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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

美篶下川手公民館の佉羅陀山地蔵尊(文政12年)

2019-07-15 23:25:09 | 歴史から学ぶ

 

 

 いつのころからこの石仏が渋谷藤兵衛の作品とされたのかは、わたしも知らなかった。昭和の時代に発行された多くの守屋貞治の石仏を扱った本には、この石仏を守屋貞治の作品と紹介している。それが守屋貞治の弟子であった渋谷藤兵衛の作品と断定された背景は、近年高遠石工に対する注目が高まってからのことなのだろう。一般社団法人高遠石工研究センターのホームページにおいて、本作品は渋谷藤兵衛作として紹介されている。このことについては意外であったので、近年の守屋貞治仏に関する動向を少し追ってみようと思う。

 さて、ではなぜこの作品が守屋貞治の作品だと以前は言われていたのか。もちろん作風によるところが大きい。渋谷藤兵衛は弟子として守屋貞治自筆の「石仏菩薩細工帳」に記載された作品の中にも手がけたものがあるということは、以前から言われていた。したがって守屋貞治と同じくらいの技量を持っていたと言えるのだろうが、実際に渋谷藤兵衛作と断定されていた作品と比較しても、この石仏が特別優品であることは見ればわかること。むしろ守屋貞治作と言っても不思議ではないし、技術的に見ても疑問はわかない。高遠町誌編纂委員会編集で春日太郎氏が執筆した『石仏師 守屋貞治』(昭和52年)において、この作品を守屋貞治の作品とした理由が書かれている。

(「石仏菩薩細工帳」にはのっていないが)

一、三個の果実を配した頭光の手法は貞治の佉羅陀山地蔵尊の特徴である。之と全く同じ手法を用いている地蔵に建福寺、円通寺(長谷村市ノ瀬)、法界寺(箕輪町木下)、温泉寺(上諏訪)等がある。

二、面長な顔、眼、口、耳等美男の相は貞治円熟期の特徴。

三、手の形、衣、膝など全体の像容は一に挙げた各寺の地蔵と全く同じである。

 四、最も有力な証は台座に刻まれている願王和尚の筆蹟及び押印である。願王和尚は貞治以外の石仏師に讃並びに押印を与えた例を知らない。

といった解説をしている。とくに願王和尚に関する押印に詳細に触れて、押印は各地に残る願王和尚の掛軸に使われている印と全く同じとしており、願王和尚がこの石仏の造立にかかわっていることは間違いないようだ。こういった経緯から貞治作と結論づけている。当時発行されたものの中には、「弟子の渋谷藤兵衛と貞治が合作したしたとの説」としているものもある。

 これら春日氏が要因としてあげたもの以上の、決定的理由があって、今は渋谷藤兵衛の作とされているのだろうか。

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山間にあって、林業は栄えなかったムラ-『伊那路』を読み返して⑫

2019-07-09 23:00:19 | 歴史から学ぶ

「僻地の生活」後編-『伊那路』を読み返して⑪より

  中村たかを氏は『伊那路』昭和34年6月号)に「山村と道路問題、一つの試論―杖突の旅から―」を発表している。これもまた、地域の様子をうかがう上で、データが掲載されていて興味深い。舞台となった藤沢村は、旧高遠町の北部、藤沢谷の奥まった地域をいう。杖突峠を越えれば諏訪へと続き、古い時代には伊那谷の入口とも言って良かったのだろう。奥まっているだけに、山村、そして「山」をイメージするわけであるが、中村氏は、面積の90パーセントを示している山林原野の多い藤沢村の生業を次のように記している。

この村の土地台帳登載地積二九四一・八町中、山林わずか一〇六・四町という数字が示すように、山林はいたって少なく、林業も真に振わなかった。昔、ここにはシロキヤという材木屋(製材の生産者)があり、ソマ・コビキ・ヒヨウを使って仕事をしていたが、彼等は御堂垣外部落に三軒、台部落に一軒の計四軒があるに過ぎなかった。彼等は山ひとつこえたむこうの谷筋の三義村からソマやコビキを雇い、伐採・製材をさせ、その場で柱や板を作り、地元の人をヒヨウにたのみこれを搬出・運搬させ、ダチンヅケによって諏訪のシロキヤ(材木問屋)に出したという。ここでは筏を使うことが出来なかったので、原木を加工して製品の形で外に出すということが行われたわけである。山元、例えば村内の松倉の人が「ここには昔からシロキヤやソマやコビキや目立ったヤマシ(山師)がいなかった」といっているように、地元の人はヒヨウとダチンヅケの仕事をするだけであった。なお、ヒヨウは明治三七~八年頃一日働いても四〇銭、ダチンヅケは一駄一円、五〇銭とるのはソマかコビキであった。(中略)

例えば明治五年栗田には農三五、農兼工四、農兼大工職一、農兼馬口労一、農兼桶結職二、農兼紺屋職二、農兼酒造二、医者一、また同じ水上上部落では農三六、農兼水車一、農兼鍛冶一、農兼九六鍬三、農兼工二というように、この頃わずかながらも商い物や職人を農間渡世とする者があり、また、機織りや養蚕寒天製造なども行われていたし、質屋、穀商、雑貨商などを兼ねるものも現れた。こうしてみると、この村は山村といいながら、生活の中心は農業、殊に水田耕作におかれ、生活の一年が米作りを中心にして営まれており、米作は駄賃附けとうらはらの関係にあり、これらの営みを通じて馬の使用が目立った特徴となっていたことがわかる。

こう記している。ようは山間でありながら、水田耕作が主たるものだったという意外な姿である。なぜ山林が少なかったかについて、原野が六一三町もあり、それらは共有地だったという。そのため林業が栄えなかったというわけだ。原野はいわゆるかつての耕作のための肥料を求めるために必要だった。

秋十月、共有山のほし草山の口があく。今日はどこその山のクチがあくぞというと、夜中十二時頃に起き、チャノコをくい、馬をつれて山につくと三時。前の日、予めカリバをみておいたオジイが「まだダレモカッテネエぞ」と喜びの声を上げる。後から登ってきたものがいった。「アリャどこのウチのコマだ」クサをかる人、それを束ねる者、馬につける者、皆手分けをして働き、やがて東駒に日の出る頃きりあげた。

という。馬がどこの家にも飼われていた時代のことで、馬の効用は駄賃付けであったともいう。こうした馬の存在が変わるのが、科学肥料の導入である。明治末年には使用され始め、マヤゴエの使用が減る。さらに、明治末から大正はじめにかけての伊那電(現飯田線)の開通によって、高遠の町は伊那の町に商いの場を譲ることになり、駄賃付が姿を消していくことにより、馬が必要となくなっていく。生業を取り巻く様子は、世の移り変わりととともに、随時変化していったわけである。

続く

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下生野東部の庚申塔

2019-06-17 23:34:30 | 歴史から学ぶ

享保元年(1716)

 

寛延四年(1751)

 

 国道19号、生坂村の下生坂東部の旧道沿いに、いくつかの石仏が並んでいる。それは、国道19号からも見え、立ち止まってみた。「東部の石造物群」の案内板には「川手街道筋で下生坂の中心地への入口であるため、各種の古い石造物が建てられた。」と書かれている。

 ここにある最も古い石造物は籃塔の享保元年(1716)のもの。次いで古いものが写真の青面金剛である。「享保二十一年丙辰三月吉日」と刻まれており、1736年造立である。その15年後に建立されたものも青面金剛で、「寛延四年未三月吉日」(1751)と刻まれている。いずれも六臂で、下部に三猿が刻まれているが、前者には二鶏はない。また、いずれの塔にも寄進者の名が刻まれている。1700年代の造立ではあるものの、頂部の笠の張り出しがあるためか、雨よけとなって、風化を少なからず防いだのかもしれない。生坂村には、笠を載せた青面金剛が多い。生坂村で最も古いものは、元禄時代のもので、1700年代前半に多くの青面金剛が建立されている。

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「七つの感情」-『伊那路』を読み返して⑦

2019-05-19 23:50:49 | 歴史から学ぶ

「七つの感情」-『伊那路』を読み返して⑥より

 樺島正二氏は、「七つの感情」を5回に分けて昭和33年の『伊那路』に寄稿している。読むほどに直接ダム建設に関わったトップとしての苦労が滲むが、公に出来ない言葉の裏を読めずに、意味不明なわだかまりも読み手には生まれる。なぜこの年の『伊那路』にこれほど多くの美和ダム関連の記事が多いかといえば、それほどこの地域にとって衝撃な事象だったと言えるのだろう。試験湛水の始まったダムが、この年、今のような水を湛えた姿に変わりつつあった。まさに生に動いていた今だからこその歴史である。「七つの感情」の第3章にあげられた池上義明さんのことは、池上さんの娘さんが昭和30年2月6日の毎日新聞夕刊に投稿された「ダム工事をやめてください」という訴えに関することを記したもの。池上さんは病気で静養のため東京から長谷に戻っていたが、工事現場に近く暮らしていたため、せっかく回復していた病が悪化してしまったようで、悲痛な子どもさんの訴えが、周囲からの責めに変わった。樺島氏の「七つの感情」の最終記事となった10月号は、ちょうど「三峯川総合開発特集号」にあてられ、池上さんの娘さんが当時新聞に投稿された内容も併載されている。今なら個人情報といって隠すわけではなくとも伏せられるようなやり取りが、生々しく公開されていることに時代をうかがわせるとともに、そのいっぽうで、それほど公開されていた時代のことなのに、現代史には解らないことが多いと実感するとき、現代の歴史は、これほど情報がたくさん垂れ流されているのに、意外に半世紀もすると、解らないことばかりになるのではないか、と考えさせられたりする。

 樺島氏の記事の中で最も目に留まった部分が、第4章に記載された次の記述である。

 終戦後、私が暫くお附合いをしていたアメリカの一将校が、嘗つて私に言ったことがある。

 「日本に来てからいろいろの部面で日本人のやることを見てきましたが、戦時中、あれ程我々を悩ました大和魂なるものに一向にお目にかからない。貴下方は、戦争華やかなりし頃の特攻精神を一体何処へ置いてきてしまったのですか?日本人が、あの頃の気持ちで現在の仕事をやっていたなら、大抵のことが容易に出来たことでしょうに……。日本に来て、私が一番不思議に思っていることはこの事ですよ」と。

 なかなか進まないダムの補償交渉のさなかで思い浮かべた、樺島氏の仕事への特攻精神を表そうとしたものなのだろう。時代錯誤と言われればその通りなのだろうが、アメリカ人に見えていた日本の怖さのようなものが、実際の日本から見えなかった言葉に樺島氏はあらためて日本人の変化も悟ったのだろう。そもそも特攻精神なる言葉を使うと戦争と繋げられて捉えられる上に、批判の的になる時代である。が、しかし確かにかつての日本人は違うものを持っていたことも確か。数年前のこと、ある村の村長さんが「特攻」という単語を使われた。ある用水路の隧道が落盤で水が流れなくなった。小さい隧道のため、もぐって行くのも命懸けだったかもしれない。その隧道に地元の方なのだろうがもぐっていって、仮設パイプを通してかろうじて水が流れるように細工した。このことを村長さんは「特攻隊がもぐってなんとかした」という表現をされたのだ。もちろん公に宣伝できるような内容ではないが、どうにもならない時に起こりうる、例えば災害時はまさにそんなケースなのだろうが、これまでの遺産の中には、たくさんの特攻精神が詰め込まれているのも事実だ。

 さて、三峯川総合開発特集号には、さまざまな方面からの寄稿がある。あらためて読んでいて気がついてのは、伊那市藤沢川左岸の、かつての国道153号藤沢橋から少し遡ったところにある谷間の空間に展開する集落が、美和ダムによって湖底に沈んだところから移転された人々の集落だということ。

続く

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「七つの感情」-『伊那路』を読み返して⑥

2019-05-17 23:55:18 | 歴史から学ぶ

「わが家の年中行事」-『伊那路』を読み返して⑤より

 もう9年ほど前のこと、“「川」と呼ばれた水路のこと”の中で、「雑誌『伊那路』に探してもほとんど「西天竜」というタイトルはなく、文中に記載があるかどうかという程度。西天竜よりは新しい時代に開発された三峰川総合開発に関わるものはあるものの、西天竜はほとんど対象にされてこなかった」と記した。ここに記した三峰川総合開発に関する記事が、昭和33年の『伊那路』にはたくさん掲載されている。とりわけ10月号において特集号を組んでいる。

 その計画とはどのようなものだったのか、2月号に当時の建設省美和ダム工事事務所長の樺島正二氏が「総合開発について」と題して概要を報告している。昭和25年に国土総合開発法が制定され、その目的は「国土を総合的に利用し、開発し、保全し、産業立地の適正化を図り、合せて社会福祉の向上資するにある」と記している。その目的として造られたのが天竜川の支流、三峰川に造られた美和ダムなのである。もちろんダムを造っただけではなく、これに関連したさまざまな事業が展開されたが、ダムを造ることによる関連事業であって、ダムを造らなければほかの事業も成し得なかったわけである。その主たる計画は治水、発電、灌漑という三つの計画であった。樺島氏はこの項の最後に「本事業における最大の難関だった、美和ダム水没地の保証内容を…」とその内容を記した上に、「又の機会を与えられるなら、美和ダム裏面史と云ったものを本誌の為に書き綴ってみたい」と綴り筆を下ろしている。そしてこれに応じるように、同年5月号に「七つの感情」を記している。その副題には「あるダム・エンジニアーの手記」とある。ようはよそからこの仕事のためにやってきて、まさに現場で苦労され、思ったことを手記として残されたわけである。そもそもこうした事業を郷土史誌としてとりあげ、多様な記事を掲載しようとした、当時の上伊那郷土研究会の姿勢があったからこそ、今に記録として残されたと思う。もともと教員が主たる活動の構成員であったといっても間違いではなかった会が、多様な記事を掲載しようとしたところに感心させられる。裏を返せば、かつてのような構成員ではなくなった会が、では今はどうなのか、と問われることだと私的には思う。

 それはさておき、樺島氏の「七つの感情」には気になる記述が多い。とりわけ現場の声が、あるいは裏話ともいえる話が、それほど時をおかずに掲載されたという事実に、当時のおおらかさといおうか、公の方たちの発信しようとする思いが通じて、現代とは違う姿を見るような気がする。

 一つ目の「感激」の冒頭にこう記している。「高遠に来る迄、東京で所謂標準語なるものばかりしゃっべっていた四人の子供達が、今では「そうずら」とか、「へい!!行ったに」とか、この土地の言葉をお互いの間で平気に使うようになっているのだから、私としては誠に驚きに堪えないと同時に、私が一番に考えていた、家族諸共土地の人になりきらねば、到底満足な仕事はなし得ないという私の予てからの信念なるものがいくらかでも実現されたような気がして満足を覚えている」と。その背景にあるのは、前述したような水没による保障のさまざまな声に裏打ちされているのだろう。水没し移転せざるを得ないある青年の気持ちを記す。反対が当然のように強かったこの地で、国家の事業だからと納得せざるをえないなか、青年はこう口にした。

「都会生活者には到底分らないことでしょうが、我々山に生活する者にとっては、この山、あの川、そして其処に住んでいる人々の総てが我々の身内であり、其処にいてこそ我々には力があり、又その生活に楽しみと喜びを感ずることが出来るのです。これが補償金を貰って他村に出た時を考えると、物質的には例え損得なしとしても、その土地で、当坐にしろ、他国者といった取扱いを受けることは避けられず、そこには言うに言われぬ淋しさがあり、それが精神的に大きな圧迫となり、又並々ならぬ影響を与えることをよくよく理解して頂きたいのです。この淋しさに堪えること、これがよそに出て行く者にとって、金銭的にどんなに補償されようが、絶対に金にはかえられぬところの苦痛なのです」と。

 保障は金銭で納得できるものではない、余所者として他所に移り住む人の身になって欲しいという青年の気持ちである。この言葉を傍らで聞いていた別の青年は、移転を余儀なくされる身ではないものの、

(おたくの事務所にせわになっているY君)「水没農家として移住をしなければならないことになっていて、六道原(水役者の移住希望地)に一度見に行きたいと言っているんですが、お父さんは亡くしたし、本人が身体が弱いので、他所に出て行って百姓が出来るかどうか、わしは危ぶんでいるのです。こっちに一緒に居れば、いくらでもお互いに助け合って面倒も見てやれるんですが、他所に出ていったら、困ったって誰も今迄のように世話してくれるものは居らず、どんなにか、つらい淋しい思いをすることかと、わしは想像しただけで他人事ならず可愛想で可哀想でたまらないのです。どうか所長さん、こういう風ですから、彼が六道などを見に行きたいと言う時には、積極的に世話して応援してやって下さい。頼みますよ」こう言ったらしい

と言う。

 この裏話の前段に樺島氏はこう記す。「私自身としても、毎日会っている中に、美和村の人々の、心を本当の自らの心にする気持になっていることを感じないではいられない」と、日々村の人びと会っているうちに、親しく交際できるようになったと触れ、「心と心とが触れ合って、そこに、、感激的なシーンも繰り拡げられるというもの」と言い、「“人間樺島”として痛く胸打たれたものである。一つその日の日記からありの儘を抜き書きしてお目にかけることゝしよう」と紹介したものが前述の若者の言葉である。実は樺島氏が『伊那路』に発表されたのはすでに「元」所長になられた昭和33年のこと。「感激」の冒頭で子どもたちのことについて記したのは、「高遠に本拠を構えてから今日丁度百十日」のこと。3ヶ月ちょっとといったところだ。過去を振り返っての記事であって昭和33年の春に異動されたようだ。「七つの感情」の中で着任されたのが昭和29年12月だったと記しており、「七つの感情」の末尾に昭和30年4月3日とあることから、当時書かれたものをそのまま寄稿されたようだ。とはいえ、文中に「その日の日記からありの儘を抜き書きしてお目にかけることゝしよう」と記しているから、別に公開したものを転載したものなのかもしれない。裏話と言うよりは、公開を前提とした日記だったのかもしれない。

 編集後記の中でも「正規な報告等では窺うことの出来ない貴重の資料となることであろう」と記している。こうした生の手記が地元に残されたことは大きい。

続く

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生きるための“水” 後編

2019-04-05 23:31:14 | 歴史から学ぶ

生きるための“水” 前編より

山越えの尾根で望むこの集落へ、生きるための〝水〟は導水される

 

 取水から約3キロほど下ったところに、旧国道をまたぐ水管橋がある。その径200mmほどとけして大きなものではない。かつてはここまで水道施設と共用していたため、山の中下ること3キロは、農業用水を利用している人々はほとんど管理しなかったエリア。もちろんそれは当初からではなく、この水路が完成してしばらく後のこと。

 水管橋のある高台から少し下った町道の脇に、大きな石碑が立っている。「完成記念碑」と大きく刻まれた碑の背面には、この水路を造った経緯が記されている。古来よりこの地域では水が枯渇し、苦しんでいたという。そして山を越えたところにある二つの沢から水を引くのが願いだったのだが、難工事のため実現できなかった。昭和19年、国の緊急食糧増産事業を取り入れ水路開発組合を設立。昭和20年2月に工事契約を結び、いよいよ念願の事業を始めるまで至ったが、折しも第二次世界大戦下であっため、工事資金、建設資材、食糧などが不足し、頓挫の危機に陥ったという。人夫の出役や米、野菜などを受益者が負担し、「血の滲む努力を重ね」5年あまりの歳月と2名の犠牲者を出しながら隧道11箇所、延長1282メートルの工事が完成したという。昭和25年5月21日の通水式で、水が「横手まで到着したときは一同狂喜乱舞して抱き合い感激にむせび泣いた」という。ちなみにこの碑は後世にこの功績を継承したいと願い、平成になって建てられたものだが、建碑に至った理由は刻まれていない。完成後40年余経て建てられた背景に、この水路にかかわっている人々の、今の思いがあったに違いない。

 碑に記された「横手」とはどこなのか、そんなことを思いながらそこを目指してさらに水路を伝って行くのだが、この地域特有の暗渠となっていて、その先を探るのは簡単ではなかった。ときおりある管理用の水槽を探し当てながら下っていくが、しばらく後、行き先がまったくわからなくなった。近くにおられた老人に聞くと、わたしが想定してきた道が違っていることに気がついた。もちろん住宅があれば、水田もあり、どこかで分水されこうした地に導水されているのだろうが、主たる導水管の位置は、もっと高いところにあると教えられる。老人はこんなことも口にされた。「今の組合の人たちはろくに管理しない」「わたしももう年だから口には出さないが…」と言いながらその背景を少し口にされた。ようは地すべり地帯ということもあって、これまで水路の整備にそれほど負担がなかったことが、逆に地域では水への思いが希薄化しているというのだ。ここでいう水路とは、戦後完成した水路ではなく、そこから下流の枝となってそれぞれの地域に導水されている水路のことを言っている。地すべり対策で整備された水路は、その性格から地元負担はなかった。さらに前述したように、戦後完成した水路も、後に水道施設と共用したことから、管理に手をかけることなく、数十年という歳月を経てしまっていた。ようは当初の水路を造った時の苦労と、その後には天と地ほどの差があったために、世代交代とともに、水路への思いが希薄化してしまった、ということなのだろう。老人は水田を耕作するほど、水はもともとたくさんこなかった、と目の前にすでに湛水された水田を見て話しをされた。むしろ生活のための水だったと言う。当初から管で導水し、管理のために水槽をいくつも造ったが、そのせいで利用者が多くなって、より水は尊くなってしまったようだ。そのむ当時はまだ水道も整備されていなかった。確かに国道を渡る際の水管橋の径は小さく、それほどたくさん水田が耕作できる水はやってこない。貴重な水は、まさに〝生きるための水〟だったといえる。

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生きるための“水” 前編

2019-04-03 23:20:40 | 歴史から学ぶ

 2月初頭に「再び“命懸け”」を記した。そこで、

かつて「命懸けの水」を記した。さらに「“命懸け”」を記し、その半年後にそう思った現場で「穴の中で思うこと」を記した。いずれもある井水(用水路)で思ったことだ。当時怪我をした左手の薬指は、処置が良かったのか、運が良かったのか、お医者さんには「うまく爪が生えてくるかわからない」と言われたが、幸運にも元通りの綺麗な爪を今は見せてくれている。が、若干であるが、指先を意図的に触ると、今もって違和感はある。きっとわたしの記憶から隧道での危険さを忘れさせないための、神のお告げなのかもしれないと、触る度に思い出させる。

と記した。

 その際に入った隧道現場に、今日久しぶりに訪れた。2年余ぶりである。当時と何が変わったかといえば、隧道内を流水させることが叶わず、過去の施設を利用して用水を供給している。当初に比べれば些少な水であるが、ゼロよりは良いという判断である。隧道内が落盤によって塞がれていたところへ水を流していたから、上流側は水と泥が溜まって、入るのも容易ではなかったが、余水吐けに水を流すようになって、だいぶ水位は下がったが、とはいえ、泥は溜まったまま。もちろんかつてのことがあるから、中にもぐり込むつもりもなかったが、あの日を思い浮かべながら、近くまで入ってはみた。余水を払っているため、上流側の隧道はかつてよりずっと入りやすくなっていた。意外にも上流側はコンクリートで巻き立てられていて、数十メートル潜ってみたが、意外なほど良好だった。先は延々とコンクリートで巻き立てられた闇が続いていたが、きりがなかったので、引換した。

 当時と何が最も違っているか、そう思い返すと、「人の足跡が減っている」ことだろうか。一応当時の課題はクリアーされて、その後現場を訪れる人がいなくなった、とも言える。3年以上前、初めてこの現場に案内してもらった際には、初夏だったこともあって、葉も濃かったから歩く道が見えなかったということもあるだろうが、地元の案内される方も道を誤るほどだった。獣道のような山道を枝をかきわけて下っていった。当時何度となく現場を訪れ、さらに尾根越えの測量もしたし、怪我をした現場だから、わたしの記憶からはそう簡単には消えない。だから今訪れても、間違いなくその道を選択できる。おそらく誰よりも現場の道に詳しいかもしれない。ほとんど人の足が入っていない現場だったから、尾根から沢へ折れるところにビニールテープで目印をかつてつけた。その目印が、今もって檜の枝に結ばれたままになっていた。もちろんわたしにはもう必要ない目印であるが、そこを右折して急な山を下ると目的地に着く。年に何人がこの場所を訪れるものなのか、当時の道に比べると、明らかに雑木が道を塞いでいて、人の気配がないことを教えてくれる。

 当時はこの水を伝って、水田のある場所まで行くことはなかったが、この日、初めて水田のある場所まで山の中をかいくぐって進んだ。歩いて進むには山越えをいくつもしなければならないので、一旦車を使って迂回した場所もあるが、そもそも車のより付ける場所はわずか。これほどまでして水を引きたかった人々の思いは、とうてい今の人々には理解できないかもしれない。そして、その理解を阻む事実が、この水路にはある。

続く

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富草大島の一石三十三観音

2019-03-01 23:03:33 | 歴史から学ぶ

阿南町富草大島

 

 一石三十三観音についてはこれまでにも何度か記してきた。そもそもそれらは下伊那南部のものがほとんどで、この地域に一石三十三観音が多く建てられてきたことがわかる。そして井戸寛氏により『日本の石仏』(日本石仏協会)118号と130号に掲載された一石三十三観音のデータについては、「一石三十三観音」に記した。また、一石多尊仏を扱われた「ようこそ一石多尊仏廻りへ」のページについても以前ここに紹介した。その中の一覧にないものを見つけた。天竜川にある泰阜ダムの右岸側に大島というところがあり、その山際に墓地があり、近くにこの三十三観音は祀られていた。下から横6列5段に観音様が彫られ、その上に3体の観音が彫られて合計三十三体である。その上部に「寛保三癸亥天 十月十八日」と彫られている。寛保3年というと1743年であり、近くでは雲雀沢に享保10年(1724)のものがある。300年近く前のものなのであるが、銘文が読み取れるのはありがたい。

 

青面金剛

 同じ場所に丸彫りの珍しい像が建っていた。腕がいくつもあることから、濃青面金剛かもしれない、とその時思ったのだが、あらためて家に帰って『阿南町誌』で調べると、確かに庚申さんとして紹介されていた。ほとんどの人はこり像を見てお地蔵さんだと思うだろう。

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これもまた道路開通記念の「道祖神」

2019-02-27 23:47:18 | 歴史から学ぶ

 

 このところ「道祖神」に出会うことが多い。これもまた道路の開通を記念した「道祖神」である。阿南町の富草に別当というところがあり、その集落入口の少し道路よりは高い斜面に立っていた。碑文は「道祖神」の下に次のように刻まれている。

別當農道
延長 七〇〇メートル
工事金三三六万円補助金一六八万円
着工 昭和四十五年一月十七日
開通 昭和四十五年四月十二日
   阿南町長 関勝夫
    区 長 木下正司
    副区長 木下栄徳
    小林幸雄 小林寿美男
    藤井てる
施工者 金本建設
   昭和四十八年七月建之

 別当は富草粟野から天竜川の方に向かって奥まったところにある。おそらくもともとあった道を拡幅したものと思われるが、「別当農道」とあるように、当時は「農道」として拡幅されたものと思われる。もちろんそれは「農道」ではなく、粟野から別当に行くための生活道路であって幹線道路でもある。

 この道祖神例の『長野県道祖神碑一覧』に記載はない。基礎資料は飯田風越高等学校郷土班がまとめた『風越山』30号だったわけであるが、発行は昭和60年であるから、調査された際にはすでにこの道祖神は建立されていたわけだが、漏れたようだ。別当にこのほかに道祖神はない。

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そう遠くない“終焉”を前に

2019-02-23 23:53:34 | 歴史から学ぶ

 「古城」と書いて「ふるじょう」と言う。阿南町富草にある地名で、下条氏が甲斐の国下条からこの地に来て初めて城を築いた場所である。甲斐源氏には諸族があり、とくに武田、小笠原両氏は著名な一族という。そして下条氏はそのどちらからも出ているが、この地の下条氏の出自について明確なものはないという。応永7年(1400)大塔の合戦に小笠原長秀に属して戦った下条伊豆守は、少なくとも室町時代初期にはこの地に来往していたもの(『阿南町誌上巻』516頁)という。同書によると、現在「古城」と呼ばれている「大爪」に下条氏が城を置いたのは応永元年(1394)から文明2年(1470)までの5代76年だったという。この地が狭かったためか、現在の下條村吉岡へ城を移し、その後ここを「古城」と言うようになった。現在「古城」には八幡社が祀られている。『阿南町誌上巻』には「この辺りの地質は第三紀層であり、水による侵食の影響を受けて直立的な山が多く、特に古城の地はその点甚だしく、谷はあくまでも深い。そのためいずれの地からも望むことのできる地形にあり、天然の要害の地である」と記されている。

 さらに同書にはこうも書かれている。

 下条郷には、古代より七野七原といわれた平地があり、農業が盛んなところであったことが知られるが、中世の下条郷も地形は複雑な城域ではあるが、米その他農産物が豊かで、このほか山間地特有の焼畑農業による、陸稲のほか、粟・稗・蕎麦・大豆など主食に代わる食糧も豊かであった。

と。下条氏が吉岡に移った後にかかわり、「下条康氏の没落後には、城地の東岸字稲葉に邸を構えて帰農土着し、その後その家が二つに分かれて、上稲葉・下稲葉といわれた。」と記している。この稲葉こそ、以前触れた庚申堂のある場所なのである。庚申堂についても記載があり、「下条氏の墓所の跡に建てられたとの伝えがある」(同書522頁)としている。稲葉の地が600年も前に拓かれた場所と言うことは、おそらく「嘘のようなハナシ」に記した井水もそれに近い時代に引かれたものなのだろう。その歴史の深さに、あらためて思い知らされるが、いっぽうでその現在地について複雑に思う。

 そして、「嘘のようなハナシ」を上回る水路に遭遇した。その名は同書に「古城井水」とある水路である。前述したように「古城」の周囲は険しい。とりわけ南側の町道下の崖は、急峻にして基盤である岩盤の上に薄い表土が被っている状態で、降雨の度にそれが流され、崩壊を繰り返してきたに違いない。この急峻な崖部に古城井水は開けられたのである。地元の方も「600年前から」と口にされた(『阿南町誌』には、「古城井水開設碑」の写真が掲載されており、それには「天保13年」とあるから今の井水とは異なるかもしれない)。確かに井水のあったであろう平がわずかながら見せるところもあるが、ほとんどそれらしい姿を見せない。ようは古い時代から掛け樋で導水されていた可能性が高い。同書には時代は下るものの、樋について「これら資材を取る山を「樋山」として、各村で留山にし、その山木も太さを規定して、一定の大きさのものだけを切ることにして維持管理に当たり、みだりに切ることが許されなかった」と記している(同書794頁)。「古城」南側崖下に、用水路があるとは、想像だにしないだろうが、この井水を管理するために、途方もない苦労をされているとわたしなりに推測する。そして「もうわたしの代で終わり」と聞き、長い歴史の終焉が、そう遠くないと悟った。

 古城井水の導水された先に、この馬頭観音が祀られていた。「享保十八」と見える。1733年である。頭上の彫りから馬頭と捉えたが、禅定印を結び、薬壺を持っているようにも見える。定印の下部に朱塗りの跡も見える。1733年の馬頭観音は、かなり古い類である。

 

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“衡”ごと 後編

2018-12-21 23:19:45 | 歴史から学ぶ

“衡”ごと 前編より

“衡”とは、「①はかり。めかた。「度量衡」 ②つりあい。たいら。「衡鈞(コウキン)」「平衡」 ③はかる。物の重量をはかる。 ④よこ。「合従(ガッショウ)連衡」」という意味だという。斎藤文郎氏は、「衡に直接当る方々」と記している。いかなる意味をもってのことなのか、わたしには違和感も覚える。そもそも、当事者として苦労されたことはわかるが、結果的に役人にしてみれば、直接的に農民の何を汲んだものなのかは定かではない。むしろ関係者へのねぎらいの言葉とでも言いたいのか。

 ちょうどそのころ開発計画を企てたものに「伊那西部」開発があった。国が直轄で行った事業だから国の通達にはいち早く対応しただろう。計画樹立が昭和43年から45年と言うから、まさにこの時期である。おそらく計画樹立といっても前段から準備しなければ、国の事業ほど大きなものは企てられない。したがって、当初はもちろん開田ありきで始まった計画であることは言うまでもない。しかし、現実的に計画樹立するころには既に開田に対する厳しさはあったはず。そうした中で、そもそも明治時代にも企てられていたという山麓までの用水供給の夢の実現であるから、対象範囲の農民の思いがいかほどであったのか、それほど記録にはない。結果的にその際の複雑な思いが、この地域にはいまもって尾を引きずっている節がある。

 「時々刻々と高度成長を続けて行く我が国の経済を支える我が国の産業構造の変化と、国民生活は決して足踏みはしていない」、そうした中で農政が追随できずに結果的に農民の思いに沿わなくなった姿があからさまになった時であった。

 さて、前編で触れた与田切川の取水口。わたしの記憶では湧水を主に求めていたようにも思うが、川の変化とともに湧水を見ることはなくなった。もちろん水は川に求められ、河床の変化とともに、取水口も大きく変化した。実は、この水を利用している水田地帯は、それほど多くの面積はないが、昭和40年代前半に開田されたもの。そう考えると、わたしが子どものころ見ていた景色の水が水田に利用されるようになったのだと気づく。この下流側には堤防というものがなかった。自然に河川の外に導水され、その先のかつては松林だったところに導水され、開田された。昭和40年10月26日に撮影された航空写真では明らかに松林となっている。ところが、昭和45年10月22日に撮影された航空写真では、水田となっている。国の開田に対する抑制が見え始めていたころの、最後の開田のひとつとも言える。

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“衡”ごと 前編

2018-12-20 23:04:38 | 歴史から学ぶ

 記憶に残る子どものころの景色のひとつに、すぐ近くを流れていた与田切川の湧水空間があった。その当時、なぜ川の中に湧水があったのか、考えてみれば湧水というよりは、伏流水がそこに湧いていたということなのだろうが、護岸がまだ整備されていなかったからこその光景だったのだろう。それは「与田切川の変化」でも触れたこの写真のような光景になる以前のことだった。

昭和47年ころの与田切川下流

 

 いつごろこのような光景になったのか定かではないが、わたしの子どものころには、河川内にこのような道路はなかった。現在もこの道路は存在しているが、石材のプラントができた際に、河川内に造られた仮設道路のようなもの。とはいえ、もうこの時代から半世紀近く経ている。わたしが冒頭に記した景色は、ちょうど牛枠があるあたりだっただろうか。あらためて考えると、はっきりしないが、この牛枠のあたりから取水されていて、この仮設道路を暗渠で渡って、右岸側の水田に導水されていたように記憶する。その後の変化が「手の届かない川」で触れたこの写真だ。

 

平成18年の与田切川下流

 実際のところ牛枠のあったのはこの写真から100メートルほど下流。河床が豪雨によって下がってしまったため、取水口は上流に延長されているようだ。かつては牛枠のあったあたりに仮設道路はなく、かろうじてあった石積護岸の法尻から湧水がこんこんと出ていた記憶がある。そうした湧水も利用して右岸側に導水していたのかもしれないが、河床が下がるたびに、取水口は上流に移動していったようにも思う。

 昭和44年にコメの生産調整が始まった。当時のことを全国農業土木技術連盟の『農業土木』244号(昭和54年4月)において斎藤文郎氏(当時の肩書きは前農地局開墾建設課長補佐、現利根川水系農業水利調査事務所長)が記している。タイトルは「開田抑制の嵐の中で」というものだ。戦後の食糧増産などの農業政策は、日本の復興の土台になったことは言うまでもないが、前年の年11月26日、政府と自民党のトップ会談によって申し合わせが確認された。それによると、
 ①緊急措置として150万㌧以上の米の生産調整を行う。
 ②これに伴う転作につき強力な助成措置を講ずる。
 ③新規開田、増反は厳に抑制する。
 ④昭和45年度から米の学校給食を行う。
 ⑤農業生産の地域分担を早急に明確にし、これに沿って施策を強力に推進する。
というもの。

 さらに斎藤氏は翌年2月19日付けの農林事務次官通達について触れている。
 ①開田計画を含む地区については、新規調査は行わない。
 ②調査中または全体実施設計中の地区については、開田部分の控除または畑地かんがいもしくは開畑への転換を図ることとし、開田計画を含むものは、新規全体実施設計または新規着工は行わない。
 ③既着工地区については、開田部分の除外または畑地かんがいもしくは開畑への転換を図るとともに、これを考慮して所要の工事を進めろものとする。

このあと斎藤氏は「ここ1・2年急激に盛り上がって来た米作抑制ムードの一応の結論が出たわけである」と記している。既に開田に対する危惧があった中で、緊急措置が講ぜられた。この時期の関係者のこころの中は複雑だったろうと推測する。こうも記している。「農政の基本路線である構造政策を夢みて、一歩一歩現在までの道程を歩いて来た関係者にしてみれば、中途で計画を変更することは断腸の感があることは否めない。」と。そして
 ①法手続きを完了し、国が着工を承認していること。
 ②相対売買等で、未墾地が取得されているので金利が毎年嵩んでいること。
 ③経営基本施設、大型農機具等米作近代化のための先行投資がなされていること。
 ④水源工事等の基本工事が既に行われ、また行われつつあること。
といった問題があって、「今後の地区の調整には並々ならぬ風雪があることを想い、その衡に直接当る方々の御苦労は大変なこと、道場にたえない次第である」と述べている。

続く

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“今も揺れる” 前編

2018-10-18 23:39:39 | 歴史から学ぶ

日和山で説明される格井さん

 

 「閖上」、これほどの難読地名が、今は多くのひとに「ゆりあげ」と呼ぶことが知られている。

1697年、仙台藩主・伊達綱村が大年寺の落慶に参拝しての帰途、山門内からはるか東方に見えた波打つ浜を「あれは何というところか」と問うたところ、近侍の者が「『ゆりあげはま』にございます」と答えた。重ねて「文字はどう書くのか」と問うたところ、「文字はありません」と答えた。これを受けて綱村は「門の内から水が見える故に、今後は門の中に水と書いて閖上と呼ぶように」と言い、仙台藩専用の「閖」という国字が出来た。

 ウィキペディアにそう書かれているが、同じことをバスガイドさんも、震災の語り部の方たちも「閖上」のいわれとして説明された。仙台藩でしか使われなかった漢字が、今はメジャーな漢字となって日本中に知られている。もちろん震災のお陰なのだが、それほどこの地の人的被災は大きかった。名取市において太平洋に流れ出す名取川は、仙台城下を流れる広瀬川を合流してここに吐き出される。この河口右岸に「閖上」はある。ここだけで人口7100人ほどあったというから、ひとつの街があったわけである。2011年3月11日午後2時46分、この地には4000人弱の人たちが在宅していたという。そのうち800人近いひとが、津波による犠牲になったのである。6人にひとりという数字は、他の被災地と比較して突出していると言われ、名取川に沿って津波が襲来する光景は、当時のNHKニュースで頻繁に映像として流され、記憶に留めている人も多いだろう。この町は、この日、すっかり消えてしまったのだ。

 この「閖上」の地の復興の姿を見に、訪れた。被災前の航空写真で見れば、海岸に沿って掘られた貞山堀の両側に町は広がり、その海側の町の外側には「広浦」と呼ばれる益田川の河口潟があり、さらにその外、海浜よりに松林とともにゆりあげビーチがあったことがわかる。海に面していながら、海から「遠い」、ようは太平洋の荒波にさらされない穏やかな地であったことが、そこから見て取れる。“Nearby LocalWiki regions“と言うページには次のように記されている。

 広浦界隈は、まさに自然の宝庫。海鳥が飛び交い、防風林には野鳥や昆虫が生息しています。湿地帯には、ヨシが生い茂り、野鳥やトンボなどの姿が見られます。ありのままの自然にふれる格好の地であり、自然観察がてら、のんびりとウォーキングが楽しめます。
 また、多くの写真愛好家がベストショットを求めて足を運んでいます。

 「閖上」の地がどれほど満ち足りたところであったかが、少しばかり想像できる。

 この震災を語り継ごうという語り部に説明をいただいた。「ふらむ名取」の発行する「閖上復興だより」の編集長、格井直光さんである。「閖上震災を伝える会」写真集も発行されていて、今年3号を発行された。格井さんの案内は「さいかい市場」から始まって、「さいかい市場」で終わる。バスに搭乗されて、丁寧に、また圧倒されるように説明は続く。冒頭今回の写真集に掲載された、「防災&減災の基本」のことを口にされた。これは今年多発した災害に関連してのことで、「命を守る基本」3ヶ条である。災害のほとんどが「水害」であることに触れながら挙げられた「基本」は

①土砂災害が発生しやすいところには、住まない。
②浸水したら、移動しない。見に行かない。
③行政からの情報を待たずに、気象情報などから判断して、早めに避難をはじめる。

というもの。格井さんの教訓が伝わるものだ。①はとりわけ近年の災害から教えられるものだが、そもそもそうした地を造成した例えば行政や、業者の責任だけのものではなく、それを求めた者の責任ではないか、という思いがうかがえる。同じことは③の行政に頼らず、というところに繋がる。格井さんは閖上の被災に言及する中で、防災無線が切られていたことに発す行政への訴訟は、個人的には異論を口にされた。格井さんのそんな思いが、この「基本」には読み取れる。このことは、最新の「閖上復興だより」である第51号の前号である50号(8月6日発行)の冒頭でも、「平成30年7月豪雨災害 謹んでお見舞い申し上げます」と題して紹介されている。「毎年のように起こる自然災害にどうしたら対応していくか?私たちは東日本大震災で経験をもとに勉強中」という。格井さんも最近「防災士」を取得されており、防災士を持つ語り部さんで、その言葉の重みは、語りから十二分に聞き取れる。

 

昭和8年の石碑、下にコントラスト調整したものを掲載した

 

 

 写真集の最後に「語り部」の説明が掲載されている。「さいかい市場」からバスに搭乗すると、「ゆりあげ港朝市メイプル館」を経て「日和山」と「東日本大震災慰霊碑」を訪れ、「さいかい市場」に戻る。この日は朝市は平日ということもあって通過するのみだったが、何といっても「日和山」周囲での説明には、格井さんの強い思いが感じ取れた。日和山は旧陸軍が造ったものと言われ、小高い丘の上に神社とともに「大東亜戦戦死者氏名」を一覧した石碑が建てられている。松が今もって1本残されていて、この松に震災当時の津波の痕跡があるり、8.4メートルと言われる。慰霊碑の高さ8.5メートルの浸水深は、慰霊碑の南に残ったかまぼこ製造会社「佐々直」旧本店工場の壁から推定されたものと言う。この日和山の周囲は、当時公園となっていて、その公園内に昭和8年に発生した三陸大津波のことを記した石碑が建っていた(写真集vol.3にその石碑が建っていた姿がある写真が掲載されている)。この石碑も津波によって流され、日和山の北側に流されていたものを、ガレキ撤去の際に、現在の日和山西側の法尻に運ばれて横たわっている。この碑の存在をどれほどのひとが認識していたか、格井さんはこの碑のことについて強調された。碑には「震嘯記念」とあり、その冒頭に大きな文字で「地震があったら津浪の用心」と誰でも読める文字で書かれている。そして昭和8年に発生した津波について「昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震アリ鎮静後約四十分ニシテ異常ノ音響ト共ニ怒涛澎湃シ来リ水嵩十尺名取川ヲ遡上シテ西ハ猿猴圍ニ到リ南ハ貞山堀廣浦江一帯ニ氾濫セリ浸水家屋ニ十餘戸…」と刻まれている。確かに現代読みではないが、何を意図しているかははっきりとわかる。実は、昭和8年の三陸大津波については、同じような石碑が各地にあるようだ。そしてこの「地震があったら津浪の用心」というフレーズも割合メジャーな言葉だったことが、当時の石碑から伺える。にもかかわらず、この言葉は教訓として人々はこころにもち構えていたかどうか。格井さんは、この言葉を後世に伝えなければならない、そう思われている。この石碑についても、写真集vol.3に詳報されている。昭和8年の地震は、マグニチュード8.1、沿岸一帯の震度は5程度だったという。今回の地震はそれを上回るもの。情報から推定すれば、この石碑以上の津波がやってくると、想定できたはずだ。格井さんは、昭和35年に発生したチリ地震の津波の経験が、それを打ち消したのではないかという。釜石で当時津波高0.7メートルだった。石碑に記された教訓があったなら、格井さんの気持ちには後悔もうかがえる。ちなみにこの石碑を刻んだ石工は、現在の南三陸町志津川町の人だった。ここもまた、震災当時注目された場所である。多くの犠牲者を出した。南三陸であるから、それこそ津波への警戒心は高かったはずなのに。その土地の石工が刻んだという背景にも、この石碑を建てた当時の思いがあったのではないかと想像する。

続く

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昭和58年9月29日、飯山市常盤の千曲川決壊

2018-06-26 23:29:13 | 歴史から学ぶ

 以前「昭和58年台風10号」について触れた。長野県内中で大きな災害が発生した例としては、最も現代人に記憶として残っている台風だと思う。

 

背後は高社山

 

 先日「ネガフイルムの劣化」について触れたところだが、この石仏がある飯山市福島地積の千曲川を挟んだ対岸に飯山市常盤がある。この常盤で千曲川の堤防が決壊して、広範に浸水被害を起こしたのが昭和58年の台風10号である。「昭和58年台風10号・後編」に掲載した新聞記事の見出し「またか!飯山 泥の海」は、前年にも常盤の対岸の飯山市木島で支流樽川の堤防が決壊し、大きな水害を被っていたからだ。同時期にわたしは飯山に暮らしていたことは以前にも触れた通りだ。飯山市福島の万仏山の石仏のネガを探していたら、この際の災害のネガにありついた。昭和58年9月30日の朝撮影したものだ。フイルムの劣化が著しく、傷が目立つ。同じころの自らの記録がないかと探してみたら、意外に簡単に見つかった。台風10号がまだ到来していない9月28日(水曜日)午前1時ころ次のように記している。

台風がやってくれば雨も降る。
だいぶ秋雨前線がやってきて降っている。
このところまともな天気の日はない。
仕事も忙しくなってゆくが、いろいろやりたいことも増える。木曽での「宿」の会合には、ぜひ出たいと思う。いろいろな人と会ってみたい。
そして金子さんに会えることも、期待している。いろいろな人との出会いが、この秋にやってきそう。

 雨の様子を危惧しているようだが、この後予定していた人との出会いに期待していた様子がうかがえる。「宿」とは文芸の同好会の発行していた冊子のこと。「金子」さんとは、かつて記したことがあるが、山梨県警の警察幹部の方だった。結果的にこの災害が影響したのか、「宿」の集まりには参加していない。

 また「飯山の水害」と題した10月4日の午前1時ころの日記には次のようにある。

 朝、補佐に起こされた。
 前日の28日、県内は台風10号崩れの温低のため、雨が降り続いた。ニュースを見るたびに、飯島の雨量の多さに、次第に心配になりもした。28日、すでに影響が出始めていた。
 29日、もう青空が出ていたが、起こされたとき、市内は賑やかであった。広報車が千曲川の水位を報じまわっていた。補佐は皿川の水が市街へ流れ込むかもしれないと竹田さんから電話があって、所長が事務所に行ったということで、これから補佐も事務所へ行くという。午前6時半のことであった。それからわたしも支度してテレビにかじりついた。午前7時半前、SBCテレビに「常盤の堤防決壊」と表示された。深刻さに気づかされた。まもなく、「天竜川中川村飯沼の堤防決壊」という報道もあった。「伊那谷も荒れている」、そう思った。

(中略)

 昼過ぎ、補佐、竹田さん、畔上さんと車で様子を見に出た。飯山国際の所から見たとき、木島には入っていないと分かった。その後小塩のスキー場の頭まで行ってみた。同じように様子をうかがいに来ている人がいた。水は外様の方へ流れ込んでいて、決壊箇所は明らかに3箇所見えた。右岸の柏尾の方へも入っていた。山を下り、外様の方へ行くと、決壊した水がすぐそこまで来ている隣の田で、急いで稲を片付けている人たちもいた。長峰丘陵の上で気づいたことは、国道117号の上、2メートルほど浸水しているのがわかった。

 このスキー場で撮影した写真が、これらの写真である。

 

信濃毎日新聞 昭和58年9月29日朝刊

 

 新聞記事は9月29日朝刊のもの。県内での災害の状況を伝えているが、もちろん堤防が決壊したのはこの新聞が配達されたころのこと。天候も回復し、県内の災害の状況もおおよそ判明したころに、飯山市常盤の千曲川は決壊したのである。

 

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上信国境碓氷嶺熊野皇大神社の石造物

2018-05-24 23:16:24 | 歴史から学ぶ

 軽井沢町の碓氷峠頂上にある熊野皇大神社を訪れたのは、昭和62年5月15日の祈念祭の時だった。この神社は碓氷峠を境に、長野県側と群馬県側に分かれていて長野県側の社を熊野皇大神社、群馬県側の社を熊野神社と言われることで知られている。かつて『遙北通信』に次のような報告をしている。

 

上信国境碓氷嶺熊野皇大神社の石造物 (『遙北通信』第39号 昭和62年7月12発行) HP管理者

 5月15日に北佐久郡軽井沢町の熊野皇大神社へ神楽を見に訪れた。

 軽井沢駅から北へ向かい旧軽ロータリーを右折し、旧軽井沢銀座を至て旧碓氷峠へ登るとそこに熊野皇大神社がある。

 長野・群馬両県にまたがっている珍しい神社で、古来、碓氷峠の権現様と呼ばれて旅人から親しまれてきたが、明治維新の折、熊野皇大神社と改められた。

 

 

 ここには「石の風車」・「狛犬」・「多重石塔」などの石造物もあり、祭典の折に訪れてみるのも良い。

 「石の風車」は元禄元年(1688年)の建立。軽井沢問屋佐藤市右衛門及び代官佐藤平八朗の両人が、二世安楽折原のため当社正面石だたみを明暦3年(1657年)築造した。その記念にその子市右衛門が、佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものである。

 秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として親しみ、

  「碓氷峠のあの風車
      たれを待つやらくるくると」

と、追分節にうたわれて有名になった。

 「狛犬」は明徳年間(1390年)の作と伝えられ、あ(右)うん(左)の一対姿態きわめて素朴であり長野県内で最も古いものである。因に、石造としての狛犬で古いものは奈良・東大寺の南大門に置かれている鎌倉初期建久7年(1196年)のもので、在銘として古いものは南北朝時代前期の文和4年(1355年)の京都府大宮町・高森神社のものである。

 「多重石塔」は6層のもので、約620年前のものである。

 

 

追記 モノクロフィルムをスキャンしたものの、イマイチでした。

 

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