているのだと。すると妻はほかの村でも流しているから、県の教育委員会が指導しているのではないかという。確かに子どもたちが遊んでもいない空間に放送だけ流れるのは滑稽でならない。ましてや、中学生は部活、そうでない不良たちは聞こえるところにいはしない。
 ④や⑤は、子どもたちが自ら決め事をし、またそれを教わっていくという、人間関係を養っていくための機能的な世界がかつてあったことを示している。
 いずれにしても、子どもの世界に多くの問題を抱えながらも、こうした場に人が集まっていないことが残念でならない。妻が言うには、その場に集まった一般の人たちには、不登校の児童を抱える子どもの親もいたという。話題提供後に、意見がいくつか出たというが、かつて息子が不登校であったというおじさんがいて、良い話を聞いたと感想を述べ、よい話なのに参加する人が少ないことを残念だといっていたという。そして、今中学でいじめられているという母親が意見をのべて、そのいじめが部活の内部だと聞いて、妻は「まさか」と思ったという。その予測どおり、うちの息子の部であったのである。相変わらず、お気に入りの子どもを優先させて、好き勝手にやらせている先生にも腹がたっているが、そんな空間にいると、人間関係が悪くなるのは目に見えている。やはり参加していた母親の子どもは、かつて小学校のとき、学校を代表するようなスピードランナーのこどもにいじめられていたという経験を持つ。学校は、そうしたヒーローに対して、いじめをしても可愛がることしかしなかったという。本来、人間関係を育む場所である学校が、差別をしていてはどうにもならない。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****