Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

少年野球と田んぼ

2006-01-21 12:25:47 | ひとから学ぶ
 飯田市のある小学校は、かつては農村部であったが、住宅地が増えて今では農地が少なくなって周辺部も住宅ばかりになった。その小学校に隣接して水田を持つ農家は、妻もよく知る篤農家である。妻も時にはいろいろ教えてもらったりしている。家も古く立派なら、今も大変質素で見習うところが多い。
 その農家へ先日妻がドブロクを届けた際、農作業をしているところで立ち話をしたという。そこで出た話はこんな話である。先日少年野球の大会が小学校のグランドで行なわれた。雨の降ったあとでグランドの隅の方には水がついていて、ふだんならそこで練習をするのだろうが、その日は隣接する農家の田んぼが乾いていたので、その田んぼでキャッチボールを始めたという。一人や二人じゃない。様子を見ていたが、なかなか止めようとしないので、そうはいっても大勢が踏み荒らしたんではかなわないと、あまり言いたくはなかったが、止めてほしいと頼んだという。妻が言うには、その農家では、暗渠排水を自分で入れたりして、大変手をかけているという。そこらの水田とはわけが違う。練習している集団には当然指導者もいたようだ。そして指導者が「出て行けっていうから、止めるぞ」といって謝りもせずに出て行ったという。
 ついでにもうひとつ。この農家の田んぼにはおたまじゃくしがいるという。すると、小学校から子どもたち、もちろん先生も加わって田んぼにやってきて、おたまじゃくしをとっていくという。植えたばかりの田んぼだから、やたらに入られては根を痛めたりする。それどころか、けっこう荒らして行くという。やはり言いたくはなかったが、止めてほしいというと、「怒られるから止めるぞ」と子どもたちに先生が言ったという。
 以前会社の同僚がこんなことを言った。「隣の田んぼの人は困った人で、俺んちの刈ったあぜの草を俺んちの田んぼの方へ放り投げる」と。この同僚は刈った草を倒したままにしておいて、集めないという。したがって隣の人は自分の田んぼに人の刈った草が風で飛んで入るのを嫌って、刈った人の田んぼに草を入れてしまうのだという。この話を聞いて「それはあなたの方にも責任があるのじゃないか」とわたしが言うと、「俺んちのまわりは皆そうしている」という。本来は、あぜの草を刈れば処理をするのが当たり前だった。そのまま放置すると、土手が痛みやすく、もぐらがやってきて土手が弱くなる。草を投げ入れる行為は確かによけいなことだが、だからといって、篤農家が自分の水田に手をかけているのに、まわりの人の不精で影響を受けてはたまったものではない。
 前述の農家は、「うるさい人だ」と思われるのもいやだから、よほどでないと言わないとはいう。篤農家は農地を大事だと思って手をかけているが、農業を知らない、あるいは農業に真剣でない人たちにはその認識もなければ、手をかけていることが馬鹿らしく見えるのかもしれない。以前「やたらに人の土地には入れない」で人の土地に入ることについて触れたが、相反していることを言うようだが、ケースバイケースだ。観光地でよそ者から銭を取ろうとしている農家と、土地を大事にしている農家では違う。このごろの農家は、銭を稼ぐことが優先で、自分で作るより買ったほうが安い、ということをよく言う。見かけや言動だけで人を見るのではなく、姿をよく見て判断したいものだし、まず自分のできる範囲で地道にモノを大事にしている人たちには尊敬したいものである。なによりも、子どもたちに「怒られるから止めるぞ」という指導者や先生には「唖然」である。
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