Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

「鍾水豊物」余話 続編

2018-06-05 23:16:28 | 西天竜

 先日、西天竜の記念碑の話題になった。戦時中、木下の駅のところに横たえられていた記念碑として建てるべく運ばれていた石の上で、「よく遊んだ」という話を聞いた。長さ8メートル、幅2メートル余ある石があれば、舞台並の広さだから、遊びたくなるのも当然だ。その当時、すでに碑文が刻まれていたかどうかは記憶にないと言うが、銘文には「昭和十九年」とあるから、すでに刻まれていたのかもしれない。『西天龍』の回顧談から⑤に記したように、「鉄道に載せられたのが昭和19年の3月26日のことである」。遠く仙台は現在の石巻市になっている稲井村から運ばれてきた。仙台石として知られている稲井の石は、碑石にされたことでよく知られている。材質は粘板岩。硯石のようなものだから、等厚の美しい石が採れるのだろう。正確には長さ8.4メートル、幅2.4メートル、厚さ0.6メートルと言われるが、根元で図ると厚さは0.54メートルほど。背面は削り込んでいるからもう少し薄いかもしれない。この石の上で遊んだという話になったとき、駅から現在地まで運んだ光景も記憶にあるという話を聞いた。どのくらい重さがあったのだろう、という話になったわけだが、稲井石の比重は2.7t/m3あるともいうから、30トン近くなる。検索しても話題にもなっていないが、これほど大きな稲井石の碑は、日本中探してもないのではないだろうか。この巨大な石は戦後まで放置され、ようやく建立に動いたのは戦後5年ほど経過してからのこと。

 前面の碑文については、「鍾水豊物」余話前編で触れた。その記事では背面のことについて触れなかったが、背面に関係者の名前がたくさん彫り込まれている。背面に彫られている全文を、以下に紹介する。すべて名前である。

 

記念碑の背面

 

農林大臣
 田健治郎
 高橋是清
 早速整爾
 町田忠治
 山本悌治郎
 後藤文夫
 山崎達之輔
 島田俊雄
 有馬頼寧
 伍堂卓雄
 石黒忠篤
 井野硯哉

長野県知事
 赤星典太
 岡田忠彦
 本間利雄
 梅谷光貞
 高橋守雄
 千葉 了
 鈴木信太郎
 石恒倉治
 岡田周造
 大村清一
 近藤駿介
 富田健治
 鈴木 登
 永安百治
 郡山義雄

農林省耕地課
耕地課長 有働良雄
 仝     片岡 謙
 仝     川原信次
 仝     溝口三郎
技師    高松 博
 仝     山田平五郎
 仝     野村寛之進
 仝     北川嘉一
事務官   阿部伯仲

長野縣耕地課
課長 林 直樹
技師 伊藤次二
 仝  関根一左エ門
 仝  笹倉外三郎
 仝  菊池隆一
主事 櫻井 一
地方事務官 武田信千代
        大久保清利

現役員
組合長縣耕地課長 小泉静雄
組合副長 有賀康人
 仝   有賀實直
評議員事務分掌 野澤貞治
 仝         北條孫七郎
 仝         倉田準

元組合長部長 堀江忠也
 仝        杉原定壽
元組合長縣耕地課長 穂坂申彦
 仝            斎藤美代司
元組合副長 村上東治
 仝      千葉胤孝
 仝      高木正直
 仝      御子柴政治郎
 仝      征矢友三郎
 仝      大槻清比古
 仝      御子柴茂利
 仝      倉田 正
元評議員事務分掌 原孝也

議員員
新町  野澤 祥
羽場  福島嘉藤治
北大出 村上智隆
澤   小原眞一郎
大出  北川秀雄
松島  市川千秋
松島  中坪包人
木下  堀口徳輔
木下  清水東洋雄
久保  馬場重治
塩ノ井 征矢眞三
北殿  倉田友幸
南殿  山崎清直
大泉  田中静雄
田畑  木島 競
神子柴 伊東祐也
澤尻   有賀源吾
大萱  白澤新三郎
御園  白石清治
山寺  福澤定治
坂下  中村元一郎
小澤  山岸英治郎
組合會議員
神戸  上島隆男
羽場  林  融
     野澤勝一
北大出 林 保一
     林  信
沢   大槻荘一
     唐澤重吉
大出  田中豊一
松島  竹腰類助
     有賀利三郎
     市川八十吉
     生坂 全
木下  小池照雄
     笠原昌之進
     柴 儀一
     小松恒雄
久保  城取彦三郎
     堀 昇三
塩ノ井 征矢孝治
     征矢悦雄
北殿  倉田 襄
     倉田勘一
南殿  山崎光雄
     有賀貞雄
大泉  原 孝澄
     原勝治郎
田畑  三澤清人
     小林 薫
神子柴 加藤三治
     原 業求
澤尻  唐澤政勝
大萱  白澤兵一
御園  御子柴肇
     御子柴一雄「
山寺  柴勘十郎
     福澤和志夫
     柴 昇司
坂下  白鳥幾太郎

旧役員
新町  松田亀十
     上島 武
神戸  上島定治
     上島佐吉
     上島喜代吉
羽場  松井喜代太郎
     熊谷喜太郎
     林  馨
     尾坂政吉
北大出 村上正吉
     野澤吉太郎
     野澤秀二
     宮澤常蔵
澤   小原儀十郎
     桑澤良三
     桑澤熊三郎
     平澤 保
     平澤榮一
     唐澤湖藤太
     大概文雄
大出  丸山盛蔵
     井澤禎一郎
     丸山宗十郎
     田中定吉
     唐澤康雄
     丸山重男
     唐澤関大郎
     井澤純一郎
     田中常彌
     有賀頼三郎
     増澤利三郎
     唐澤悦蔵
     唐澤賢造
松島  藤澤牧太郎
     三澤喜芳
     原愛三郎
     藤澤今朝喜
     中坪鞆治
     中坪常三郎
     市川牛太郎
     藤澤岩太郎
     日野正喜
     日野重昌
     唐澤高雄
     寺平種三
     有賀辰吉
     原今朝一
     金澤惣吉
     原金一郎
     柴 光雄
     佐々木隆次
     春日琢也
     市川業修
     唐澤舎人
木下  笠原鶴助
     笠原正太郎
     岡平兵衛
     笠原明一郎
     笠原道直
     倉田又市
     碓田徳英
     小松榮一郎
     吉江佐一郎
     荻原政之助
     笠原幸男
     倉田今朝重郎
     唐沢喜傳司
     荻原守雄
久保  木下左門治
     堀 政一
     赤羽程助
     馬場孫八
     堀和三郎
     堀 貞雄
塩ノ井 穂高傳二
     征矢嘉十郎
     征矢修三
     加藤利三郎
     征矢孫太郎
北殿  伊藤三十郎
     伊藤鶴吉
     伊藤邦治
     倉田妻吉
     入戸登一
     倉田元徳
     伊藤 護
     伊藤雅雄
     倉田順一
     齋藤彦三
     山崎清治
南殿  有賀正一
     有賀寅吉
     有賀周吉
     有賀宗正
     清水 磐
大泉  原 信喜
     池上多摩太郎
     原 又重
     原亥之吉
     清水孫十
     唐澤賢雄
田畑  松澤郡壽
     日戸傳雄
     有賀要太郎
     日戸傳章
     加藤元嘉
     松澤 多
     松澤三千雄
     松澤寛愛
     小林政久
     植田喜輄
神子柴 有賀忠一
     太田徳重
     高木松治郎
     高木嘉一
     原 治久
澤尻  池上亀治郎
     唐澤泰三
     有賀三留
大萱  重盛冨士太郎
     小松鉾之助
     重盛已喜男
     小阪米蔵
     原三十郎
御園  宮下今朝治郎
     御子柴楯男
     御子柴郡治
     宮下修一郎
     御子柴宗甫
山寺  福澤伊那太郎
     白鳥金太郎
     福澤三喜三郎
     林 友石
     原 博美
     白鳥皎太郎
     福澤敬三郎
     福澤律太郎
     中村昌之助
     柴  綴
     小澤七三
     根津九市
     柴 三郎
坂下  樋代準平
     中村福太郎
     福澤勝治郎
     中村忠雄
     北原正三郎

書記  太田市衛
     宮沢敬助
     三澤覺太郎
     中坪利正
     平井 勝
     御子柴貞夫
     笠原孫三
     上田秀夫
     城取義美


建設委員
委員長 原 孝也
委員   林 保一
      福島嘉藤治
      小原眞一郎
      丸山重男
      竹腰類助
      小池照雄
      伊東祐也
      征矢眞三
      倉田 襄
      白石清治
      柴勘十郎
副委員長 北条孫七郎
委員    御子柴茂利
       中村元一郎
       有賀利三郎
       北川秀雄
       平澤清人
       有賀貞雄
       野沢 祥
       有賀敬三

評議員  北澤武保
       山岸源衛門

組合会議員 林弥元次
        大槻寳重
        平澤清人
        田中房雄
        浦野種平
        上田利雄
        青木貫一
        堀 安雄
        倉田良修
        征矢吉郎
        征矢正成
        唐澤梅一
        原 正秋
        清水英一
        藤澤正雄
        加藤一郎
        高木助松
        有賀敬三
        白石軍十
        御子柴正之進
        柴 静雄
        福澤薫三郎
        細田廣光
        加藤司馬朝
        手塚柳三
        原 眞助
        原 又一

鳶職  岡谷 林一衛
土工  木下 窪田和三郎
石工  宮木 春日森治

 

 ちなみに、稲井石(井内石)の有名な使用例として、立憲記念碑(東京都)、塩釜神社、瑞巌寺の石碑(宮城県松島町)、松島瑞巌寺参道、本州最北端の地碑 などがあげられているようだが、西天竜の碑も代表例としてあげられるだけの存在だと思う。この記念碑建設のために碑石運搬に当時のお金で18万円かかったという(『西天竜史』)。

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開田記念の碑が立つ空間

2017-09-11 23:33:14 | 西天竜

 

 今までにも何度か通っていたのに気がつかなかった。南箕輪村の北に塩ノ井という集落がある。段丘を上がったところに塩ノ井神社があり、その裏手にたくさんの石造物が並んでいる空間がある。庚申塚と言われているだけに「庚申」塔が多い。古いものは元文5年(1736)のもので、以後庚申年に建立されてきている。近くにある「文化・自然遺産分布図という看板があって、それによるとここは「ちとり場」と言われていたようだ。「ちとり場」ということはいわゆる馬の地をとったところ。わたしの記憶のある時代には血とり場が近くにあったが、「血とり」ではなく爪切り場だったいずれにしても塩ノ井神社の裏手の道沿いや、墓地内などにも「馬頭観音」がいくつも立っていて、ちとり場であったが故のことなのだろう。この血とり場の脇に「開田記念」という碑が立っている。この碑に気がつかなかったのだ。よく見ると「西天龍」という言葉が彫られている。「開田記念」の下に「前農林大臣從三位勲三等山本悌二郎閣下題額」あり本文が始まる。

なき人に見せばや
変る秋の来て
西天龍乃
稲のざ波

白馬堂書

背面には次のように刻まれている。

 

西天龍役員 有志者

征矢嘉十郎   農林技手笹木重作
征矢友三郎   加藤泰能
穂高儔二    征矢平次郎
征矢侑三    征矢孫太郎
征矢眞三    征矢政通
加藤利三郎   征矢朝一
征矢孝治    穂高正一
昭和七年十一月 征矢弘久

六十三齢
征矢定次郎建之

石工 大泉 出羽沢為十郎

 

征矢性がほとんどで、そこに穂高性などが加わっているから、塩ノ井の関係者が建立したものと思われる。西天竜の水田地帯は、今でこそ段丘上に広大に広がっているが、西天竜幹線水路が開削されたことによって水田になった地。とりわけ段丘崖直上などは最も水に乏しい地であったはず。したがって未開地で平地林がかなり広がっていたと考えられる。段丘崖下であれば湧水によって暮らしの場が展開できたであろうが、段丘崖上では人々が暮らすことは難しかった。この段丘崖線が人々にとって空間の境界域だったと考えられる。そうした姿を今もって段丘崖に求めることができる。段丘崖上にある塩ノ井神社周辺は特別な空間域でもある。神社を囲うように墓地が点在する。後世の新たな墓地も造られている。前述したように地とり場も設けられていた。おそらく葬儀が展開された場所もあったのだろう、そう思っていたら崖下には現在は無住なのだろうが寺もある。段丘崖の上下にそうした空間が散りばめられた場所は、西天竜エリアでも、この塩ノ井が代表的かもしれない。

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久しぶりに「西天竜」

2017-05-12 23:33:41 | 西天竜

 5年ぶりに伊那の出先に異動して、再び「西天竜」にすこしばかり触れている。ところが今年西天竜のエリアを久しぶりに外観してみて、かつてと少し違う印象を受ける。ようは水のついている田んぼが少ないのである。このエリアは転作率が4割と言われた時代にあっても、意外に水稲耕作が多かった。考えてみれば西天竜の水を頂いている人たちは、ただでこの水を頂いているわけではない。受益者として賦課金を支払っている。したがって高い賦課金を支払っているのに、水を利用しないような転作は不合理だ。最も水を使うのは水稲だから、当然水稲を耕作するのが見合っているとも言える。そんな理由があるから転作が少なかったというわけではないだろうが、理屈は通っている。もちろん水利を無料で得られる事例などほとんど無いと言って良いから、どこにでも共通したことではあるが。

 聞くところによると、担い手が多くの面積を耕作するとなると「一気」というわけにはいかないため、代掻きの時期がズレていくとも。また今は飼料米を作る農家も多く、そうした飼料米にあってはそもそも植え付けが遅い。そんなこともあってかこの時期になっても水がついていない田んぼが目立つというわけである。西天竜エリアの水田は面積が小さいため(1反程度)、たくさん耕作している人にとっても効率的ではないだろう。

 さてそんななか、西天竜の水路をのぞくと、水路天端まで波波と水が流れている。危険というほどではないが、知らないひと、あるいは周辺に暮らす人にとっては不安なのではないかと思うほど満杯に水が流れている。長年西天竜の幹線水路を見てきたが、これほど満杯に流れている姿は見たことがない。改良区でも驚いて取水量を減らすように指示したというが、取水量がいつもより多かったといわけではないという。いつも通りなのに、ある区間では満杯になって、いつもとは違う水位を示す。改良区でもその理由ははっきりしないという。実は少し前までは代掻き時期だったこともあって、今以上に水を流していたという。今は年間を通してみれば少ない取水量なのに、溢れそうな水位になる。冬季間は幹線水路の末端にある西天竜発電所が稼働するため、今よりは毎秒0.5m3ほど多く流れるというのに、冬季にこんな光景を見ることはないという。聞けば冬季間は流速が早いとも。その理由について、幹線水路内の堰上げが非かんがい期には行われないためではないかという。幹線水路には例えば大泉に堰揚げのゲートがあったりする。しかし、溢れそうなほど波波流れる場所からは10キロ以上下流のこと。それほど影響することなのかどうか、これまであまり考えたこともなかった。見た感じでも「流速が違う」というほどだから、この堰上げが大きく関わっているのかもしれない。機会があったら流速を測ってみようと思っている。

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手ぬぐいと、風呂敷と

2016-06-11 23:08:15 | 西天竜

 

 知人から「家にあった」といって手ぬぐいをいただいた。

 「祝 頭首工竣工」は上伊那郡西天竜土地改良区が、昭和51年4月8日に行った表記の工事の竣工式並びに祝賀会を記念して作られたもののようだ。この工事の発端は諏訪湖の放流量を毎秒600トンとするために、天竜川の河川改修を長野県土木部の諏訪湖工事事務所が事業化したことによる。その一環として頭首工の移転工事が発生したもので、施工については諏訪湖工事事務所が行った。祝賀会には200名ほど出席したようだが、手ぬぐいは組合員への記念品として配布されたもの。当時組合員は3065名だったという。

 今でこそ手ぬぐいを記念品で配布することはめったになくなったが、かつては手ぬぐいを記念品にすることは度々あった。例えば学校の事業の記念品にもよく使われたもので、手ぬぐいなら安価で、それでいて利用価値が高かったことが選択された理由だ。手ぬぐいが後にタオルに代わった時代もあったのだろうが、今ではほとんど見なくなった記念品だ。

 この祝賀会に参加された方への記念品には風呂敷が用意された。風呂敷の実物を未見のためどのようなものだったかは定かではないが、手ぬぐいよりも少し高価なものとして風呂敷が採用されるのもかつての常道だった。これもまた今ではほとんど見なくなったが、先ごろお客さんへのお礼の品としていろいろ考えていた際に、風呂敷がどうだろう、などと思ったが、若い人たちには受け入れられなかった。風呂敷が応用性の高いものであることはよく知られていて、今でも根強い人気があると聞くが、とはいっても若い人たちにとってはほとんど利用価値は認められていないようだ。わたしの思いは簡単に却下された。

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西天竜円筒分水工群調査報告より

2016-06-01 23:36:46 | 西天竜

 「分水工を探る」其の18において、久保田賀津男さんが『伊那谷自然友の会報』の183号(2月1日発行)と184号(4月1日発行)へ発表された「西天竜用水と円筒分水工群」について触れた。今日まで知らなかったが、久保田さんは「長野県上伊那郡西天竜用水円筒分水工群調査報告書」というものをまとめられていた。どこかの雑誌に報告されているのかどうかまでは解らないが、飯田市立中央図書館にコピー版の同報文が寄贈されている。本文45ページに付記27ページ、さらに付表3ページという大作である。久保田さんが冒頭で「これらを統計的にまとめた資料が一般に公表されていない」と述べられているように、西天竜幹線水路はもちろん、とりわけ円筒分水工群についての資料が乏しいのは事実だ。「資料がない」ではなく、「公表されていない」と表現された意図は解らないが、後者の表現から推察すると、公表されてはいないが、「ある」ということなのだろうか。それは例えば『西天竜史』のことなのかどうかも解らない。

 さて、久保田さんは円筒分水工について詳細なデータをふんだんに使って説明されているが、おそらく読み手は文章を読んでも理解できないだろう。実際の施設を知っているわたしが読んでもよく解らないのだから、見たこともない人には難解に違いない。すでに造られてから長い年月を経ているだけに、時間的変遷と計測データをリンクさせずに現状からのみ推測しても、正確性に欠ける。逐一ここでそれを検証することはしないが、久保田さんが言うように、記述されたものが少ないのは事実だ。とはいえ近年ここでも紹介してきたように、久保田さんの調査報告ほど詳細ではないが、若林博さんによって『伊那路』(上伊那郷土研究会)に何度か発表されたものがある。広大なエリアに農業用水を供給する西天竜の用水路については、そう簡単ではないというのがわたしの印象である。わたしもこれまで「西天竜」について触れられたものが少ないという印象があって、西天竜について、とりわけ「西天竜」のお膝元である『伊那路』へ寄稿したいという思いがあった。それは本日記でも何度となく「西天竜」について触れてきたからだ。このことは上伊那郡西天竜土地改良区の皆さんにも了解を頂いていた。しかし、なかなか寄稿できなかったのは、異動によって上伊那の地を離れてしまったということもある。いずれは、と思っているうちに、すでに3年を経てしまっている。そういう意味では久保田さんの調査報告は、とても刺激になっている。

 久保田さんの報告の中で分水工2例についてコメントさせていただく。一つ目は神子柴33号甲B分水工について紹介されているが(P-32)、これは現在使われていない御園32号の春日街道東側に現存する円筒分水工の間違いではないだろうか。そして図47に「神子柴33号甲B」と表している分水工は、「御園33号乙」円筒分水工と思われる。久保田さんは頻繁に分水槽周縁部の形状について注目されているようだが、当初の形状は外側の天端が張り出し、内側はストレート、というのがほとんどだったようである。ようは造成後の改変は水利・水理上の意図があったわけではなく、補修補強をしたことによる結果論に過ぎないといった方が正しく、この形状をあまり意識する必要はない、とわたしは思う。二つ目は「分水工を探る」其の18で紹介した木下18号支線円筒分水工のこと。「春日街道以東に存在する円筒分水工系はこれだけ」、としているが、これだけにあらず。そして当の木下18号支線円筒分水工であるが、平成24年の改築で「通水孔の数を増や」してはいないし、「上塗り」をしたのではなく前述したように「改築」をしたもので補修したものではない。やはり農業土木分野の者が歴史を踏まえてまとめる必要性を、強く抱くところである。

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中央自動車道上にある西天竜水路橋

2016-04-30 23:38:14 | 西天竜

中央自動車道上から見る西天竜水路橋(伊那IC方面から伊北ICへの区間)

 

 

 先日「分水工を探る」其の18において『伊那谷自然友の会報』に掲載された久保田賀津男さんの「西天竜用水と円筒分水工群」について触れた。『伊那谷自然友の会報』の183号(2月1日発行)の同記事内にコラムが5編掲載されたが、その中に久保田さんが自ら書かれた「中央道の上に水路があった」というものがある。高速道路建設の場合、交差する道路との立体交差化のために盛土をして天井道路にするのが一般的だ。しかし山間地を走る道路の場合道路を掘り下げて交差する道路を橋で跨ぐというケースも多い。そんな中に水路橋もあるわけで、とりわけ農業地帯では水路橋が多くなる。久保田さんはこんなに大きな水路が中央自動車道の上を跨いでいるんだ、ということを知らしめる意味でコラムに採用されたのだろうが、確かに規模としては大きな水路橋である。そしてあの西天竜の水路が頭上を通っているという意識は、通過されるほとんどのドライバーが持たないだろう。

 この水路橋、箕輪町の深沢川右岸の段丘上にある。そもそも深沢川の谷を越えるために、西天竜幹線水路は水路橋で谷を跨いでいた。このことは「分水工を探る」余話⑤で詳しく触れた。漏水に悩まされたためか、建設後間もない昭和13年にサイフォン化して水路橋は現在道路橋として利用されている。そのサイフォン出口から中央自動車道建設のために水路は道路公団名古屋建設局によって補償工事が行われたのだ。これら迂回水路が竣工したのは昭和51年のこと。すでに足掛け40年という構造物である。この水路橋の前後取り付け区間は、上が広く、底が狭い、いわゆる台形断面の水路である。これはもともとの西天竜幹線水路が台形断面だったということによるものだう。西天竜幹線水路が大規模改修(更新)されたのは昭和52年から平成6年にかけてのこと。開渠部分のほとんどがこの時更新された。唯一残っていた建設時の開渠が辰野高校南側にあったが、これも平成19年に更新されて、現在台形断面で残っているのは、取り付けのために造られた高速道路関連部分などほんのわずかである。

 さて、西天竜水路橋の断面は図に示した通り。上部を車が通れるような構造になっているのだろうが、実際ここを車道として利用はできないようフェンスで囲まれている。橋の長さは40.5メートル。中央道に対してかなり斜めに渡っている。本来なら直角に渡せば建設費が抑えられるのだろうが、迂回を余儀なくされたため、流れを考慮して斜めに渡すよう西天竜関係者の希望があったのだろう。とはいえ架け替えがあるとしたら短かった方が良かった、と思う時が、もしかしたら今後あるかもしれない。

(参考) 最後に更新された台形断面の水路(辰野高校南側にあった2号開渠)

 

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利沢千秋

2012-03-22 20:08:30 | 西天竜

 上伊那郡南箕輪村の久保地籍、段丘を上った扇状地面はなだらかに経ヶ岳まで一望でき、西天竜で開田された水田が広々と展開する。意外にこの段丘上は南北にも少しばかり起伏があって、段丘突端ではその起伏の延長として窪んだ沢を形成したりする。昭和の始まりの時代にとっては、微妙な起伏を平らにするほどの機械力がなかったということにるのだろう。今の時代なら平らにしてしまうような起伏が、一見平らに見えるような地形にこの土地の水利の複雑さを生んだのかもしれない。

 この段丘上の突端にはけっこう新しい家々が立ち並んでいる。水田地帯のど真ん中を宅地化にするには抵抗があったためなのかもしれない。もちろん今はど真ん中であっても宅地化が進む場所もあって、それこそ宅地化の背景には微妙な年代意識が反映されているといえよう。だから宅地化された時代を地形図に落とし込んでいくと、政治的背景のようなものが見えてくるのだろうが、まだ試してみたことはない。

 突端で宅地化されているすぐ脇に大きな石碑が建っている。その石碑の正面には「利沢千秋」と刻まれており、揮毫されたのは西天竜耕地整理組合の3代組合長だった穂坂申彦である。穂坂は『西天龍』(上伊那北部教育会)によれば昭和4年12月から同14年3月まで組合長を務めている。西天龍耕地整理組合と称していた時代では最も長く組合長を務めていた。それも県の耕地課長としてである。どのように業務分担がされていたかは解らないが、いわゆる兼務だったということでよいものなのか。穂坂は西天竜独自の分水機能を有した円筒分水工の発案者とも言われていて、その分水工をこの地では「穂坂式」とも称している。円筒分水の機能は他に古いものがあることから、彼が構造まで考えたとは言い切れないが、この方式が妥当だと判断したといった方がきっと正しいのだろう。

 正面にある「利沢千秋」という聞きなれない言葉の詳細な意図は解らないが、想像できる範疇のものなのだろう。背面には久保地区の耕地整理に関わった人たちの名が延々と刻まれている。

 

西天竜耕地整理組合長正五位勲五等穂坂申彦
 設計監督 長野県農林技手   笹本垂作
 同 補助 長野県農林技手   相野 豊
 同 補助 長野県耕地整理助手 野島一三
昭和二年度 田畑二三歩町 組合長 堀貞雄 副長 堀政一 工事監督 倉田準 同 木下左門治 会計 城取彦三郎 協議員 山口喜十 同 馬場孫八 同 堀昇三 同 堀伝一
昭和三年度 田畑十四町歩 組合長 堀貞雄 副長会計 堀政一 工事監督 倉田準 同 木下左門治 協議員 馬場孫八 同 馬場垂治 同 堀伝一 同 倉田寛幹
昭和四年度 田畑二町歩 組合長 倉田寛幹 副長会計 木下左門治 工事監督 倉田準 換地員 赤羽程助 協議員 山口喜十 同 堀和三郎 同 堀貞雄
昭和五年度 田畑六町歩 組合長 馬場垂治 副長会計 馬場一郎 工事監督 倉田準 換地員 堀政一 協議員 木下左門治 同 堀和三郎 同 赤羽猪兵 同 堀伝一 同 堀貞雄 同 矢沢政雄 同 赤羽程肋
昭和六年度 田畑八町歩 組合長会計 赤羽猪兵 副長 馬場一郎 工事監督 赤羽程助 同 換地員 堀政一 協議員 同 馬場垂治 同 馬場孫八 同 矢沢政雄 同 堀喜重 同 倉田俊雄 同 山口喜十 同 堀和三郎
昭和七年度 田畑九町歩 組合長 堀貞雄 副長 倉田準 会計 城取彦三郎 協議員 堀昇三 同 赤羽猪兵 同 馬場武男 同 馬場孫八 同 赤羽忠三 同 堀政一
昭和八年度 田畑八町歩 組合長 城貞雄 副長会計 堀伝一 工事監督 倉田準 脇議員 堀昇三 同 堀久雄 同 馬場武男 同 赤羽楽造 同 城取彦三郎 同 堀政一
昭和九年七月 西天竜耕地整理組合久保開田組合建之
石工 小野初弥
刻師 小松一市
台石寄付者 宮沢友久

 

 昭和2年からの7年間で70町歩の整備をしている。おそらく当時はこの碑から経ヶ岳方面を望んだとき、家など1軒もなかっただろうう。西天竜幹線水路までの約1キロメートルは、今以上に広大な水田を印象付けたはず。ところが今もそうであるが、まさに横たわる西天竜幹線水路を境に、西側はヤマ(平地林)だったのではないだろうか。それまで水田は乏しく、畑作が行われていた土地が一気に水田化されたことで、農民にとって期待とは裏腹に不安も大きかったはず。そこで水田にとって代わられたそれまでの畑作地を求めて、幹線水路の西側を開拓することも忘れなかった。久保から少し南にいった大泉の北西のはずれ、西天竜幹線水路から数百メートルほど離れた場所に、やはり穂坂申彦の揮毫した「利沢千秋」の10分の1ほどの石碑が建っている。正面には「開墾之碑」とあり、向かって左側の脇に「耕地課長 穂坂申彦」と刻まれている。また右側面には「大泉耕地整理地区」、左側面には「昭和十年十一月 石工出羽沢為十郎」と刻まれている。前述の「利沢千秋」の1年後に建てられたものだ。背面に碑を建てた背景が刻まれている。水の乏しかった大泉に、西天竜ができて見事な水田ができたことは喜ばしかったが、稲作だけの単作地帯になったため、森林地帯を開墾して畑作もできるように開墾したというのだ。16町5反の整備をして総工費1万円。交付助成金40円は国の補助か、そして県の補助が300円だったと記されている。計340円と読み取るが、これだと3パーセントにしかならない。こんなものだったのだろうか。それにしては設計者の名前もしっかり刻み、その恩恵を後世まで知らしめている。開墾・開田というものがいかに望まれたものだったかということも教えてくれるが、現代とはずいぶん違う意識がそこにあったといえる。

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「鍾水豊物」余話後編

2011-03-07 12:30:34 | 西天竜

前編より

 原隆男氏は「「鍾水豊物」夜話-西天竜幹線水路完成記念碑について-」(『伊那路』485号/平成9年/上伊那郷土研究会)において、父に当たる原孝也氏の「日本一の碑を建てるぞよ」という言葉を紹介している。原孝也氏の回想録にもあるが戦時下ということもあって「忠魂碑を建てろ」という言葉もあったようだ。地元と縁がある将官に依頼して碑文を書いてもらうことが多かったという忠魂碑だけに、記念碑建立に係った伊沢多喜男も「忠魂碑なら別だが」と快く受けたというわけではなかったようだ。原孝也氏の回想を整理すると次のようになる。

 昭和19年2月24日 仙台市稲井村まで石を求めて行く
 昭和19年3月26日 40トン車に積み込み輸送
 昭和19年10月 銘
 昭和24年 木下駅より引き付け始まる
 昭和25年1月1日 竣工

 飯田線木下駅に昭和19年から24年の5年間寝かされていたのである。前編で触れたように「大東亜戦下」において、食糧増産という大義によって大事業を決行しようとしたのだろうが、さすがに戦火が激しくなり、建碑をためらったのではないだろうか。当時の新聞の囲み記事を二つほど見つけた。いずれも信濃毎日新聞のものである。

昭和19年5月7日信濃毎日新聞
▲今どきこれはどうかと思ふ風景―飯田線木下駅へ卸された花崗岩はその偉大さにちょっと目を曳く、これは西天竜耕地整理事業が完成した記念碑で中箕輪と南箕輪の境界久保地籍へ建てられるのだがこの巨岩は仙台市外石ノ巻付近から送って来たもの
▲長さ五間巾一間半厚さ二尺といふしろもの、運賃から建立まで三萬円もかかろうといふ
▲三萬円はいいとして一反歩の土地をつぶしこの不急の荷物を毎日多数人夫が現場へ運び入れるさわぎに土地の人たちは顔をしかめている

昭和19年8月5日信濃毎日新聞「戦列を乱すな」
開田一千二百町歩、正に県下隋一の大耕整事業―上伊那西天竜耕地整理組合が開墾記念として今建立しつつある大記念碑が憤激の対象なのである幾たびか更正したこの事業何と三萬円(これでもたりさうがないといふ)飯田線木下駅へ下された原材巨岩は仙台市外石の巻付近産の花崗岩、長さ五間巾八尺厚さ二尺重量四十トンといふ代物畳にして凡そ八畳敷、これがアノ客貨輻?の四月はるばる送り込まれたものだ、地元の駅長すら“発駅も発駅だ、ナゼこんなものを受付けたらう”と憤慨した位だ、これに細字一千二百字ほかに篆額文字を刻むため東京から石工四人が来て一ヶ月半で漸く三分の一が終わったところ、二三日中まだ石工が増員されるといふ、ここまで運ぶのに十五人づつ三日かかった、これから建立地までの運搬が又大変、敷地が三反歩潰されのだから凡そ決戦下にあっては事の理窟はどうあらうも萬人をうなづかせるしくみではない
石工までが“忠魂碑か何かなわわっちらも張合ですがネ……”とこれも不服の口吻、これでよいであらうか―とは地区農民らの憤怒が雄弁にこれを物語っている

どちらも地区農民は怒っているという表現だ。回想録に記されたのは推し進めてきた人たちだからそのあたりについてあまり触れていない。やはり戦時下という状況ではなかなか難しい事業だったということが解るとともに、記事にもあるように3反という面積を潰してまで建てるものなのか、という土地が大事な時代を反映している記事でもある。8月5日の「戦列を乱すな」という囲みタイトルは、当時としてはかなりインパクトのあったものではないだろうか。

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「鍾水豊物」余話前編

2011-03-06 14:45:52 | 西天竜

 『伊那路』485号(平成9年/上伊那郷土研究会)に原隆男氏が「「鍾水豊物」夜話-西天竜幹線水路完成記念碑について-」を寄稿している。この中に「題名問答」という部分があり、「故笠原政市先生と嶺頭院住職恵鏡様、父等が幾度も辞書片手に話し合っていた」中で「「鍾」の字は鐘とまちがえる心配がありますね」という問答を紹介している。まさにわたしもそのとおり「鐘」と「鍾」をまちがえて「『西天龍』の回顧談から⑤」で使っていた(すでに訂正済み)。この文を書くにあたり確認したらミスに気がついたしだいだ。西天竜耕地整理組合が建設した「鍾水豊物」の記念碑は、昭和25年に竣工した。しかし、碑文は昭和19年に刻まれたもの。この巨大な碑を建設するにあたっての裏話的部分を原隆男氏が書いているのだが、実は原隆男氏は、前述の『西天龍』の回顧談から⑤において触れた回顧談の当人である原孝也氏の息子さんである。以前にも触れたように碑文を東条大将にと考え伊沢多喜男に労を願ったが、結果的には伊沢がこの四文字の「鍾水豊物」選定にかかわった。「みずをあつめ、ものゆたかにす」と解釈されている碑文であるが、「鍾」には「ショウ、アツム、マス、豊の意、酒器サカズキアツム、升」という意味があると原氏はいう。「水」「豊」「物」は字のごとくである。

 先ごろ箕輪町郷土博物館の主催している講座で、西天竜をテーマとした講座が開かれた。博物館で担当された方に資料を依頼したところ、快くいただけた。その際にこの「鍾水豊物」の文字の出所について盛んに気にされていた。わたしには思いも及ばなかったことであるが、確かに興味深い点である。そして担当の方はネットでこの四文字を検索したところ、高岡市の水道施設に同じ文字が記銘されていることを知ったという。高岡市清水町1-7-30にある清水町配水塔資料館(水源池水槽)にあるもので、施設は昭和6年に建てられたのらしい。入口の上部に犬養毅の揮毫による「鐘水豊物」の御影石板がついていると紹介されている。時代でいけばこちらの方が古い。他にもある、そして同じような政治色のある方が揮毫している、ということでいずれどこかに出所があると推測される四文字ではないだろうか。

 さてこの西天竜の碑文について前回は紹介しなかったので、ここに全文を載せよう。


上伊那郡西天龍耕地整理記念碑 樞密顧問官正三位勲一等 伊沢多喜男題額
西天龍耕地整理組合地區一帯ノ地ハ長野縣上伊那郡伊那富村中箕輪村南箕輪村西箕輪村並ニ伊那町ニ跨リ南北四里ニ亘ル海抜二千四五百尺ノ臺地ニシテ地形概ネ平坦ナルモ地勢上殆ド水利ノ便ヲ缺キ為ニ廣漠タル林野荒廃セル桑園其ノ大半ヲ占メ食糧自給ノ策立タザルコト既ニ久シ是ヲ以テ藩政時代以来先覚ノ士ガ諏訪湖ヨリ疏水シテ水田ヲ開拓セント欲シタルコト一再ニ止マラザリシモ経始容易ナラザルヲ以テ實現ヲ見ズシテ空シク数十年ヲ経タリ然ルニ時代ノ要求ハ其ノ實施ヲ促スコト年ト共ニ切ナルモノアリ明治三十九年十一月関係町村有志相謀リテ西天龍水路開鑿期成同盟會ヲ結成スルヤ實現ノ機運漸ク熟シ遂ニ同四十三年本縣ハ天龍疏水工事測量ノ實施ヲ計畫シ偶大正八年四月開墾助成法ノ発布ヲ機トシ縣ノ測量設計亦完了シ同年十一月二十七日西天龍耕地整理組合ノ設立認可トナル次テ同年十二月縣會ハ用水工事費ニ對スル縣費補助ノ議ヲ決ス是ニ於テ多年ノ懸案タル幹線導水路ハ大正十一年十一月工ヲ起シ昭和三年十月ヲ以テ竣工ス延長六里二十四町九分諏訪郡川岸村鮎澤ノ天龍川取入口ヨリ起リ滔々二百個ノ水ヲ通ジテ伊那小澤川放水路ニ至ル而シテ本水路工事ノ進捗二伴ヒ開田ニ着手シタルハ昭和三年二月ニシテ本縣臨時出張所ノ設計監督ノ下ニ同十四年四月其ノ施行ヲ完成ス開田一千百九十一町歩開畑一百二町歩灌漑水路實ニ七十三里餘内混凝土専用水路二十一里九町用水ノ配給圓滑ヲ計リテ特設セル分水槽一百五個築造セル農耕用道路ハ地區ノ内外ヲ合セテ延長六十七里二十町二達ス斯クテ事業費総額六百八十萬圓ニ上リ開墾助成金トシテ交付セラレタルハ三百八十餘萬圓本縣助成金ハ一百二十五萬餘圓ヲ算ス回顧スレバ大正八年組合設立以来年ヲ閲スルコト二十有六其ノ間資金ノ借入地區外土地ノ買収諏訪湖水位ニ関スル紛争等幾多ノ難関ニ逢着セルノミナラズ或ハ米價暴落ノ為メ組合財政ノ危機ヲ招キ或ハ繭價昂騰ニ因リテ開田熱意ノ弛緩ヲ来セルガ如キ数次ノ難局ニ際會セシモ関係官廰ノ指導援助ト組合員ノ協和励精組合當事者ノ刻苦経営トハ克ク萬難ヲ排シテ意ニ此ノ大事業ヲ完成ス洵ニ聖代ノ餘澤ト謂フベシ而シテ今ヤ収穫穣々年産三萬餘石以テ国民生活ニ重要ナル食料問題ノ解決ニ寄與シ得ルハ真ニ慶賀ニ堪エザル所ナリ昭和十六年六月畏クモ侍従ノ御差遣ヲ仰ギ具ニ組合事業ノ巡覧ヲ忝ウス本組合ノ光栄何モノカ之ニ過ギン然レドモ創業トトモニ守成ノ難アリ水利暢達ノ業其ノ責亦後人ニアリ而シテ其ノ恵澤ヲ被ムル者亦後人ニアリ後人其レ勤メテ而シテ勉メザルベケンヤ因リテ其ノ概要ヲ記スト云フ

昭和十九年十月
  仏領印度支那派遣全権大使顧問 正四位勲三等 木下 信撰
            東京高等師範学校講師  田代其次書

 


 箕輪町郷土博物館の方に教えられて知ったしだいだが、この碑文の中に訂正されている部分がある。拡大写真の部分で、碑文では「国民生活ニ」とされている。見ての通りその「国民生活ニ」がはっきり読み取れないと思う。一度彫った上で彫りなおしているのである。彫られたのはまだ戦時下であり、建立されたのは戦後である。ようは戦時下と戦後では情勢が明らかに異なる。戦時下においてこれほど巨大な碑を造るからには、当然戦争に役が立っていなければならない。そういう意味で碑文は書かれていたのである。訂正前の碑文は「大東亜戦下」だったようだ。おそらく一度彫ったところを埋めて彫りなおしたのだろうが、埋めた部分はどうしても弱い。風化して取れてしまったため、このように判読し難い状態になったのだろう。その証拠に「大」の部分は取れることなく埋めたままに残っている。

後編へ続く

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ワカサギを釣る人

2011-01-16 18:43:56 | 西天竜

 西天竜幹線水路の深沢川サイフォンの吐き出し口に、最近人影をよく見る。釣竿をたらしているからといってゴミを吊っているわけではない。このごろは地方新聞に西天竜幹線水路にゴミが多いという報道がよくされていた。深沢川サイフォンの出口に大きな物が浮き上がっている光景も時おり見る。そして管理のために水を止めたときが見事なもので、サイフォンのような場所にはゴミが集中する。釣り人曰く、「西天竜ではここが(釣りには)一番」らしい。考えてみれば、ここから中央道横断橋を渡るところまでは勾配も緩く、流れはゆったりとしている。何より断面が矩形ではなく、台形で水面は広い。かつての造成時の幹線水路も同様に上が広く、下が狭い水路だったが、昭和時代に改修された際にほとんど矩形に変更された。浮上しないためには矩形の方が有利だ。しかし、水路の流れという面では台形の方が同じ流れの断面内において流速に差が出る。したがって水面近くの流速は矩形よりはゆったりとする。そんな区間が吐き出し以降に続くことから、そして吐き出し口が広くなっているということもあって、魚たちにとっては住み安い空間と言えるのかもしれない。釣り人に言わせると「今日はまったく・・・」らしい。なぜ日によって違うのか問うたが「それは解らない」という。釣れるときには2時間程度で50匹以上のワカサギが釣れる。この日はポリバケツの中に20匹弱だっただろうか。もちろん諏訪湖からやってくるワカサギである。ここならば鑑札もなく吊ることができる。「天竜川はどうなの」と聞くと「水量が少なくてダメ」らしい。別の場所でも釣り人がいたが、そこはふつうの流れの途中だった。素人でもここの方が釣れそうだということは解る。

 さて、先ごろ「長野日報」に「不法投棄絶対ダメ!」という記事が掲載された。伊那小学校の4年仁組の取り組みは「水」の勉強だったようだ。身近な「水」という捉えの中で西天竜幹線水路を対象にした。伊那小学校に流れ下ってくる水は西天流の水だから(それ以外の水もあるが)、確かに身近な「水」の一つである。学んでいく中で西天竜幹線水路にゴミが多いことを知った。まとめとして新聞風に各自テーマを絞った文章で綴られたものと、不法投棄防止のためのポスターを作成した。それらのコピー版が辰野町から南箕輪村までの幹線水路沿いのフェンスにこのほど掲示された。とくに昨年の夏、布団が絡んで分水口が詰まった場所にはたくさん掲示された(伊那インター東側)。記事に「悪い人がたくさんいるんだ」という子どもたちのコメントが掲載されているが、なんとも情けない話しである。

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西天竜旧導水路の残影

2010-12-20 22:18:16 | 西天竜

 『西天竜史』(西天竜土地改良区)において幹線導水路の工事について次のように記している。「大正十一年十一月起工式を挙げ、昭和三年十一月に竣工した。延長は六里二十四丁三十六間六分で、取入口より小沢川放水ロに至っている」と。7年という短期間に造られたわけであるが、換算距離は約26,247メートルになる。ここで示している「丁」は「町」のことになるが、「分」という表示が今ひとつ解らない。尺貫法によれば間の下の単位は尺にあたるが、本書では延長について「尺」で表示された部分はない。「1分」についてはメートルに換算すると尺・寸より下にあたる3.03mmになるが、どうもここでいう「分」はこの「分」ではないようだ。読み替えて「歩」としたとしても1歩は6尺、あるいは8尺と言われていて、1間が6尺であるところからどう考えてみても「歩」を表しているわけでもなさそう。ということでとりあえずここでは「分」を切り捨てて話を進める。

 幹線導水路は上流側から工事が進められた。5期に分けられた工事のうち第1期工事は取水口より現在の辰野町横川川を横断するサイフォン出口までをいい、大正11年11月に始まり、同14年6月に竣工している。取水工とともに、山峡に導水路を設ける工事だったということもあって、期間はもちろんのこと工事費も最もかかった区間である。以前現在も残る水路橋のことを記したが、80年以上も前の施設がなぜそのまま残っているかというと、新たに隧道を新設したりしたため、旧施設を取り壊す必要が無かったという理由がある。とくに第1期工事で造られた施設は、当初は天竜川に沿って山腹を蛇行しながら造られた開渠であった。最も時代も古く、そして条件が悪かったということも手伝ったのだろう、造成後まもなく漏水などの問題が浮上したようだ。古い新聞の記事を見ると、露出した水路橋からの漏水によって巨大な氷柱が写っている写真も見受けられる。これを県営事業として隧道化する工事が立ち上げられたのは昭和17年のこと。事業概要には事業を必要とした理由について次のように書かれている。「開渠はコンクリートとの側壁がうすく地盤に盛り土の所が多く、又コンクリート工事の草創時代の構築であったため、施工上にも多少適正でなかった点があり、冬期零下二十度余に降下するので、寒気と凍結によってコンクリートに亀裂が生じて、鉄筋は殆んど腐食切断され、七回も決壊したりした」とある。とはいえ、この県営事業による以前にも災害復旧という形でそれこそ戦時中に隧道化の工事が行われていた。そのいっぽう県営事業は戦禍が激しくなり、実質的には戦後になってから隧道化が進められることになる。取水後天竜川の左岸を流れた幹線導水路は、天竜川を渡るとそこから下辰野まで延々と山腹を流れていた。天竜川横断から下辰野までの山腹には、かつての水路の姿があちこちに見ることができる。写真の施設はホタルで有名な松尾峡のすぐ直上に残るものである。ここから現在の松ケ丘団地の道路下を流れて法雲寺裏の隧道へとつなげられていた。山腹の土留工のような機能を有すこれらの残影は、戦渦に見舞われる直前に災害復旧で隧道が完成することによって生まれたのである。ちなみに松尾峡から伊那大沢までの山の尾にはこの残影が見えない。なぜならば山の尾は最も被災が頻発した部分だったようだ。ようはあらかた旧水路は崩壊してしまったり埋没してしまったというわけである。

 造成時の第1期工事の工事費は、1,188,618.55円となる。この間の事業量は2里2丁23間3分と記されている。概ね8,133メートルとなり、1メートル当たり146円弱ということになる。

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文献から読む歴史④

2010-08-28 22:54:46 | 西天竜

「文献から読む歴史③」より

 西川治氏が「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化」をまとめたのは1951年のことである。終戦後6年ほどのこと。この時代がどういう時代であったかをある程度捉えたうえでないと、その意図が読み取り難くなるのだろうが、わたしにはその時代のイメージがいまひとつ解っていないのかもしれない。西天竜幹線水路が完成したのが昭和3年のことではあるが、開田工事はさらにそれから10年以上の歳月をかけて行われた。西川氏の解説を読んでいると開田によって必ずしも農業経営が飛躍したという印象を持てない。しかし、水のなかった段丘の上に念願だった水が導水されたことは、大きなことであったことに違いはない。戦争中でありながら建てられた記念碑の存在は、この地の人々にとっては戦争という悲しみを打ち消すようなものだったのかもしれない。これこそわたしの思い違いなのかもしれないが、このあたりはこれからも注意して記録を紐解いていきたい。

 西川氏は「結語」の中でD.H.Davisが1948年に人文地理学の教科書に掲載したかんがい事業への警告を引用している。「たとえ、かんがいされた土地は見掛上魅力的であっても、凡ての事情を考慮すればそれは決して、かんがい水の供給によって起った変化が、好ましい改変をもたらし、永く環境条件を改良することにはならない。出現した様相はアトラクティブに思えても、かんがいによってもたらされた諸結果は、乾燥地あるいは半乾燥地を緑の耕地に変えるために費した費用と時間とを償わないことがしばしばある。同じだけの努力と金額とを別の何処かに投資すれば、もっと多くの価値を社会に与えることが出来るからである」というもの。乾燥地帯にあてはまるものであって、必ずしも日本で言えることではないものの、「田用水かんがい工事にとっても反省を与える言葉となろう」と指摘し、「すなわち、計画されているどの工事も、投下される一切の資本に対して、もたらされる効果は穴埋めして余りあるものばかりではあるまいと思われるからである。水田化ばかりが能ではなく、畑地利用の高度化、原野の高度な牧場化も推進せねばならない」とまとめている。西川氏の忠告はまだ米の生産調整が始まる以前の話である。農業用水の水利用は増え続けていった。それは開田という行為が続く限り水源が求められていったわけで、その後生産調整が始まろうと、減水することはなかった。もちろん耕作地の減少によって少なからず整合は図られたが。後のかんがい排水事業の中には、図らずも西川氏の指摘通りのものが聞き伝わっている。人文地理学がどのような学問なのか認知しないが、この国の流れは、戦後明らかに学問の教えを無視して進むことになったと言えはしないだろうか。

終わり

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文献から読む歴史③

2010-08-27 12:25:10 | 西天竜

「文献から読む歴史②」より

 新規に開田された地域に集落ができるということが、どういう地域現象を起こすか、そのあたりについて西川治氏は模索している。「長野県の町村別に1930ー1935年の間の人口増減を調べると、一般に水田地帯の農村の方が、他の地方に較べて人口支持率において強い」と言う(浜英彦「人口移動序説」を引用)。その上で1925年から1935年における上伊那郡内人口増減状態をみると、増加傾向を辿っている町村は「西天地区を容れる3町村と、赤穂扇状地にある二つの町村である」と指摘していて、いっぽう増加地帯の周辺、とくに天竜川以東においては高い比率で人口減少が起きているというのだ。「水田の多いものは桑畑の多いものに較べて1930―1935年間における人口減少が小さいことは興味深い」と指摘する。これは戦後のことではなく戦前のことである。ちょうど満州移民が始まる。「移民をたくさん送り出した町村が果たして養蚕に主として頼っていた所であったかどうか。そして移民への志向が恐慌によって拍車を掛けられたか否かを追及する必要がある」としている。ここに西天竜の開田がこの一帯での人口減少を食い止めたという考えが持ち上がるわけだが、西川氏はこうも指摘する。「1030ー1935年において人口が増加した町村が減少した町村とに分かれるが、増加した町村にしても自然増加による増加敷に達していない。すなわち人口の移出が行われていることになる。従って、たとえ森林原野や畑地の水田化が人口支持力を増したとしても、この期間には、最早自然増加による人口を凡て包容する余力が尽きていたと解される」と。

 西川氏は中箕輪町にできた原集落と春日集落についてその出身地をまとめている。天竜川以東から移住したものもいるが、ほとんどは開田地帯の周辺からの移住者である。小作などをして生計を立てていた人たちが、自作できる土地を求めて移住してきたということが言えるのだろうが、このことからもこの地域にとっての新たな集落は、この地に関わるそもそも自作地を持たない人たちへの提供の場であった程度だったのだろう。本来であるならば山林原野を開き、住人の食い扶持を確保するところだったのだろうが、それをできない要因は、やはり水だったということなのだ。

 まだ水道が普及されるには早い時代のこと(まったくなかったわけではないが)。原や春日といった集落のある場所は、周囲に水気はない。古くよりある大泉あたりとは条件が違う。住処を求めたとしても飲み水をどうしたのか、ということになるが、「大正末までは大体10戸で1つの井戸を共同使用していたが、開田以後逐次井戸が増えて、現在では150戸の中100戸余りが井戸を持つようになった。これらの新しい井戸は古い井戸が10間以上の深さを有するのに較べて、5~7間位の比較的浅いものである」と西川氏は述べており、これは西天竜へ導水したことによる地下水上昇ということが言えるわけだ。しかし冬季間になれば水は減る。導水が止められたりすると水不足になるわけである。いずれにしても水気のなかった段丘上に導水したことは、大きな環境変化の要因となっていったのは事実である。

 続く

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文献から読む歴史②

2010-08-21 23:09:19 | 西天竜

「文献から読む歴史①」より

 本題に入ろう。西川治氏が著した「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化-動態的研究の一例-」が指摘しているものを拾ってみる。

 「開田は大体幹線の近くの原野、森林、畑から順次行われた。開田が下方に近付くにつれ、専ら畑を田に変えねばならなくなった」ことによって農家にとっても重い選択が迫られたという。以前にも「『西天龍』の回顧談から④」で触れたように、当時は養蚕がまだ盛んに行われていた。換金できるものとして養蚕は生計の上でウエイトが置かれていたものであって、やすやす水田に転換することはできないと思う人たちもいたことだろう。生糸価格が昭和5年に暴落しその後若干回復するものの、そうした傾向は開田に大きく揺り動かされる要因になるはずだったが、いっぽう米価もけして芳しくはなく、開田に足踏みをした人たちも少なくなかったようだ。原野や山林であればもともと生産に効しない土地であるから良いものの、選択に迷うであろう桑園の水田化は迷いの種だったというわけである。西川氏の文面から察するところ、幹線水路側から開田は進んだようだ。幹線水路が既に供用されていたわけだから、その水を利用できる水路際から開田が進められるのは当然のことなのだろうが、こうした開発の流れからすれば、用水路は幹線水路際が最も大きく、遠ざかるほどに小さくなっていくというのは理に叶ったものである。ところが開発し尽くされてしまうとかつてとのこうした水路の常識は当たり前のように批判される。「なぜ上流よりも下流の水路の方が小さいのか」と。

 西川氏は未開発であった山林原野と集落の発達・人口というところに視点を置いて触れている。わたしが今住んでいるところも戦後もまだ山林があったところ。今はほとんど開畑されて山林をみることは全くなくなったが、伊那谷の段丘上には記憶にまだある時代まで山林があちこちにあったようだ。西天龍でも開田によってその山林は姿を消していったわけであるが、こうした開発は新たな移住民を促していたことも事実で、このことは以前「『西天龍』の回顧談から③」で触れた大正9年9月10日報知新聞の切り抜き記事に書かれている。「農業労力の不足を告げて居る同県(長野県)は経済界の打撃に依り多少帰農者が増加して労力の供給が多少加わったとはいえこんなダダ広い新開の土地を耕作せしむるの余裕はない仍で同県は地主等と相談して県下各地から篤実なる小作農家を選び開墾地に移住せしめ現在とは全然別な新しい一村を建設」するというのだ。しかし、実際には村が新たに創生されたという事実はなく、せいぜい集落程度であった。それがなぜかということについては西川氏が解説している。

 中箕輪村原集落(西川氏の論文では南箕輪村と記述しているが中箕輪の誤表記と思われる)は新集落であって、その農家は「主に小作による分家から出発したが、農地解放後であっても、依然として5反前後の零細農であり、梨の栽培、豚の飼育、日傭等により生計を補わねばならない」と言い、新たに住み着いた農家にとっては零細農業を越えられるものではなかったのである。そしてこう西川氏は説明する。「西天地区にはもとの山林と原野から水田に変わったのが374町歩あり、この分だけ仮に全部農家に分配されれば、平均1町歩として374戸の新農家が生まれるわけである。しかし、常識的に考えて、374町歩の中、大半は既農家に併合されるとすれば、新農家が分立する余地は非常に限定されてくる。1950年で既に約150戸に達しているから、今後はもうそれ程増さないであろう。中箕輪町では1947年8月に農家1戸当の経営面積は8反弱の線に達しており、この中、田が約半分であり、大体2年3毛作の土地柄としては少ない方である。従って兼業農家は36%に達しており、しかも純粋の自作は24%に過ぎない。一方小作は36%で、他は自小作と小自作である。この数字は西天開発後の分家も、小作が多いことと関連していようし、一方農地解放後の農家分家は最早ほとんど不可能に近いことを暗示している」と。かつて山林が残っていたというのは耕作できるだけの人手がなかったからのことで、人が住めるようになればその山林は農業生産の場と変えられていった。西天竜の場合はそういう理由もあったのだろうが、水がないために農業生産の場に変えられなかったといった理由の方が強く、開田されてももともとの地主、あるいは耕作者が規模を増やしたというのが実際だったのだろう。

 続く

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文献から読む歴史①

2010-08-14 18:58:38 | 西天竜

文献を探すということ」より

 地方にいて文献探しに苦労をした愚痴を述べたが、探し当てたものが期待を上回るものであると、またその苦労も晴れる。「文献を探すということ」で述べたように、『西天龍』の内容は西天竜土地改良区が後に発行した『西天竜史』では今ひとつはっきりしなかったことや、この大規模事業によってどう地域が変化したかということを教えてくれた。そもそも西天竜について記述された歴史的資料価値のあるものはとても少なく、全容が記されたものはこの両者ぐらいしかない。おそらく古い時代には現在に至れば忘れ去られてしまったようなものが、印刷物として多く出されていたのだろうが、『西天竜史』以降はまったくそうした整理がなされてこなかったといえるし、文献としての蓄積もされてこなかったようだ。また郷土研究という分野でも触れなかったのは、何らかの理由があってのことだろう。かつてこの地域を大きく変貌させた歴史的事業に位置づけられるものなのに、ただただ用水路は静かに流れていたわけである。

 さて、地理学系の長野県内文献目録と、『長野県土地改良史』に記載された関係文献目録のいずれにも記載されていたものの、近隣はもちろんのこと国立国会図書館にも所蔵されていなかった「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化-動態的研究の一例-」という文献を探し当てた。昭和27年に発行された『東京大学地理学研究』の2号に掲載された論文で、西川治という方が書かれている。年代的には『西天龍』が昭和29年に発行されており、その「序」には「昭和27年度より西天龍調査委員会を設けて」とあるようにほぼ同じ年代、そして西川氏の調査のすぐ後に調査を始めたものと言えるだろうか。西川氏の論文を読むと、『西天龍』で問題定義している項目とかなり一致する。後発であった『西天龍』はこの西川氏の論文に目を通しているのかどうかまでは『西天龍』のどこにもそのことが触れられていないため、はっきりとは言えない。しかし両者の指摘している内容が重なっているということは、当時の西天龍における諸問題というものが幹線水路完成後25年ほど、そして開田が竣工して10余年という中で顕在化してきた時代であったのかもしれない。

 西川氏は「動態的研究の一例」と副題をつけている。「政治や経済上の動因が広い範囲にわたって影響を与えた時、各地域がどのような変化を受けたかを比較研究することは、地域の特性を明らかにするのに一つの有効な手段である」と述べ、個々の事象が現に起こっている間にそれを捉え、分析し、地域の変化を研究しておく必要があるというのだ。それに必要なフィールドの一つとして「大規模土木事業が行われた土地」をあげており、西天竜の灌漑水路開発をピックアップしたと言うのである。あたかもわたしたちの目にはこの一帯の水田地帯は遠い時代より続いてきたような錯覚を受ける。それはよく言われる里山が昔から同じ姿をしていたかのように思い込んでいるのと似ている。しかし、現実にはこれら舞台は数十年、あるいは半世紀単位に姿を変えているといっても間違えはないほど景色を変えてきている。もちろん西天竜は既に100年に近く水田耕作が営まれてきたため、そこに暮らしているほとんどの人たちが「変化をしない空間」と捉えているかもしれない。前述したように戦後間もないころ、今から半世紀以上前に動態的研究に焦点が当てられたわけであるが、その当時の動態的視点をもう一度検証するときがこの半世紀にあっても良かったはずである。『西天龍』に記述されたその視点について、わたしはこれまで触れてきたわけであるが、今後の半世紀、そして一世紀がどうなっていくのか、そんな危惧に苛まれながらも、西川氏の捉えた詳細な研究をもう一度振り返ってみたい。そしてその後の半世紀において、そこに暮らす人たちが掲げられた問題をどう展開してきたのかどうかというところを今後捉えていかなくてはならないのかもしれない。

 ところで西川氏の捉える視点に則ったものは、おそらく農林水産省系の雑誌や機関において発表されたものも多いはず。にもかかわらず文献があったかなかったかすらはっきりしない。そもそもが技術系の印刷物など時が過ぎれば何の価値もないものなのかもしれない。しかし、文系の視点に立つと、既に過去のものとなった技術が必ずしも無意味ではないともいえる。長年技術畑に働いていて、今ごろそのようなことに気がついていても遅いのであるが、大きな変化を与えたと思われる「その時」捉えるとき、思いがけない史実を掘り起こすことも考えられるのである。

 続く

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