Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

せっかく入れたんだから飲めよ

2007-07-17 08:28:50 | ひとから学ぶ
 会社なんかでもよくみる風景で、そして客を迎えたときも客として訪れたときもみる風景がある。とくに親しい客でなくとも、ちょっと長い時間その場に相対するようなとき、お茶を出すことがあるだろう。とくに親しくないなんていう際にお茶なんかを出すと、客が帰ってから茶碗になみなみとお茶が残っていて、それをこぼさないように運んで捨てるという経験は誰にでもあるだろう。そのくらいならお茶なんか出さなければよいのに、と思うのだが、そこが日本人らしいところだ。ただし「もったいない」と思うような人は、お茶を大事にしている人で、意外にも多くの人は、それをもったいないとまではなかなか思わないだろう。それはあくまでもお茶だからで、すでにお茶の色も出ないほどのお茶だったらまったく価値観がないだろう。そのいっぽうで、そんなお茶を出すということは、相手にとってみれば、ありがたくない客と捉えられるだろう。

 さて、昔にくらべるとそんな「お茶を出す」という行為が減ったと誰もが認識しているだろう。人々がそれほど忙しくなったことと、今までお茶を出す作業を担っていた女性の地位向上によって、ようはお茶を出す人がいなくなったからそうした行為が減ったわけだ。出してもお茶を飲まないから出さなくなったのではなく、出す人がいなくなったから出さなくなったというところがなんともいえなく情けないところだ。実は田舎でもお茶を出すという行為はとても少なくなった。昔なら隣の人がやってくれば「まあお茶でも飲んでいきな」なんて言われたものだが、今やそんなことを言うとなにやら意図があるんではないかなんて思われたりする。いや、もっといえば、例えば学校の先生が家庭訪問に訪れたとしても、お茶すら出さないなんていうことも今で珍しいことではないようだ。日本人らしい、と言ったように、客が来れば誰でももてなすという意識は、けして悪いことではなく、そんなゆったりとした空間とやり取りがあってよいと思うのだ。ただでさえ、人とのかかわりはなくなったわけだが、こうしたどうでもよいところで人をもてなすという行為があったからこそ、常に相手を思う気持ちが体に染み付いていたように思う。

 だからこそ、お茶を出されても飲まずに帰るのが失礼とは思わなくなるのだ。「どうせお茶だから」と思えば口など付けるはずもない。その程度のものなのだ。ようはお茶の価値の低落なのだ。なみなみと残っているお茶をみながら、「せっかく入れたんだから飲めよ」と思うのはちょっといただけないかもしれないが、それほどこのごろの人たちは、人の気持ちを理解しなくなったように思うのだ。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****