Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝月曜の朝〟

2022-11-15 23:01:42 | 

〝月曜の朝〟

 

回顧するようになったら「もう終わりかな」
そう思うこと、
そのものが年老いた証…。

人の名前が「出ない」
これも「同じ」
「まずいなー」とまでは思わないが、
その「時」、
わたしにも「わたし」の
時間が欲しい
その想いは茶飯事に…。

月曜日の朝、
「腕時計がない」
出がけに焦る。
いつのころからか、
腕時計をせずに外出すると
違和感が募るように。
もはや身体の一部のようになっている小道具である。
わたしには似合わない「小道具」
だったが、
それほど「時」を意識するようになった。
「もういいよ」
と踏ん切りのつけられる歳になったのに、
まだ捨てるには「早い」

たまたま視界に入った紙袋。
座右にあるゴミ入れである。
「まさか」と思い、
「燃えるゴミ」袋に捨てた紙袋の中を探すと
腕時計発見。
呆れる「わたし」と妻。
ことばを失う。

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結末へのプロローグ

2022-10-07 23:03:46 | 

届いた封筒を開ける気力もなく。
そのまま会社から持ち帰った資料の下へ姿を消す。
忘れてはいけない、
そう思うものの、
次から次へと浮かぶ思いに
消し去られた姿が遠いものとなる。
どこかで取り戻そうとするものの、
忘れたことは、
けして思い出せない。

ちょうど1年前に実施した行為
やはり、そのままにしていた。
わずかではあるが「まとめよう」と手を掛けていたため、
まっさらではなかったことが、すこしではあるが幸いした。
おそらく何も手をつけていない状態だったら、
何も再現できなかっただろう。
この調子は、
繰り返しわたしのこころを痛めてきた。
もちろん「こんなことではいけない」と口にしながらも
そして、
こころ奥深くで決心しても、
なんら変わることなく
長きにわたり、わたしの後悔を募らせた。

1年前を再現させて、
記憶を辿ると
忘れていた「もうひとつ」があることを思い出した
1年前の同じ日に実施した物件だ。
ところがこちらは、
何も手つかずだった。
記憶だけを頼りに
暗闇の手探りのように記憶を展開するが
忘れたものは再現不可能。
手書きのメモさえ
埋もれてしまったのか
あるいは破棄してしまったのか、
見つからない。

「すぐできる」
そう思っての過去物件。
何度も繰り返してきた失敗だが
後悔に学ぶこともできず
埋もれたままに
机上にも、
記憶にも、
そして、
もしかしたら
わたしの身体からも
見えなくなった「過去」である。
あるひとつのことだけが脳裏を席巻し
こうなると
最低の日々を繰り広げる。
必ず抜け出すことができた症状だが、
常に紙一重だったことに違いはない。
今、
同じように抜け出せるかの保証はどこにもない。

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子どもごころ

2022-07-04 23:50:01 | 

人に語ることを前提に、
ものごとを把握し、
整理し、
そして、そこにちょっとしたユーモアを織り交ぜ、
もし、文言を整理できたとしても、
それを自らのこころと、
言葉で、
人のこころを掴むような「語り」は、
とうてい、
わたしにはできない。

悟ったのは、
小さなころのこと
世間で人前で語る人々に
羨望のまなざしを送ったのは言うまでもなく、
けして歳を積み重ねても
「あの世界」には手も届かない、
そう思ったもの。

それは、今もなお
苦手な場面で、
繰り返し「またか」
と悟りなおす。

そう「顔」も見えない
手も届かない
そして、
人の気配さえなえ相手に、
わたしは戸惑い、
そして身動きもできない。


優しさに満ちた笑みの向こうに、
けして真実ではない笑みが垣間見えたなら
わたしは、
彼に言葉を発せられるだろうか、
容易いように見えながら、
確実に息を感じる場にあっても、
わたしは身動きの出来ない自分を
そこに見出しているのだろう。

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2021-12-02 23:30:46 | 

何を考えているのか、そう思う人との対峙は、そう滅多にあることではない。

もちろんそうした場面に出くわさないようにしていれば、そう思うこともないが、ふだん会う人ではない人と対峙し、予想もしていなかった言葉を吐かれることもある。

「なぜ」と思うものの、例えば怒りを露にしていれば、ただただ謝るだけだ、こちらに何の落ち度がなくとも。

世間にはいいろな人がいるとともに、人との対峙が減ってきているせいか、他人との会話を知らない人は多い。

 

あくまでもふだん会うこともないひととの対峙の例だ。

しだいにむやみに人に声を掛けることに抵抗が生じる。

とすれば、何かを知ろうという意欲にも影響が生じる。

とりわけ民俗調査には影響大である。

この後の難しさを推し量るわけだが、ふだん顔を合わせている人たちにも、けしてそういう例がないわけではない。

ある対峙のあり方によって、人との関係は悪化する。

ふだん顔を合わせているから、前述の例より厄介だ。

どこかにきっかけがあるもので、わたしの中にある事例も、もちろんきっかけは明確だ。

しかし、対峙する相手は、それをきっかけとは思っていない。

以来、相対することに抵抗が生じ、対峙する相手の目は、常にわたしに何かを訴えることとなった。

もはや精神的な負担は、わたしにとって自らのこころをうろたえさせるまで膨らんで・・・。

 

ひとのこころの禍が、ひとを侵していく。

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晩秋の、ある日

2020-10-21 23:47:03 | 

複雑な思いが顔に…

それは想像に過ぎないが、
「きっと、そう」
わたしは決めつける。
ひとと人の顔合わせは、
顔色の変化はもちろん、
ちょっとした皺の動き
あるいは視線の先で
言葉なくとも対話するもの。
ところが今はどうだ、
おおかたを隠した顔から
かつてのような会話は生まれない。
「みな、どう思っているのだろう」
もちろんそう思わない者もいれば、
もっと深みに嵌る者もいるやも…。

*******************************

 仲間が突然に旅立った。本当に突然だった。その理由もはっきりしない。そして「若い」。元気で知られた彼だけに、みながその報をうたがった。動揺するのも無理はない。

 同じ空間で働いたことはなかったが、つい先日も、わたしの農業空間にある現場に携わってもらった。ほぼ理想どおりに描かれていて、手伝いにもかかわらず、真摯に受け止めてくれたことに感謝していた矢先のことだった。さらに筋書き通りことが進むように、助言しようとしていたら、彼の声はもう聞くことはなかった。「もうどうでもいいか…」、筋書きは泡と化した。

 彼の葬儀に集まった仲間たちの顔が見えない。声も良くは聞き取れない。全てが想像にならないように、と集中するが、コトは停まらない。

 突然といえば、今朝がた同僚の入院を聞いた。連鎖なのか、動揺が重ねられた。「次は自分か…」と冗談を言うには、あまりにも状況は非情だ。


********************************


試練だと言うのなら、
それも素直に受けよう。
しかし、
当事者には冷酷な仕業としか思えない。
だからこそ、みな動揺し、
次にやってくるトキとコトを不安視する。
それでも前を向くしかない。

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冷たい笑い

2020-10-15 23:32:32 | 

わたしたちを睨むように見る彼は
会社と近い位置にいる
けして睨んでいるのではないかもしれないが、
とてもわたしたちを好意的に「見ている」とは考えられない。
もちろん「好意的」にみてもらう必要など
まったくないが、
会社とは少し関係のある立場だ。
わたしたちを「よく思っていない」
とは、同僚の女性の口からでることば。

彼に限らない、
同じような視線は
わたしの経験値にいくつか記憶として残る。

問いただす必要などないが、
「なぜ」という問いは、
わたしに限らず、
同僚からも同じ言葉を聞く。
「わたしだけではない」
そう気がつくと同時に、
彼の視線の意図が「知りたい」
とは思うが、
あえて聞くことのわけが見つからない。
明らかに住んでいる世界が違うのか、
あるいは世間の立ち位置を
自ら納得するために
彼はそうせざるを得ないのか、
もし、意図がないのなら、
彼は悲しい人生を送っている。
そして同じような視線を持つ人々は
みな同じ世界で、
仲間意識を共にしているのか・・・

無尽蔵にこの視線が増えているのか、
それとも減っているのか、
調べるような無意味なことはしない。
しかし、その視線を浴びるたびに
この社会の悲しみを覚え、
冷たい笑いがこみ上げてしまう。

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存在感

2019-12-02 23:54:46 | 

こんな時に使いたい、
そう思って買った道具が、
一度も使われずに物置に置かれている。
そう気がついただけ「良いのかも」
と、思うが
気がついたから初心に戻るわけでもない。
再び
その存在が記憶から失われるのも
時間の問題。

 

存在感などいうものは、
第三者の発声でどうにでも変わる。
良い例は、報道か。
ちまたには人知れず日々生きる人々多数。
名前など検索しても何もヒットしないのが当たり前。
どのような操作があれば、
報道され、
どのような生き方なら褒められるのかも、
すべて第三者のなせるもの。
介在する人、
いなければ人知れずあの世に参る。

 

「使える」と思ったのに、「使えなかった」
モノを買う、とはそんなもの。
「買ったから」といって想像通り
とはゆかないのが常だ。
存在を忘れてしまうのも、
忘れずとも利用価値に値しなかったのも
それぞれの、わたしとの縁。
「縁がなかった」とは、
行動の後の知らせ。
結局
記憶の装置の中で
浮き、沈みの
出来事。

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老いる、そして独り・・・

2018-11-19 23:39:08 | 

思うような明かりは見えないし、
読み取ろうとしても何が書かれているか見えない。
まるで読み取れなくなった自分の目を疑う。
それが老眼といえば結論に過ぎないが、
誰もが到達する世界だと知れば、
病でも何でもない
〝到達点〟だと知る。

老いる先に、
いずれこの世を去る自らがいるとすれば、
盛んに気概を表す自分は何なのだろう、
などという現実と消える時を想像するジレンマに陥る。
この世の不合理や、
格差や、
差別や、
身勝手さも、
どうということはない。
諍いによって、
そこかしこに争いが起きようが、
自然災害によってどれほどたくさんの不幸が訪れようが
それが時の定めだとそれぞれは悟るのだろう。
自ら招いた定めだと
誰も思わなくても、
不幸は誰にでも訪れる、
と、思う端緒には、
あまりにも採算性のない、
そして乱暴とも思える
それぞれの動きが、思いが、
あるからだ。

未明の時に思いを寄せるのは、
寝静まった無風を感じるからだ。
明かりは見えずとも
ひとは誰も異論を突きつけない。
老いるにちょうど良い、
独り時代は、
こうした時の素直さに招かれたのだ。

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メモの隙間に、

2018-08-23 23:23:11 | 

思いついたメモに、
ペンを走らせることはなかった、その時、
ひと言の中に、揺り動かそうとする光明もなかったし、
こころを押す風も吹かなかった。

「何を期待してるのだ」
そう、誰かがささやく。

その通り、
期待して何かが巡ってくることなど
あるはずもないことは、
重々承知のはずなのに、
対価を求めてしまうのは、
この世の人の常。

あえて事実をメモに残しても、
変わらぬ思いがよみがえる。
忘れてしまうこともあるだろう、
他人に注意されることもあるだろう、
そして、
自ら記憶を引き出しのどこかに見つけることもあるだろう、

しかし、
必ず同じことを繰り返すのは、
身体に染みついた過去の経験でも、
誰かに教わったマニュアルでもない。
時は忘れるためにある、としたら
良いことも、
悪いことも、
己の冷静さによって物差しの質は決まる。

やり取りや会話の中に
不合理があっても、
記憶のメモは感情に消える。
間もなく悔いが訪れても
解消できる間合いが
人とひとの隙間。
不可があるとすれば、
己の未熟さか。

メモ好きな他人に問おう、
剥がれた付箋を、
あなたは探しますか、と。

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虚像

2017-11-01 23:34:38 | 

 気がつくと「それっておかしいんじゃないの」と思うことは度々あるが、それを追求する間などあるはずもない。世の中にはそういうことだけを追求する人もいるようだ。それを暇などとは言わないが、そういう人も必要だという与論はたくさんある。でも、合理性から考えると、そして人の意識から照らし合わせると、とても人間的な発想だとは、わたしは思わない。なぜならば、今のわたしたちは、日々そうしたことの繰り返しの中で暮らさざるを得ないからだ。「共感」という視線なら、絶対に気がついたことを「忘れ」、そしていつしか「あたりまえ」と思いながらも、支障のない社会に適合していく。

 とはいうものの、そうした「どうでもよいじゃないか」と思うようなことをことさら突き詰めて、揚げ足を取るような人もいるし、気がつけばそうした視線が常識だと与論になって跳ね返ることも度々ある。なんと「住みにくい世になったものだ」そう思うのはわたしばかりではないだろうが、それもまたごく一時の疑問符として忘れ去られていく。芸術とか、音楽とか、いわゆる文化とは、そうした世界から隔絶したものなんだと、そんなときは思う。どんなにわたしたちを明るい世の中に導こうとしても、それが虚像だと悩む人も多い。世の中に発生する意味不明の事件も、理解しがたい行動も、そうした日常の歪みの心理の現れだと思う。綺麗事は言ってみても、それを捻じ曲げる常識もたくさん転がっている。

 平等と問われる空間に、果たして今何があるのか、たとえば教育の現場はそんな矛盾ばかりで埋め尽くされていないのか、無知なわたしたちには何も見えない。そう、カモフラージュされた虚像に象徴だけが拡大していく。こころ痛む人々が吐く言葉は、遠く及ばない未来に跳ね返されるばかり。

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ひとつになった日

2017-09-27 23:51:35 | 

集まった子どもたちは小学校高学年の2年間、
祭りの囃子方として太鼓を担う。
といっても全員担えるというわけではない。
お船に乗ることのできるのは8人。
5年生組と6年生組の2班で編成されるから、
1学年4人が限度だ。
初めてここに集う5年生にしてみれば、
ここで選抜してもらえなければ、来年もない。
もちろん、上手な子は選ばれ、
なかなか覚えられない
ようはセンスがない子は外される。
かつてはそんな競い合いによって叩き手は決まった。

今年の5年生で集まったのは4人。
よほどのことがなければ皆がみな選抜される。
そんな甘い雰囲気を飛ばすように
師匠たちおとなの声が厳しい。
「気をつけ」の大将の号令にも
身体をきちっと止めずにいると
師匠は名指しで叱りの言葉を投げる。
あえて、緊張感を、
そして絶えず隙を見せないような視線を飛ばす。
それでも
なかなか子どもたちには届かないこともある。
9月に入ると始まる練習は、
休みなく続き、
数日後には何を叩くか選抜される。
このとき皆がみな選ばれれば安堵するだろうが、
選ぶ側も皆を選ぼうと気概を見せる。
20日も過ぎると、
始まりのころとはすっかり顔つきも変わり、
もちろん叩き方も迫力あるものに変わる。

ところが選抜されてもひとつの掟がある。
本番には身なりを整え、
加えて頭髪は5分刈りが求められる。
とはいえ、
時代がらもあって、
掟とはいえ、義務ではない。
「このことは記さないで欲しい」
そう会長さんは言った。
丸刈りにしていじめられることを気にされてのこと。
長髪でも許される時代。
練習の最終日、
整列した子どもたちを前に
師匠は頭髪のことについて触れた。
短く切って集まったものの、
1人、前髪の長い子が。
師匠は盛んにこのことについて気を使う。
長いことで周囲からいろいろ言われはしないか、と。
人の視線を気にしながらも、
子どもたちはそれぞれがそれぞれを認め合うことに承知し、
けして同じではない髪型であっても
自分たちが仲間を“守る”と約束した。
きっと、この日のことを忘れない。

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負の時

2017-06-13 23:20:17 | 

ことばを投げる。
自然と出た、深い意味もないことば。
それを聞いた相手は、予想外の反応をすることもあれば、
予想通りの反応を示すこともある。

予想外のことばに、
(それは違うだろう)
内心そう思い、
意に反したことばを覆そうと誘導を試みるが、
しだいに彼のペースにはまっていく。
(ストレートに言うべきがどうか)
迷いが生まれたころ、
彼は自らのことば匠に、
道理を繋げていく。
もはや反論するすべもなく、
(これ以上は必要ないだろう)
わたしは、
「そうたなー」と
いかにも同調したことばで補う。
わたしが彼に示そうとしたことは、
ほんのわずかにも届かず
(話題を変えることに思案する)
勝ち負けをそこに見出す必要もないが、
わたしは無難な話題を繋ぎ
その場を流すことに。
負の時を抱き、
そして次を見出す。

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糸を引く

2017-06-05 23:53:18 | 

毛羽立っている糸を引いた。
気になればなるほど
周囲へと気が移ろう。
気がつけば
生地に穴が開き
目だたなかった毛羽立ちは
すっかり姿を変えた。
後悔を募らせる姿だ。

跡形もなく片付けられた部屋に
射し込んだ明かりは
埃を浮かばせた。
時は何度となく音を刻み
身動きできなかったわたしをあざ笑う。
しかし、
動きのない部屋に、
ただ埃は舞い
わたしのこころの埃を迷わせる。
果たしてここに身を置いていることで
何を見出させるのか、と。
動かない限り
答えも、明かりも、
そして巳の垢も洗い落とせない。

そう思って糸を引いたはずが、
思うところとは違った姿に
後悔を産んだ。
これは生産的動きだったはず…。

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罠にはまる

2017-05-27 23:16:03 | 

〝モノをどこに置いたか忘れてしまう〟
そう語った年配の方は、
お互い〝歳をとった〟と言いたげな雰囲気を察知して口にされた。

仕事ではできる限り持ち物を軽くして〝歩きたい〟
そう、思うのは誰しも同じはず、
とりわけ持ち物を〝少なくしたい〟わたしは
同僚にくらべて思慮が浅いせいか、
必要なモノを持たずに発してしまうことは若い頃から多かった。
気をつけなくては、
そう思っても同じことはずっと繰り返してきた。
変えられない〝性分〟である。

〝持っていたはずだ〟
仕事で持ち歩いていたものが
いま、わたしの手にはない。
〝あの辺りか〟
歩いてきた場所場所を描いては
それらしいところを空想する。
どこかに〝忘れた〟という思いは
ひとつの思考の欠片を奪う。
流れへの抵抗。
欠品を出さないための最低限の思考を回すものの
いつも通りの答えが導けない。

たくさん持ち歩こうが
最小限にとどめようが
〝忘れる〟ことに変わりはない。
気がつくと
〝忘れた〟と思った道具は
すでに車の中に。
いつそこに戻したかも記憶にはない。
〝忘れた〟と気がつく前から、
すでに思考に欠片が生じていた証。
ひとつ、ふたつ、みっつ
思考に絡みつく罠ばかり。

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〝光明〟

2016-12-13 23:01:08 | 

少しばかり明かりが「見えた」
そう思っても、
数分後に蹴落とされることはいつものこと。
果てしない、
そう思ういっぽうで
少しでも気の晴れる灯りを求めようと、
もしかしたら「逃げ」の場を探す。
意外に時は遊ぶように
こころの隙間に「逃げ」の道を開けてくれる。
その時、まさに「光明」と思えるような
こころを緩ませる時が訪れる。
幸運だと思うかもしれない。
「神様はいるものだ」と思うかもしれない。
でも、
それは「逃げ」からくる「自己満足」。
いつかは元の鞘に、
と、どこかに危惧を持ちながら、
「やっぱり」、と
「光明」は失せる。
余裕のないこころにも、
まだまだこの「光明」が訪れる間は、
許される隙間が見えているということか。

目を閉じた世界にも
「光明」はかならず訪れる。
生きている証かもしれない。
これが見えなくなった時が
こころが閉じるときかもしれない。
浮き沈みする「思い」が、
とめどもなく回る。
ひとのこころは単純なうえに、
訓むことのできない回転をする。
そして、
個人差があるとともに、
共感するほどに
同じサイクルを見せるときもある。
すれ違うこころの狭間で、
なぜすれ違うのか、
そう考える余裕はないが、
すれ違うからこそ
その課題に直面する。
こころの模様を垣間見るのも、
経験、そのもの。
ひとは
いつも同じことの繰り返しでは
いつも同じ歩速では
見えてくるものも
見えなくなる。
一瞬に消え去ろうと、
「光明」が「見えた」と思えた経験を
活かすしかない。

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****