goo blog サービス終了のお知らせ 

Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

1年分の片付け

2025-08-29 23:31:08 | つぶやき

 片付けをした時には、明日からはその都度しよう、そう思うのだが、結果的には同じことを繰り返して山となった資料や本を1年ぶりぐらいに片付けるのがこのところの習慣である。したがって資料を山と積んでしまうので、欲しいと思った資料がどこにあるのかわからなくなる。同じことを会社の事務机の上、周囲でもしているから懲りない自分に呆れているのは言うまでもない。とても呆れるのは、既に退職して1年半も経過しているというのに、退職時に片付けられなかった物件が、いまだ会社の机の周囲に山となっていること。「どういうことなんだ」と自問自答するが、すぐに片付けられないものがあって、結果的に年月を経ている。計画的に処理しようとしていても、目の前の仕事を処理するために送られてしまっている。こんなことをいつまでもしているわけにもゆかないのだが、なかなか…。

 ということで1年ぶりとまでは行かないが、10か月ぶりぐらいに書斎を片付けている。今しなければならないのは、締め切りどころか既に提出しなければならないモノが滞っていて、それらをまとめるには山になった資料の山を片付けないとその物件の資料があちこちに散在していて、まとめるのが容易ではないというわけだ。終活に向けて片付けなくてはならない時期が近付いていると思うのだが、それもままならないほど資料が散在していて、「いるのかいらないのか」くらい整理しておかなければ、とは思っている。もちろん周囲には捨てろといわれても、「いるのかいらないのか」を考えている余裕が無いのである。

 片付けていると「ここにあったのか」と思うようなものも出てくる。ようは宿題がまたひとつ増えるのである。同時に「あれもこれも」と思って手を出すのもそろそろ考えないと、ひとつもまとまらなくなる。もちろん締め切りがあるからこそ、優先順位が決まるのだが、もはや同時には処理できない年齢に至っているとことを悟らないと、と思っている。「退職したら」と思っていたことがひとつもできていない現在に、「どういうこと?」と繰り返すばかりだ。

コメント

色白な世界

2025-08-27 23:00:52 | つぶやき

 昔のことを口にする世代になった。わたしも話者になりつつあるのだろうが、誰も聞いてくれなければそうはならない。したがってここに記すぐらいがわたしの「記憶」が残る場所である。

 わたしの学校の同級生と言えば、おおかたが農家の子どもたちだった。それが当り前だと思っていたし、自然なことだった、地方では。そして親と言えば農業をしながら農閑期は働きに出たり、あるいは農閑期でなくともすでに仕事を家以外に持つようになっていた。わたしが生まれたころ大きな災害があったから、その復興のために土建屋が増えた時代。したがって土建業に関わる親が多かったかもしれない。とはいえそれは本業ではなく、副業だとわたしは思い込んでいた。しかし冷静に考えてみると、すでに親世代は生業は農業ではなく、土木作業員が主のサラリーマンだったのかもしれないが、「親の職業」は「農家」と答えた同級生は多かったように思う。ちょうど「農家」から「勤め人」に変わる世代が、わたしの親世代だったのかもしれない。とはいえ、わたしの父は勤め人ではなかった。やはりふだんは農業、傍らで副業をしていたのが父にとっての生業時代と言える。もちろん年老いた後も、農業は続けたが…。

 そんな時代のおとなは、野に働いたから、みな真っ黒だった。それも当たり前だと思っていた。父は近くの河原で石割の仕事をしていたから、真夏もランニング1枚で働いていた。昔はそういうおとながたくさんいた。それが当り前だと思ったから、子ども達も同様だったし、わたしが社会人になっても、同様に汗をかいて働くものだと思っていた。父の姉の嫁いだ会社が石材業をしていて、そこで高校時代にアルバイトをしたのは、わたしの生業に対する姿勢の原点にもなった。もちろん炎天下でも帽子も被らず、石材を扱っていた。疲れたのは言うまでもないし、楽な仕事ではなかった。従兄弟(母父の姉の息子さん)から「ここで働ければ、どこでも働ける」と言われたが、それはあくまでも身体を使って働く仕事のことで、頭を使って働く仕事がどこでもできるというわけではなかっただろう、と今は思う。今も働く会社に入ってからも、炎天下でも帽子は被らなかったし、作業着も半そでを好んで利用した。現場には夏でも長袖、という感覚が当り前だったのに、わたしは違った。それは生業である会社の仕事以外でも変わらず、今から10年ほど前まで、当り前に同じ格好で働いた。夏は「真っ黒」が夏のわたしだった。髪の毛が長かった方なので、比較的顔は真っ黒にはならなかったが、半そでが当り前だったわたしは、腕は真っ黒たった。さすがに紫外線が強くなったと感じて、ここ10年ほど前からは半そででも腕を隔すようなアームカバーを利用するようになって、ずいぶん腕の色は昔と変わった。しかし、長年の蓄積だろう、色白とは言えない。

 さて、このごろは色白の人が多くなった。そもそも外で働く人が減った。かつてのように地方でも農業をする人は格段に減少した。こんな光景が当り前になる時代が来るとは思っていなかった。気がつけば野で働く人はいない。もちろん夏の暑さのせいもあるが、農家が外に出なくて働くことはできない。ただ農業従事者は減ったから、地方の光景は大きく変わった。そして色白の人が増えた。同世代でも、執務室内でずっと働くことが多かった人たちは、わたしよりは白い。年老いても若く見えのもうなずける。外に出る人たちも、今では肌が見えないくらい隔して働く人は多い。女性はもちろんだが、男性も。いろいろ昔と変わったが、人々の姿が変わったのも事実だ。

コメント

早稲田人形(昭和63年の記憶⑧)

2025-08-24 23:19:21 | つぶやき

向方の掛け踊り(昭和63年の記憶⑦)より

 8月24日は、阿南町の早稲田人形を訪れている。わたしが『信州の祭り大百科』(1988年 郷土出版社)に書いた解説文を、ここに引用する。

 伊那谷に残る人形芝居四座のひとつ。その起源については定かでない。天保年間(1804~29)にはすでに行なわれていたとされ、それ以前の記述として「文化七年八月梅田」と書かれた肩板一枚と、文政年間(1818~30)の浄瑠璃本がある。
 天明の頃(1781~88)から大坂の人形遣いが伊那谷に入って来て、人形芝居の発展をみた。早稲田には明治八年(1875)大坂から吉田朝造が来て人形を教え、次いで吉田金吾、吉田三十郎が訪れて本格的になり、明治後半から大正にかけて最盛期を迎えた。その後衰退したが、戦後、保存会が結成されて現在に及んでいる。
 8月24日午後、拝殿内において儀式が行なわれ、初詣での乳児の無病息災を祈念して三番叟が奉納される。儀式が終わると舞台において人形芝居の上演となる。まず三番叟が行なわれ、本番の芝居が始まる。主な演題に「朝顔日記」「一ノ谷緻軍記」などがある。
 伊那谷の他の人形芝居と異なり、早稲田人形には特色がある。それは三番叟であり、人形の神送りである。人形の神送りは、現在1月15日に行なわれている。神輿に人形が供えられ、行列を組んで厄病神を送り出す行事である。三番里の人形を先頭に押し立て、次いで神輿を担ぐ人形がつづく。これは人形が担いでいるという姿で、実際は人が担ぎ、人形を手で支えているのである。続いて奴の人形、笛、太鼓、鉦といった行列になる。神社から出た行列は村内を練り、途中沿道の人々が神輿に供物を捧げて拝む。村境の神送場へ着くと、神輿の中の依代を出して送り、鉄砲を一発撃つと、皆後ろを振り向かずに神社に帰る。
 これは神送りの行事が人形と結び付いている珍しい例で、昔は疫病が流行した時に行なわれたという。人形芝居を休んだら疾病が流行したという伝えがあり、特に三番叟の人形を神聖なものとして扱っている。

 

昭和63年8月24日撮影

 

 

コメント

向方のかけ踊り(昭和63年の記憶⑦)

2025-08-14 23:15:12 | つぶやき

古田人形(昭和63年の記憶⑥)より

 8月14日は天竜村大河内のかけ踊りをそれまで訪れていたが、この年は隣の向方のかけ踊りを訪ねた。大河内は思い入れのあった地であるが、現在は大河内のかけ踊りは実施されていないとも聞く。

 本編も『信州の祭り大百科』(1988年 郷土出版社)においてわたしが記述した「かけ踊り」を引用する。

 盆踊りの古い形といわれているかけ踊りは、天竜村大河内、向方、坂部などを中心に行なわれている。同様の踊りは、阿南町和合の念仏踊りや、泰阜村の樽木踊り、上村下乗のかけ踊りなどに見られ、盆踊りの行事とは主旨の異なる意味合いを持つものもある。
 かけ踊りの意味を願かけ踊りとしている坂部に対し、大河内、向方では相手方に「踊りをかける」(踊りに行く)こととしている。
 三か所ともに14日の午後8時ごろから行なわれているが、新盆の家々に踊りをかけてまわり、念仏や和讃を唱えた後、手踊り(盆踊り)をする形を残しているのは大河内のかけ踊りのみである。
 ここでは愛宕堂においてひと踊りした後、新盆の家へ行列をつくりかけて行く。行列は、「南無阿弥陀仏」の幟を先頭に、切子灯籠・鳥さし・一の太鼓・鉦・二の太鼓から以下の太鼓、最後に五色の紙を刻んで竹に付けられた柳がつく。仕度は浴衣に下駄ばきで、白い垂を付けた菅笠をかぶっている。女性の年長者の新仏の家から始められ、新盆の家では百八の松明が点される中、踊りが練り込むのである。
 輪になり、腰を低くして太鼓を打ち、躍動的な踊りである。次いで「庭ほめ」「あかつき富士」「新仏」などの和讃が行なわれる。和讃の最初は、「東西しずまれおしずまれ、しずめて小唄を、おだしゃれ」と場内を静める唄に始まるが、どの和讃にも最初はこれが唄われる。
 唄い方の和讃と踊り方の返しでかけ合った後、座敷へ上がり、「みずむけの酒」となる。しばらくすると、庭では輪が作られ、「高い山」「すくいさ」「十六」などの手踊りとなる。踊りをかけて来た踊り手たち、家の中の人、近所の人も入り、二、三十人ぐらいの輪になる。音頭取りの中老以下が座敷から出てくると、盆踊りも終わり、念仏が唱えられ「おいとま踊り」を踊りながら引き上げて行く。一軒の家で1時間ほどかかり、次の家へまわって行くというもので、新盆の家が多いと1日では終わらない年もあるという。
 こうした大河内のかけ踊りに対し、向方では新盆の家にかけて踊る姿はない。「じようど」(十王堂跡)で「十六」を踊った後、行列をつくり長松寺の庭まで練り、大河内の百八の松明の代わりに「迎えたい」に火が点される。長松寺ではじょうどと同じ「十六」の踊りに始まり、「庭ほめ」「蚊払い」「引け踊り」があり、再び行列は「じょうど」に戻って終わる。
 また坂部においては観音堂の庭(現在は公民館)で庭踊りがあり、行列をつくり金毘羅様へ行き、庭踊りが済むと手踊りとなる。「すくいさ」「高い山」などの昔からの盆踊り唄である。ここでも終わりは観音堂の庭に戻り「引け踊り」を踊る。
 送り盆の最後、16日の夜に向方では「八幡」の踊りをし、灯龍などを集落はずれまで持って行き、焼く習わしがある。また、大河内では「八幡を踊らねば送り盆にならぬ」といい、切子灯寵などを庚申様の前で「花の四季」を唱和している間に焼き、後を振り向かずに帰る風習がある。これらは「新野の盆踊り」の最後に行なわれる踊り神送りと似ており、精霊を送り出す行事で、これで盆は終わり、これ以降手踊りをしてはいけないとされている。
 これら古式の盆踊り形式は、県境を越えた三河などに「はねこみ」などの呼称で残されている。

 

昭和63年8月14日撮影

 

続く

 

コメント

古田人形(昭和63年の記憶⑥)

2025-08-05 23:56:20 | つぶやき

深見祇園(昭和63年の記憶⑤)より

 飯田市において「人形劇カーニバル飯田」が始まったのが1979年(昭和54年)であり、10周年に当たる1988年(昭和63年)には世界人形劇フェスティバルが開催された。8月7日、その世界人形劇フェスティバルのプログラムとして上郷下黒田の舞台において箕輪町上古田の古田人形が上演された。古田人形は地元では公民館など公的施設で上演されることが多く、専用の人形浄瑠璃用の舞台で演じられることはめったになかったと記憶する。

昭和63年8月7日撮影

 

続く

コメント

〝暑い、熱い〟

2025-07-29 23:04:44 | つぶやき

 先週は連休明けから4日間炎天下で働いた。今週も月曜日と火曜日と続き、人には「焼けたね」と言われると気落ちする。現実的にずいぶん黒くなったから当り前ではあるが、ここ1週間ほどで、ずいぶん日に焼けた。帽子もつばの広いものを被っていたし、腕は日焼けしないようにアームカバーもしているのだが、顔が「黒く」なった。まあ、それはともかくとして、さすがに毎日炎天下に居ると、疲れる。このごろは床に入るのも早くしている。というかちゃんと睡眠をとらないと翌日にかかわる。みな執務室内にいるのが「一番」と言うが、わたしは会社にいるのが嫌だから、たとえ炎天下でも外がいい。

 とはいえ、先ごろも外出先から帰ると、会社の執務室がムッとしている。すでに勤務時間を過ぎているからエアコンが停まっている。残業するのならエアコンのない世界で働かなくてはならず、わたしは「こんなところで仕事はしたくない」。とはいえ、どうしても会社で処理しなくてはならないことがあって少し働いているのだが、「暑い」。エアコンが停まってどれほど経過しているかしらないが、風の動きもなくムッとしている。執務室内では上司と幾人かが働いている。エアコンが停まったというのに、窓も開けず、ドアも開けず、もっといえば外の風が最も入ってくる廊下のドアも開けずに、エアコンの残冷気だけを頼っているのだが、もはやそんなものは飛んでいる。窓を開けて風が動くように気を遣えば良いのに、この熱気の中が好きなのかどうかは知らないが、息苦しい中で仕事をしている。

 部屋の中を涼しくする方法は、風が入り込んでくる側に扇風機。入り込んでこない方向に向けて室内の風を送るように扇風機を外に向けて動かすのが一番だ。我が家にはエアコンがないから、家に帰るといつもそうして家の中を涼しくする。まだ扇風機で息苦しくない世界を作り出せる。「エアコン入れる」と毎年妻と会話をするものの、いまだエアコンは設置していない。きっとシロがまだ元気だったら昨年のうちには導入したのだろうが、シロがいなくなって人間様はなんとかなくてもやっていける。だから部屋の中を涼しくする方法は、いろいろ考えている。だから会社でも同様に涼しくなることを考えていたものなのだが、人が変わって、今の上司は窓を開けない。涼しくすることなど何も考えていない。「頭を使え!」と言いたいのだが…。

コメント

深見祇園(昭和63年の記憶⑤)

2025-07-28 23:05:02 | つぶやき

御鹿祭り(昭和63年の記憶④)より

 7月24日は、阿南町の中心、役場すぐ下にある深見池を舞台に行われる祇園祭を訪れた。当時のことをもとに記した『信州の祭り大百科』(1988年 郷土出版社)の深見祇園のページを引用する。深見池で行われる花火は、空間が狭いだけに花火を比較的近くで見ることができた。ただ、空間が狭いだけに、風向きなどその日の天候で花火の煙が留まってしまって、花火がよく見えずに煙の中で開いている光景をめにすることが頻繁にあったと記憶する。


 阿南町深見地区のほぼ中央に深見池がある。寛文2年(1662)の大地震により、土地が陥没して池ができたと伝えられるが、成因については諸説がある。
 深見池を見下ろす所に諏訪神社が祀られている。天保7年(1836)6月に流行病が起きたため、尾張の津島神社より祭神を迎えて境内に津島社を祀るようになったといわれ、それに伴って祇園祭りが始まったとされる。
 午後7時過ぎ、津島様を神輿に移す儀式が行なわれ、行列をつくり境内を3周すると深見池へ向かう。行列は本提灯・柳・獅子頭・天狗・神主・神輿・津島社高張・神主・笛・伊勢神社高張・三味線・秋葉神社高張・小太鼓・子安神社高張と続く。道中雅子を奏しながら池に着くと、神官や僻子方が筏に乗り込む。
 筏の上は9平方㍍弱の広さで、屋根がついており、その中央に神輿が据えられる。筏の後尾には「月みの提灯」といわれる、長さ8メートルほどの竹棒が立ててあり、そこには12個の提灯が吊るされている。
 囃子を奏し、筏が岸を離れるころには、打上げ花火が夜空に咲き、深見池の周りはいつにない賑わいを見せる。時には筏上の手簡花火や仕掛け花火にも点火され、湖面上の舞台は一段と華やかさを増すのである。
 筏の上では悪い病を打ち払う神事が行なわれるが、池に幣束を流すことで悪い病を払ってしまうという所作は、尾張津島神社と全く同じである。
 神事を終えた筏から神輿を含め購子方など全員が引き上げると、湖面はいよいよ水中花火や大仕掛けなどの花火一色の舞台となる。やがて、打上げ花火がすべて終わると、神輿の行列は帰途につく。神社に着くと庭を3周まわり、津島様は元のお宮へ戻される。そして、最後は境内における三国花火の下で、火の粉が飛び散る中、競いが祭りを盛り上げ、すべては終わる。午後11時ごろである。

昭和63年7月24日撮影

 

続く

コメント

恒例行事

2025-07-27 22:25:21 | つぶやき

 

 ため池の草刈をしたが、この草刈のことを最初にここに記したのは「ホタル舞う」だろうか。12年前のことだ。この年はため池の土手の北側の草刈をした。なぜ北側を刈ったかというと、共同作業で草刈りをすると、このため池の下にある我が家の耕作放棄地へ草を寄せる。その我が家の耕作放棄地は、ため池の南側土手の下にある。ようは北側の方がその草寄せをする耕作放棄地より遠いから、共同作業する人たちには負担にならないだろう、と思って北側を刈ったのだ。草刈をした際に、刈った草をすぐに我が家の耕作放棄地へ寄せるため、北側の遠いところの草を刈っておけば、共同作業をする日にはだいぶ草が乾いて軽くなるだろうと考えてのこと。

 毎年この時期にこの日記で記していることだが、このため池草刈にはわたしは参加しない。妻の実家のことだから、実際に住んでいる場所から遠いため、共同作業をする1週間前ほどに事前に我が家の分を刈っておく、というわけだ。当日出られないペナルティではないが、だから余計に刈っておく。12年前の写真を見ても、ため池の土手の3分の1くらいは十分刈っている。共同作業の仲間は7軒だから、7分の1くらいで良いのだが、「文句を言われないように」という思いで余計に刈っている。ところが同年の草刈をした後に、草を刈ったままでは困る、と文句を言われた。我が家は周囲から度々小言を言われる存在で、気を漬かったのにこうだったのだ。

 以来、南側を刈るようにしてさらに草寄せも事前にしておくようになった。草を刈るのはわたしの仕事で、乾いたころ妻が草を寄せる。毎年記していることだから同じころの過去記事には必ずといって良いほど記録されている。近年は我が家の耕作放棄地を1か月ほど前に刈る際に、ため池の太くなりそうな草も刈るようにしている。すると実際に刈る際にだいぶ楽だからだ。以前は手間取った草刈だが、いろいろ考えて草を刈るようになって、この草刈も楽になった。

 ということで下記の写真は本日の成果だ。写真の場所以外にも余水吐周辺の草も刈っておいた。だから共同作業の際にはだいぶ楽なはず。世代が変わって、さすがに最近は小言を言われることはなくなった。

 さて、このため池にはキスゲが咲く。もちろん今までにも触れてきていることだが、今日もなるべくキスゲを残して刈った。そのユウスゲ、陽が沈むと花を咲かせ始める。

 

コメント

御鹿祭り(昭和63年の記憶④)

2025-07-13 23:43:13 | つぶやき

木曽谷の黒川へ(昭和63年の記憶③)より

 2010年7月18日の記事に御鹿祭りを掲載した。その続編として翌日続・御鹿祭りを綴ったが、その際に昭和63年7月17にちに撮影した御鹿祭りの写真を4枚ほど載せた。今回の写真に重複があるが、あらためて当時の写真を取り上げてみた。37年も前であるから、ここに写る子どもたちも今は45歳前後となる。もちろんその親ともなると70歳代。御鹿祭りは今も続けられている。

 

 

続く

 

 

コメント

木曽谷の黒川へ(昭和63年の記憶③)

2025-07-06 23:34:43 | つぶやき

味噌焚き(昭和63年の記憶②)より

福島城山

 

上志水

 

栃本

 

芝原

 

猪子島

 

一ノ萱

 

清博士

 

一ノ萱にて

 

旧開田村にて

 

 5月8日は、当時木曽福島町であった黒川谷を訪れている。現在はずいぶん近くなった木曽谷であるが、当時は権兵衛トンネルはなかった(開通したのは平成18年のこと)。塩尻回りなのか、清内路峠回りなのか、それとも権兵衛峠回りだったのか記憶にないが、おそらく権兵衛峠を越えたと思う。当時はよく林道を走った。

 黒川谷に入って下流から上流に向かっていったと思うのだが、おそらく当時の開田村へいったん入って、再び黒川谷を下ってきたと、ネガフィルムの順番で想像する。ここに並べた道祖神は、黒川を下流から遡るようにした。1枚目は福島の城山のものだが、2枚目から黒川谷に入る。

 そもそも木曽谷には他地域に比べて道祖神は多くはない。ただこの黒川谷には双体道祖神が多いことで知られている。芝平のものは浅く彫られて線彫りにも見える双体像であるが、向かって右側が男神、左側女神である。女神は頭を後ろに傾けていて、しっかり手を握り合っている姿がわかる。

 さて、道祖神についてはその場所がはっきりするが、同時にネガに写り込んでいた道祖神以外の写真は、正確にはどこで撮影したものか不明である。8枚目と9枚目の民家は猪子島と一ノ萱の道祖神の間にあるもの。おそらく一ノ萱の道祖神の手前あたりの民家を撮影したものと推定し、9枚目の写真奥の屋根は新しいことから、この家は現存していると推定する。ということでそれらしい光景をグーグルマップで探して行ったら、推定一ノ萱になった。10枚目からの3枚は、記憶では開田村で撮影したと思う。

 なお、わたしは『遥北通信』62号(遥北石造文化同好会)の近況へ「この地域では「どうそじん」という呼称ではなく、「さいの神」と呼び…」と書いている。確かに木曽谷では「さいの神」という呼称が中心かもしれないが、例えば〝「せいの神」という違和感から その7〟に示した民俗地図でもわかるように、木曽谷に顕著とは言えない。そもそも道祖神信仰が希薄地域のため、データ量が少ないこともこの地図には表れている。

続く

コメント

ポスターを立てた

2025-07-03 23:07:26 | つぶやき

 3年前に「見直すべきこと」を記した。参議院選挙を終えて記したこの後への警鐘だったと思うが、今ごろそれを読み返している。今回も一線は退いたものの、政治にかかわってきたが選挙を前に担当替えになったため、すっかり立場は変わった。まさに「見直すべきこと」に「出先でわたしが旗を振るのは、これが最後の選挙。3年後も関わることがあっても、立場は違う」と記している。そんな選挙告示の今日、前回まで同様にポスターを立てた。依頼された分だけなので、これまでとは違う。ただあらためて思うのは、おそらくわたしがポスターを立てた一帯で、比例区の選挙ポスターを立てた一番乗りに違いないということ。そもそもポスターを立てる候補者が少なく、そんなものに力を入れているのは、自民党を中心にした職域候補者のみだ。言ってみれば「古いやり方」ということになるのだろう。「ほかに方法はないのか」と思うが、指示だから仕方ない。

 今回は前回お願いした方と、新たにお願いした方の水田脇に立てさせていただいた。選挙戦は20日ほどあるから、おそらく草刈の時期が訪れる。こんなものが立っていると刈りづらいから、本音のところは承諾したくないところだろうが、了解いただけた。加えて今回は前回以上に「厳しい」。自民党がこの状態では致し方ないが、だからこそ手法を変えるべきだったのではないか、と思うが小さなところで何か言っていても「何にも変わらない」。さすが自民党系、などと悟ってしまう。

 それにしても前回の反省の弁である「見直すべきこと」と、その前日に記した「現実」は、よく書けている、と思う。

コメント

ウツボグサも残した

2025-06-29 23:32:30 | つぶやき

 

 草刈をしていて、ウツボグサを意識的に残したら、妻から「よく残したね」と言われた。なぜ残したのか、と問われれば、以前より姿が少なくなったからでもあった。妻も我が家のある一角にあったウツボグサの群生地が、まったく消えてしまったことについて口にした。そもそもかつてそこの草刈をしていたら、「刈っても良い」と言ったのは妻だった。そして意識せずに草刈を何年もしていたら、姿をまったく見なくなったというわけである。やはり花が咲いている季節にしっかり刈ってしまうと、消えてなくなってしまうようだ。我が家のように意識的に残しているにもかかわらず、「これはまだだいじょうふ」と思っているうちに消滅してしまう。もちろんウツボグサは珍しいものではなく、どこにでも生えているものの、とはいえ前述したように、明らかにかつてより少なくなっていることも事実。

 さて、そのウツボグサがため池の提体上に姿を見せていたので、意識的に残した。今年の当番ではないものの、当番の方が意識せずに刈ってしまうと、やはり消滅してしまう可能性もあることから、わたしが刈ったというわけである。ため池には今、紫色の花がいくつも咲いている。ウツボグサはもちろんのこと、法面にはアヤメ、全体的にノアザミ、そして少ないもののコマツナギである。もちろんアカツメクサも咲いているから、けっこう紫系の花が居間は多い。そうしたため池の提体上に咲いていたノアザミとウツボグサを捉えてみた。もうすっかり暗くなっていて写りは良くないが、帰り道、先週も捉えたツキミソウも撮ってみた。我が家の周囲はツキミソウだらけの感がある。これだけ意識的に残すと、もちろん刈りづらいわけである。

コメント

とても疲れた1日だった

2025-06-28 23:25:08 | つぶやき

 簡単に考えていたら「簡単ではなかった」、ということは時おりある。想定外、ということになるのだろうが、歳を負うと想定外が多くなる。

 長野県民俗の会第246回例会の資料を今週に入ってから準備を始めた。いつも例会に参加いただく中心メンバーがみな参加できないということもあって、トータル4時間ほどをすべて自分で賄わなくてはならない。今回は「民俗地図を作る」がテーマだった。QGISを使って地図を作ることができる人たちがいないということは、「どのように進めて行ったらよいか」とこの期に及んで考え始めた。最初は前半はかつて利用した資料を使って、後半は新たな手法を紹介する程度でどうかと安易に考えていた。しかし、考えてみると今回はこれまで参加された方ではない、初めて関わる人たちもいる。いっぽうこれまでにも経験してきた人たちもいて、同じレベルで進めるにしても、まったくこれまでと同じでは、結果的に「今回もマスターできなかった」で終わってしまうような気がした。

 そこでQGISを開いてまっさらな状態から、繰り返しレイヤを貼り付けることをしながら、構造をなんとなく理解してもらおうと、かつて利用した説明書をそのまま利用するのはやめて、新たに作り直した。したがってこの資料作りに手間をかけていて、日記は再び真っ白になったというわけである。結果的に、資料の印刷が終わったのは例会の始まる20分前。両面で印刷しようとしたが、時間がかかるため、片面印刷で諦めた。ただ、大量な資料を会場に持ち込みながら思ったのは、こんなに資料があったら、再び開きづらくなってしまう感じ。どうしたらみんなに展開できるのか、苦労した割には、先が見えているような気がして疲れがどっと押し寄せた。これでは例会の説明ができない、とも思ったが、始めて見てわかったことは、後半部分は今回はなくても良かった、という感じ。前半分の説明を終えて、1日は終わった。それでも作った資料の内容だけはと思って、大雑把に内容について話して、例会は閉じた。

 とんでもなく疲れた1週間だったのかもしれない。家に帰るとまだ明るかったのに、そのまま横になってしまい、眼が覚めたら暗くなっていた。眼が覚めた時には、すっかり記憶が飛んでいて、時計を見て朝と勘違いしたほど。こんなに着かれたのは久しぶりだ。休日の炎天下で草刈りを必死にやった日より疲れた感が強かった。

コメント

味噌焚き(昭和63年の記憶②)

2025-06-25 23:04:39 | つぶやき

兵庫県和田山町へ(昭和63年の記憶①)より

 正確な日は定かではないが、同年5月8日に木曽谷の黒川へ行っており、そのネガの前に写り込んでいるのが、今回の味噌焚きである。生家の近くで味噌焚きをするというので、写真を撮らせてもらった。推定すると5月の連休中であり、当時は今のような暦ではなかったが、すでに4日は休日に挟まれたなかで休日にされていた。おそらく3日から5日の3連休あたりだったと思う。

 味噌焚きはかつては我が家でもやっていたが、当時はもう家で味噌焚きをしていなかったと思う。でもやり方はこの写真の通りだった。釜も味噌を潰す機械も、共同利用だったわけで、写真を撮らせていただいた家と同じ仲間だったと記憶する。

 

続く

コメント

兵庫県和田山町へ(昭和63年の記憶①)

2025-06-20 23:50:26 | つぶやき

 昭和63年4月30日は、遥北石造文化同好会の第5回例会だった。兵庫県朝来郡和田山町宮の円明寺を訪れるという内容だったが、その報告を『遥北通信』61号(昭和63年5月15日発行)にしているが、参加者について記載がない。記憶ではこの例会、結果的に参加者はわたし一人だったと思う。円明寺まで、当時は生家に暮らしていたから距離にして370キロほどあった。高速道を利用して5時間近くかかるという遠さである。当時のネガフィルムにはほぼ円明寺のものしか写っていないので、円明寺の守屋貞治仏だけを目的に向かったと思う。

 さて、本題の貞治仏については後述するとして、寺を後にした帰路で近在で何枚か寺以外の写真を撮っている。それが下記の写真である。1枚目は道標であり、左側に「左たんばみち」右側に「右やなせみち」と記されているもの。もちろんどこにあったものか位置は不明である。2枚目は鯉のぼりのあがる民家の写真を撮ったもので、この写真についてはわたしのホームページで紹介している。3枚目も同じく民家を撮ったものでかやぶき屋根だったことに魅かれて撮ったものと思う。いずれも白黒のため実際のイメージにはほど遠いかもしれないが、和田山町の農村の一コマだったと思う。

 

 

 和田山町は平成の合併によって朝来市になっている。その朝来市の文化財に指定されているのが守屋貞治の延命地蔵菩薩である。下記に文化財一覧にある指定説明を引用した。


石造延命地蔵菩薩像

朝来市和田山町宮

文政年間(1818~1830)頃 延命地蔵。
製作者である石工・守屋貞治 信州高遠 人で、名工として知られていた。貞治 信州上諏訪 臨済宗温泉寺 住職・願王和尚に師事し、和尚が同じく弟子であった円明寺 光隣和尚を訪ねてきていることから、そ 縁で貞治が造像にあたったも である。大きな蓮台 上、円光背を放ちながら錫杖と宝珠を持つこ 像 、但馬内 石造像 なかでも規模が大きくすぐれたも  一つである。なお、顔面に 、右目下から鼻にかけて、斜めに走る傷がある。石自体 もつ内部組織 粗い部分が、浮き出たも であるが、不思議なことに、願主 光隣和尚にも同じところにシミがあったという。和尚 、傷を消そうと苦心している貞治を慰め「シミ取り地蔵」と名づけて供養したそうである。今でも、アザやシミを取り除いてくれるお地蔵様として、近隣 人々 信仰を集めている。

 

昭和63年4月30日撮影

 

高遠町誌編纂委員会が発行した『石佛師守屋貞治』(昭和52年)にはこの石仏について次のように記されている。

 両側に芝を植えた石階をのぼると、二層の山門正面に「東河法窟」と願王筆の扁額がかかっている。山門を入るすぐ左側に、方二間瓦葺入母屋造りの美しい地蔵堂があり、中に貞治仏の延命地蔵大菩薩が坐す。面長で眼じりの長くつりあがったたくましい御相で、将に貞治円熟期の作。此の種の貞治仏には美男の相が多いが、これは手、足、骨格ともにガッしりした剛健なお姿である。
 右頬、鼻のつけねに傷がある。此の傷について貞治は、顔の中心部であるし、これを消すのに苦慮したが、願主光隣和尚は、「わしの頬にもシミがある。それは気にせんでもよい」と言われたとか。
 石材は一個の青石の丸彫りであるが、此の石の内部に組織のあらい処があり、他にも右掌にのせている宝珠の内側に傷が認められる。こんなことから此の地蔵尊は別名アザ取り地蔵とも呼ばれ、顔のアザやシミなどを取り除いてくれる地蔵様として信仰されている。六角台座の正面に「摩詞薩」向って右に「無仏世中金環」左に「聾動南北西東」末尾に「願王全提」と書印が押されている。その上に反花、六角の敷茄子と積み上げ、三重の蓮華座上に左膝を立てて坐す。
 地蔵堂の床下には十個程の巨石が並べられ、四周の石は床柱の礎石となり、床の中央には特に巨岩を据えて、その石が床面まで露出して、基壇以上がどっしりと据えられている。天井には棟札が打ちつけられている。

 天保五甲午春 三月十五日
 皇風永扇 帝道■(しんにゅうに「段」)昌 大工竹田幾右門
 大地蔵尊堂一宇建立 木挽宮村繁三郎 現住比丘眼光隣代
 仏日増輝 法輪常轉

 天保五年の三月、此の地蔵堂が建築された。この地蔵尊を納める為である。三面は引戸になって居り、丹念な彫刻を施してある。貞治作の大地蔵尊を納めるにふさわしい立派なお堂である。

というもの。現地の石材を探して彫られたものなのだろうが、たまたま鼻の脇にアザがあって苦慮したという。文政年代貞治50歳代に彫られたもので、願王和尚に連れられて円明寺を訪れ3か月滞在したという。

続く

 

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****