Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

たかが年賀状とは思うが・・・

2006-01-05 08:23:56 | ひとから学ぶ
 年賀状を書くのもこのごろ面倒くさくなってしまった。かといって、何も年賀状が来ないのも寂しいものなのかもしれないが、郵便ポストをのぞくことの楽しみが、近ごろなくなったこともその要因なのかもしれない。かつて、十代のころ、盛んに文通を希望したのも、身近にいる友人だけでは満足せずに、違う世界の人たちの言葉を、生に聞きたいという意図があったように思う。当時はこんなコンピューターで通信できる時代ではなかったわけだから、見ず知らずの人へアプローチするには、雑誌などの文通希望欄をのぞきながら、手紙を出してみることから始まった。今でもそんな欄が雑誌にはあるが、昔にくらべれば一部世界の人たちのことになってしまったのかもしれない。手紙を出したからといって、必ずしも返信があるわけではない。話によれば、若い女の子が文通希望欄に投稿したりすると、すごい数の手紙がくるなんて聞いたが、そのいっぽう男の投書に対して手紙はそうくるものではなかった。だから、「文通希望」なんていう投稿はまずしなかった。投稿欄にあって、比較的返信が来るだろうと予想されるような人に手紙を出すのである。当時まだ若きころにそうしてねらった相手は、男性で高齢の方たちだった。別に若い女の子をターゲットにしようとしたわけではないのだから、確実に、そして誠実に、そして長く話ができるような人を探したのである。オタク風な雰囲気はあるが、なかなか回りの人たちと合いいれるものがなかったことも、そうした行動をとらせたのかもしれない。だから当時は、学校から帰り、そして勤務から帰り、ポストをのぞくのは日課だったのである。
 そうして文通を始めたわけであるが、まだ十代から二十代というころの高齢の方たちだったから、その後亡くなった方も多い。以前にも書いたように、写真の仲間で京都に暮らしていた方は、最初に会ったころ、すでに定年退職されていたわけである。それから約30年近くお付き合いさせていただいた。何度も写真を撮りに同行させていただいたし、お互いの家にも泊まったり、泊めていただいた。本当に長いお付き合いだった。孫のような存在であって、いろいろ教わったものである。HPで紹介している尾道を最初に訪れたのも、その方に誘われてであったし、「モノクロの彩り」で紹介している撮影場所にも同行したものである。わたしはお金がなくて国産のカメラしか持てなかったが、その方はライカのカメラを何台も持っていて、焼き付けられた写真は、この田舎のどこの写真屋へ頼んでも再現できないような世界をかもし出していた。いまだにその映像は忘れられない。
 単身赴任しているから、家に届く郵便物が必ずしもわたしの目に触れないこともある。一箇所にまとめておいてくれとはいうものの、あまり整理の得意でない家族は、その通りにはしてくれない。今回も年賀状を書くにあたり、県外の方だけには早いうちに出したいと思い、31日に書いたのだが(とても早いとはいえないが)、元旦に改めて整理していると、文通していた方の息子さんから、「父が亡くなりました」という喪中の葉書が出てきたのである。すでに投函してからのことであった。この30年来の間に、継続してお付き合いさせていただいた方は、そう多くはないものの、そしてそのほとんどの方はお会いしたこともないわけだが、ずいぶん多くの方がお亡くなりになった。まるで郵便によるメールというものが衰退していくがごとく、わたしのこころの中からも郵便の地位が下がっていってしまった。それが、この年賀状に対するわたしの体たらくなのである。

 さて、そうはいっても年賀状である。喪中の方へのご無礼もあるのだろうが、一年に一度のささやかな交流によって、安否を確認できるわけで、印刷されただけの無言の賀状であっても、出した方を想像することができるわけである。たかが年賀状、されど年賀状といったところだろうか。義理の父は、年賀状が発売されると同時に、年賀状を書き出す。そして、今でも年賀状を書いている。千枚近い賀状をすべて手書きで書くとなれば、並大抵なことではない。一人ひとり、それぞれのことをそこに記している。このごろは、住所と「謹賀新年」だけ印刷しているが、残りの空白はすべて字が埋まっている。面倒くさいといっているわたしの年賀状は、無口でもよいように、適度に字をちりばめてある。だから、ほとんどは無口である。にもかかわらず、元旦以降に出すありさまなのだから、果たして、いろいろ言う資格などないかもしれない。
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