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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続・跡形もない廃村に分け入る

2022-06-01 23:23:06 | 地域から学ぶ

 昨日「跡形もない廃村に分け入る」を記した。生坂村入山へ入ったことを記したものだが、『生坂村誌 歴史・民俗編』(平成9年 生坂村誌刊行会)の中に「入山誌」という項が立てられ、次のようなことが書かれている(554頁)。

 入山には沢から水を引いて古くから水田があった。野原沢の山は松本藩の御留山で山回り役がいて自由に切らせなかった。家数は貞享2年(1685)の山絵図によると、清水平(山伏南泉院)1、こやんた・やじろう各2、なろう・みょうぶ屋敷・権現沢各1、計9軒がある。明治6年(1873)の切図には清水平3、こやんた・なろう各2、人屋敷4、中屋敷1、その他2軒で、姓は吉沢5、塩島3、池田・市川各2、井口・赤羽各1、計14軒であった。昭和40年には12軒あったが次第に過疎となり、村内・松本各4、池田・松川・埼玉各1と転出し、現在はこやんた1軒となってしまった。
 水田は5~6反歩あり、養蚕と雑穀が主で、一時は綿羊や牛を飼った。秋が終わると炭焼きを業とした。野口炭鉱があり大勢が出た。石炭は索道を蒸気で動かし、別所方面へ運んだり、トロッコ道を作り清水平の下まで運び、差切の道が改良されるまではトラックで山清路方面へ運んだ。炭坑の穴は今もなろう下の沢の西側にある。
 道路は戦前から下の倉庫まで車が来た。こやんたまでは中沢村長時代である。道普請は込地のトンネルから丸山の境まで春秋2回やって運搬の馬が通れるようにした。電気は昭和22年込地から引き、全戸にラジオが入った。電柱は各人の山の木を使った。有線放送は34年に立ち木などを使って小舟・丸山方面から引いて便利になった。同年8月の台風災害のときは道路は決壊し、電柱も倒れ電気も有線も一週間以上不通だった。買い物は坂北村の仁能や竹場の店へ行った。お産はたいがい婆様が取り上げたが、後産が出ないで困る人もあった。
 社堂は権現様があり、祭典には神主も釆たし映画もやった。その他三峯様、山ノ神、社宮司、諏訪明神があり、それぞれ少人数で祭った。観音堂には囲炉裏・長机・茶器があって集会をした。
 青年会は下生坂と一緒にやったが元気があった。入山分校の薪作りや薪割り、井口先生の頭徳碑建設など積極的にやった。学芸会や音楽会は込地分校で一緒にやった。味噌汁給食当番は婦人が交代で出たが、水は屋根水を樋で取り、こして使った。
 本校へ行くには大変で大雪の日には家のものが小学生を背負ってハギノ尾峠を越えて学校にいったこともあった。その後、犀川べりはアソウ沢を中心にして下は下生坂、上は上生坂で分担して雪をかくようになり、通学も楽になった。昔の学校は、冬になると入山で焼いた木炭で部屋を暖めた。炭火を囲む単式学級の学校生活には良い雰国軍があった。
 水車は新作りの下に一つあって、新作り・なろう・矢本・矢殿の人たちが利用していたが、大体は込地の精米所まで背負って行った。昭和25年部落入り口の方に精米所を造り、3馬力のモーターを各人がスイッチを入れ、米すり・麦すり・粉ひき・そばひきなどをした。(原本では数字は漢数字で書かれているが、読みにくいため英数字に置き換えた)

 興味深い話が書かれている。記録から1685年9軒、1965年12軒と、長らく変化しなかったこのムラが、今は廃村となっている。歴史上でもここ半世紀ほどでムラは激変したといえる。ここにある「中沢村長時代」とは、昭和50年から同58年までの間。野原沢に沿った道から逸れて急坂になると、切り取られた山肌にモルタル吹付けされたような空間が目立つようになる。側溝の整備状況などから昭和50年代の整備なのだろうと想像したが、この記述からすればその通りのようだ。昨日触れたとおり、整備された道は一本道で、行き止まりに無住の家が1軒残っている。そこが記述の中にある「こやんた」である。1685年から1965年までずっと2軒あったようだが、今残るのは1軒屋。せっかく整備された道も、かろうじて通ることはできそうだが、いずれ崩壊するのかもしれない。目標としていた道祖神は、同『文化財編』によれば、「こやんた」の「池田氏上」にあると表記されている。訪れた家屋の「上」となる。移転されていなければ、まだそこにあるはず。その道祖神は自然石で3個あるという。昨日も記したように「宿題」としたので、いずれ再びここを訪れて探してみたい。前掲書にはわずかではあるが「入山」の記述が見て取れた。この先の南隣の丸山の記述もあり、こちらは国道19号の小舟から入る道が連絡しているようだが、地図上には入山からも連絡する道も描かれている。しかし「こやんた」へ向かう途中に「ここから丸山牧場にはいけません」と記された看板があるあたりからかつての道が繋がっていたのだろうが、もはや車道ではなく、獣道となっているよう。「道普請は込地のトンネルから丸山の境まで春秋2回」やったというのは、それらの道だったのだろう。距離にすれば3キロほどあったのではないだろうか。それを10軒ほどの家で行ったと推測される。


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1 コメント

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こんにちは (下平 武)
2023-03-21 19:34:19
お疲れ様です。
ネットで探していて拝見しました。
いや凄いところまで行っておられますね

いま、4月から始めるヒッピー展(富士見高原のミュージアム)の準備中なのですが
この小谷田に行く途中に清水平という小字があり、
そこがヒッピーの方たちがコミューンを作っていた場所なのです。
で、このドン突きの池田さんという方が
!~2年前に家の手入れに来ているときに
熊に襲われて亡くなったようなのです。
私の仲間が5年前くらいに行ったときには
割と手入れされていたようなのですが、
いま、家はもう廃屋という感じなのでしょうか?
たぶん、最新に行かれた方になると思います。
わかる範囲で状況を知りたいのですが
メールいただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。
kama399@gmail.com
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