Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「分水工を探る」其の20

2019-11-27 23:11:41 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の19より

■鷽ノ口円形分水

令和元年11月27日撮影

 

 現在は佐久穂町となっているが、大岳と小山は旧佐久町、佐口は旧八千穂村にあたる。この三つの村の農業用水として大岳川から引かれていた用水は、藤蔓を物差しとして水口の幅を測って水を分けていたと言われ、これを「藤蔓分水」と称したという。江戸時代からあるという分水方式であるが、正確さに欠けることもあり、水争いは絶えなかったという。昭和27年に始まった県営事業によって開田と用水改良が行われ、現在鷽ノ口にある円形分水(円筒分水)が造られたのだという。直径6メートルほどの円形の水槽の真ん中に、逆サイフォン式に水を噴出させ、外周に47個ある直径10センチほどの穴から水を流して分水しているもので、形式は西天竜の円筒分水工と同様である。大岳への分水が28穴、小山は3穴、佐口は13穴という割合で配分されている。分水工の脇に立てられている説明板によると、完成は昭和28年3月だったという。

 逆サイフォンの入口にあたる場所に現在は除塵機が設置されており、ゴミが円形分水工の中に入らないように工夫されているが、実際の穴の様子を見ると、すべての穴から用水が流れておらず、頻繁に穴を塞いでしまうようにゴミが流れ込んでいるのかもしれない。穴の径が10センチほどと小さいことにより、塞がりやすいともいえる。これと似た分水工に「艶三郎の井」として知られている伊那市荒井にある円筒分水工がある。同様に小さな円形の穴から流水しているものだが、艶三郎の井は横井戸から入った水を分けているもので、ゴミが流れて来ない。したがって穴が小さくともゴミによって塞がるということはない。円形分水でありながら、それぞれの水路にはゲートが設けられている。止水用のゲートなのだうが、西天竜には例を見ない姿である。ようはゲートがあれば用水量調整はゲートでも可能となる。

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「分水工を探る」其の19

2018-10-15 23:50:18 | 分水工を探る
 
 
 
 先日、赤城大沼用水について触れた。県道4号線に沿って、赤城大沼用水が急流を下ると、やはり県道に沿ったところに分水工があることがわかる。看板が整備されているからなおさらのこと。ふたつの円筒分水工があるが、最上流にあるのが第1円筒分水工である。ここまでは取水した水がそのまま流れ下っており、初めての分水となる。今年、この円筒分水工の隣に赤城大沼用水の水を利用した水力発電所が完成しており、この上流側500メートルほどは、管水路となっており、水の流れはない。
 
 寸法をとる余裕はなかったが、ここでの分水比率は1/6、1/6、4/6で、4/6に分水された水が第2円筒分水工まで700メートルほど流れ下るという。第2円筒分水工も県道沿いにあるという。赤城大沼用水が完成した際にできたというから、昭和32年から供用されているということになるのだろう。これまでも何度も紹介している西天竜の分水工同様に、サイフォン式に円筒の中心から水が吹きあがるタイプのもの。規模としては小さな分水工といえる。
 
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「分水工を探る」其の18

2016-04-25 23:11:20 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の17より

 ■木下18号支線円筒分水工

 久保田賀津男さんが『伊那谷自然友の会報』の183号(2月1日発行)と184号(4月1日発行)へ「西天竜用水と円筒分水工群」を寄稿されている。もちろん自然に関する研究団体であるから、自然に関することをおり交ぜながらの記事である。とりわけ183号では円筒分水工を中心に報告されていて、文末には久保田さんが鑑賞をするのに勧める分水工として「木下17号」と「木下18号支線」をあげられている。木下17号については「分水工を探る」其の8で紹介したもの、そして今回久しぶりに紹介する西天竜の分水工として久保田さんが勧める木下18号支線にある円筒分水工を取り上げてみた。どちらも見た目は新しく見えるわけであるが、木下17号は平成6年に補修されている。

2012年4月20日撮影

 

2015年7月14日撮影

 

2011年11月17日撮影

 

 木下18号支線にある円筒分水工は、数少ない支線水路途中にある円筒分水工であり、幹線用水路から下ること470メートルの位置にある。「木下」であるから箕輪町にあたるが、南箕輪村境に近い。幹線水路に付帯した分水工も円筒分水工で、ここで4方向に分水される。そのうちの1本が本円筒分水工に導水されるわけであるが、西天竜の特徴である東側半分を潤すために導水される専用用水路で、470メートルの間分水はひとつもない。そして本分水工で南北と傾斜方向にあたる東の3方向に分水する。幅15センチ、高さ25センチの堰は最も多い北方面に12箇所、次いで南方面に11箇所、最も少ないのは東方面の3箇所である。支線水路の途中にある円筒分水工では最も大きな分水工である。現在受け持つかんがいエリアは約18ヘクタールほど。

 見ての通り現在の分水工は真新しく、平成23年に更新されたもの。横にある水槽にプレートが埋め込まれていて、そこには「木下支線水路18号 支線2号 円筒分水 改築平成24年3月 事業主体 上伊那郡西天竜土地改良区 施工者 清野建設株式会社」とある。西天竜にある円筒分水工で、完全更新されたものはふたつだけで、そのうちのひとつである。平成23年度に更新され間もなく撮影した写真でもわかるように、分水工の周囲には真新しい土のうがいくつも置かれている。これは窓の数を調整するために置かれている。ようは12:11:3という堰の数を土のうによって調整するわけである。ちなみに3枚目の写真は更新前の円筒分水工である。

続く

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「分水工を探る」其の17

2014-09-02 23:48:16 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の16より

  ■竜西一貫水路16号分水工

 

 

 前回の竜西一貫水路10号分水工から下流へ2.5キロ。一級河川土曽川から350メートルほどのところにある小さな川(新土川)の左岸側の端にこの16号分水工がある。前回も触れたように、円筒分水専門家である「おざすきぃ」さんのホームページでは、「竜西一貫水路にここだけ円筒分水が存在する」と記されていた分水工は、前回紹介した10号分水工てある。しかし、この16号分水工も円筒分水工と言ってよいだろう。図を見ての通り、幹線水路から横引きされたヒューム管の先に止水するためのゲートが設けられているが、その先は円形の水槽に下向きで流出されている。まさに円筒の中に下向きに吐き出された水は、底板に反射して上へとわき上がる。そしてここでは堰窓の開口で分水されるのではなく、オープンな越流堰で2方向に分水される。約8分の1が地区内への直接水路に、そして残りの8分の7は右側にある新土川へと放流される。

 前回の10号分水工も多くの水は河川へ放流されていたわけであるが、実は竜西一貫水路の分水のほとんどは河川に放流されている。したがって40箇所ほどある分水工のほとんどが河川の脇に設置されているという特徴がある。ようは河川の水量が少ないために天竜川の水を取水して延々と導水しているわけで、河川の補給水のような形式で位置づけられているといえる。したがって利用者にとっては、そのほとんどを川から取水しているため、この一貫水路へ依存しているという意識が低いとも言えそうだ。とくに建設当時にくらべると組合員も世代交代を続け、なおさらその意識が低下する傾向のようだ。基本的には西天竜と用水路建設の意図は同じなのであるが、西天竜は竜西のように河川に放流する分水工は皆無である。支線水路もすべて西天竜土地改良区が管理していることからもそれは解る。複雑に分水する水を公平に分配するためにも、西天竜には多くの円筒分水が仕組まれたわけなのだ。いっぽう竜西は基本的に河川に水を落としているため、幹線水路から分水した水を再び公平に分配しなくてはならないという必要性がそれほどなかったというわけだ。故に円筒分水のような分水工はあまり作られなかった。


 ところでこの分水工、これから先も継続されるかはなんとも微妙である。実はこの分水工のすぐ南側をリニアが通る。通るだけならどうということはないが、長野県駅の建設地に隣接する。もっと言うと、おそらく竜西一貫水路とリニアは高さ的にも交差する位置にあり、この分水工の山側にはJR飯田線が走っている。飯田線に新駅を設置するとなると、このあたりも影響しそうだ。ということで、リニアの建設とともに、本水路も改修されることになりそうだからだ。

続く

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「分水工を探る」其の16

2014-07-05 23:40:01 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の15より

  ■竜西一貫水路10号分水工

 

 「分水工を探る」も15回を数えて以降、すっかりご無沙汰してしまった。その理由がわたしの異動によるものだけではないのは、15回目を記してから既に3年以上経ていることからも解る。最近検索中に久しぶりにozavski-webから円筒分水のページを閲覧する機会があった。その閲覧ページに記載されている円筒分水工をちょうど訪れていたこともあって、再開、とまではゆかなくてもカムバックしたわけだ。

 ここに取り上げた竜西一貫水路の10号分水工は、 おざすきぃさんが、NHKの熱中時間に出演した際に取り上げられたもの。実際にこの分水工を訪れるおざすきぃさんに、熱中時間のスタッフが同行して取材した円筒分水工なのである。ちなみに彼のHPにデータが掲載されている。図でも解るように、分水の数は3個ある。Aはすぐ南隣にある間ケ沢川の左岸側の水田へ用水を供給している。いっぽうBはというと、すぐ南隣にある間ケ沢川が竜西一貫水路をまたぐ形で交差したあとに床止工で落差が生じている。この落差の上、ようは竜西一貫水路との間の河床下をくぐって間ケ沢川右岸に横断していると思われる。右岸側の藪を越えたところで水路が現れるわけだが、これがBの分水だろう。Aは堰数2、Bは堰数3を数える。そして最も多い堰数を数えるCは8あるわけだが、このCは間ケ沢川へ排水している。おそらく下流域で間ケ沢川から取水していると考えられ、そこまでは河川を利用して流しているのである。

 この竜西一貫水路であるが、10号分水工の少し上流で姿を消している。これより上流は市田伏せ越1号と言われ、サイホンとなっている。10号分水工があるあたりは市田開渠4号と言われ、いずれも昭和34年に完成している。55年経っているわけであるが、幹線水路の劣化に比較すると分水工の方が少しばかり劣化は遅れているだろうか。ようは少し遅れて造られたものかもしれない。おざすきぃさんのHPでも記載されているが、「竜西一貫水路にここだけ円筒分水が存在する」とあるように、近在では円筒分水工は大変珍しい。実はおざすきぃさんは「ここだけ」と記載してるが、竜西一貫水路にはもうひとつ、それらしい分水工がある。これについては次回詳細について触れようと思うが、なぜ「ここだけ」と言わしめるのか、である。前述したように、ここの分水工は幹線水路から2メートルほど離れただけの場所に分水工が設置されている。間ケ沢川に落としている水量がかなりあるところから、たった2メートル離れたところで多量に取水した水を分配する方法に悩んだことだろう。おそらく狭いスペース(長いスペースを取れない)で3方向に適量を分水する方法として円筒分水工しか浮かばなかったと思う。とくに間ケ沢川右岸側への分水は、分水方向とはほぼ逆方向に導水する。水勢を落としながら均等に分配する方法として都合が良かったと考えられる。

 分水工の脇に「水神」が祀られている。裏面に「昭和丗五年五月建之」とある。

続く

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「分水工を探る」其の15

2011-02-21 20:34:46 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の14より

  ■沢6号甲

 

 

 

 「分水工を探る」其の7において紹介した大出7号(箕輪町大出地籍)の上流650メートルの位置に二つの分水ゲートが並ぶ。一つが沢6号甲、もう一つは大出6号乙である。地域名称が異なっているように並んではいるものの、かんがいする地域は行政上の異なっていることを教えてくれる。この地域も中央自動車道や国道のバイパスなどによって水田は減少している地域。加えて宅地化も進んでいる。箕輪町ではこの沢地域のほとんどを農業振興地域からはずしている。しかしながら、宅地の点在する中にまだまだ水田が残り、農と住が見事に混在している地域である。『西天竜史』に掲載された分水施設ごとのかんがい面積は、6号甲が10.7ヘクタール、6号乙が16.5ヘクタールである。これまでも述べてきたように、分水工施設はかなり老朽化しているが、西天竜幹線水路が造成されたよりは後に設置された。それも何度となく水利系の変更が行われてきたと思われる。

  この6号分水工が設けられた昭和初期の図を見ると、甲と乙という分けがされていなかったようだ。「第六号支線水路其ノ一第一号分水槽」と記された図には分岐が4方向図示されている。現在の6号甲、6号乙、ともに2方向に分水している。足せば4ということになる。6号乙分水工については次回に譲るとして、ここではおそらくその後何らかの理由で沢と大出地区を分けた形で作られた6号甲分水工について触れよう。

 『西天竜史』が編纂されたのが昭和37年。当時の分水工の数はほぼ現状と変わりない。そのことと6号甲の劣化の状態から判断して、現在の施設が編纂以前に造られたことは間違いない。当時10.7ヘクタールをかんがいしていた本分水工も、現在は4.5ヘクタールほどと半分以下に減少している。

 本分水工が本来の6号分水工から分離して造られたであろうことは触れた通りであるが、設置された当初の姿を見せているとも思えない。なぜならば堰窓は北側に偏っている。当初はもう2つ堰窓があって、それが現在の南側に分水している水路への窓口になっていたはず。なぜそれを埋めてどてっぱらに開口を設けたのか、なかなか想像しがたい変更である。堰の窓は15センチ幅に高さは15センチ。内側に9センチほどコンクリートで増し打ちされていている。

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「分水工を探る」其の14

2011-01-23 23:01:43 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の13より

 ■松島8号乙

 西天流幹線水路が岡谷市川岸の頭首工で取水して15キロを下ると松島8号乙分水工がある。深沢川を渡ってすぐ南側で、西天竜幹線水路は中央自動車道と交差する。この交差する部分は中央自動車道の建設時に、当時の日本道路公団が付け替え水路を造ったものである。昭和51年ころのことと思う。中央自動車道を走っていると、とても水路橋とは気がつかないが、ここを毎秒5トン余の水が流れている。この区間かなり勾配ないようで、流れがとても緩やかなところだ。当然のことだろう、かつては現在の水路橋を渡ったところと深沢川サイホン出口を直線で結んでいたものを迂回させたのだから。もともと勾配のない水路だからやりとりの中では直線で結んで欲しいという話もあったのではないだろうか。しかし、これを直線で結ぶと水路橋の長さは150メートを超える。現在の水路橋は斜めではあるが道路と直角でもない。駆け引きもあったことだろう。

 中央自動車道西天竜水路橋を渡ったすぐにこの分水がある。分水工そのものがフェンス内に囲まれているため、その施設だとは気がつかないかもしれないが、フェンス内に入りゲートの脇まで歩んでみると真下にこの分水が現れるのである。かんがい期に何度かのぞいたことはあったが、まさか堰窓で区切られた分水工があるとは今まで知らなかった。円筒ではないが、四角い水槽の中に部屋が区切られて機能的には同じ構造の分水工とされているのだ。水路橋と開渠との摺り付け区間にあるこの施設も、中央自動車道の建設とともに造られたものなのだろう。おそらくかつては円筒分水工だったのではないだろうか。

 この松島8号乙分水工から灌漑されるのは中部電力松島変電所の北側区域にあたり、すぐ南側にある松島9号が東側を回り込んでカバーする。したがって9ヘクタール余ほどが該当区域である。

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「分水工を探る」其の13

2011-01-15 20:04:16 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の12より

沢号外

 中央自動車道伊北インター南にある沢上北交差点から木曽山脈沿いに走る広域農道を進むと間もなく西天竜幹線水路を渡る。もちろん意識していなければ知らずに通過することになるが、その100メートルほど南にヒューム管が突出している姿を目にする。不思議な施設なのであるが、一般的に円筒分水工を説明する場合の、「サイフォンの原理などを利用して円筒中心部に水を導き、その水が円筒外縁部を越流する」形式とすれば、これもまた円筒分水工として見ることができる。その構造は図の通りシンプルなもの。ヒューム管を縦に立てて設置し、付け根に流れ出た水は、ヒューム管の中を上昇し、ヒューム管に設けられた堰穴を越流して分水されるというもの。これまでに紹介してきた本来の円筒分水工は、円筒の外に分水用の制水円筒が設けられて二重三重と円筒を巻いていたが、これはその制水域がないものである。基本的構造は今までのものとなんら変わりはない。

 ここから灌漑しているのは2方向に分配されたところにある水田各1枚分だけなのである。この施設で灌漑している総水田面積は1600平方メートル程度。西天竜に設けられた分水工の中でも「号外」と明示されているものには数枚程度の水田を灌漑しているものが多い。もともと設けられた本来の分水工では灌漑できない水田のために設けられたもので、幹線水路に沿った管理道路尻にある水田がそれらに該当する。1枚とか2枚の専用分水工であるから、下流域の末端とは異なって、水に苦労することはないのだろうが、実はこの管理道路沿線にある水田に耕作放棄された土地が、今は目立つ。もちろんそうした専用分水工がなく、水を掛けるのに苦労しそうな水田もあって、「目立つ」景色を作り上げてしまっているのかもしれないが、耕作放棄とまではいかなくとも畑として利用している水田もある。今の時代では、水の便だけで耕作判断がされるわけだではないという姿をそこに見て取ることができる。

 この沢号外分水工から灌漑されている水田も、もう何年も水田として耕作された様子はない。この分水工から掛けている水田より低い水田は、北側の辰野町との境界にある沢4号の灌漑エリアになっており、本分水工のすぐ東側をその用水路が通過している。図の右側の分水はその水路を跨ぐように水田に掛けられているのだ。そもそも図には示さなかったが、ヒューム管の根元に、今は穴が開けられ、そこから沢4号の用水路に落ちるようになっている。ようはこの沢号外分水工に水を導水すると、サイフォンの原理は働かないというわけである。したがって、この分水工が本来の機能を見せる姿は、今は見られないということになる。

 たまたまこの施設はヒューム管という円筒形状を見せるが、実は円筒ではない角型水槽をヒューム管に代えて設置し、本施設と同じ機能で分水している箇所が西天竜には外にもいくつかある。もちろんそれらは「号外」とされているものの中に存在する。

 

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「分水工を探る」其の12

2010-09-13 19:49:44 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の11より

■円筒分水工が設置された理由

 既に稲刈りの時期に入り、この10日から西天竜の水田地帯の水路に水は流れなくなった。水音のあった水路は、見事にドライになり、打って変わって一帯も乾燥した雰囲気となった。不思議なことに水の流れているときは気がつかなかったものの、水の止まった水路にはよくぞ使っていたと思うような水路がある。目地は開いているし、傾いた水路はさぞ使いづらいだろうに。漏水はあってもそれに目を瞑ればそこそこ水路は機能を保つ。昔のように一滴でも水を大切にという意識はすでに消えて久しい。

 昭和9年にまとめられた「耕地整理組合ニ於ケル配水管理ニ関スル調査」(「農業水利慣行ニ関スル調査」農林省農務局)には、当時の配水にかかわる状況がつふざに記されている。ちなみにこの資料の存在は、先ごろ綴った「文献から読む歴史」で引用した西川治氏の「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化」(『地理学研究』1952)において引用されていた文献だったからのこと。この資料に「過去四年間ノ水利状況」というものがある。開田の始まった昭和3年には「分水設備ハ幹線水路第六十間ノ間隔ニ分水口ヲ設ケ幹線ヨリ各直角に小分水ヲ設ケ灌漑スルノ方法ニシテ損失水量大ニシテ、下流へ流下セザレ共第一期開田面積一六五町歩ニ過ギザレバ別ニ水不足ナカリキ。」というように、損失は大きかったものの開田面積がまだ少なかったため、水不足にはならなかったというのだ。

 翌昭和4年には開田面積が405町歩と増え、「山林部ノ開墾多カリシト工事幾分粗雑ナリシト更ニ工事遅延シ一時ニ本田整備ヲ為シタルトノ諸事情ノ為水利ノ圓滿ヲ缺キシヲ以テ、「番水」ヲ行ヘリ。番水ハ最初地区ヲ二分シ、八時間交代ニ分水シ、次ニハ地区ヲ三分シ、同ジク八時間交代ニ或ハ代掻期間中ハ特ニ五日交代ニ分水シ晝間八分水量、最大水量ヲ定メテ適宜分水スル等ノ方法ヲ採レリ。」という具合に方策を採ったものの、やはり損失は大きく、「配水ニ大混乱ヲ来シ遂ニ警官ヲ依頼シ配水ニ従事セシ程ニシテ成績思ハシカラザリキ」というような状況だった。一転して配水が思うように行かなかった昭和4年、いよいよ配水に関して何らかの対応を迫られていたに違いない。

 そして昭和5年である。「従来の分水設備ニテハ用水不足ヲ来シ、配水意ノ如クナラザルヲ以テ、前述ノ如ク分水口ノ改造ヲ断行シ、分水口ノ整理、分水槽ノ設置、支線水路ノ築造ニ依リ、或ハ整地時期ノ緩和をナシテ工事ヲ丁寧ナラシメ、且又整地ヲ丁寧ナラシムル等ノ方法ヲ採リシヲ以テ、配水圓滿ニ行ハレ、用水不足ヲ来サザリキ。」という状況だ。開田面積はここまで517町歩に上るが、昭和5年の開田面積は米価の影響なのか思ったほどは進まなかった。それにしてもたった1年で警官に依頼してまで配水に手を焼いた事態は解消されている。この年に行われた分水口の改造がいわゆる円筒分水工の設置なのである。西天竜土地改良区に残る古い分水工の図面には昭和5年ころのものが多い。その状況の好転がいかに印象深かったか、後の回顧談でもよく聞かれることである。

 続いて昭和6年には開田面積は734町歩まで伸びる。「続イテ分水ノ整理或ハ工事ノ完全、用水期ノ緩和、代掻ノ丁寧ヲ期スル等極力其ノ配給ニ努メタル為別ニ配給上困難ヲ来サザリキ。」という具合だ。年々の経験が確実に成果をあげ、開田が進んでも地区内での問題はさほど起きなかったというわけなのだ。これが円筒分水工神話につながったのである。ちなみにこのころになると、諏訪湖沿岸地域との確執が顕著になってくる。

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「分水工を探る」其の11

2010-06-06 23:24:31 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の10より

大出7号 9号分水

 「分水工を探る」其の7において大出7号について触れた。箕輪町北部の深沢川の北側一帯に用水を供給している円筒分水工であって、3方向に分水している分水工は、造成時には1号分水工と呼ばれていた。北東南という3方向のうち、東へ分水した用水路は、400メートルほど行くとさらに3方向に分水する水槽がある。造成時にはこの分水工を2号分水工と呼んでいたようで、現在は更新されて三角形の水槽になっているが、元は円筒分水工であったようである。この2号分水工のすぐ北に角型の古い分水工が現存しているが、これは造成時のままの分水工である。更新、あるいは取り壊されて小型の水槽に直された分水も多いが、このように造成時のままの姿を見せる分水工も少なくない。



 大出7号支線水路には11号まで分水工があったようで、1号と2号以外はすべて角型の分水工であった。現存する1号分水工から南に分水して200メートルほど行ったところに角型の分水工が今も現存している。ここで紹介する分水工はその角型の分水工である。今までも少し触れてきたが、西天竜にある分水工は、角型のものも水槽内に隔壁を設けて簡易的なサイホン式で分水しているものがほとんどだった。その一つの事例として、角型のものをここで捉えてみたい。図に示したものはその9号分水工にあたる。右側に分水したものは道路を横断しているためにこのような長い図になっているが、分水工そのものは図の左側で網羅している。注目したいのは、左から流入した水が、分水槽に入る前に隔壁にぶつかって下に潜っていることである。設計の意図としては、隔壁は流れを止めて堰幅に応じた量を分水しようとしたものなのだろうが、実は東に流下している分水とは異なり、南北に分水された水路は勾配がとても緩い。したがってその流速を押さえるまでもなく、流れはゆっくりなのだ。そのため、この窪んだ部分はあまり意図をなさず、おそらく砂が溜まってしまったはず。証拠に今もこの部分は砂が溜まっているのだが、それでは水が流れなくなってしまうため、結局隔壁は取り壊されて現在ない。そもそも勾配が緩く、かつ幅にして50センチ弱という窪みでは流れている水量がわずかで、なかなか意図通りにはいかないもの。初めてこの水槽を見た時は、この窪みにまったく気がつかなかった。造成時の古い図面を見てサイホン式だと初めて解ったのである。まさかと思ってあらためて現地で水槽の底をつついてみると、見事に窪みに棒が沈んだのである。水槽の出入り口にそれぞれ止水壁が施されているわけであるが、おそらく造成当初はこの先はいずれも土水路だったと思われる。

 さて、右側に分水された水路が道路をくぐるわけであるが、この暗渠の長さは15尺6寸ある。暗渠の出入り口はいずれもウイングが施されていて、まるで車を想定して暗渠いっぱいに道幅が取れるようになっている。作られた年代は正確には解らないが、いずれにしても昭和一桁時代のこと。今のような車社会とはほど遠い時代のことである。にもかかわらず、その幅は4.5メートルを数えるわけで、現代の農道となんら変わらない。完成後70年以上も経っているというのに、その歴史の長さと変わらぬ水田の様子をずっと眺めてきたであろうこの水路に、驚かされるばかりである。

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「分水工を探る」余話⑦

2010-05-08 19:52:05 | 分水工を探る

 中部日本新聞の昭和18年9月12日版に「増産の突撃路 水利改良」という記事が掲載された。この日の特集は「西天龍」である。大規模開田は全国でも珍しいと言われた西天竜の耕地整理。「稲作の栞」でも触れているように、昭和3年の幹線水路完成に伴って稲作が本格化する。もちろん開事業が完成するまでにはまだ10年の余必要となるのだが、順次水田は整備されていった。

 記事に次ぎのような文がある。「特記すべきは開田と同時に通水を開始したが諏訪湖の利水は地元の要望により一定量に限定され最初計画の二百個の水量が低減して各開田の水争ひが生じたので組合ではその導水量を均等に分水しようと直径十八尺のコンクリート製タンク四十基を幹線水路と支線水路の中間に設けタンク孔口の調節によりその日の天龍川の水位に従ひ各開田に平均して通水することに成功したことである。此装置を設置してから水争ひは絶滅した。」というものである。「分水工を探る」の中で触れてきた円筒分水工がここでいうコンクリート製タンクのことである。十八尺は5.45メートルである。ここでいう直径とは堰を設けた円筒ではなくその外側の側水路を含めたものを言うのだろう。40基とあるがどれが該当するかは現存するものが多いものの、今では解明が難しい。ちなみにわたしが確認している現存する円筒分水工は28基。扇型のものが19基あるが、その形状や規模がばらばらで果たして勘定してよいものかどうかもいろいろ意見があるだろう。両者を合計すると46基。実際は大泉川右岸においてほ場整備が行なわれ、いくつ
かの円筒分水は廃止されていての数字である。

 この円筒分水を評価する言葉として必ず上がるのが「水争いを防ぐ」というものがある。確かに堰数に応じて均等に分配されるのだが、現状を見ればそれほど水争いを想像させるような姿は見えない。当然のことで今は転作されていたり、宅地化されて水田の面積そのものが減少してきている。かつてのような水争いをしなくとも、耕作に支障をきたすようなことにはならない。環境が熟成されて安定しているからこそ、そんなかつての思いなど必要ないのである。

 ちなみに中部日本新聞は現在の中日新聞である。創刊は1942年9月1日というから昭和17年である。記事は創刊ほぼ1年後の記事ということになる。それにしても昭和18年といえば戦争中である。新聞記事を見る限り、そんな環境下であるという雰囲気は微塵もない。かろうじて文末にこう記されている。「かつての古い里唄「涙米」は、いま戦闘ふ決戦日本の食糧自給に貴い供出米となって戦力増強に雄々しく積み出されてゆくのである」と。ここでいう「涙米」の所以は「木曽へ木曽へとつけ出す米は 伊那や高遠の涙米」という伊那節の一説からくる。

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「分水工を探る」余話⑥

2010-04-19 17:36:22 | 分水工を探る

 「分水工を探る」余話②において箕輪町の水利施設につて触れた。その後もこの地域を歩いたなかで見えてきたものもあるので、ここに少し補足しておくことにする。

 辰野町の北大出大日尻(だびじり)というところに沢から流れ出してきた水を集めた用水路が流れている。県道与地辰野線を横断すると北大出集落の南側を流れて西天竜幹線水路を渡って西天竜の灌漑区域に流れ下っている。実は西天竜幹線水路を横断している水路というのはとても少ない。もともと水を引くことが難しかった地域だけに水田にできなかったわけだから、用水路そのものがこの地になかったということなのだろう。したがって当たり前のことなのだが、それでも水田が全くこの地域になかったわけではない。この大日尻から流れ出てきた水路は、現在の西天竜の灌漑区域に下るが、西天竜ができるまではこの渡っている用水を利用して水田が耕作されていた。そうした権利があったからこそ、数少ない横断水路となったわけで、ときおり見る横断水路はもともと水利権のあった水路と思っても差し支えないだろう。

 今でこそ西天竜幹線水路を境に景色が一変するだろうが、それほどこの施設の完成は土地利用とともにさまざまなことを変えたといってもよい。余話②において箕輪町大出の高橋神社旧跡脇の古い水路形について触れた。北側は現在国道のバイパスで遮断されてしまって水路形を追っていくことはできないが、等高線を追っていくと辰野町の羽場中井に続くと以前にも記した。この羽場中井は辰野町の横川川の飯田線の鉄橋のあるあたりで取水される水路で、羽場にはほかに下井というものもある。中井は桑沢川に放流されて終わっていたが、『箕輪町誌自然編現代編』によればそれを「新井」として松島まで延長したのは明治6年のことという。『箕輪町誌』側では延伸することによる示談書の内容を見る限り、「井筋も拡幅す延長するための橋や筧の費用を、沢、大出、松島の三村で負担したのは当然としても、趣意金四○○両出した上に年々の井浚い、井口囲い堰入れの作業まで引き受けるという規定は、引水交渉がさして難航した様子もなく妥結したことから、辰野の村々にとって相当有利な条件ではなかったかと考えられる」と記している。余話②で触れたように『辰野町誌歴史編』には「新町村・羽場村・北大出村の三ケ村の相合井筋」だったとある。そして北大出と沢との桑沢川の水をめぐっての争いは激しかったようで『辰野町誌』側では「争いの発端は沢村が勝手に新井筋を桑沢川から引いたという理由であったが、幕府の寺社奉行所で吟味を受けるまで争われ、最後は北大出村六分、沢村四分の分水割にさせられて涙をのんでいる」とそもそも沢村側の「勝手に水を引いた」ことによって始まったのに「涙をのんだ」と著している。ここに両者の視点がそれぞれに現れていて興味深い。


新井跡/撮影 平成21年12月14日

 明治6年に松島まで導水されはしたものの、流末である松島までなかなか水が届かなかったようだ。当たり前のことで上流で水を払ってしまえば下流まで届かないのだ。後に西天竜の導水が叶うと、松島ではこの新井を利用することを辞めた。余話②で想定していた通り、高橋神社旧跡を通る水路形は旧新井だったのである。この羽場でいう中井は、羽場城址の北側の斜面を導水され、手長神社旧跡の東、沢公園墓地東を経て桑沢川にいたる。桑沢川の上を渡ると沢の蕗原神社裏手を通り、前述した高橋神社旧跡、大永寺東、大出城址東といった段丘の中段を流れ深沢川に迂回して行く。かつての水路形らしきものは今もかろうじて残っている。そして現在の新井は深沢川で取水されているが、かつては中井から導水されてきた水路と繋がっていたのだろう。その後も明音寺西、松島城址東といった具合に歴史上の要所近在を通過していく。段丘崖に湧水を見ることから、人々がそこに住み着いたわけで、当然のことと言えるものの、そうした湧水も集めながらこの水路は人々の生活を潤したのだろう。先日地元の方にお聞きすると、この新井のことを「湧き水」と表現されていた。実際は上流横川川から取水されていた時期もあるわけだが、湧水を受け取りながら流れ出でていたという印象は、なんとなく理解できるわけだ。

 西天竜ができるとともに、この新井は西天流域の末端にある排水路として位置づけされる。それが故に、昭和一桁時代の開田工事では「新井排水路」と呼ばれ改修がされている。ようは水のなかった地域に水がやってくるわけで、水不足の時代ではあっただろうが、当然余り水が末端まで流れてくるわけで、その受け皿としての排水路の役目を持ったわけである。これが新井の補償工事だったのかどうなのかは定かではないが、西天竜の完成は地域の姿を土地利用だけではなく、人々の生活の上でも大きく左右したに違いないのだ。

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「分水工を探る」余話⑤

2010-04-05 12:18:51 | 分水工を探る

 「分水工を探る」余話④において尺貫法について触れた。メートル法で表示しているわたしの円筒分水工の図は、造られた年代から想定すると尺貫法で設計されていたと思われ、その主旨からいけばもっと端数が出ても不思議ではない。あくまでもメートル法の近似値で示しているまでで、尺貫法ならもっとすっきりした数字なのかもしれない。例えば古いコンクリート水路を計測すると水路の幅が30センチのものがけっこう目立つ。しかしそれを尺貫法で示せばきっと1尺となり、メートル法に換算すれば30.3センチということになるだろうか。3ミリ程度は誤差のうちといえるから近似値で30センチといっても間違いではないが、設計という観点から言えば明らかに違う。ようは30センチのものを造るとしたのではなく、1尺のものを造ろうとした。あくまでも出来あがったときの誤差でしかない。

  先ごろ深沢川の水路橋のことについて触れた。水路橋としての役目を終えて道路として利用を始めてからも70年ほど経っている構造物である。かつてなら水路の幅になるが、現在では欄干となっている車道の幅を測ると、約140メートルある橋のどこで計測しても3.6メートルプラスとなる。実はこの水路幅は尺貫法でいくところの12尺(3.636メートル)で造られている。そして水路側壁の天端の幅は1.7尺(0.515メートル)で設計されているもので、側壁の外側の全体を計測すると4.65メートル程度、まさに15.4尺で造られているのである。当時の施工技術がどの程度のものだったかわたしは詳しくないが、現代のメートル法で計測して「あの時代だから誤差があったんだ」とは簡単には片付けられないほど、実は精度が高かったのかもしれない。

 図はその深沢川水路橋である。画面の構成から縦長に回転させてもらったため見難いかもしれないが勘弁。橋の長さは470間ぴったし。平面図の下側が上流側の北方、上側が下流側の南方である。南側の山裾に深沢川が流れている。これほど立派な水路橋を架けたのに昭和13年にはサイフォンに変更している。橋の手前に重量規制の標識がたたっていて、制限は「6t」とある。西天竜幹線水路の水量が毎秒5.6トンと言われていて、その水量がそのまま制限となっているわけだ。

  県の出先機関の情報コーナーに「坂戸橋資料集」というものが置いてあった。平成20年3月にまとめられた資料で、ホームページなどで検索すると県の建設事務所、中川村役場、県立図書館、土木学会図書館に置かれている資料だという。坂戸橋は上伊那郡中川村の天竜川に架かっている橋で、昭和8年に完成したもの。今も利用されている橋でわたしにとっても身近な橋だったのは、分校時代に初めての遠足で行った場所だったことに起因する。西天竜の深沢川橋よりは遅れて完成した橋であるが、危険な印象もある深沢橋にくらべるとみごとな現役橋である。資料集には当時の図面と設計計算書が添付されているが、さすがに尺ではなくメートルで表示されている。

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「分水工を探る」余話④

2010-04-02 12:33:32 | 分水工を探る

 「分水を探る」において分水工の寸法を示しているが、当時の施工技術もあるのだろうが、測る場所によって計測値は微妙に異なる。平均的な数値を表しているというよりは、だいたいメートル法で計測してきりのよい数値に読み替えているのが実際である。ミリ単位で示したところで、場所によって違うともなれば、あまりの意味のないこと。現代人にとってイメージし易いということになれば、せいぜい10センチ単位くらいが描きやすいイメージといえる。だから測るときもそのあたりを意識して測っているのだが、せいぜいセンチ単位を計測値としている。ところが実際は例えば壁厚が9センチとしても計測値は常にそれ以上を示すときもある。そもそも出来上がっている施設がメートル法ではなく尺貫法で造られているということも十分にありえるわけだ。

 よくここで引用文献として利用させてもらっている『西天竜史』は、奥付きに発行年月日が印刷されていない。あとがきを読み解いていくと次のような文が見える。「昭和三十六年、多年の懸案であった発電事業も、県営で施工することになり、工事に着手したので、此の機会に完成(西天竜史を)することになり、(中略)委員自らが多年の資料に基き執筆することとなり、同年八月からかかった。委員は鋭意完成を急ぎ、昨年末には大体原稿が出来上がったので、今春になって伊那市の神田印刷に請負わせ、漸く出来上がったのである」というもので、ここから昭和36年に編集を始めたことが推測できる。年表の最後には昭和36年12月に完成した発電事業に伴う幹線水路の大改修工事のことが記されていることから、文脈にある「昨年末」が同年なのか、それとも遅れること数年の後のことかは定かではないが、昭和22年に編集委員会が生まれて開店休業状態だったというところから見ると、資料収集はそれまでにされていたともいえ、おそらく昭和37年に刊行されたものと思われる。そして同書のあとがきの最後にはこんな言葉が添えられている。


 尚設計から施工の大部分が尺貫法の時代であったから、現代の様なメートル法の世代となっては語呂が合わないが、一々換算する煩をはぶいて記述したので、此の点も諒としていただきたい」


というものだ。メートル法は明治時代にすでに利用されていたものであるが、大正10(1921)年に「メートル法のみ認めることに改められた」と言うように尺貫法をメートル法に変えていくという流れはあったものの、現実的には使い慣れたものを利用するというなかで継続していたようだ。昭和34年に尺貫法の廃止施行で測量の単位はメートル法に切り替えられ、尺貫法は取引・証明に使用出来なくなったというから、『西天竜史』が編纂されたころがちょうどその過渡期だったと言えるのかもしれない。

 ということでわたしはメートル法で示しているものの、尺貫法で測れば、読み替えている計測値は違ってくるのだろう。円筒分水工の堰窓の幅の多くが15センチである。これは尺貫法なら5寸ということになる。むしろ尺貫法で計測した方がすっきりした数値になるのだろうが、もはや尺貫法ですぐさまイメージできる人は少ないだろう。

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「分水工を探る」其の10

2010-03-28 23:10:23 | 分水工を探る

「分水工を探る」其の9より

木下19号甲(第2)

  全回取り上げた木下19号の南50メートルほどのところに系統二つ目の分水工がある。幹線水路から直接吐き出された上流側水槽で2方向に分水されて、すぐさま再び2方向に分水されている。田んぼごとに東西方向に支線水路が流れていて、水路の密度がとても混んでいるのがこの木下19号甲の系統である。箕輪町の最南端にあるこの分水工から排水された水は、隣接する南箕輪村との境にある小さな沢を形成して段丘を降りていく。北沢川と呼ばれているが、そもそもが段丘崖の湧水と、西天竜の余り水が作り上げている沢だから水量はとても少ない。段丘崖には人目にはなかなかつかないが、わさび畑が谷の中に広がっている。南北に凹凸のある地形のため、一つの水路は南側だけ、あるいは北側だけを掛けるという具合に専用水路になってしまい、水路の密度を高くさせている。前回も触れたように『西天竜史』によると、19号甲における灌漑面積は14ヘクタールとあるが、現在は10ヘクタールほどに減少している。

  上流側の分水工と形はそっくりであるが、微妙に大きさは異なる。前回触れなかったが、その分水工にもこの分水工と同様に水槽内に隔壁があったものの、側面から水槽へ導水するように変更したためか、その隔壁は壊されていた。前回と同様に上が東である。二つとも北から流れてきた水を東(流れに対して左に曲がる方向)と南(流れの方向)に分水するものである。西天竜の広域な水田地帯をくまなく歩いていると、このタイプの分水工がけっこう現存している。いわゆる幹線水路の脇だけを歩いていた当初には認識していなかったものを最近いくつも発見している。「円筒分水工」の本来の構造とは異なるものの、微妙な水量調整が簡単にできるシステムは、この地に適した施設と言えるのだろう。

 

 堰窓は高さはすべて15センチであるが、幅15センチのものが5個、22センチのものが1個、23センチのものが1個の合計7個である。ここまで多くの分水工を見てきたが、堰の窓が多ければ必ずしも灌漑面積が多いというわけではなさそうだ。勾配の緩やかな水路には窓が多く、急な水路には窓が少ないという印象がある。まだ印象という程度で明確な数値では表せないが、さらに堰高によってもそのあたりが制御されていると思われる。ただし水槽の老朽化や、補修によって手が加えられていて、計算されてそれらが意図通りに造られたかどうかは今では判断が難しい。

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