Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

シモツケ

2007-07-11 08:27:49 | 自然から学ぶ


 必ず行くと釣り人がいるため池。人知れず山奥にあるため池でも、釣り人にとって格好の目標物があれば人影は消えない。このところ横を通ると必ず若者が1人か2人釣りをしている。その人数が増えることはないが、消えることもない。比較的自然が残るため池であるが、水の中のことは釣り人がもっとも詳しいのだろう。人影が絶えることのないため池ともなれは、目標は外来魚か…。自然なんて不思議なもので、草花の様子と水中の様子、そして土の中や空気と、それぞれが連関しているようで、けっこうそれぞれの空間で保たれていたりする。だから、例えばこのごろ発表された長野県の河川や湖沼の水質状態をみても、水質がよいとされる野尻湖だって、水中の実態は外来魚の巣のようなものだ。だから、必ずしもそれぞれの指標は一致しない。どんなに山の上だろうがゴミのあるところにはゴミが尽きない。冒頭で「比較的自然が残る」と言ったが「自然が残る」という指標を理解せずに使ってはいけない言葉かもしれない。それほどわたしたは安易で言葉を使ってしまっている。実際その言葉からイメージされるものは幅が広く、時に誤解を招く。ではなぜそんな言い回しをするのか、ということになるが、いちいち説明して具体的な定量値で表現したとしても、「この人おかしくない」などと言われてしまうかもしれない。ようは雰囲気で捉えているものなのだが、よくよく考えてみれば適切なのかわからなくなるということだ。

 そんな釣り人のいるため池で、草花をちょっとのぞいてみる。池の端に赤い色の花が目立つ。シモツケである。バラ科のシモツケは下野の国に由来する。日本各地から朝鮮、そして中国に分布する。植物もその分布を聞くと、けっこうこのパターンが多い。いかに日本という国とそこからつながる中国までの一帯が似通った場所かということがわかる。しかし、その土俵に住む人々の感覚は大きく違う。いや、感覚と言うよりはその歴史背景といった方がよいのだろうか。「近くて遠い」という言葉がよく使われるが、自然界の現実は近いということがいえるだろう。この花、直径5mm程度の小さな花をたくさんつける。その花の色も白っぽいものから赤みがかったものまでさまざまだが、総じてピンクという表現に一致する。けっこう人家の庭先にも見られるから、植栽されたものも多いのだろう。小さな花をたくさんつけているものの、それは近くから見ることで確認できるわけで、遠くから眺めるとアジサイのようにぼやっとした花である。どうもこの季節にはそんな花がいくつか咲く。ぺんぺん草もそうであったが、花と言うものは意識してみてみないと、花の本当の姿を知らないものだ。まあ、それは花に限ったことではないかもしれないが、興味を持たずして何も見えないということである。
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