Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

棟梁送り

2018-06-24 22:18:06 | つぶやき

ネガフイルムの劣化より

 

 この写真はやはりネガフイルムで、35mm判である。初めて買ったカメラ、ミノルタCLEに珍しくネガカラーフイルムを装填して撮影した。ふだんはほとんど白黒フイルムを装填していたのに、なぜかこの時はカラーだった。

 昭和59年4月29日、実家を建て直した際の建て前のもの。ちょうどこの4月に5年赴任していた飯山から自宅に戻った。名目上は兄と父との名義で建て直したわけだが、兄夫婦が家に入るにあたって建て替えることになった。半年ほどかけて建て直された家に入ったのは、この年の秋だったと記憶する。そう考えると間もなく34年となる。フラッシュを使わずに電灯下でそのまま撮影したため、妙に古臭く写っていて、色合いも良くないが、慌てて撮った2枚のうちの1枚である。建て前の後の祝宴の最後に、今ではしなくなった「棟梁送り」の真似事をしたように記憶する。「棟梁送り」とは「三升だる、つかな二重、棟りょうのぼん天、棟に上がったときの草履、その折の法被などを持ち、親類や伍戸の人たちが棟りょう送りをする。棟りょうの家で、持参の酒・さかなで宴を催す。」(『飯島町誌下巻』飯島町 平成5年)というもの。「真似事」としたのは、記憶にはっきりないからだ。しかし、わたしも建築を頼んだ会社までこのあと行った覚えがある。もしかしたら運転手だったのかもしれない。

 写真は「棟梁送り」を前にして、宴の最後に梵天に綱を張って木遣りを建築会社の人たちが歌っていたように記憶する。梵天を支えている一人が兄である。周囲に親戚のおじさんたちの顔が並んでいて、父の姿も…。すでに亡くなった方が何人も写っている。

 

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ネガフイルムの劣化

2018-06-23 23:41:30 | つぶやき

 

 かつて「北信の石仏・後編」で飯山市瑞穂にある万仏山の観音について触れた。弘化3年(1846)に造立されたもので、飯山に暮らした昭和50年代後半には何度となく足を運んだ、わたしの好きな石仏群だった。瑞穂福島地区の上部に福島神社があり、その脇の三叉路に「第一番」が立ち、ここから万仏岩まで三十三観音が建てられた。映画「阿弥陀堂だより」に登場した阿弥陀堂が、この山道の先にある。阿弥陀堂そのものは映画のために建てられたもの。

 この万仏山三十三観音についても、かつて『遙北』第48、49号(遙北石造文化同好会 昭和56年11月29日、昭和57年1月17日発行)へ報告している。

 実は先ごろ触れた「フイルムスキャナー」に掲載した写真を撮ったプラウベル・マキナ67を購入して、始めてフイルムを入れて撮った写真が、ここで紹介するものだ。ブローニー判120フィルムの場合、6×7cm判だと8枚しか撮影できない。この最初に装填したフイルムはネガカラーのもので、飯山市五束の道祖神と、この万仏山、そして豊野観音堂の観音の写真が収まっていた。このカメラを持って万仏山を訪れたのは昭和57年6月12日のこと。

 やはりネガフイルムはポジに比較すると劣化が進む。とくに色合いについては当時の再現が難しく、35mmにおいてはなおさらだ。それに比較するとブローニー判の方が退色は否めないが、かなり当時のままに表現できそうだ。

 ところで、久しぶりにカメラを手にしてみると、フイルムを装填する際の裏蓋の周囲に違和感が。いわゆる内部に貼ってあるスポンジ部が劣化して蓋の周囲に付着しているのである。ほかのカメラも同じように裏蓋を開けてみると、同様にスポンジが劣化して、接触すると指に付着する。知らなかったが、これをモルトプレーンと言うらしい。古くなるとボロボロになり、ベトベトになるという。まさにその症状が、フイルムカメラ全てに起きている。「モルト交換の手順」というものがウェブ上にあった。そこには、

まずは交換するモルトを用意しましょう。新品のモルトはカメラ店や家電量販店などで販売されていますが、とにかく安く済ませたいという場合は100均でも似たような素材のものを入手できます。市販のモルトは修理用にシールのように貼れる糊付けのものや両面テープを使用して貼るタイプのものがあります。

モルト以外で使用する道具は、アルコールやシール剥がし、カッターナイフ、綿棒、両面テープです。これらは「カメラのモルトがどういう状態なのか」、「使用するモルトは両面テープが必要なものなのかどうか」によって変わります。

交換するモルトを入手したら、まずはカメラのモルト状態を確認しましょう。ボロボロの状態なら柔らかいブラシで掃き出します。ベタベタしている場合は、シール剥がしやアルコールを染み込ませた綿棒などで拭き取ることができるので、試してみてください。

市販のモルトは修理用に細かな糊付のものが販売されていますが、両面テープを使用して貼るタイプのフェルトでも代用できます。古いモルトをきれいに取り除いたら、新しく入手したモルトを貼ります。貼る箇所通りにモルトを切り取り、本来モルトが貼ってあった部分に貼り付ければ完成です。

そう簡単ではないようだが、自分でやってみようとは思うが、暇な時間がとれたら、のことである。

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続・傘

2018-06-21 23:07:08 | つぶやき

 以前「」について触れた。会社にやってくる傘売り(傘だけではないが、会社の仲間の中では「傘売り」と表現される。それは皆が「傘」をよく買うからだ)から、以前赴任していた際にも大径の傘を買ったことがあった。最近はそうでもないが、そのころは75センチ以上の径の傘は、そこらではなかなか売っていなかった。もちろん「傘」でも触れたように、空模様に合わせて傘を選択していた。弱い雨なら70センチ程度のもの。雨の量が多ければ75センチのものを使っていた。

 昨年のこと、再び伊那へ異動すると、会社の女性がたくさん傘を手にしてきた。「傘売り」がきていて、300円くらいの傘を大量入手。「何に使うの」と聞くと、「頼まれていたので…」と。安い傘を友人たちにも分けているという。子どもたちも含め、傘は「忘れてくるもの」という意識でしか見られなくなると、安物をたくさん買っておいて、次から次へと下ろしていく。だから「傘売り」が来るたびに、大量買いをしているという。そのいっぽうで、女性の前に座っている長老は、「高いものを持っているから忘れてこない」と真逆な発言をする。常にものを忘れない、そういう意識があれば高価でも安物でも「忘れない」ものと思うが、むしろこの意識は忘れた時の「後悔」の値打ちなんだろう。高価なものを持つことにより、「後悔」しないための心構えをする。酒にのまれるような人でも、けして「忘れない」と実践できるのは、「後悔」へへの思いの強さなのだろう。

 昨年、彼女に刺激され、「傘売り」からさらに大径の80センチものの傘を購入した。5センチ単位で4種類ほどを使いまわしているが、「家」「車」「会社」となるべく1箇所に固まらないように置き傘をしている。ところが先ごろ、出張で泊まったホテルに、見事に80センチものを忘れてしまった。初めて購入した80センチものたったので、少し「後悔」したが、千円もしない傘だったので諦めた。「傘売り」の傘にしては高額な品物だったが、わたしにしてみれば、もう少し高価な傘が欲しい、そう思っている。やはり、あまり安物だと気持ちの入れようが違う。ということで、今週「傘売り」がやってきた。なくした80センチ傘に代わる傘を、再び購入した。

 電車で通勤していた際には、折りたたみを重視して、いくつも使いまわしていた。いざ、という時のために、今も折りたたみはいくつか置いているが、あまり使わない。急な雨のために、常用は1本だけ。もちろん通勤の際に使っているバッグに入れている。傘を入れるためのスペースが確保されたバッグ。折りたたみとはいえ、なるべく大きな径のモノが欲しい。そう思って常用しているものは、三つ折になるタイプのもので、折りたたむと26センチになる(骨長50センチ)。それでいて8本骨のもので、130グラム弱の軽量タイプ。所持している傘の中では最も高価なものだから、常に持ち歩いている。

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いつも通り、新町から中条へ

2018-06-14 23:00:23 | つぶやき

 

 長野での午後からの会議の時は、いつもこの道を利用して長野へ入る。旧信州新町中心街から旧中条村へ通じる、県道信州新中条線である。尾根を越えると旧信州新町から旧中条村へ入る。現在ではどちらも長野市となってしまい、地図上に境界はもう示されていない。旧信州新町側の「上河」バス停のあたりから北アルプスを望むと、畑でおばさんが働いていた。この日は天候が良いこともあって、あちこちで働いている人の姿が見られたが、耕作されている空間は限られている。おばさんの働いていた畑の向こう側もかつては畑だったのだろうが、今や荒れ果てている。このあたりから尾根を越えて、旧中条村へ下るまで、同じような空間が続く。荒れ果てた大きな空間の側らで、狭い畑を耕す人びとも多い。ようは条件が良いところが荒れているいっぽうで、条件の悪い土地が耕作されていたりする。不合理のようにも見えるが、他人の土地を勝手に耕作するわけにはいかないから仕方ないだろう。

 「上河」のバス停に掲げられている時刻表を見ると、午前7時代に1本、8時代にも1本あるが、月曜日と木曜日限定のよう。午後になると、1時代から6時代までそれぞれ1本あるようだが、曜日によっていろいろで、間違えそうだし、「予約」という表示も見えるから、予約がないとやってこないのだろうか。それに(水)と(水以外)という表示があって、注意書きによると、「水曜日のみ運行」と「水曜日は運休」とある。ますます間違えそうだ。

 尾根を越えて旧中条村に入ると、眼前の山々がますます大きく見えてくる。今もって残雪が多いのは、さすがに北アルプスだ。眼前に展開される集落は住良木である。

 

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今年も松尾峡へ

2018-06-11 23:07:30 | つぶやき

 

 今年も辰野町松尾峡のホタルを訪れた。今年は桜も早かったように、何にしても例年より早いのが自然の法則。したがってホタルも早くに飛翔を始め、ピークは例年より1週間から10日ほど早いという。この土曜日からホタル祭りだと言うが、その前にピークを迎えそうだとも。ということですでにピークになりつつある松尾峡を仕事の仲間たちと訪れた。日没から数時間が飛翔時間と言われ、日没に合わせて公園内に入る。ところがなかなか灯りが乏しい。今年は「少ないのか」そう思わせるわけだが、さすがにホタル水路の整備された公園内に入り込むと、それなりに飛翔数はあがる。とはいうものの、昨年の写真と比較するとわかるように、やはり少ない感じだ。もちろん昨年はそういう日に訪れ、今年はちょっと条件が悪かったといえるかもしれない。ということで、数値的に捉えてみる。辰野町のホームページに発生数の一覧がある。グラフは平成22年から今年までのものを示してみた(縦軸は発生数、横軸は日付)。今年が赤い太線。黒の太線が昨年である。昨年訪れたのが6月15日だから、18615匹と昨年のほぼピーク時だった。今年この日の発生数は6115匹だというから、3分の1程度。数値的に見ても少なかったということになる。今年の発生数に近似しているのが黄緑の太線で表した平成28年である。

 

 

 さて、飛翔数が少ないこともあったのだろう、昨年並みの写真にならないため、スローシャッターにすると、目立ってしまうのがホタルではない光。より少なさを印象付けてしまうのは、そうした周囲の灯かりだ。とりわけ南の空を眺めれば辰野の街の明るさが浮かび上がるが、何といっても高速道路にある辰野パーキングの灯かりが目立って明るい。

 昨年はそれほど思わなかったが、こうした灯りが障害になっているようにも思うが、それも致しがたいということになる。の季節だけ何とかならないものか、とはよそ者の考えではあるが、そういう環境にあることは事実。飛翔数が少ないほど、この周囲の灯かりは目障りに感じる。

 ところで、確かに乱舞する光景は目を奪うものではあるが、わたしにとってのホタルのイメージは、子どものころ家の周囲で飛んでいたホタルのこと。その数は乱舞などとはとても言えな。点滅しながら移動しているその光景は、かすかなものであり、か弱いものであった。もちろんたくさん飛翔する空間が昔からあったのだろうが、わたしの家の周囲では、数えるくらのホタルが闇に点滅する程度であった。静寂の空間と表現した方が良いだろうか。だからこそ、それはそのまま火の魂に模されるわけである。ところが今はその空間にも灯りは点滅しなくなった。

 松尾峡のある空間から抜け出ると、もうホタルの灯かりは全く見えなくなる。ホタルの飛翔範囲はかなり狭いということなのか。あれほど大量に飛翔していても、結局一部の空間から抜け出ると、そこは別世界なのである。

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フイルムスキャナー

2018-06-10 23:15:07 | つぶやき

 

 

 今までふつうに使えていたものが使えなくなる、あるいは不具合が発生する、機械が古くなればありがちなことだが、それはあくまでも具体的な不具合の場所があってのことだった。しかし、これまでのそうした常識を覆すような症状が、パソコンには起こる。これまでの機械とは違う、どう言い表す単語が似合うのだろう、パソコンは「パソコン」という異次元のモノだと諭される。

 ちかごろ会社のウインドウズ7搭載機の起動に不具合が多かった。ウインドウズのアップデートに起因するものなのだろうが、同じ7でも自宅のパソコンにはそうした症状は発生しなかった。これまでの機械なら、製造メイカーが後から利用者が意図しない動作環境の変更はありえなかった。ところがパソコン、とりわけОSに関しては自動でこうしたアップデートを知らないうちにされて、それまでの動作が変わってしまうということがある。ライセンスの問題や、サポートの問題で「使えなくなる」、あるいは更新できなくなるというのは、ソフトでも多くなっている。使っていたソフトが知らない間にバージョンがアップしていて、バージョンアップをしようとしたら、すでにバージョンアップサービス期間を過ぎていた、ということもある。かつての機械ならあり得なかったこと。2ヶ月ほど前に購入したデータリンクケーブルが、急にうまく動かなくなった。ウインドウズ10のアップデートがあって以降のこと。そのせいかよく分からないが、どうしてもなくてはならないものではないので、諦めて今は使っていない。そんなことに手間暇かけている余裕がない。パソコンワールドほど、「急に」という単語が似合う世界はない。

 ずっとウインドウズ98で使っていたフイルムスキャナーが、いよいよ思うようにスキャニングできなくなって、フイルムをたくさん保持しているわたしにはどうしても必要と考えて、フイルムをスキャンできる機械を買うことにした。今はかつてほど高額ではないので、踏ん切りはつくのだが、すでに20年近く使っていたのだから「もういいだろう」とは思う。いろいろ考えた末に、専用機ではなく、多用途機で済ますことにしたが、その決定的理由は安さとブローニー判にも適用できるからだった。今まで利用していたものは、35ミリ判に限られた。

 ということで、ブローニー判がスキャニングできればやってみたかったのが、この2枚だ。1枚目は渋温泉のよく知られた地獄谷で撮ったもの。今なら地獄谷の猿の写真は溢れるほどアップされているから、珍しいものでもなんでもないが、これは昭和60年以前に撮ったもの。正確にいつ撮影したものかいろいろ過去のものをひっくり返して調べてみないと解らない。今利用しているデジタルであれば自動的に日時が記憶されるが、フイルムはそうはいかない。もちろんデジタルになる直前に利用していたカメラは、日時をコマ間に記録できるデータパックを装着していたが、時間を重視したので、わたしの場合は日付の記録はなく、時間しか記録されていない。もちろんそれは35ミリの場合であって、ブローニー判には装置はなかった。地獄谷には、飯山時代の忘年会で渋温泉を訪れた際に行った記憶がある。その際に撮影したもの(過去の資料をひっくり返して調べてみたら、昭和57年12月10日に撮ったものだった)。

 2枚目は同じ飯山時代の会社の旅行で関西を訪れた際のもの。昭和58年2月20日から22日まで関西方面を訪れている。午後8時20分飯山発の夜行で関西へ向かった。今はこのような列車はないだろう。京都に21日の午前6時に着いている。駅構内で朝食をとり、市内へ出た。まだ早いということもあって、人通りはほとんどない。写真は清水寺の舞台側から三重塔を撮ったものだ。雪が薄らと積もった日の早朝だった。大昔の写真である。2枚ともプラウベル・マキナ67で撮ったもの。

 

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終わりのない作業

2018-05-26 23:23:32 | つぶやき

 会社から駐車場まで歩いていると、道沿いの空き地の草が刈られ、刈られた草が道に飛び散っていた。この空き地、ときおり車が停められたりしているが、ほぼ何も使われずに広い面積がそのままにされている。比較的市街地に近いこの土地は、周囲に民家が密集しているし、通る人も多い。ときおりこうして草が刈られているが、刈り倒されたままの草が道に風で飛ばされたりすることはあったが、飛び散った草が道に散乱しているのは初めてだった。

 草を刈っても草寄せをしない、この意識は地域性があるかもしれない。日記でも繰り返し触れているとおり、我が家のように高い畦を持っていると、刈りたおした草をそのままにしておくと、法面が脆弱化し、結果的に崩れやすくさせてしまう。したがって草を寄せるのは当たり前の作業だが、平坦地ではこれが当たり前ではない。というものの、かつてのように家畜を飼っていたりすると、草は必要だったから、平坦地でも草は寄せたはず。かつて当たり前だった意識も、環境の変化ですっかり当たり前ではなくなってしまった。今や刈りたおされた草は、ゴミ同然なのだ。我が家ではたくさんの草を刈る空間があるから、すべての草を必要とはしないが、妻は野菜の畝間に刈った草を置いて草よけにしている。とはいえその草の量はふつうではないので、マジに羊を飼おうか、という話がよく会話にあがる。

 さて、街中で見た飛び散った草。よそでよく見かける光景だが、代掻きをしたトラクターが落とした泥が舗装の上に飛び散っている。我が家の農業空間では許されない光景だ。ようは我が家では草を刈れば道に散った草はできる限り寄せて片付ける。ときには「箒を使おうか?」などという会話も出るし、実際利用することもある。少しばかり乾かせば軽くなって片付けるのにも楽なのだが、その余裕さえ与えられない。もちろんトラクターの落とした泥をそのままにしておけず、拾って歩く。あえて言うなら、我が家はよそ者のようなもので、気遣いをしないと何を言われるかわからないもというわけだ。

 すでに2週間ほど前に刈った土手の草が伸び始めている。先週は高畦畔の草を刈って片付けて、今日はその続きの高畦畔を刈った。休憩時間を抜くと、6時間草を刈り続けた。我が家では刈べく空間を全て刈り終えるのに、実質3日必要だろうか(荒廃している土地は除いて)。まる1日刈り続けるのは重労働なので、緩く働くとその倍くらい時間をかける。したがって一巡する前に以前刈った場所の草刈が必要になってくる。したがっていつまで経っても草刈を「終えた」感がやってこない。

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大御食神社南辻の道祖神

2018-05-22 23:57:36 | つぶやき

 

 「道祖神碑一覧」を整理するにあたり、引用資料を複数採用すると難しいことにぶつかることは以前触れた。同じような場所の道祖神であっても、引用資料の銘文がうりふたつなら「同じもの」と判断できるが、1字でも違っていると(実際は1字くらいなら同じものと容易に判断できるが)「これは同じものか」と疑問が浮かぶ。こういう場合に正確を期すと思えば、現地確認するしかない。

 写真は駒ヶ根市市場割にある大御食神社南の辻にある道祖神だ。この道祖神享保年代のものというから、1700年代前半。けっこう古いものと言える。さすがに像の向かって右側に彫られていると思われる銘文を、はっきり読み取ることはできないが、「享保」らしき雰囲気はある。風化が著しいというわけだ。駒ヶ根市のホームページで紹介されているこの道祖神は、「享保十五年(1730)」造立とされている。これはおそらく『駒ヶ根市の石造文化財』(駒ヶ根市立博物館 1997年)からの引用と思われ、同書では「享保十五」と銘文を記載している。これに対して『長野県上伊那誌民俗篇』では、「享保廿卯天八月日」と記載されている。享保20年は確かに「卯」年である。この「卯」が読み取れるかどうかであるが、解読しようとフラッシュを横から当てて陰影をつけて撮影してみたが、それでもはっきりしない。が、あえて「享保十五」と「享保廿卯天」のどちらに近いかと見てみると、後者の方が当たっているのではないかとわたしには見える。ようは1735年建立ということだ。前掲書には像向かって左側にある銘文について記載されていないが、後掲書には、年号に加えて「八月日」という日付が記載されている。確かに像向かって左側にも文字は彫られていることはわかるが、こちらもはっきりとは判読し難い。

 あえていうのなら、後掲書は1980年に発行されたもの。前掲書に比較すると20年ほど古い。後掲書のデータは執筆された竹入弘元氏が長年かけて調べられたもので、調査の年代差は四半世紀以上かもしれない。そう考えると、竹入氏が調査されたときには、今以上に銘文ははっきり見えた可能性はあり、後掲書の銘文の方が信用度は高いのではないのか、ということになる。

 野にさらされた石造物は、雨風によって年を重ねるほどに銘文は不明瞭になっていく。わたしも読みにくい銘文は既存資料に頼ることが多いが、実は現状からこの銘文を判読しろ言われれば、「□」をいくつも付すしかないというわけだ。

 

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今年初めての高畦畔草刈り

2018-05-20 23:35:57 | つぶやき

 昨年の6月3日に「昨年この大土手の草刈をした最初は5月22日だった。そのことを思うと、ことしは今日が最初だったから随分遅い。」と記した。おそらく草丈は随分になっていのだろうが、あまり記憶にない。その土手を昨日草刈をした。昨年はまだ妻が母の介護に当たっていたから、妻の手はあまり頼りにはならなかったが、今年は草寄せには妻がやってきて手伝った。昨年の日記からすれば、おととしは5月22日が最初、ということは今年はおととしよりも早く草を刈ったことになる。とはいえ、周囲の畦を見渡すと、草を刈ってなかったのは我が家だけで、目立ち始めていた。高畦畔だけに、ほかの畦とは違って、1年間に刈る回数は少ない。この畦を刈る際には、ある程度心の中で決心しておかないと、なかなかできない。

 何がそうさせるかは、これまでにも述べてきた通り。高畦畔の上に、傾斜がきつい。そして長さもそこそこある。この道路際の畦と、南側に続く5メートル以上の長い畦畔は、一度に刈り終えるには重労働すぎる。昨日も「人様に迷惑をかけてはいけない」と思い、まず道路際の畦畔だけ草を刈る。昨年までに述べた通り、本来なら道路の草といえる側溝際の草も刈るから、畦の草は側溝に入るわ、車が通れば止めなくてはならないわで、厄介このうえない。そして何といっても近くに1軒家があるため、小石を飛ばさないようにと気を使うエリアもある。あらためて今年も畦の途中に足を踏ん張って刈っていて思うのは、45゜を超えるといきなり辛くなる。最低でも45゜傾斜に留めて欲しい、そう思う。かつて農道として拡幅された際には、盛土側は必ず45゜以上に設計されたものだが、切土側は土質によってそれ以上急に法面は切られた。我が家の高畦畔は、まさに道路拡幅時にできたもの。今なら道路側の用地だが、かつては無償提供だったから、切り取られた面も我が家のもの。この畦をこれからもずっと管理していかなくてはならない。

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今年も“畦塗り”

2018-05-05 21:19:34 | つぶやき

 

 例年我が家は周囲の中でも、特別田植えが遅かった。そのせいで実りが少ない、ここのところの秋はそんな感じだった。ということで、介護三昧ではなくなった妻が、「今年は早く植える」と言うので、例年より1週間から2週間早い田植えを目指す。ということで、この連休はいつになく仕事が進んでいる。例年はほとんど田の仕事はしていなかった。草刈くらいだっただろうか。田植えを5月下旬に設定すると、休日農業をしている身にとっては、数えると連休には畦塗りまでしてしまわないと間に合わない。ということで、今日は畦塗りとなった。

 今年も昨年同様に例年耕作している水田のうち、3枚を休耕することに。理由は水利的な問題で、手がないというわけではない。このことはまたいつか触れるとして、残った2枚だけの耕作だから、意外に手はかからない。ところが春先の動きがいつまは遅い我が家にとっては、ここに来て慌てても「遅い」という感じ。もっと早くに田起こしをしておけば良かったのだが、水があってなかなか田起こしにふん切れなかった。近年はこの季節になると、わたしの日記にでアクセスが増えるものがある。“畦塗機で畦を塗る”である。何度か畦塗機のことは記しているが、最初に畦塗機を使った年の日記が一番読まれている。それまでまる3日かかっていた畦塗り作業(当時は今年休耕した水田も耕作していた)が、2時間ほどで終わった。画期的であることに間違いはない。水田が不整形で、その上小さいということもあって、我が家にあるトラクターは小さい。したがってトラクターに取り付けるタイプの畦塗機は使えない。そんななか、この重労働の度に夫婦喧嘩をしていたことから、妻が思い切って小型の畦塗機を買った。半信半疑の機械だったが、初年度から効用を発揮した。あっという間に畦塗り作業は終了する。もちろん手で捏ねて塗った畦とは耐久力に差があるが、そんなことは言っていられない。そして見た目以上に畦はしっかりと塗られる。大満足ではなかったが、それまでの作業時間と重労働を考えれば、手作業など過去のもの。二度とする気はない。

 ところが今年は畦塗りが早まったため、田起こしと畦塗りの間がたった1日。そもそも畦塗機の取り扱い説明書にも、春先の田起こしは早くにするように、と書かれている。そのことを思うと前日に田起こしをして、翌日畦塗りは、良い畦ができないことを暗示している。3日に雨が降ってあがったばかりという状況で田を起こし、そのまま畦塗りとなると、乾いている方が良い、という説明からいけば畦塗りには不向きな条件下。それでも日を勘定するとやらなければ、と畦塗りを決行。やはり昨日起こしたばかりの土は、空隙が多く、湿り気はあるものの塗った表面がボロボロと落ちる。これまでで一番出来が悪い。ところが、ふつうならベトベトで濡れすぎと思われた土の部分は綺麗に畦が濡れた。やはりある程度湿り気がある方が綺麗な畦が濡れる。その綺麗に濡れた畦が写真の畦だ。かなり湿った土だった。ここ以外は乾いていたので、表面はボロボロの所があちこちに…。ということで今年はあまりにも見た目が悪いし、漏水しそうだし、すぐに畦が崩壊してしまいそうなので、手で補修することに。築立された畦の表面に、水で捏ねた土を塗りつけて綺麗にする。手で畦塗りする作業と同じだが、実は手作業で一番大変なのは畦を築立する作業。築立したあとに、表面を綺麗に仕上げていくわけだが、この後者の作業、それも最終の仕上げだけを手で行うということで、時間的にはそれほど要さない。とはいえ、腰を曲げて作業することに変わりがないため、ちょっと大変な作業。それでもため池の水をホースで少しずつ畦際に流して仕上げ作業だけを行ったため、意外に綺麗に仕上がる。なかなかいい感じのコツを覚えられた。来年は今年を糧に、いい作業につなげたい。

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分杭峠越え

2018-05-02 23:32:30 | つぶやき

秋葉古道

 

まだヤマザクラが咲いている

 

高安の百万遍

 

 仕事でお世話になっている伊那市長谷のお客さんを訪ねる。訪ねる度にコーヒーを出して頂けるので、今日も世間話を少しばかりしてきた。連休中ということもあって、途中の道の駅の話になった。この時期だというのに、道の駅の真ん前の駐車場の工事の真っ最中。隣に拡張された真新しい駐車場に車が溢れんばかりに停まっていたが、だからこそ、真ん前の駐車場の工事が気になった。「連休中に工事とは…」という感じに。長谷にある道の駅「南アルプスむら」は、とりわけ人を集めているのはパン屋さんだ。「予約なしでクロワッサンを買うことができればかなり運が良い」と言われるほど。今日もその話になって、パン屋さんに来ているほとんどのお客さんは、このクロワッサンを求めて来るらしい。とりわけクロワッサンが珍しいパンというわけでもないが、なぜかここのクロワッサンは知名度が高い。長谷のお客さんも、ときおりクロワッサンを手に入れて、会社に差し入れしてくれることが度々ある。今や「長谷」の代名詞的存在にもなっている。

 「道の駅」といえば、今はあちこちにあるのだが、伊那エリアにはそれらしいものがない。唯一の道の駅で、上伊那郡内を見渡しても、道の駅は飯島町にあるだけ。いっぽうで長谷の道の駅は開設されてもうずいぶんなる駅で、開設当初からパン屋さんがあったように記憶する。もちろん当時はまだ長谷村だった。道の駅の谷側は美和湖、いわゆる美和ダム湖となっている。ダムに沈んだ村ともいえ、もともとの長谷村(当時は美和村)の中心は湖底にあった。したがって当然のこと村としても、地元の人々も計画に反対したという。湖底に沈んだという70戸ほどの家々は、移転を余儀なくされ、村外に出た人がほとんどだったという。伊那市野底に集団的に移住地が設けられたというが、結果的にそこに移住した人々は10戸ほどに過ぎなかったという。愛知県の方に移住した人たちもずいぶんいたらしい。話をうかがった方は、子どものころよく言われたのは、村の人口3000人と言われたらしい。再確認しなかったが、おそらく美和村時代のことだとは思うが。現在の伊那市は、平成の合併で高遠町とこの長谷村が加わって新伊那市となって発足した。対等合併だったから、その後伊那市役所の重要ポストにこれら町村出身者がなっている方が少なくない。吸収合併ではなかったからとは言わないが、高遠町も長谷村も、人口が減少していることに違いはないが、ほかの合併した町村部に比べると、人口減少率は低いのではないだろうか。長谷村も合併当時は2077人だったというが、平成29年4月の人口は1784人と、15パーセント程度の人口減でおさまっている。そんななか、道の駅はもちろんだが、自動運転の実証実験もスタートしていて、伊那市において見放された地域という印象はまったくない。

 さて、お客さんのところで世間話をしてしまったおかげで、ほかのお客さんのところに午前中に立ち寄る時間がなくなってしまった。この日はできれば雨が降る前に「豊丘村の現場まで行きたい」と思っていたので、ここから市内へ戻るのではなく、分杭峠を越えて大鹿村経由で南下することに。しばらくぶりなので時間が正確に勘定できなかったが、大鹿村の役場がある落合まで30分、そこから松川まで20分くらいと想定した。おそらく、天竜川沿いまで戻って南下しても同じくらいという想定だった。結果的に想定時間程度だったが、分杭峠を越えて大鹿村北川へ近づくと川沿いの岸辺にコゴミの群生を見つけた。すでに開ききっているように道からはうかがえたが、少し様子を見てみようと川岸に降りてみると、まだこれからという株も目に入った。ということでコゴミ採りを始めてしまったというわけだ。それにしてもすでに採取した株がたくさんあったが、「採りきれない」ほど川岸にはコゴミだらけ。こんな光景はかつて飯山の富蔵に先輩とコゴミ採りに行った30年ほど前に見た光景以来だ。あるところにはあるんだと、つくづく感じたわけである。そこそこでコゴミ採りを切り上げて落合まで南下したが、高安で「今はどうだろう」と立ち寄ったのは、かつて“高安の百万遍”で触れた百万遍の様子。「平成三十年二月七日」と記された百万遍の塔婆があってホッとしたわけだが、明らかに塔婆が小さくなっているし、塔婆の材料もいまひとつ不細工なものだった。残念ながら百万遍の現在からは、乏しい将来が見えてくるような気もした。

 瑞々しい新緑の光景は、今が一番かもしれない。そんな谷間を下って落合を経ると、中川村渡場までの間には、トンネル工事の現場があちこちに見えた。もちろんリニア関連のための道路改良工事である。まったく村人にとって得にもならないリニアであるが、唯一の利点といえば道が良くなること。とはいえ、落合から天竜川を渡るまで現在20分程度。道路が改良されたとしても5分程度だろうか、短縮されるのは。もちろんこの5分で何人の人の命が助かるか、という議論はあるかもしれないが、いずれにしても、今、静かに大鹿村への道は改良されている、がリニアの流れに比べると「まだこの程度で良いのか」と思う程度の、静かな動きである。

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地方に埋没する“死語”

2018-04-28 23:18:54 | つぶやき

 “「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由”がヤフーのニュースに登場したのは4月25日だった(元記事は「現代ビジネス」)。あっという間にたくさんのコメントが寄せられたが、この記事を書かれたのは阿部幸大氏。この記事が発端なのだろうか、すでにウィキペディアに「阿部幸大」氏は掲載されている。北海道釧路湖陵高校を卒業し、東京大学教養学部文科三類に入学、同大学院を経てニューヨーク州立大学ビンガムトン校 比較文学科へ入学。いろいろな立場があるのだろうが、彼から見る東京大学と、凡人以下が見る東京大学とはまた、別なものなのだろう。それよりも気になったのは、冒頭の教育と格差の問題から発した「都市と地方の格差、地域格差」のこと。今や地方が不要という意見は少ないが、といって地方に税金が流れることには異論が多い。先日の東京マガジンではないが、今、東京は2020年に向けて異論を含みながらも、確実に高度成長時代のような事業が進みつつある。いっぽうでふるさと納税によって税収が減少することへの不満を含む。地方はあくまでも「癒し」的空間に過ぎず、この流れは止まることなく、どんどん進化していくことだろう。もちろん地方の人口減少は著しく進み、空間維持は難しい。とりわけ東北や北海道といったエリアの将来は危惧ばかりなのだろう。記事を記した阿部氏も、そうはいっても今後ふるさとへ帰る見込みなどあるのかないのか…。個人的な愚痴に過ぎないのか、それともこれを発端に画期的な提案ができるのか…。

 かつてのように東京に暮らす人々の多くが地方から出た人たちによって構成されていた時代は、いずれ消滅する。地方の暮らしを知らない人々が都会で暮らすようになるのだ。やはりその彼らから見える地方は、もはや「地方」という貼り紙がされた遺物(異物)にすぎなくなる。たとえば地方からやってきた芸能人がいまだ多いが、いずれ地方出身者は減少する。それほど東京集中現象はこれまでの空気を変えてしまう。せいぜい東京都区内、あるいは周辺地域内での地方と中央の対立意識くらいが、今後のネタ話になる。2020年はその典型的な節目になるやもしれない。都市と地方の格差、地域格差などという言葉は、もはや日本の辺境にある地方と都市という対峙意識として両者の間に共通認識されず、辺境の地に埋もれた死語になるだろう。

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初めての「東京」

2018-04-12 23:26:40 | つぶやき

 過去の未公開(同好者のみに配布したもの)資料を振り返っているこのごろであるが、書斎にあるだろうと探していたものが見つからず、「引越しを繰り返すうちにダンボール箱に詰め込んだ資料がどこかにあるはず」と物置を探っていると、確かにダンボール箱に詰め込まれた手書き資料がたくさん発見された。その中に探していたものも見つかったのだが、「こんなにあったのか」と驚く程、過去に自らの思いを綴った今で言うこの日記に変わるようなものがたくさん見つかった。社会人になったころのからその後10年近い年月を綴ったものである。あらためて記憶を蘇らせると、現在綴っている日記、いわゆるブログは2005年7月に始まる。ほぼ毎日記しているが、本来の日記というよりは、その時々に思いついたことをその日にかかわらず記している。しかし、ここで発見された過去に記されたさまざまなものも、日記風のものもあれば、その時間にこだわったものではなく、その時に抱いた思いを過去に遡って記したものもあり、まさに今のこの日記に近い記し方を、当時は紙に記していたんだとあらためて思い出しているところである。現在の日記が約11年ほど、ここに見つかった日記が10年ほど。とすると、わたしにとっての残りの20年ほどは記録のない時代ということになる(若干の記録はあるがこれほどの情報量はない)。世の中のアウトプットの形が大きく変化する中で、そのまま記録を再開することもなかったとも限らないわけだが、このような日記を記す今を迎えられているわけで、この時代に若き時代を迎えていたら、わたしの記録は一生綴られていたのかもしれないわけだ。

 発見された記録をあらためて見てみると、当時はタイトルをいくつも掲げて何冊ものノート(ノートといえば聞こえは良いが、仕事で廃棄処分になった紙の裏紙を利用した自作ノートが多かった)に記録していた。たとえばどこかに訪れた紀行文のようなもの、まさに日記スタイルのもの、詩を中心に据えたもの、等々。近ごろ「遙北石造文化同好会」のことについて触れたが、第1回の交流会を開催したのが東京だったことに触れた。昭和52年3月27日のことである。蒲田にあった「ローマ」という喫茶店で開いたわけであるが、蒲田に住まわれていた方に尽力いただきこの交流会は開催の運びとなった。わたしが高校時代のことである。この交流会開催に尽力された方に会ったのも、その交流会が初めてのこと。もっというとわたしが「東京」へ行ったのも、それが初めてだった。尽力いただいた方の家に泊めていただいたわけであるが、その方について触れた記事が今回見つかった資料の中にあった。初めての「東京」は予想通りだったかもしれないが、その方のイメージがよりインパクトあるものとして残ったからこそ綴られたものなのだろう。

 この東京行きは、当初は3泊を予定していたようだ。交流会から3年以上たち社会人となってから書いたその資料には、その方のことについてこう記されている。

京でアパートに住んでいるような人は、ろくな生活はしておらず、客を迎える状態ではなかった。小さい部屋に連れて行かれひと晩過ごした。次の日は鎌倉へ行った。(中略)帰ったのが3時ごろで、それからすぐに「寝よう」というから「びっくり」。ろくな生活ではない。次の日は会合(交流会)であった。その日も10時ころまで寝ていて、それから起きて行ったのである。

 客人に対する迎え方が田舎と都会が異なるのは当然としても、そもそも4畳半にも満たないような部屋に客を迎えるのは良いとして、泊めるという感覚はわたしにはなかった。そしてやることもなく「寝る」というのも信じられないことだったのだと思う。そんなこともあって、3泊目を遠慮して1日早く帰郷している。そんなこともあってか、わたしのこころの中で、その方を遠慮する思いが芽生えていた。その後わたしの自宅で交流会を実施した際に、突然その方が参加されたこともあったが、こちらの思いを察知されたのか、その後間もなく連絡が途絶えたと記している。当時その方は30代くらいだったのだろうか、年齢にして倍半分の違い。蒲田駅で待ち合わせをした際、わたしだと分かったら驚いていたことも記されている。なぜ驚いていたかは問いただしもしなかったが、わたしの風貌が意外だったようだ。「石仏に興味がある」という風貌ではなかった、ということなのだろう。30代独り身、きっかけは雑誌の、いわゆるかつて一時代を築いた「文通希望」からだ。初めての「東京」は衝撃的なものだったのかもしれない。

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SUBSTITUTEからの後戻り

2018-04-07 23:33:52 | つぶやき

 SUBSTITUTE(文字列, 検索文字列, 置換文字列, 置換対象)、これはエクセル上で文字を置き換える関数である。これを使って機械的に校正をしていた。ところが「田切、文字碑、道祖神」と表記された行ばかりになって気がついた。「これではどこのものとも分からない」と。こんなデータならそもそも集計だけあれば良い。もっと言えばデータ処理の過程資料に過ぎないと思えた。そこでそれまで同様に機械的に校正してきたものを振り返ると、もはや頭はフリーズ。「どうすれば良いんだ」、いや「どうすべきか」と。

 校正をすでに何回もしているのに、この期に及んで大量の訂正をして良いものか。まるで初校に戻ったような校正を見て印刷屋さんは頭にくるだろう。振り返って見て見直しながらそんなことを考えた。とはいえ、もしこの一覧を手にした人は、どう利用するだろう。わたしなら、いちいち引用物件を棚から引き出さなくても、一覧である程度目星が付けられることを期待する。多くの引用物件を書棚に置いてあっても、いちいち厚い本を紐解くのは面倒だ。さらにそれが「検索」という手間で瞬時に確認できれば、時短できることは言うまでもない。それが今回目指しているデータ整理だ。

 長野県内各地を、多くの方たちの手を煩わせて道祖神碑の一覧化をしたものを『長野県道祖神碑一覧』として発行する。最終段階に来ているが、あらためて見てみると、前述したようなわたしにとっては残念な面が見える。何度か会議などをもって段階的にまとめてきたはずなのに、それぞれの方たちが実際に作業に入ると、それぞれできっと疑問を抱いたのに、それを解消できずにまとめられた方もいるだろう。今校正しているエリアを、もう一度確認しようと引用文献と照らし合わせると、担当者の苦労が伝わって来る。もっと経験談を伝えておくべきだったと、後悔している。今回の一覧は、平成の合併以前の市町村ごとでまとめている。多くはそれらの地域ごとに発行された石造文化財報告書を基本文献にしている。しかし、こと道祖神についてはメジャーなだけに、個人で発行された文献も多く、引用文献が複数あるとそれらを利用してまとめることになるが、机上ではふたつの文献にあるひとつの道祖神が、同じものか別のものか判断しかねるケースが多々ある。それは一覧からだけではわからないのは当然で、とりわけ銘文に違いが見られる、あるいは形態に違いがある、だからといって別のものとは限らない。そもそも引用文献が正確かというとそうでもない。しかし、あくまでも引用文献からまとめる以上、どこの文献を利用したか明確にしておかないと、今回まとめられた一覧の信用度が落ちる。そういう意味では、複数の文献からまとめる場合はかなり注意を払わなければならない。ようは重複しないように。実際に作業をしてみると、この判断がとても難しい。かなり悩んだはずだ。こうした悩みを軽くするためには、曖昧なものは削除する。もっといえば、確実に別のものと思われるもの以外は採用しない。さらに負担をなくすには複数の文献を使わない、となる。

 校生の見直しをしていて厄介なのは、引用文献と並びが違うこと。それでいて複数の文献を利用しているから、一覧化されているものが、引用文献のどれにあたるか明確になるまで時間を要す。それでいて、ふたつの文献を利用したせいか、引用文献としている文献通りの転載になっていない。ようはふたつを組み合わせたような内容になっていて、ますます迷路に。機械的に短時間で整理しようとしていたのに、まったく宛が外れてしまった。

 わたしの会社には「検算のプロ」と呼ばれる女性がいる。そもそもこれで給料をもらっているのだからほかの人もプロに違いないが、彼女は疑問と思うところにはことごとく付箋を付ける。同じようなことなら学習能力で次からつけなくても良いのに、と思うが、それでも繰り返し同じところに付箋をつける。彼女の気持ちが、この校正作業をしているとよくわかる。一旦これでいこう、と思っても、次に同じような違いがあると、前の付箋の箇所の訂正は正しかっただろうか、そういう疑問が湧いてくる。同じこと、と思ってそこに付箋をつけないでおくと、後々同じ疑問が生じた際に、その場所を探すのが容易ではなくなる。だから疑問点にはことごとく付箋をつけておく。計算間違いがあってはならない、あるいは引用間違いがあってはならない、これが仕事の基本だ。したがって検算が命とも言える。そうした仕事を日々こなしているわたしでも、繰り返すことは苦手だから、できる限り省略したいと、そこでパソコンで省こうとする。間違いをしないため、そして当然のように訂正が発生した時に瞬時にすべての数量を直せるように。検算が苦手だからこそのわたしのやり方だ。校正も似たような作業で、検算同様にわたしには苦手な作業だ。しかし検算から育まれた意識は普通の人たちよりは強いだろう。だからこそ、不揃いなものに目が留まってしまう。

 この期に及んで校正の書き込みが普通じゃない。印刷物へ反映するかはともかくとして、データとしても整理するつもりだから、せめてデータは訂正したいと思って書き込みを続けた。たとえば一覧に同じ所在地名で同じ種別、そして同じ名称が並んでいたら、それらには何も興味がわかない。でも備考欄に「厄神様と呼んでいる」、「厄投げ石に使っている」、「奇石あり」などと書き込まれていれば、現在現地にあってもなくても、あるいは伝承がなくなっていても、その背景に興味がわく。また、今は忘れられた固有の箇所名が書き込まれていても、かつてそこがどういう場所であったか、というイメーシを作れる。あくまでも引用文献に従ったまでだとしても、背景が見えるようにしておくことで、資料価値は上がる、わたしはそう思っている。

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今年の桜を思う

2018-04-04 23:34:16 | つぶやき

 

 いつからかはっきり覚えていないが、近年は毎年のように「南信州飯田」観光ガイドというものが南信州新聞で発行され、Take Freeで配布されている。「春夏」版というものしか見たことはないが、「秋冬」版というものがあるかどうかは知らない。64ページというもので、観光ガイドとしてはしっかりとしたもの。とりわけ「春夏」を対象にしているが、毎年「桜」を中心に扱っているから、けっこうこの時期人気の観光ガイドである。今年版の表紙は飯田市座光寺の石塚第1号古墳上に咲く桜である。この桜については、2年前に「続・2016 迎桜」で触れた。3月31日に撮影したものだったが、そう考えると今年がとても「早い」というわけではないが、それでも早いことに違いはない。

 「今年の桜が早かった」は飯田でも同じで、全国的なものではあるが、とりわけ県内の北上速度という視点で言えば、これほど「早い」ことはなかったのてはないだろうか。昨日はまだちらほらだった、という桜が、今日は満開近く咲いている、という光景を日々捉えている。満開は良いが、伊那あたりで満開を迎えたころから天気は良いが、パッとしない感じだ。その理由は霞がかっていて、青空がすっきり見えないし、世間もボヤーっとしている。花見ごろではあるが、ベストな状況ではない。とりわけ写真目的の人たちには、今年の桜はいまひとつかもしれない。

 前掲ガイドには71箇所の桜が紹介されている。そのうちには、よその桜と比較してもそれほどインパクトのないものも多いが、古木の一本桜という視点で捉えると、確かにこの地方には見るべきものが多い。たとえば同じ伊那谷でも、上伊那エリアの桜には「古木」と言われるものは少ないし、感嘆符が浮かぶような桜は数えるほどかもしれない。周辺の景観との関係、ようは思い込みだけなのかもしれないが、車窓から「これは」と思うようなことは少ないことも事実だ。

 一瞬に咲いた桜の命が短いことは、毎年桜の季節を迎える度に思うが、今年ほど花期の短さを覚えさせられる年はないかもれしれない。飯田下伊那での入学式は、葉桜の中で行われたところも少なくないだろう。

 空間の広い世界では、一本桜では目を奪わないのかもしれない。伊那でも六道堤の桜(以前「六道堤の桜」で触れた)が満開となった。昨日はそれほどでなかったのに、今日はすっかり花が開いたが、前述したように世間は霞がかっている。とはいえ、間もなく日没という時間でも、惹かれる桜のひとつだ。桜見物をする人の姿もほとんどいない、今年の開花状況である。

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