不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

廃村へ分け入る

2018-01-13 23:35:21 | 地域から学ぶ

東筑摩郡生坂村小立野入 丸木七社

 

境内の神像

 

 先日の「生坂村小立野泥沢の道祖神」で触れたように、道祖神が転げ落ちているのを見つけたのは、丸木七社まで山中を歩いて行った帰りのこと。そもそも泥沢の道祖神を確認したら、丸木七社にあるという道祖神も目指してみようと考えていた。それには一旦沢沿いの道に下りて、奥の集落まで行ってからと思っていたが、小立野の奥まった地域があまりにも荒廃していることから、それらの道に期待感はなかった。そこで地図上で見ると泥沢から尾根伝いに歩いていけば、それほど遠くないのではと思い、そのまま山を下らずに尾根伝いに登ることにしたのだ。それにしても確かに廃屋があったり、かつて人の行き来があったらしい気配はあるものの、それは時が止まったかのようにずいぶん過去に遡る印象が強かった。

 尾根伝いに登っていくと、旧明科町との境界にあたる尾根に出る。そこまで行くと明科側から通じる車道がある。この道をしばらく歩いて行くと泥沢の対岸とも言える斜面に通じるらしい歩く道があってそれを下った。わたしの感もだいぶ鈍ってきたようで、一度「この道か」と思ったものの迷って引き返すほど、確実に「これだ」と思うような道ではなかった。そして下ると地図にはない車道らしき道に出、その道を進むと目的の丸木七社が目の前に登場した。写真のように草むらの中にあって、おそらく夏場だったら鬱蒼とした藪中のような光景だっただろう。

 丸木七社は寛政4年(1792)に小立野村中によって建立されたものという。生坂村で最も優れた神社建築の一つということで、村の指定文化財となっている。境内には石造物が点々としており、「常夜燈5基、石祠14基、神像、道祖神など」と村指定文化財看板に記されているが、荒廃している感は否めない。「廃絶した山間小の民間信仰の深さを物語る貴重な文化財である」とされているが、現状を見る限り、文化財という印象もない。むしろすでに廃村と化しているこの奥まった地域に、これほどの神社を建てたことに驚く。いまでこそ神社まで車道によって導かれるようだが(この後車道で神社まで行けないかとめ試みたが、倒木などがあって今はたどり着けない)、それはそれほど昔のことではない。『生坂村誌 歴史・民俗編』に「小立野の家数」というものがある。元禄11年には小立野全部で49戸、丸木には2戸、泥沢にも2戸だったようだ。そして明治8年には全村で129戸、丸木には5戸、泥沢にも5戸だった。いずれにしても小立野入と言われる奥まった地域には、点々と集落が数戸単位で散在していたようだ。だが、それら小集落は、今やすべて廃村と化している。立ち入ってみれば解るが、おそらく現在の限界集落の10年、20年後の姿かもしれない。

 なお、丸木七社にあるという双神は、神社拝殿内にあるということで、見ることはできなかった。


コメント (1)    この記事についてブログを書く
« 富県の道祖神飾り | トップ | 上戸のデーモンジ 前編 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (丸木の子孫)
2023-05-28 20:35:17
県外の者ですが、親が小立野入で生まれ育ちました。高齢になって、廃村となった今、なかなか連れて行くこともできませんでした。地元の様子が写真で見れてありがたいです。親と一緒に見させていただきました。
返信する

コメントを投稿

地域から学ぶ」カテゴリの最新記事