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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

コピペの弊害

2025-05-15 23:27:23 | ひとから学ぶ

 私的なメールはともかくとして、業務上のメールでは、近ごろ気になっていることがあった。お役所とのかかわりが多いわが社の個人メールには、部署専用のアドレスはもちろんだが、個人用のアドレスでもメールは届く。そしてお役所の方のメールには、近ごろ「Cc」が付属することが多い。始まりのメールならともかくとして、返信でも「Cc」へ変身される方が多く、とても気になっていた。ようはメールの内容を共有してもらうために「Cc」を付属させるのだろうが、返信まで続けていくと、当事者としては目にしなくても良いメールを受け取ることになるし、こういうことを常々していると、メールがたくさん届いて整理が大変になってしまう。宛先の方はともかくとして「Cc」の方がどれほど共有しなければならないのか、考慮してほしいことと、容易な言葉を使って返信もできなくなる。ようは宛先の方に返した返信が、そのまま「Cc」の方にも共有されてしまうことが多々ある。仕事上のメールだから、お役所の意図はわかるのだが、お役所の個人メールとはいえ、容易には返信できず、言葉を選ばざるをえなくなる。ということで、「Cc」を多用する方に返信する際は、気を付けるようにしている。

 「Cc」ではないが、コピペすれば容易にメールを関係者に送ることができるから、そして「Cc」で一度に大勢に同じメールを送れることから、送る本人も気をつけてほしい、いいや「これはまずいんじゃないの」というメールを、先日会社の後輩に見せられた。後輩に「みんなに聞いてみて」と言って投げた言葉を受け、後輩は若い人たちの集会で質問をした。そこには職員組合のトップもいたようで、その問いに対してトップは若い人たちの代表に、その問いに対してメールで返信をした。公開してもらうための返信ではなく、若い人たちの代表に向けてのあくまでも応急的回答だったと思う。そして問題なのは、そのメールの内容を、代表は若い人たち全員にコピペして流したのである。組合のトップはあくまでも代表に対するつぶやき的回答だったと思うのだが、その原文をそのまま送られて、それを受け取った後輩がわたしに見せてくれたのである。内容はまさにつぶやきであって、全員に流すような内容ではなかった。こんなものが容易にみんなに流れてしまう時代。そもそも受け取った若者の代表が、その内容を読んで、そのまま送ってはならない、と理解しなかったことも幼いが、組合トップもそういうことを見越して回答できなかった幼さがある。コピペが容易なだけに、文に対して冷静に向き合わなくなったともいえる。したがって相手が何を意図して口にしているか、という理解力も、近ごろ低下していると思わせる場面に頻繁に出くわす。AIにとって代わられて、人間以上に情緒のある回答をしてくれる時代が、すでに到来している。人間の思考能力は、平均的には低下していくことは必至である。

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どうすれば、こうなる

2025-04-03 23:53:19 | ひとから学ぶ

 トイレに行くと、いつものところを(小便用に限らず、トイレに入るといつも利用する場所は決まってくる。もちろん誰もそうとは言わないが、そういう傾向は誰しもあるはず)利用しようとすると、手前の方まで黄色い水が流れて、少し溜まっている。どうみても小便の色である。「どうしてこんなにひろがるほど漏れているのか」と独り言を発してしまうほど。これほど遠くまで流れ出しているとなると、どこに立って用を足したのものなのか。

 コンビニなどに立ち寄ってトイレに入ると、女性用と男性用と限定して張り紙をしてある店をよく見かける。とくに長野県内、いや伊那谷に多いかもしれない。いわゆる便座式のトイレで男性が立って用を足すと、している方も気がつくが、しぶきが周囲に飛散する。もちろん、その周囲にはいわゆる操作盤があったりして、人はそこを手で触れる。「汚い」と思うのは、用を足している方も同じで「判っている」。今は男性でも座って用を足す人もいるのだろうが、こうしたトイレは、もともと立って用を足し始めたもの。したがって、立って用を足す人の方が、今は多いのだろう。冒頭の事例のように、「どこに立って用を足しているのか…」と思うような例に出くわすと、こうしたトイレでどんな用足しが行われているのか、心配になる。だからコンビニで男女分けて張り紙をするのも理解できること。必ず座って用を足す女性にとっては、どれほどトイレが現代的になろうと、男性と共用となると抵抗感を抱くことだろう。もちろん臨時的なトイレなどではコンビニ同様、男女空間を分けてないケースは多く、トイレ空間は人によっては悩みの空間かもしれないが…。

 男子トイレによくある貼り紙は「一歩前進」である。ようはどれほど立つポジションに問題があるかということになる。冒頭の例に出くわすと、貼り紙レベルではなく、そもそもどんな格好で用を足しているのか、見てみたいもの。自分の家のトイレでこんな用足しをするはずもない。なぜ公共の場には、ふだんと違った症状が現れるのか。人の心理にもかかわることだが、これもまた、車の運転と同じで。ひとの心の奥底が見えるようで、その実を解いてみたいところ…。

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なかなか見つからない、解らない

2025-03-21 23:55:00 | ひとから学ぶ

 わたしも根拠のないことをたくさん記しているかもしれない。しかし、世の中にはそうした文献がたくさん溢れている。

 実は昨日触れた「世長戸」について調べてみようと、それらが記されていそうな文献をいくつか調べてみたが、どこにも記載はなかった。とりわけ中坪区地名調査会がまとめた『手良中坪区地名調査』にはあるだろうと考えたが、「世長戸」という単語すら見つからなかった。伊那市内では地区ごとにこうした地名調査が行われてまとめられている。正式な印刷物になっていないため、伊那市の図書館くらいしか蔵書とした置かれていないが、県立長野図書館にもあるようだ。これらに関わった方に聞くと、地区ごとの統一が図られたという風でもなく、地区ごと独自色があったようだから、正確性は低いのかもしれないが、事業としては地元の人たちによってまとめられたものだから意義あるものとは思う。この『手良中坪区地名調査』をさらにまとめたものと考えられる『手良歴史・地名ものがたり』も読んでみたが同様だった。これらには地名の読み仮名が記されているのだが、昨日も触れた「米垣外」に対して前者は「よなかいと」とあり、後者には「よねかいと」とルビがあり、地名研究分野ではそう読むのが正しいのか、地元の現在の読み方は参考にしていないのか、いずれにしてもルビを振った根拠がはっきりしないほど不統一なのだ。そもそも過去の地名の読み仮名など記されている可能性は低く、知識者によって振られたものと思うのだが、実際のところはわからない。しかし何か根拠を、と思って調べたものに頼ってしまったらこれらは「どうなの」ということになる。ちなみに昨日の「お念仏」を事前に把握しようと参考にさせていただいた宮原達明さんの『祈りの里』(ほおずき書籍  2018年)にも「よなかいと」とルビが振られていててっきりそれが正しい読み仮名と思い込んで地元の方に聞いたところ「よながいと」だったというわけである。民俗を調べている者は、「地元での呼び方」を重視することにしている。もちろん時代によって変化はあるかもしれないが、現在当り前に呼ばれているものがどうしてそうなったかが、民俗でもある。以前「新山」について何度か触れているが地元では「にいやま」と呼んでいるのに、よその人たちが「にゅうやま」と呼ぶ。もちろん地名の語源に照らすともしかしたら「にゅうやま」が正しいかもしれないが、今暮らしている人たちが呼んでいるものを否定するのはどうかと思う。そしてその背景が興味深いことも確かだが、それはそれとして捉えるべきことなのだろう。

 世の中は昔のことを知っている人がとても少なくなった。とくにオールラウンドな知識人は稀だ。特定のことに詳しい人はいても、地域全般となるとほぼいない。したがって「なぜ」と聞いてもわからないのが「今」である。したがって聞き取りして何の意味があるのだ、と口にする地域の知識人が目立つ。きっと「わたし以上知っている者はいない」とでもいいたげに。もしそういう人たちがもの書きをしたら、地域の歴史は歪んでしまうのかもしれない。まさにそうしたことが、現実に起きようとしている事例を、わたしは耳にしている。

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農家でも野菜を買う

2025-02-26 23:26:55 | ひとから学ぶ

 先日の民俗の会総会後の懇親会で、「食」の話を参加された女性の方たちとした。まず我が家の食卓であるが、基本的に米はもちろんだが、野菜も自家用のものを利用している。あえていえば毎週届く生協の食材にニンジンが必ず入っているから、わが家ではニンジンを作っていないことになる。我が家ではニンジンがうまくできないため、ニンジンは購入品である。いつも生協の箱が届くと冷蔵庫に運んでいるわたしには、「野菜」の類がこの箱に入っていたことは、ニンジン以外にはない。ごく一般的な野菜の中で、やはりニンジンは必須品(緑黄色野菜)であるから、食材として妻にとっても必須と捉えている食材なのだろう。そのほかのごく一般的な野菜は我が家で採れる。ニンジンについてはこうして毎週届くから「旬」の野菜と言う感覚はなく、いつでも食べている食材の一つでもある。しかし、自家用野菜となると、1年中採れるものはない。やはり採れる時期があるから、無い時期もある。したがってキュウリやトマトを冬場に食べることはない。

 長野県民俗の会第245回例会は3月23日に安曇野市豊科郷土博物館などで開催される。博物館の今回の企画展は「食卓の風景 食と家族の80年」である。「食卓から家族を見た時、どんな風景が見えるだろう。献立は誰が決めるか。食材はどこで誰がどう手に入れるか。調理は誰がするか。家族はどのように座って食事を食べているか。戦後80年の食と家族の変化を見てみよう」というものだが、それに関係して「調理は誰が」という話で話題になり、Uさんの家の話になった。Uさんの家では夕食をUさんが作ることはないという。週に4日はご主人、3日は義母、1日は娘さんだという。ご主人が多く担うのは、退職されて家にいるからだという。ご主人はネットなどのレシピを利用して多様なメニューで組み立ててくれるようで食材もご主人が用意されるよう。そんな話をしていて、Uさんの家は農家でありながらメニューに合わせて野菜も購入すると聞いた。そこで我が家の話を持ち出したわけだが、前述したように我が家では「ある野菜」を利用しているから、旬ではない野菜をわざわざ買うことはない。「農家とはそういうもの」と思っていたらそうではない話を聞いて、考えてみれば農家と言っても食事のことを考えて多様な野菜を必ずしも育てているわけではない。だからメニューに合わせて旬ではない野菜を買うことも当たり前なのかもしれない。むしろ我が家のように野菜をほぼ買わない家の方が珍しいのかもしれない。

 ということで今でも「トマトやキュウリを買う」と言われて、思わず「そんなものこの時期に売っているんですか」と聞いてしまった。ということでいつも訪れている店で野菜を見てみたら、トマトもキュウリもちゃんと売っている。ただし、量は少ないし、このあたりでその野菜が採れる時期に比べたら、モノは良くない。そもそも「野菜を買う」とイメージがないため、野菜を売っている空間など見ていなかったということになる。あらためて女性から献立がいつも違う、と聞いてそれもびっくり。かつての農家では献立はそれほど変わらなかったと記憶するし、わが家は今もそんなに多様ではない。きっとご主人の料理は「お金がかかっているんではないですか」と思わず聞いてしまった。

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口惜しいこと

2025-02-25 23:56:49 | ひとから学ぶ

 人はそれぞれであることは言うまでもない。昔に比べるとより多様であるというのは、世の中が画一的な物言いをしなくなったことにもあるだろう。ちょっとした昔話をしても、場合によってはパワハラだと言われかねないし、とくに仕事の空間で仕事を教えるというのは難しい時代になった。いっぽうでそれぞれの技量に負うところが大きくなって、知識格差が大きくなっているのかもしれない。そもそもペーパーレス時代とそうでない時代を生きてきた者にとって、理解不能なことは多い。「印刷」して読もうとするわたしなどは、ペーパーレスにはとても追いついていけない。デジタルとしたら、いかに順番を認識したらよいものか。紙であれば順に重ねることができるが、データで管理するとすればどう管理するべきか、その時に「これでいこう」と思ってもしばらく後にそのまとめ方を変えようとしたら容易ではない。加えれば紙であれば捨てるのも並んでいる中からチョイスすれば良いだけのこと。また順番を変えるのも容易だし、このご時世であれば、紙をデータ化することも容易だ。データだけではちょっとイメージできない。机の上の書類を整理できないで積み重ねているような者にとっては、データなど絶対管理不可能だ。そしてその中から必要なデータを簡単に取り出せるかどうか、年代者には容易ではない。

 既に一線をから離脱したものが言うことでは「ないのだが」、と思いながらも、どうしても口にしたくなることも多い。「これで良いの」と問えば、即答できないことが現役世代には多い。いや答えられないことが多い背景は、紙で大事なものを蓄積していないからだと思う。したがって若い世代でもわかっている人は、ちゃんと紙で管理している。それはともかくとして、とりわけ人とひととの関係を冷静に捉えられるかどうかという点については、周囲への観察眼はもちろんだが、こころに余裕がないと見えないことが多い。それは結果として仕事の成果にも表れる。ちょっとしたことであっても、そうしたちょっとしたことに気がつけない人は、人の信頼を受け取ることができなくなってしまう。そしてそれを口で諭しても、おそらくそうした人たちには理解が得られない。人材が少ないと、結局世の中は、そして会社は低迷していくこととなる。まさにそうした実態を眼にしているようで、残念だが、わたしにはどうすることもできない。経験を大事にしなかった会社の末路かもしれない。そして「末路」だと認識していない人たちが、この後どう対応していくのか、見もので仕方ない。

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続 学習をしない人たち

2025-02-14 23:06:38 | ひとから学ぶ

 「学習しない人たち」を記したばかりだが、続編である。前回「信号が赤で、あるいは赤になりそうなのに、横道から出ようとしている車の前に出て、道を防ぐ行為」に対して学習能力がないと言った。それほど「ほかの車を入れたくない」という意志の表れであるが、この場合は確かに運転手にとっては1台でも前に入れば、その分到着が遅れるかもしれない(1、2秒あるいはその1台のせいで信号が赤くなって最大1分くらい、もっと言えばそのせいで運が重なって数分遅くなる可能性はある)。したがってその気持ちがわからないでもないが、まさに自分だけが、という個人主義の表れだ。

 ここで示す例は時間にはおそらくほぼ無関係な例だ。こちらが店舗の駐車場に入ろうと右折しようとしている時、対向車線に車が繋がっている。対向車線の前方にある信号機が青なら仕方ないが、車列が繋がっていて速度が落ちている、さらには前方の信号機が黄色くなって赤になろうとしているのに右折車を入れさせてあげない。結局「これ以上前進できない」というところまで車が詰まってから、きるで仕方ないように前方の車が間を空けて停車した。よってわたしは右折できたが、何台車が目の前を通過していったことか。それらすべて信号待ちで停車している姿を横目に、わたしはようやく店舗の駐車場に入ることができた。冒頭の例と意識は同じなのかもしれない(自分の前で車を通したくない)が、こういう人たちを見ていると、この人たちの辞書には「人のために」などという言葉はないとつくづく思う。もしそのような言葉を口にするとしたらパフォーマンスだろうと悟る。

 さて、昔はパソコンで文字を打つのは誰よりも「早い」と思っていた。ところがタイプミスはもちろんだが、わたしの場合日本語で文字をタイプしていくから濁点に問題が多発するようになった。これって年齢というよりわたしの頭の中で右半身と左半身への伝達速度に違いが表れてきたせいだと最近思うようになった。ようは濁点の位置は右側にある。例えば「あじがさわ」と文字を打つ際、「あじさわ」、あるいは「あ゛しがさわ」としてしまうことがある。濁点のキーは右側にあるから当然右手で打つ。左で先で打たなければならない文字をタイプする前に濁点を先に打ってしまうのである。とくに濁点が重なっている文字が怪しい。これって何かの前兆…?。

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浮き草

2025-02-04 23:30:36 | ひとから学ぶ

 「浮き草」についてコトバンクでは、「水面上に浮かんで生育する草の総称。根が水中に垂れて固定しないことから、人の世の定めないことにたとえ、「浮き」を「憂き」にかけて用いることが多い。また、生活、職業等が不安定なことのたとえにもいう。」とある。またWikipediaには「ウキクサは水面を漂うため、不安定で落ち着かない生き方をウキクサ (浮草) に例えて表現することがある」と記している。

 よく立ち寄るお客さんのところで、ひとりで事務を担っている女性が、そこの役員さんのことを「浮き草」と表現される。とりわけ今回はわが社の担当者がある物件について提案をしたものの、役員がなかなか結論を出されない。数日前も役員が集まってその物件について話し合いを持ったものの、役員の中に「うちにやらせろ」と強引な意見を口にする人がいて、そこに仕事をさせたくない役員は結論を先送りにする。わが社の担当もこれぞという提案ができず、ふらふらしているので一層話が進まない。意味がよくわからない役員は無言で内心は「こんな会議には出たくない」と思っている。何度となく開かれる会議は無駄に時間だけが費やされていく。そんな光景を見ていて女性は「浮き草集団」とも言う。その中のある役員に至っては、女性は「ミスター浮き草」と表現する。「どういうことなんですか」と聞くと、川の中を流れていてぶつかりそうになると波に押されて回避する。またぶつかりそうになると同じように押し返されてぶつからない」。そんな生き方をしている典型的な人、だからミスターなのだと…。でもミスターに限らず「みんな浮き草」と言うのは、繰り返される結論の出ない無駄な会議に呆れてのこと。

 考えてみればひとはみな壁にぶつかりたくないから外部の声に限らず、身内の言葉でも流されてぶつからないようにするもの。みんな「浮き草」である。とは言うものの、決めなくてはならないことをちゃんと決められないのも困ったもの。その姿を見ているとじれったくて仕方ないわけだ。ぶつかっているばかりの人生だったわたしには、女性の言葉におかしくて仕方なかった。「みーんな、浮き草」という言葉に…。黒板の予定表にただ「会議」と記されている日が数日後に予定されていて、「あれは?」と聞くとまたこの物件の会議をするらしい。浮き草集団の結論は?、「出るわけないじゃん」、とは女性の弁である。

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年賀状じまい 後編

2025-01-01 23:14:56 | ひとから学ぶ

年賀状じまい 前編より

 元旦に年賀状が届くように用意していないわたしが言う資格はないかもしれないが、近年は届いた年賀状に返信するように年賀状を書いている。忙しくてとても年内に正月の気分にはなれないせいもある。定年したのだから余裕でいたのだが、やはり今年度は無理だ。来年も同じことを書いている可能性もあるが、それをしないために今は努力をしている。

 やはり「年賀状じまい」を宣言される年賀状が何枚かあった。もちろん高齢の方から「今年で…」というものもあるが、若い人からも同じような告知がある。やはり自分より遥かに年下の方から宣言されると、気分はよくない。前編でも記した通り、年賀状しか通じる手立てがない人からの告知は、つまるところ絶縁にも聞こえる。それでもいいと思う関係だが、絶縁されるという感じが気分が良いはずもない。年の初めからそんな気分にさせてくれるのだから、こちらから絶縁したいものだ。そのくらいなら「出さなければ良いのに」と妻に言うと、「そういうものじゃない」と言うが、たかが年賀状1枚でも、送るという行為をしたからには相手に気分を害すような告知はしてほしくない。そもそもかかわりがなくなるとすぐに年賀状を出さない人も多い。今までお世話になってもだ。ということはそもそも年賀状とは「何」?ということになる。ようは出すのは辞めようという根拠があるわけで、それでも告知して「辞めます」と言ってくれる人の方が、まだ丁寧だと言えば、確かにそうかもしれない。

 今どきだから「「年賀状じまい」が届いた時の作法、どうすれば?」というアドバイスもネット上には多い。そんな中に「来年以降は年賀状は出さない方がよいでしょうか」という問いがある。「私は送らないし、あなたも送らないで」と捉えるのなら、当然送るべきではないのだろうが、近況報告を兼ねて年賀状で伝えてきたのなら、返信を断りながら出せば良い、というアドバイスがある。人はそれぞれで、礼儀として必ず返信しなければならないと考えている人には、やはり迷惑になるのかもしれないが、年賀状でなくとも手紙は近況報告など意図があって出すもの。そうした事例と捉えればあくまでも年過剰にこだわる必要も無いということになる。そんなことを考えていて思い出したのは、そういえばずいぶん昔、年賀に併せて手紙を送っていたことがあった。年賀状を併せて出していたか記憶にないが、正月なら少し余裕をもって読んでもらえるかもしれないと考えて、正月に届くよう狙って投函していた記憶がある。とすれば年賀状を、いわゆる「年賀状」ではなく、自分スタイルの新年のあいさつに変えれば良いだけのこと、とも思う。もう少し歳をとったら、そんな仕掛けに変えていきたいと、元旦に思った。

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年賀状じまい 前編

2024-12-04 23:46:05 | ひとから学ぶ

 「喪中につき年頭のご挨拶はご遠慮させていただきます」、いわゆる年賀状を喪中のため出しませんよ、と告知するためのハガキ。今年は例年以上に多かった。そしてその中にも付け加えて「誠に勝手ながら来年より年賀状じまいをさせていただきます」と記述されているものがあった。世間では新年の年過剰は3割減といっている。当り前だろう、年賀状離れが以前から進んでいるし、この10月からの郵便代の値上げである。形骸化していると思う人たちには、これ幸いと年賀状を出さない口実にしている。

 以前から「年賀状じまい」を告知する年賀状は届いていた。しかし、高齢の方からそうした年賀状を頂いたものだが、最近は高齢の方ではない方からもそうした年賀状がちらほらし始めた。そして今回の喪中のハガキでの年賀状じまいの告知。そもそもこのハガキをいただいた方と、ふだん会うことはない。遠いところに住んでいるわけではないが、会うことはない。接点がないのだから当たり前かもしれないが、昔からの縁だからわたしが退職の区切りとして発行した本も贈呈した。とはいえ前述したように年賀状だけ、ようは1年に一度の接点だった。それを拒絶するような年賀状じまいには、こちらとしては気分はあまり良好ではない。もちろんその方は高齢ではなく、わたしよりも「若い」。年賀状に対して、それほどこだわっているわけではないが、ただの一度の接点すら断とうとされると、少し違和感が湧く。自分の年齢、そして相手の年齢も考慮するうえで、さらに接点を見いだしていったとき、おそらくもう会うこともないのかもしれない。とはいえ、どこかで偶然会う可能性が全くないわけでもない。にもかかわらず、一時でも親しく仕事をさせてもらったこと、また悩みを聞いたこと、などなどから追憶すれば、年下からこのような断りを告知するのはどうか、とも思う。繰り返すが年賀状にこだわっているわけではないが…。

続く

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毎朝の鬱陶しい“奴”のこのごろ

2024-11-20 23:31:15 | ひとから学ぶ

 最近、毎朝鬱陶しかった“奴”が、接近してこない。高速を降りて、駐車場までの一般道、後ろにつかれると接近されて鬱陶しくて仕方なかった。したがってなるべくなら高速上で抜いてくれればそれでもう会うことも無いのだが、これがけっこう高速の出口辺りで後ろにつかれる。一般道に出てからとなると、奴を「お先にどうぞ」と除けるのも面倒なこと。そもそもそんなことに気を遣いたくないもの。ここに書いていることそのものも鬱陶しいことなのだが、「気を遣う」という意識そのものも、奴はどう思っているか知らないが、迷惑なこと。会わないのが一番なのだが、「またか」という感じに頻繁に遭遇する出来事。

 同僚が言うには、けっこう長い区間を走っている車の様。ようは大方の車を抜いてくるわけで、その数は相当のものなのだろう。たまに「何キロ出しているんだ」と抜かれた後について行ってみると、140キロくらい出している。さすがにしょっちゅう会う車だから、「ついて行く」といっても抜かれてから間をおいて、接近はしないようにしているが、等間隔で車速を見るとそのくらいの速度だ。毎日毎日長いスパンをこの速度で走っているということは、毎日毎日抜かれている車がいるということ。目立つ車ではないが、みんなが知っている目立った車であることに間違いない。「毎朝の鬱陶しい“奴”」ではわたしと20キロくらいの違いだろうか、と記したが、最近は100キロ以下で走ることが多いから、そんなレベルではない。にもかかわらず、高速出口で頻繁に後ろにつかれる。何度かスマートインター内で除けるようにレーンを逸れたことがあったから、わたしが嫌がっていると察知したかどうかはわからない。ふつうはいつも出口に向かう車が、ふつうではないラインに入っていくのだから察知するとは思うが、果たして…。

 何度か一般道に下りてから奴を避けるように高速で走ったこともある。それが奴にとってわたしを意識させるきっかけになったかどうかはわからないが、このところ後ろについても煽られることはなくなった。それでもこれまでの印象があるから、「意識する」ことに変わりはない。奴に限らないが、接近する車すべてに「勘弁しろよ」と言いたいところだ。というか、わたし的には、ほぼ3台に1台は「意識せざるをえない」車間をとってくるのが実情だ。

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ファースト 前編

2024-11-06 23:59:59 | ひとから学ぶ

 アメリカの大統領に再びアメリカファーストを唱えたあの人が当選するようだ。「USA」を叫ぶ当選を喜ぶ声が大きい。世界中が自国第一主義になっていくのも、アメリカの低迷を見れば自然な流れなのだろう。それは日本も同じだ。一時〇〇ファーストが流行った。しかし、政治への期待の声をテレビで流すと、やはり自分中心の政策をみながみな口にする。当たり前だが、自分の生活が潤う政策を誰もが望む。昔のように「人のため」に財産を提供する人もいなければ、命を懸ける者などあるはずもない。しかし、政治には、やはり個人主義であってほしくない、そう思う。大きな視野で動かしていくものだと思うのだが、そういう道から外させたのも現政権であったかもしれない。

 下野したあの時代、現政権は身に沁みたはずなのに、同じことを繰り返した。というより、国民は何を期待していたのか、それもまた自らの第一主義を見込んでのものだったのかもしれない。例えば石破さんは、かつての安倍派の力を削ぐように敗北を導いた。かつて「モリカケ問題」が話題になっても、安部さんの人気は落ちなかった。亡くなった今だからこのような敗北に繋がったが、安部さんが今もなお中枢にいたら、このような流れを国民が選択したかどうか。結局石破さんはもちろんだが、現政権はかつてのつけを負っているにすぎない。石破さんが悪いわけでも何でもないのに、それを背負わざるを得ないのは、仕方ないことなのだろう。あれほど問題になっても安倍さんに期待した人々が、いとも簡単に現政権に敗北を味あわせているのも、妙な話なのだ。繰り返すが、期待する声を発すれば、自らの第一主義に過ぎない。アメリカも、日本の一個人も、なんら変わらない。そして、それは危ない道へ進んでいる証かもしれない。

 地方のリーダーは、力を示すために時の政権に寄り添う。もちろん全てではないが、地方にとっては当たり前の道だ。しかし、現実的に政治があからさまに地域に差をつけることはない(もちろん「ある」こともあるだろうが、小さな行政にそれほど差異は認められず、むしろそれぞれの行政の力量による差の方が大きい)。にもかかわらず、政治力に頼る。もちろん小さな声は届かないし、届けようと思えば道筋がある。行政はそれほど不公平ではない。「説明不足」という言葉をよく聞くが、詳細説明をすればそれを逆手にとる者もいる。均衡を保つための策を、創り上げてきたことを認め、その上で冷静に見渡せば、しなくても良い行動がたくさんあるのに、せざるを得ない立場、あるいは関係を築いている現実を認めることが、この後の人口減少した世の中の解決策だと、わたしは思うのだが、まだまだそれは続くのだろう。その策に溺れている自治体のトップが諸悪の根源かもしれない。それもまた、第一主義なのだ。当たり前だか、当選するには、他人のために働いていたらダメだからだ。この仕組み、どう見ても検討の余地あり、と思うのだが…。

続く

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ある一日

2024-11-05 23:08:20 | ひとから学ぶ

 昨日は息子の結婚式だった。「結婚式はやらない」と言った際に、「今どきだから」とは思ったが、「いいのかな」というちょっとした思いもあった。女性にしてみたらそうしたイベントを求めるこころもちもあると思ったからだ。既に半年前には籍を入れて、それで済んでいたのだが、思いがけなく「結婚式をしたい」という話があって、昨日となった。結婚したというけじめと言うか、区切りと言う意味では、たとえ内輪であってもそうした披露はあっても良いものなのだろう、とは思う。したがって本当に身近だけの結婚式だったが、近ごろそうした場面にも接しないわたしたちには、良い経験でもあった。

 このご時世だから、家と家といったつきあいがどうの、ということもない。しかし「親戚になる」という事実は、昔と変わらない。変わるものもあれば、変わらないものもある。世の中もその通りだが、とはいえ世の中は昔とは違うところがたくさん…。「個」の世界に入り込んでいる今の世で、どう生き、また次世代が変わっていくか、まったくわからないわたしたちには、もう次世代に自由に生きてもらうしかないのだろう、とは「諦め」でもないし、「捨てている」わけでもない。

 さて、今日は連休後の平日。結婚式をした会場で泊り、朝食会場に身を置くと、平日にもかかわらず、多くの家族連れが朝早いのにたくさんいた。これこそ世の中が「変わった」ところなのかもしれないが…。

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高速バス利用法

2024-10-29 23:48:58 | ひとから学ぶ

 もう仕事で東京に行くことはないが、近年高速バスのことについて何度かここに記した。いずれも仕事の関係で東京に行ったことについて触れたもの。2年前に記した「高速バスの違和感」では、「どのような観点で予約席が埋まっていくのか、よくわからない」と記した。予約時に窓口で空席を埋めていく際に、何か基本ルールのようなものがあるのか、という疑問だった。今回民俗学会の年会に向かう際、高速バスを利用した。仕事で予約をする際に利用していた「ハイウェイバスドットコム」を利用してのものだが、高速バスを運営する会社のホームページからインターネット予約については「予約はこちら」といって同ホームページへ誘導している。したがって全国のみなが利用しているものなのだろうが、既に2週間後に迫っていたころ予約したから、席はだいぶ埋まっていた。ふつうに考えると窓側の席が埋まっていくように思うが、もちろん傾向はそのとおりなのだが、通路側の席が埋まっていて、窓側が空いているというケースも珍しくない。

 これまで新宿へ行く際に利用するのは飯田始発のバスしか利用したことはなかったが、バス停まで自家用車で行くことになるから、ここでなくてはならないというバス停はない。したがって今回は駒ヶ根始発のバスを利用した。このバスの難点は、駒ヶ根から伊那まで一般道を走るということ。ようは時間を要す。最寄りのバス停で乗るのと比較すると30分ほど余計に時間を要すだろうか。ただし、始発から乗車することになるのと、駐車場が広いということもあって、利用しやすい。ということで初めて駒ヶ根始発の新宿行きを利用した。予約の際にAからCまで埋まっていて、Dが空いていたのでその席を予約した。ようは窓側である。「きっと3人連れでAからCまで並んで取ったのだろう」、そう思っていた。ところが実際に乗ってみるとCの方は一人で利用していて、それも女性だった。以前にも記したが、窓口で席を取っていく場合、案内の方が女性と男性をある程度意識して埋めていくと思っていたら、そうでもないことを知った。ネットで予約となれば、埋まっている席が女性か男性かは不明だ。したがって同性同士になるわけではない。そして今回特に感じたのは、土日だからということもあるのか、バスを利用している人、そのものが女性の方が多い。男性はかなり少ない、そう感じた。そして、やはり満席に近い。隣の席が空席という例は珍しいほど。ちなみに予約の際には埋まっていたAからBには、結局利用者がいなかった。そもそも予約した後に解約があり、さらに別の人が予約するということもある。本当のところはわからないが、くじ引きのような世界だ。

 そして帰路である。予約した時間より早いバスで帰ろうと、新宿の窓口で「空きはないか」と聞くと、「今から出るバスが1席だけ空いている」と言われ、即決でそのバスに変更した。掲示板には「満席」と表示されていたので、乗車口にやってきていたバスには「乗れないだろう」と期待していなかったのだか、実際はみんな乗ってみないとわからない。そして、さらにラッキーだったのは、となりの席は空いたままだった。往路はそのようなことはできないが、復路については、よほど混んでる時期以外は、遅めのバスを予約しておいて、変更した方が、意外とこういうケースに巡り合うということだ。

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毎朝の鬱陶しい“奴”

2024-10-09 23:31:22 | ひとから学ぶ

 会社への道、かなり後方からいつもの車が見えてきたので、スマートインターのあるパーキングに入ると誘導路から外れて大型車の駐車スペースにハンドルを切った。2度目のことである。この「いつもの車」が視界に入ると嫌悪感が高まる。ずいぶん以前に記したアルファロメオも嫌悪感がすぐに高まったが、最近はこの車がわたしの通勤時間帯に被る。高速道路から同じスマートインターで降りて、わたしの駐車場のある場所まで経路が被るため、時間帯が同じなら、毎日のようにその姿が目に入る。その車が視界に入れば「またか」と思い、近ごろは「避けたい」と思ってあえて道を外れるか、高速道路上では走行車線にすぐに入って“奴”の視界から消えることにしている。繰り返すが、以前記したアルファロメオのように一瞬に抜き去っていく車と違って、速度差はせいぜい20キロくらいだから、付き合う時間が長くなってしまう。だから余計に鬱陶しいのである。高速道路から駐車場まで、付き合ったとしてもほん数分のことなのだが…。

 とりわけ鬱陶しいのは、インターを出て駐車場までの一般道だ。後ろに着かれると接近してくる。これまでにも何度も記している通り、接近されるのが嫌で仕方ない。誰でもそうだと思うのだが、とりわけ駐車場へ入る際に減速すると、ぶつかるくらいに接近してくる。したがって奴が後ろに着いていると、一般道ではあるものの、速度を上げて奴との車間が開くようにする。かなりの速度にしないと車間が開かない。ということで、もはやこんな駆け引きが鬱陶しいから「避ける」ことにした。逆にうしろからついて行って接近してやろうとも思うが、信号機で止まると、公園の駐車場内をショートカットして信号機を回避するくらい焦った運転をする。「バカか」と思うのだが、いつもこんな感じの運転を繰り返す。ちなみにわたしよりは少し若いのだろうが、“オッサン”である。

 同じ道を走る同僚たちに聞くと、皆がみな奴を意識しているよう。若い彼は「煽ったろうか」、プラス「止まった時に文句言ったろうか」と口にする。「それは辞めた方がいい」とアドバイスしたが、皆に意識されているということは、誰からも嫌がられているはず。可哀そうな“奴”だ。

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闇の世界へ、サヨウナラ

2024-09-26 23:45:24 | ひとから学ぶ

 今朝、会社へ向かって歩いていると、マチの中で道路上を掃いている人を見かけた。秋だからといって、まだ落葉が盛んな時期ではない。見た感じでは落ち葉を掃いているわけでもなく、「何を掃いているのだろう」と気になったのだが、掃くようなモノは目に入らなかった。既に目的のモノは掃き終わっていて、わたしの目に入らなかっただけかもしれない。ということで箒で掃く最後の段階だったのかもしれないが、そのおじさん、側溝の暗渠に時おりあるグレーチングの中に掃き落としていた。ようは掃除したモノは、側溝内に消えていったというわけだ。どのようなモノだったのか、見当もつかないが、それほど大きなモノではなかっただろう、とは思う。

 玄関先の目障りなものを、目の前から消す。その行き所が側溝(暗渠)となれば、いずれはその闇の中はモノで溢れ、側溝としての機能を失う、かもしれない。もちろんよほどのことがなければだが、いっぽう近年はちょっとした雨で側溝は溢れる。そしてそこに溜まっていたものも流されていくのかもしれない。目障りなものを闇に葬るには、側溝は身近なゴミ捨て場、かもしれない。とりわけ暗渠になっていればなおさらだ。周囲の人も気がつかず、気がついたとしても、それは事故があってからのこと。この闇の世界は「罪深い」。

 「人が見ていなければ」とかつては、いいや今もそうかもしれないが、ゴミは葬られる。それはゴミとして容易に処分可能なら、合法不法は無関係だ。とりわけ人目につかない、そして身近な場所は、うってつけでもある。雪が降って、自家の前は綺麗にするのに、その雪が道に押し出されたりするのは、闇ではないが似たような意識。雪はそのうちに解けて消えてしまうから、暗渠の世界、ようは闇の世界と同じようなもの。おじさんにとって、グレーチングの先の世界など、もはや自分の世界ではないのだ。

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