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地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

昭和58年9月29日、飯山市常盤の千曲川決壊

2018-06-26 23:29:13 | 歴史から学ぶ

 以前「昭和58年台風10号」について触れた。長野県内中で大きな災害が発生した例としては、最も現代人に記憶として残っている台風だと思う。

 

背後は高社山

 

 先日「ネガフイルムの劣化」について触れたところだが、この石仏がある飯山市福島地積の千曲川を挟んだ対岸に飯山市常盤がある。この常盤で千曲川の堤防が決壊して、広範に浸水被害を起こしたのが昭和58年の台風10号である。「昭和58年台風10号・後編」に掲載した新聞記事の見出し「またか!飯山 泥の海」は、前年にも常盤の対岸の飯山市木島で支流樽川の堤防が決壊し、大きな水害を被っていたからだ。同時期にわたしは飯山に暮らしていたことは以前にも触れた通りだ。飯山市福島の万仏山の石仏のネガを探していたら、この際の災害のネガにありついた。昭和58年9月30日の朝撮影したものだ。フイルムの劣化が著しく、傷が目立つ。同じころの自らの記録がないかと探してみたら、意外に簡単に見つかった。台風10号がまだ到来していない9月28日(水曜日)午前1時ころ次のように記している。

台風がやってくれば雨も降る。
だいぶ秋雨前線がやってきて降っている。
このところまともな天気の日はない。
仕事も忙しくなってゆくが、いろいろやりたいことも増える。木曽での「宿」の会合には、ぜひ出たいと思う。いろいろな人と会ってみたい。
そして金子さんに会えることも、期待している。いろいろな人との出会いが、この秋にやってきそう。

 雨の様子を危惧しているようだが、この後予定していた人との出会いに期待していた様子がうかがえる。「宿」とは文芸の同好会の発行していた冊子のこと。「金子」さんとは、かつて記したことがあるが、山梨県警の警察幹部の方だった。結果的にこの災害が影響したのか、「宿」の集まりには参加していない。

 また「飯山の水害」と題した10月4日の午前1時ころの日記には次のようにある。

 朝、補佐に起こされた。
 前日の28日、県内は台風10号崩れの温低のため、雨が降り続いた。ニュースを見るたびに、飯島の雨量の多さに、次第に心配になりもした。28日、すでに影響が出始めていた。
 29日、もう青空が出ていたが、起こされたとき、市内は賑やかであった。広報車が千曲川の水位を報じまわっていた。補佐は皿川の水が市街へ流れ込むかもしれないと竹田さんから電話があって、所長が事務所に行ったということで、これから補佐も事務所へ行くという。午前6時半のことであった。それからわたしも支度してテレビにかじりついた。午前7時半前、SBCテレビに「常盤の堤防決壊」と表示された。深刻さに気づかされた。まもなく、「天竜川中川村飯沼の堤防決壊」という報道もあった。「伊那谷も荒れている」、そう思った。

(中略)

 昼過ぎ、補佐、竹田さん、畔上さんと車で様子を見に出た。飯山国際の所から見たとき、木島には入っていないと分かった。その後小塩のスキー場の頭まで行ってみた。同じように様子をうかがいに来ている人がいた。水は外様の方へ流れ込んでいて、決壊箇所は明らかに3箇所見えた。右岸の柏尾の方へも入っていた。山を下り、外様の方へ行くと、決壊した水がすぐそこまで来ている隣の田で、急いで稲を片付けている人たちもいた。長峰丘陵の上で気づいたことは、国道117号の上、2メートルほど浸水しているのがわかった。

 このスキー場で撮影した写真が、これらの写真である。

 

信濃毎日新聞 昭和58年9月29日朝刊

 

 新聞記事は9月29日朝刊のもの。県内での災害の状況を伝えているが、もちろん堤防が決壊したのはこの新聞が配達されたころのこと。天候も回復し、県内の災害の状況もおおよそ判明したころに、飯山市常盤の千曲川は決壊したのである。

 

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上信国境碓氷嶺熊野皇大神社の石造物

2018-05-24 23:16:24 | 歴史から学ぶ

 軽井沢町の碓氷峠頂上にある熊野皇大神社を訪れたのは、昭和62年5月15日の祈念祭の時だった。この神社は碓氷峠を境に、長野県側と群馬県側に分かれていて長野県側の社を熊野皇大神社、群馬県側の社を熊野神社と言われることで知られている。かつて『遙北通信』に次のような報告をしている。

 

上信国境碓氷嶺熊野皇大神社の石造物 (『遙北通信』第39号 昭和62年7月12発行) HP管理者

 5月15日に北佐久郡軽井沢町の熊野皇大神社へ神楽を見に訪れた。

 軽井沢駅から北へ向かい旧軽ロータリーを右折し、旧軽井沢銀座を至て旧碓氷峠へ登るとそこに熊野皇大神社がある。

 長野・群馬両県にまたがっている珍しい神社で、古来、碓氷峠の権現様と呼ばれて旅人から親しまれてきたが、明治維新の折、熊野皇大神社と改められた。

 

 

 ここには「石の風車」・「狛犬」・「多重石塔」などの石造物もあり、祭典の折に訪れてみるのも良い。

 「石の風車」は元禄元年(1688年)の建立。軽井沢問屋佐藤市右衛門及び代官佐藤平八朗の両人が、二世安楽折原のため当社正面石だたみを明暦3年(1657年)築造した。その記念にその子市右衛門が、佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものである。

 秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として親しみ、

  「碓氷峠のあの風車
      たれを待つやらくるくると」

と、追分節にうたわれて有名になった。

 「狛犬」は明徳年間(1390年)の作と伝えられ、あ(右)うん(左)の一対姿態きわめて素朴であり長野県内で最も古いものである。因に、石造としての狛犬で古いものは奈良・東大寺の南大門に置かれている鎌倉初期建久7年(1196年)のもので、在銘として古いものは南北朝時代前期の文和4年(1355年)の京都府大宮町・高森神社のものである。

 「多重石塔」は6層のもので、約620年前のものである。

 

 

追記 モノクロフィルムをスキャンしたものの、イマイチでした。

 

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明治温泉へ誘う観音

2018-04-11 23:14:28 | 歴史から学ぶ

 平出一治氏が「埋まっていた「庚申」」を報告した『遙北通信』110号へ、わたしは茅野市の湯道観音のことについて報告している。写真を撮影した平成2年3月9日は、前日より京都市の高木英夫氏とともに八ヶ岳山麓に入り、前日は明治温泉に宿泊したと記憶する。文中にあるよあに、「右作場 左明治温泉」と刻まれるように、まさに湯地場へ誘うために造られた観音であることがわかる。

茅野市湯道観 (『遙北通信』110号 平成3年5月1日発行) HP管理者

 観世音菩薩は三十三種の変化身でこの世に示現すると『法華経普門晶』(『観音経』)に説かれるところから、観世音菩薩を本尊として祀る三十三力寺を巡礼する者は功徳が得られると信じられた。こうした観音倍仰から、紀州那智山・青岸渡寺を第一番とする西国三十三カ所の巡礼が平安時代未ごろから始まった。その後、巡礼の盛行に伴って坂東三十三カ所や秩父三十三カ所(のちに三十四カ所になる)などが開かれた。地方にも西国三十三カ所や板東・秩父になぞらえた三十三カ所観音や西国・板東・秩父をあわせた百番観音も作られるようになった。
 長野県茅野市の蓼科高原一帯の温泉地には渋温泉道・滝の湯道・明治温泉道の三通りの三十三番観音が作られている。温泉への案内役といったところで、「湯道観音」などと呼ばれ親しまれている。古くより湯治場として栄えた温泉に行く道筋の松の木の根元や、大きな自然石の上、あるいは適当な石や木が無いと石を四角に刻んだ台座を設け、ほぼ等間隔に安置されている。
 これら三つの湯道観音は江戸後期に最も栄えた西国三十三カ所のお寺の本尊を刻んでいる。当時、仏教興隆に併せたように湯治客も多くなり、その様子について渋之湯では1日4、500人も来て、泊まる所が無く、止むを得ず日帰りをしたと、高島藩の郡方日記にしるされている。
 当時の里謡に次のように唄われている。

  飲んで見たかえ 渋沢入りの
    親は諸白 子は清水
  一の坂越し 二の坂越して
    三の坂越しや 強清水
  渋の湯の湯壷の中で
    話し置いた事 忘れない
  蚕あがれば 渋湯か滝へ
    連れて行くから 辛抱しろ

 このように、三十三番の観音を拝むことで三十三カ所の霊場を巡ったと同じ功徳があると信じられていたわけで、それと同時に温泉への道案内と旅の安全祈願までしてくれたわけである

・渋温泉道三十三番観音
 三つの温泉道三十三番観音の中では渋温泉道のものが古く、文政年間(1810~30)、当時渋之湯の揚請人(註1)をしていた糸萱新田の条左工門、惣五郎が施主となり、笹原新田の有力者堀内磯右工門が世話人となって、5、6年間にわたり寄進者を募り建立したものである。甲州・武州・遠州など全国各地の篤志家の寄進により建立されており、この頃にはすでに渋之湯は薬湯として全国に知れわたっていた。
 当時の渋之湯道は現在の茅野市湖東、中村、山口、北芹ケ択糸萱を経て、一之坂、二之坂、三之坂、強清水を通り渋之湯まで通じていた。一番観音は一之坂の合流した所に安置され、三十三観音は渋の湯の入口に建立された。なお、一番観音は現在笹原部落の辻の公園に移されている。
 建立された当時の観音の製作者は不明であるが、彫りの違い等から者えて4、5人ぐらいの石工によって彫られたものであり、また観音の材料の石質から、おそらく近くにあった石を使い現地で制作されたものと推定される(註2)。
 なお渋之湯は天文5(1536)年にすでに存在し、相当に名が知られていた(註3)。信玄のかくし湯ともいわれている。

 

 

・明治温泉道三十三番観音
 明治之湯は天保年間に両角与市右工門が発見して開湯したが中絶しており、明治元年に再開揚して、明治12年に「明治之湯」と命名した。
 明治35年(1902)頃、明治温泉の道案内として、当時の経営者であった南大塩の宮坂宗作が施主となり、笹原区、南大塩区等地元部落の人達がおもに現茅野市内の篤志家の寄進により建立された。
 一番観音は「右白井出 左明治温泉」と刻まれており、笹原部落の辻に安置されている。写真の三番観音には「右作場 左明治温泉」と刻まれており、三十三番観音は明治温泉前に建立されている。石工は不明であるが彫り具合等から同じ石工の制作と考えられる(註4)。

・保存復元
 渋温泉道や明治温泉道の観音は仏教の衰退に伴い、欠損紛失にあい昭和56年、奥蓼科観光協会によって保護復元された。復元にあたって当初同様篤志家の寄進により、岡崎市の石工戸松甚五郎の手により製作された。復元された観音は、渋温泉道が15体、明治温泉道が11体であった。

  註1.江戸時代には渋之湯は領主の直轄地であったので、高島藩は希望者を募り、入札により湯請人を定めて運上(営業税)をとって経営させていた。
  註2.『湯みち観音』北沢栄一著 草原社 昭和59年刊
  註3.『諏訪史料叢書』巻14
  註4.註2に同じ

 

 

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埋まっていた「庚申」

2018-04-10 23:55:46 | 歴史から学ぶ

繭玉か、陽石か」より

 平出一治氏は、平成3年5月1日発行の『遙北通信』110号に「資料紹介」として次のような報告をされた。

原村で「庚申」文字碑を発掘 (『遙北通信』110号 平成3年5月1日発行) 平出一冶

 

 

 1年前の平成元年10月23日に、郷土史家中村久太郎さんから払択区で庚申塔が発見されたことを聞き、25日に払択区役所を訪れ区長さんから聞いた経過を紹介してみたい。
 払択区のほぼ中心にある辻には、右から石燈篭・御嶽山(高さ約2m)・駒嶽神社(約3m)・天照皇大神宮(約4.4m)・象頭山(約2.8m)・月山羽黒湯殿山三山大権現(約4.2m)蠶玉神社(約4m)の大きな文字碑が祀られ、その周囲にはしっかりした玉垣が作られている。しかし、長い歳月を経てその痛みも甚だしくなり、主要道路に面していることから安全と美観維持のため、払沢区では平成元年6月に修復工事を茅野市穴山の守屋石材店に依頼した。その工事の折に庚申・駒嶽□(下部を欠損)・□訪大明神(上部を欠損)の文字碑3基が発見された。しかし、それらの石碑を知る人はいなく、かなり古い時期に埋もれたものであろう。
 紹介の資料は、6月28日に玉垣より外の畑地との境に、碑面を下にして埋まっていたものである。御嶽山と駒嶽神社の祀られたが、自然石(碑面を僅かに加工しているか)に「梵字 庚申」と刻まれたもので、高さ43.5cm、幅33cm、厚さ12cmを計る。銘文は次のとうりである。

  銘文 (碑 面)     寛政□
           梵字 庚  申
               仲 冬

 なお、御嶽口と□訪大明神は、7月6日に玉垣内の大きな石碑の間に埋まっていたのを発見した。駒嶽口は御嶽神社との間に、□訪大明神は月山羽黒湯殿山三山大権現と蠶玉神社の間にそれぞれ祀ってある。


以上のようなものであった。そもそも埋まっていた石碑は、なぜ埋まっていたのか、状況がよくわからないが、自然に埋まってしまったということはなかなか考えられないことから、埋められたものなのかどうか。

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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こんぼった石

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“寒念仏”塔

2018-02-01 23:30:51 | 歴史から学ぶ

 

 伊那市高遠町あたりを走っていると、石仏群の中に「寒念仏」と刻まれた石碑をよく目にする。よそではこんなに目立たないのに、ここではよく目に留まる。それは高遠町だけに留まらず、伊那市でも天竜川東岸では顕著に「多い」という印象を持つ。本当のところどうなのか、『伊那市石造文化財』(昭和57年 伊那市教育委員会)の石造物一覧を探ってみる。すると念仏塔に類するものが265基あり、そのうち約5割にあたる128基が寒念仏を記す供養塔なのである。そもそも念仏塔はこの寒念仏と、念仏塔の2種がほとんど。とはいえそれほど寒念仏をほかの地域で印象深く見た記憶がない。寒念仏について伊那市内の地域別を見てみると、最も多いのはやはり天竜川東岸域にあたる富県であり、26基を数える。次いで25基の西箕輪であり、こちらは西岸の山付け。市内全域に分布しているが、当時は高遠町は伊那市ではなかったため、高遠町や長谷村の総数はわからない。

 最も古いものは元禄2年のもので、伊那市芦沢の旧道辻に建つ。古いため今ではその銘文をはっきり読み取りにくいが、「元禄二」の文字ははっきりとわかる。主文は「奉修寒念仏」という。伊那市内にある銘文のある石造物の中では、元禄2年(1689)は古い方。伊那市芦沢も隣は高遠町の街にあたり、やはり高遠町に近いところに寒念仏が特徴的に見られる印象がある。古いものでは次いで東春近の宝永3年(1706)、美篶の宝永4年(1707)、伊那の宝永6年(1709)と続く。1700年代から1800年代前半にかけて建立されており、江戸時代に流行った民間信仰と言えるのかもしれない。

 寒念仏は「寒夜に諸所を巡りながら鉦をたたき念仏を唱える行法と、村堂に講中が集まって和讃、念仏を唱える」二通りがあったという(『日本石仏辞典』庚申懇話会編)。そして「元来僧侶の修行の一つで、実践的には難行であり、春秋の温暖な時節の念仏行より功徳が大であると信じられて、民間にも行なわれるようになった」ようだ(前掲書)。季語にもなっている。とはいえ、民俗としての伝承はほとんどなく、その割にこの造塔数は夥しい。

 写真はちょっと変わった字体の「寒念仏」である。「文政弐己卯」(1819)年のもの。高遠街引持の集会所の横にあるもの。それこそかつて引持の「事始め念仏」について触れたことがある。

 

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生坂村小立野入の庚申塔群

2018-01-22 23:02:35 | 歴史から学ぶ

庚申塔群

 

大正(再建)の庚申

 

開道記念碑

 

 「廃村へ分け入る」で触れた生坂村小立野入。すでに住んでいる人はいない。入口に近い道沿いに集会施設がある。これもまた近年利用した雰囲気はないが、これが庚申堂となっている。『生坂村誌歴史・民俗編』(平成9年 生坂村誌刊行会)に庚申講の実施状況調査の結果が掲載されている。それによると小立野入について戦前には7つの講があったといい、現在もひとつの講が実施しているとある。平成6年に調査されたものと言うから、今から25年近く前のこと。当時は小立野入にまだ家々があったということなのだろうか。それとも地区外から講のために戻ってきたのかは定かではない。この庚申堂について堂の外に建てられている看板に次のようにある。

元禄11年(1698)小立野入には小池峰に聖堂、清久保に観音堂、八重沢に阿弥陀堂、正徳元年(1711)泥沢に阿弥陀堂があった。明治時代には観音堂と阿弥陀堂のみとなり、42年に合併して庚申堂とし建立。昭和48年公民館として新築、観音堂の逗子(空殿)を残して仏像は乳房堂へ移す。

小立野入のすべての堂の最終形がこの庚申堂だったということになるだろうか。

 庚申堂の東側に道に面して12基の石碑が並んでいる。うち9基は庚申塔であり、これがもともとここに集められて祀られたかは知らないが、説明板にもあるように、これだけ多くの庚申塔が並んでいるということは珍しい。古いものから順に①元禄三庚午年(1690)、②享保三戌年(1718)、③享保十二丁未年(1727)、④寛延三庚申年(1750)、⑤宝暦二壬申年(1752)、⑥安永八亥年(1779)、⑦万延元年庚申年(1860)、⑧大正九庚申年(1920)、⑨昭和五五庚申年(1980)となる。最も古い①は石祠型である(写真奥から3基目)。また、大正9年ものは再建だそうだ。写真がそれであって、字体が変わっている。昭和55年のものを建てた際に対象の物も再建したといい、両者ともに字体が変わっている。

 最も奥に立っている碑は「開道記念碑」である。併記して「東筑農学校」とある。昭和19年12月に建てられたもので、当時生徒約40人が勤労奉仕で泥沢と鷲穴へ2週間分宿して泥沢下まで天神沢の道路拡張工事と農作業に奉仕したという。説明板には「生徒の刻んだ貴重な戦時中の開道碑」とある。生徒が刻んだからなのだろうか、確かに文字の彫りは稚拙さが見られる。

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造立年号を刻まない理由

2017-11-12 23:38:04 | 歴史から学ぶ

 発行の決議がされてからすでに2年ほど経過する。ようやく「長野県道祖神碑一覧」の校正が始まり、体裁を整えたうえでの発行となる。『長野県中・南部の石造物』に添付された道祖神一覧の校正ミスへの指摘から始まった今回の事業。みな忙しい合間をぬって作業を進めたから、時間を要したのは致し方ないとして、おそらく引用文献を明確にして一覧化したとしても、「ここが違う、うそこが違う」という指摘は受けるだろう。これが民俗的発想で作成した仕方ない面だと思う。ようは、データの正確性を求めたものではないということ。正確性を求めるならすべて悉皆調査を自ら行わざるを得ない。あくまでも基礎資料をもとに一覧化するというもの。そうしたものが今までなかったから、やることの意味は大きいと考えた。しかしながら道祖神というマイナーながらその世界ではメジャーな存在が故に、詳しい人たちには「何だそれ」みたいなものなのかもしれない。

 初校の締切が過ぎたのに、いまだチェックをしているわたしは、結果的に担当されたエリアをすべてクリアーできず、他の方に手伝ってもらったしだい。今年は少しくらい余裕が出るだろうか、と思っていたらむしろ昨年以上の生業の忙しさ。部署が変わったということも響いた。

 さてそんななか担当した町村のデータを見直していて気がついたのは、なぜ石造物を建てたのに年号を記さないのか、ということ。たとえば北安曇郡池田町の道祖神を見たとき、73箇所(「体」と言いたいところだが、自然石などのものに複数1箇所にまとめられているものがあるためこう表記した)の道祖神のうち、年号が刻まれているものは半数の35しかない。寄進者が自ら彫るという例は少ないだろうから、石工などに彫ってもらったと思われるもの。それなら造立年くらい最低でも刻みたいものなのだが、それがない。とりわけ馬頭観音のように個人で建てたものならいざしらず、比較的集落のような集団で建てたものが多い道祖神に年号が刻まれないのが不思議だ。もちろん年号が刻まれないものは道祖神に限るわけではないが、今もって信仰対象として篤く祀られている道祖神にもかかわらず、年号が刻まれなかった。昔の人々にとって年号などさほど意味を持たなかったのかもしれないが、裏を返せば半数のものには年号が刻まれている。おそらくこの年号を刻むというあたりも地域性のようなものが反映されているのかもしれない。そう考えると確かに池田町の中でも、ある集落ではほとんど年号が刻まれていなかったりする。これは造立された場所、あるいは祀られている場所の統計的な中でも色濃いものが見えるのかもしれないが、そうした視点で石造物を見ている報告は見ない。

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田切駅

2017-11-10 23:30:01 | 歴史から学ぶ

カーブを過ぎた左手に今はホームがある

 

右手に駅舎があった。今はここに記念碑が建つ

 

駅へ向かう坂

 

 昼食時に近くにあったかつての駅を訪ねた。わたしの記憶の中にある駅は、最寄りにあった駅はもちろんだが、あと二つ、母とよく利用した駅だ。とりわけ母の実家に行く際に利用した高遠原の駅は当時から無人駅だったと記憶するが、母の妹が暮らしていた田切へ行く際に利用した田切駅は有人だった。高遠原にくらべると、利用した回数はくらべものにならないほど少なかったが、記憶では店が立ち並ぶ辻から旧坂を上ると駅舎があって、見通しの悪い急カーブにホームはあった。あまりに急カーブのため、3両編成の列車だと車掌が安全確認ができず危険だということで、駅は昭和59年に南へ移転された。当時移転したことをまったく知らなかったが、そののち田切駅に近いところに一時住んでいたこともあって、その時は最寄りの駅が田切駅だったので、移転された田切駅をよく利用するようになって、移転されていたことを知った。その移転された駅が冒頭の写真である。写真は旧駅があった現在の「田切」踏切から撮ったもの。まったく知らなかったが、この踏切のあるところは旧道にあたり、ここを西山に向かう道を「町谷高尾道」と言うらしく、踏切の西側に道標が建っている。この踏切まで坂を上ってくると、右手に駅舎があった。今はそこに「田切駅舎跡記念碑」というものが建っている。背面には次のように刻まれている。

 田切駅は大正七年二月伊那電気鉄道株式会社により軌道が開通された時に山田織太郎翁の尽力により開設された
 田切駅舎(二十五坪)は 山田織太郎翁が大正十四年十一月六日倉澤泰十郎より当地を借り建築する 初代駅長は倉澤泰十郎が任命される その後代々倉澤 山田家の関係者により継承す
 昭和五十九年六月一日 田切駅の移転に伴い廃駅となる
 平成九年六月一日
     山田洋三郎
     倉澤勘一  建之
        山田久子書

 駅舎の地権者である倉澤家が駅長となり、後にも駅の継承に尽力した。開通当時の駅舎はおおかた地権者などによって維持されてきたということなのだろう。路線選定の背景にもさまざまな伝承があって、興味深い話は多い。

 かつて坂を下ると辻に店が並んでいた。ここで手土産を買うと、母の妹の住む家に向かった記憶がある。もちろん今は辻に店は1軒もない。もう20年ほど前のことになるが、仕事でこの地域を盛んに訪れていた。あのころはまだこの辻に店があって、飲み物を調達するのが日課だった。

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水難除け

2017-09-17 23:56:04 | 歴史から学ぶ

 

 4月に「石尊信仰の今を訪ねて」を記した。石尊というと「東信」という印象がわたしにはあったが、それは南信ではあまり耳慣れない信仰であったからだ。4月の石尊信仰を訪ねた例会後に巻山圭一氏が「長野県民俗の会通信」259号へ例会報告をされた。その中で「私にとっての地元、松本・安曇野近辺ではあまり「石尊講」「大山講」というのは聞かないと思っていたのだが」と記しながら、実は松本でも犀川流域や松本市内に石尊信仰が展開していたことについて触れている。

 先日来安曇野市重柳を繰り返し訪れているが、重柳の八幡宮の境内に「石尊大権現」の大きな碑が建っていることに気がついた。向かって右側に並べて「大天狗」、左側に「小天狗」と刻まれている。背面には「天保二辛卯歳 二月吉日 村中」と刻まれている。前傾の巻山圭一氏の報告の中に『松本市史』民俗編の記述から引用した事例がある。それによると女鳥羽川が田川と合流する岬状の地点に、石尊神社(石尊大権現)というお宮があるという。周囲は公園に整備されていて、「犀川通船船着場跡」という石碑が建っている。この犀川通船が信州新町まで開通したのは天保3年だったという。このことについて巻山氏は合流地点という立地から「洪水や氾濫を防ぐために石尊神社が祀られ、石尊講があって、大山にも代参がなされたものであろう」と述べている。そう考えると重柳の中を流れる中曽根川は、旧犀川河床だったともいうから、犀川通船開通のころ建てられたこの「石尊大権現」も水難除けを意図したものだったのかもしれない。

 

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100年に一度の水害

2017-08-14 23:34:32 | 歴史から学ぶ

 『高井』200号(高井地方史研究会 8月1日発行)において、金井晃氏は「昭和五七年飯山市木島地区、昭和五八年常盤地区の千曲川大水害」のことについて触れている。200号を記念して「昭和の自然災害特集号」を組んだ同誌には、このほか歴史上の水害を中心に報告が並ぶ。その中にこの昭和57、58年の水害に関する記事が複数あることからも、この2年続きの大水害が、地域の人々の記憶に強く残っていることがうかがえる。

 同水害については、この日記でも何度か触れてきている。具体的に記したのは「台風18号」が最初だろうか。翌日「台風とともに北上するという経験」を記した。そして再びと題して記したのが昭和57年の水害を扱った「ふたたび台風18号」である。当時の新聞記事もとりあげた。さらに、翌年の水害については「昭和58年台風10号・前編」「昭和58年台風10号・後編」で扱った。毎年9月になるたびに、わたしも思い出す水害である。以前にも触れたように、仕事が大いに多忙となったことはもちろんだが、まだ若かったわたしには災害復旧に関わるにはまだ日が浅かったにもかかわらず、多忙が故に一人前の仕事が割り当てられて、右往左往というか、人に教わりながらこれら災害の主たる災害現場の復旧に携わった。何といっても昭和57年の樽川堤防決壊のうち、下流側の戸那子排水機場脇の決壊現場を担当した。20代前半の若造に指図されて働いていた役所の方たちは、文句も言わずわたしの言うことを聞いてくれた。高井という広域エリアにおいて、人々の記憶に残る水害に、それも2年続きの災害に見舞われた際に飯山に居たという事実を、あらためて教えてくれる『高井』200号なのである。金井氏はこうも記している。「私たちの仲間内の会話では「昨年は100年に一度と言っていたが、どうして二年連続となるんだ。…100年の最後と100年の最初だな」などと皮肉も言う人もいた。」と。金井氏も言うように、その後目立った水害が飯山など千曲川の岳北流域で発生したことはない。

 「ふたたび台風18号」における市報「いいやま」の災害特集号の表紙でも解るように、昭和57年の台風18号災害では、取り残された住民がボートで救出された。金井氏は消防団としてそうした救助活動に加わったといい、「あるお婆さんを抱きかかえボートへ救助した折、「こんな目に遇うんだったら早く死んだ方が良かった」とも言われ、励ましたことが思い出される。」と語っている。700戸以上の床上浸水を見ながら、一人として犠牲者がなかったというあたりが、水害常習地域である長野県内に住まう人々の常日ごろの備えなのかもしれない。そう考えると近年水害が少なく、こうした大水害から遠ざかっているこの頃でもある。

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小布施の大日如来

2016-11-05 23:54:30 | 歴史から学ぶ

川谷から流されたという大日さま

 

満海和尚の大日如来

 

 小布施町福原の集落内を通る道の脇に立派なお堂があって、その中に赤い前垂れをつけた大日如来が安置されている。「子育ての大日さま」と呼ばれているらしく、信仰の篤さが伝わる。堂内掲げられている説明版によると、背部に「寛永八年七月五日」と刻まれているというが、はっきりとは解らない。寛永8年といえば1631年。江戸時代に入って二つ目の元号である「寛永」、古いことがそれだけでも解る。右肩に「信州」とあると書いてあるので確認してみると、確かに「信州」らしき文字が。そもそも「信州」という銘文はそれほど見かけることはない。福原村の成立が寛永8年だったというから、村の始まりからこの大日如来があることになるが、『小布施町の石造文化財』によると、「川谷より拾ってきた大日さん」とある。説明版にも「もとは鳥居村川谷の地蔵の浦という所に祀られていた如来さまで、大水害の時流されたもの」とある。鳥居村とは現在の飯綱町、旧三水村にあたる。川谷は鳥居川に沿ってある集落だ。ようは福原村の始まりとは無関係だということ。たまたま流されて塩原村にやってきたというわけだ。そのことについて「享和元年(1801)、その時の吉田家の戸主・金七という人に、夜な夜な夢枕に、如来さまのお姿が現われて、、「われを救い上げよ、われは福原へ行きたい。そして四月二十日を以ってわれを祀れ」というお告げがあったので、ある分家を共に、朝早く行って見たところ、鳥居川で石を枕にして、如来さまが寝ておいでになられた」という。

 安山岩に彫られた大日さまのお顔はなかなかのもので、目も鼻も口も、凹んだところがそれらしい。いたずらなのか、それとも信仰なのか、左頬のあたりに朱の色が残る。堂の正面には「大日堂」と掲げられている。前掲書には次のようにも書かれている。「大変子どもが好きで、堂はいつも子どもの遊び場であった。しかし、いたずらが過ぎるので、格子戸を作って子どもが入れないようにしたところ、家人が相次いで病気になった。そこで格子戸を取り外したら病気が治ったので、今もって堂には格子がない。」

 小布施町をまわっていると大日如来がよく目に付く。同じ福原の大日堂から少し北に行ったところ、観音堂の前にある覆屋の中にも大日如来が安置されている。こちらは前掲の大日さまと違って信仰は廃れてしまったのか、覆屋の前の空間は伸びきった蕨が鬱蒼としている。こちらも彫りそのものは単純で、顔の表情ものっぺらとした感じだが、背面に銘文が。何と前傾の大日さまと1年違いの建立。「寛永七庚午」とはっきり読み取れる。さらに「小布施村 開山圓空満海法印 十月廿五日 小林氏」と続く。やはり前掲書によると、福原新田を開発したという小林弥左衛門こと、満海和尚の姿を彫ったものという。ここでちょっと違和感のあるのは「小布施村」である。もしかしたらこの銘文は、後世に彫られたものではないだろうか。

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小布施町「押切」

2016-10-09 23:45:42 | 歴史から学ぶ

 小布施町の押羽(おしは)というところに、「千曲川大洪水水位標」というものがある。実は千曲川流域にはこうした過去の洪水の水位を示した標柱があちこちにあるという。それだけ洪水の常習地域だったということになるだろう。以前にも触れた旧豊田村上今井の千曲川ショートカットなどは、明治初期の大工事だったわけだ。今では旧河川敷となっている地に千曲川の洪水が上がったのは、もしかしたらわたしが災害復旧に入った昭和58年の水害が最後なのかもしれない。

 前述の標柱がある小布施町の町史によると、上流の村々が嘆願書を出したのは明治3年だったという。それぞれの管轄藩県に提出されたといい、それによると現在の小布施町も管轄が入り組んでいた。矢島や押切、あるいは北岡・雁田といった地域は伊那県支配だったようだ。「半円形に湾曲している河身を、直流させるための新川を掘り開いてもらえるならば、総工費の六割を負担してもよい」というものだった。この嘆願書に上今井の人々は驚いたことだろう。田家の真ん中を断ち割って新川を切り拓くというのだから、反対運動が起こったのは言うまでもない。しかしこの大事業は断行され、明治5年4月に完成している。しかし完成後数年間は洪水をまぬがれたが、間もなく被害がひどくなったという。浚渫が行き届かず再び上流側に湛水したということなのだろう。

 さて、押羽にある水位標であるが、この水位は下流の立ヶ花の量水標を示したものという。最上部は寛保2年(1742)8月2日のもので、10.9メートルの高さに示されている。ついで明治29年(1896)7月20日のもので9.7メートルを示す。前述の千曲川の新川が造られた以降の水害にあたる。まだ堤防が未整備だった時代には、下流のショートカットだけでは解消できなかったということだ。大正時代に作成された『延徳村農業水利改良計画書』によると、立ヶ花の量水標が8尺にのぼれば、篠井川(小布施町の延徳田んぼの最北端にある川)はしだいに逆流し始め、13.4尺において最も甚だしく、16尺に至れば篠井川のみならず、千曲川沿岸の無堤地より外水が盛んに浸入するとされていた。明治時代には11尺以上の増水が25ヵ年で35回発生したと言われる。ちなみに、水位表の3番目に記してあるのは明治43年(1910)8月11日のもので8.3メートル、4番目は弘化4年(1847)3月24日のもので8.2メートル、5番目は明治30年(1897)9月7日のもので、7.6メートル、最下段のものが明治元年(1868)5月8日のもので7.3メートルを示している。

 水位標は南を向いており、向こう側に見える家々の北側に小さな段丘があって、その向こう側に水田がある。小布施町ではかつて水田であったところにも果樹がだいぶ植えられて稲穂の波はなかなか見えなくなってきているが、いわゆるその水田は延徳田んぼの延長上にある。明治時代の洪水によるものなのだろうが、この標柱から北東へ500メートルほど行ったところに上下諏訪神社がある。押羽の集落には、この上下諏訪神社のあたりに住んでいた人たちが移住している。同じように篠井川の傍に矢嶋往郷神社があるが、このあたりにも集落があったというが、現在小布施側のそこに家はない。このあたりに住んでいた人たちは、矢島に移住したという。ようは段丘上に集落はみな移転したのである。上下諏訪神社の入口に「上下諏訪神社」と刻まれた石柱が建っているが、その背面に「昭和九年十月 押切浅野境界 確立記念」と刻まれている。このあたりにあった集落は、押切(おしきり)と言ったようである。標柱の下に小さな五輪塔がいくつも並んでいる。この地がいったいどんなところだったのか、そのあたりまでは調べていない。

 

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上波田へ

2016-06-07 23:14:58 | 歴史から学ぶ

「稲核へ」より

線彫り閻魔王(天正2年)

 

 最後は旧波田町上波田へ。若澤寺は行基によって奈良時代に創建されたという寺で、上波田の集落の南西側にそびえる白山山頂に当時は建てられていたという。江戸時代には「信濃日光」と呼ばれたと言われ、そのころには現在の若澤寺跡の位置まで下がっていたという。しかし明治4年の廃仏毀釈令によって寺は取り壊され、石垣を残すのみとなった。廃寺によって建物などは破壊や移転され、散在している。重要文化財指定されている田村堂は、麓の阿弥陀堂の横に移され、近くには仁王門が移された。

 麓には上波田の家々が密集しているが、ここは旧野麦街道が東西に通っていた。いわゆる家並みは町割を示し、稲核同様に集落の中程でクランク状の道を見せる。上波田については「御柱を倒す」や「正月の柱立て」で触れたように、2年ほど前に盛んに訪れた。「御柱を倒す・後編」で紹介した道祖神は、旧若澤寺仁王門の前に安置されている。仁王門は長野県宝に指定されていて、例年4月の第3土・日曜日に「仁王門の股くぐり」が行われている。仁王の股の間を子供がくぐると、麻疹が軽くすみ丈夫に育つといわれる行事で、毎年テレビのニュースで放映されるほど知られている。この仁王門の前、右手に供養碑が立っている。「若澤道供養紀」と刻まれた碑のセンターには梵字が刻まれている。「天正三五月」とあり、1575年というこのあたりでは古いもの。市の重要文化財に指定されているものだが、実はこの仁王門周辺には同年代の石碑がいくつも散在している。最も古いものが、「天正二年七月吉日甲戌」と彫られた線彫りの閻魔王坐像である。若澤道供養碑よりも1年早いもので、少しユニークな閻魔さまである。これも市の重要文化財に指定されているもので、像の向かって左手には「本願越前住經聖」とあり、越前の僧が若澤寺へ巡拝した際に建てたものと言われる。このほか若澤寺跡まで登る参道の道筋に、高さ70~130cm前後の丁石10基が残されていて、阿弥陀堂前にいくつか移転され安置されている。いずれの碑も上部に阿弥陀三尊の梵字が刻まれており、建立年銘はいずれも同日の「寛永十二年」(1635)の「六月吉日」である。

 さて、最も古い天正2年の閻魔王、線彫りは浅い彫りで、通常この程度の彫りのものとしては風化が進んでいない。天正3年銘の供養碑もそうだが、いずれの古い石碑も年銘の割に風化の進度は浅い印象。果たして450年近く前に造られたものなのだろうか、と少しばかり疑問を抱くが、若澤寺そのものの歴史は古く、とりあえず疑問程度におさめておくことにする。

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野麦街道へ・後編

2016-05-26 23:34:33 | 歴史から学ぶ

野麦街道へ・前編より

 

扇屋

 

 扇屋は川浦にあった女工宿(藩の役人も泊まったという宿)を移転復元したもの。入ってすぐの右手にマヤがあり、尾州岡船の奈川牛の道中姿が再現されている。「尾州岡船」とは尾張藩からもらった特権で、その鑑札を持って旅をすると宿継ぎ、荷継ぎといって金銭がとられることなく、出発から終着まで一気に行けたという。そういった稼業が発達したので、奈川の人たちにとって牛は人間と同じくらい大事にされた。マヤの奥には仕事場があり、やはり「蕨粉づくり」が再現されている。貧しかった奈川では、食料の不足を補うために「蕨粉」を作ったようで、売れるようになると米の3倍の値段で売れたという。「蕨粉」とは蕨の根っこを叩きつぶすと白い汁が出てくる。これを干したもので、糊として利用され機織り産業の盛んだった桐生や甲府の方に尾州岡船によって出荷された。

 ほぼ中央に囲炉裏があり、奥の味噌部屋には屋根裏へ上がる階段がある。また、囲炉裏のある間から表側の「しもで」の屋根裏に上がる階段があり、ここを「隠し部屋」と言うらしいが、むしろ味噌部屋の上にある空間の方が「隠し」部屋のような趣だった。女工宿とはいうものの、それは明治以降製糸産業が盛んになってからそう呼ばれるようになったもので、それ以前は旅人の宿だったよう。現在この建物を管理されている女性は、江戸時代尾州藩領の旅人宿として、また製糸業が盛んであった明治・大正時代には飛騨高山方面から岡谷・諏訪地方へ製糸労働のため往来した工女の宿だったという宝来屋の娘さんだという。宝来屋は扇屋と同じ川浦にあった建物で、現在松本市島立の松本市歴史の里内に移築され公開されおり、扇屋と違って一度に100人以上の工女が泊まれたほど大きな宿である。

 

六地蔵

 

南無大慈大悲観世音菩薩

 

 扇屋から700メートルほど下ると川浦集落に入る。道が分岐するところの右手に墓地があり、その横にふた棟の覆屋がある。このあたりに製材所があったようで、「製板の川原」と言われたようだ。覆屋のひとつは六地蔵が納められたもので、赤い帽子と前垂れが目立つ。前垂れに書かれた文字を見ると「上尾市」とあり、ずいぶん遠くの寄進者である。もうひとつには2体の石仏が祀られていて、1体はやはり前垂れをつけた如意輪観音、もう1体は青面金剛である。覆屋の外にも何体かの石仏があり、注目されるのはおむすび形の「南無大慈大悲観世音菩薩」だろうか。「正徳六丙申歳」と読み取れる。正徳4年は1716年にあたり、奈川地域でも最も古い石仏になるようだ。また、おむすび形の縁に沿って朱色の線が見える。同じようなおむすび形で、縁に沿って朱の線が縁ってあるものが、右手の方にもう1体ある。こちらは「南無阿弥陀佛」とあり、名号塔である。年銘がなく前者との関わりは解らないが、朱の縁どりにどういう意味があるものか。そもそも意図的におむすび形の石を選択し、山なりの朱の線を描くことを前提にしているかのようだ。また、双体道祖神もあり、「施主ハツ」とあることから女性が寄進したものだろうか。

 

大日如来

 

 ここから少し西の道端に明治27年銘の「馬頭観音」を中心とし、両脇に明治44年と大正4年の大日如来、それと大正2年の馬頭観音が並んで建っている。奈川には大日如来が道端に目立って祀られている。前述の六地蔵の覆屋の中にも1体祀られており、特徴的だ。大日如来を牛馬神とする信仰は各地にあるようで、とりわけ馬乗り大日とか牛乗り大日といったものが九州国東半島などに見られるが、長野県内ではあまり牛馬と大日如来の関わりを聞かない。

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野麦街道へ・前編

2016-05-25 23:37:54 | 歴史から学ぶ

 標高1400メートルを超えているのだから、涼しいのは当たり前なのだろう。ここから1.3キロほど山道を歩くと野麦峠になるという。

 以前「“文化財”からの地域づくり」で触れたのだが、松本市の策定する歴史文化基本構想の関連文化財群設定に先だった文化財の現地見学に参加した。その一つは県史跡に指定されている「野麦街道」を核とした関連文化財群を描いたもので、旧奈川村域に該当する。奈川は松本市域でも最も奥まったところに位置する地域で、集落は黒川渡と寄合渡というふたつの地域を中心に展開されている。野麦街道が県史跡に指定されたのは昭和59年、当時の奈川村を訪れた記憶はあるが、険しい道のりであるという印象が強かった。昭和60年時の国勢調査データによると、422世帯、人口1399人というが、現在は345世帯、人口755人と、人口はほぼ半減している。小学生が25名しかいないというから、下伊那郡の山間地域の村と状況は似ている。

 

長野県史跡「旧野麦街道」

 

 野麦街道は言うまでもなく飛騨と松本を結ぶ道。現在の入口は広くなっているが、途中まで管理道路として車が入れるようにしたため広げられているという。工女が通った、あるいは「ブリ街道」と言われるように、富山で捕れたブリがボッカに背負われて越えてきたとも言われ、交易上重要な道だった。

 

道祖神と石室

 

「南無観世音菩薩」碑を訳した「再建の記」(部分)

 

 旧野麦街道口から少し寄合渡に下った道端に石室が復元されている。昭和63年に当時の奈川村長の発案で造られたという。もともとは現在地に沿う道路反対側の川との間にあったという。本来の形はまったく異なるといい、現在の物は炭焼き釜を真似て造ったものらしい。最初の石室は壁は石で、屋根は木だったという。最初に石室を造ったのは黒川渡にあった庄屋の永嶋藤左エ門という人がいて、野麦峠道のこの界隈は冬場遭難する人が多かったことから、避難小屋を造れば助けられのではないかといって造ったという。その話を聞いた木曽藪原の極楽寺の和尚さんが美挙を讃えて文政8年(1825)に碑を建てたといい、復元された石室の横にそれはある。ところが何を書いてあるかは現在の碑からは読み難い。これを訳したものが昭和62年に横に建てられた。

 近くには交通安全を祈願した双体道祖神が建てられている。「改良記念」とあるから道路拡幅改良されたものを記念したものなのだろう。背面に「昭和六十二年十一月 奈川村村長嶋口儀久建之」とある。

続く

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