Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

報道のいかがわしさ

2006-01-12 08:19:23 | つぶやき
 昨夜の報道ステーションにおいて、豪雪により孤立する集落に入ってのリポートがされていた。長野県飯山市の体育館倒壊の報道がされた後に、孤立集落に入ってのリポートへと続くのだが、この冒頭の報道で疑問がわいたので、そのまま気になって孤立集落の報道に見入った。何が疑問であったかというと、「飯山市の体育館が倒壊した」という言葉で映像が流されたのだか、説明はそれだけであった。そして孤立集落秋山郷の映像へと移っていく。「飯山市の体育館」とあっさりした説明だと、市の体育館という感じがするとともに、とても大きな体育館なのではないかという錯覚に陥る。そして「それは大変だ」と、おそらく知らない人は思うのではないだろうか。実際は戸狩観光協会が所有する旧小学校の体育館で、小規模であって冬季は利用されていない。報道の事実に間違いはないかもしれないが、どこか豪雪を過大に報道しようとしている意図があるようで、そのいかがわしさがどう展開されるかがわたしの興味だったのである。
 秋山郷へ徒歩で向かう映像が続き、雪崩の起きそうな箇所を映像と言葉で綴っていく。そして、集落に入ると、たくわえは大丈夫なのかというところを聞き取る。そのなかで、家庭の冷蔵庫を開けてもらって、食料が底をつきそうな姿を見せ付ける。さらには、女子高生を登場させ、まるでこれから学校にでも行きそうな姿を映し出し、「学校へ通学しようとしていて行けなくなった」と、さぞつい今しがたの出来事のように女子高生にしゃっべってもらう。孤立してからすでに数日たっているのだから、そのままの姿でずっといるはずもない。わざわざその格好をしてもらったのだろうか。報道そのものは断片的で、報道する側のストーリーがあったのかなかったのか、そんなことはどうでもいいのだが気になってしまう。言葉足らずなのか、それともあまりに意図的すぎるのか、事件事故をあまりにも過大に見せ付けてしまう報道の現実を垣間見たようなきがする。そもそも孤立している集落にわざわざ報道が入って映像を流す必要などあるのか。そして、冷蔵庫の中身を見せたり、女子高生の携帯に入った友達が心配するメールを映し出す必要性があるのだろうか。少し身近であったから、疑わしい映像と悟ったが、まったく知らない人が見れば受け取り方は違うだろう。報道が意図的に表現しようとすれば、いとも簡単にその場の空気とは違ったイメージを流すことができることを知る。いかがわしいといえばその通りだが、日常的に、わたしたちはテレビに騙されているのではないかと、疑いたくなる。しかしノンフィクションであっても、映像編集する側は、意図したものを表現しようとするのだから、考え方によればドラマとなんら変わりないのかもしれない。ニュースとはいえ、いくつもある番組が同じであっては個性がなくなる。つまるところ視聴率をあげるがための、策略なのだ。
 報道に限らず、人々は日々、新たな事件事故へと移ろいでいく。つい先日のことも遠い過去のものとなる。まるで今日の勝者も明日は敗者とばかりに、浮き沈みするさまざまな姿を映し出している。人々がそれを望むから仕方がないが、果たして不幸はどこまでつづくのか、と心配でならない。
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