Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

不器用な子どもたち

2007-07-21 08:24:09 | ひとから学ぶ
 数学者の秋山仁氏が、こんなことを新聞に書いていた。

「ゼミの学生がカッターナイフでけがをし、指を何針も縫う事故が最近二回も立て続けに起きた。(中略)工作としては、いとも簡単なものなのに、ナイフの使い方に慣れていないことが原因だった。彼らは、学業的にはとても優秀な学生だが、どうも不器用だ。(中略)自分の頭の中で考えるだけで、それを具現化することができないと、思考の末に得られた産物が砂上の楼閣に終わってしまったり、背後に潜んでいる問題点に気づかなかったり、新たなアイデアも浮かばないことが多い。手を動かし、ものをつくることによって知識が活性化して、応用の効く知恵にまで深化するものだ。」

 わが子もたいしてこのゼミの学生と変わらないかもしれない、と最近ことに思うようになった。妻もわたしも農家育ちだということで、農業には今の子どもたちにしては多くの時間携わらせてきた。だからそこそこのことはできると思っていたのだが、それが違うのだ。一緒に同じ作業をしていたとしても、それを1人で実行することはなかなかできないし、もっといえばその応用がきかない。わたしの世代は、農業を捨て去る一方の時代だったから自家の手伝いはしたものの、父は自らが行うことを糧としていて細かい作業を息子たちにやらせなかった。そんな環境だから息子たちも自ら進んで技術的なことを覚えようとしなかった。ということで、今の息子とたいして変わらないのだが、息子はその父の世代と直接かかわりながら育った。わたしたちよりはずっと身になっているはずで、わたしのできない縄なえさえできる。ところがではそれを今も確実に体得しているかといえば、ちょっと怪しいわけだ。子どものころに行った体験も、「やってみる」程度では確実なものになっていない。縄をなうともなれは使える縄をなわなくてはならないが、当時の息子のなった縄は、丈夫ではなかった。

 そんな技術的なことはともかくとして、ある一定の時期に入ると偏った行動しかとらなくなる子どもたちは、明らかに偏りが見え始める。ペンは持つが指から体まで微妙な力をかけながら行うモノヅクリ的行動が極端に減少する。息子はそんな流れに乗って今がある。小学生の中ごろまでよくやった農作業なり体を使った遊びはなくなり、机上の運動だけに変化する。確かに学校では体育をし、部活でスポーツを楽しむが、思考と体、そして体の微妙な感覚までを考えながらゆっくりと認識していく経験がなくなる。息子の場合はまだ経験としてはどこかに残っているかもしれないが、パソコン世代ともなると、指は使っても叩くだけの作業となる。このごろはマウスの先を使って見事な絵を描くようなこともよくあるわけだが、それをとても技術だとは思えない。カッターナイフでものを削るというような微妙な手先の感覚は皆無だ。技術屋さんの仕事はまさにPC上での仕事になる。かつてのように手先の描きではない。考えて絵にしていくことは変わりがないかもしれないが、それはかつてのやり方を知っているからよいが、これからの人たちは最初からPC上に絵を描く。見事としか言いようがないが、その先に一抹の不安はある。今や技術という言葉は、体を使ったものではなく思考力によって成すものとされている。器用だと思っていた息子ですらこのごろの不器用さである。不器用さが目立ち始めると行動も思考力も不器用に見えてくるのは連鎖というものなのだろうが、これほど不器用な人たちばかりになって不安は募るばかりだ。かつて宇宙人といえば頭ばかりが目立つ異様な体型で描かれたものだが、この体型を考え出した人は予言者ともいえる。みごとにこれから先を描いているわけで、頭脳だけが技術の先端だというこの時代を宇宙人から教えてもらったような気がする。

 秋山氏は、「カッターナイフの使い方は、大人になっても練習できるが、自分で何か作ろうという気になる心を持てるか否かは、子どもの時にその体験があるか否かに大きく依存するからだ」という。ちょっと違うのは、作ろうという気になるか否かより、必然的にそういう場面があるかないかという暮らしの中の問題のように思う。「体験」が目的ではなく、必要として行う、そういう現実的な暮らしがない以上、衰退やむなしというところなのかもしれない。
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