Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

遊歩道落枝訴訟の波紋から

2007-07-12 08:28:33 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞に週一で特集されている「八ヶ岳」。7/10朝刊での同特集は、登山道の管理責任を扱っている。登山道なんだから、普通ならわざわざ通る道ではない。公というものがどういうものかといえば、私でないものということができるだろう。したがって山が誰のものであるか、というところに行き着いてしまうが、国であればその国の持ち物をどこが管理しているのかということになるかもしれない。国だってすべてを管理することはできないし、世の中の公の土地すべてを公が管理するくらいなら私に売ってしまえばよい、ということになるだろう。主峰赤岳への登山道に設置された鉄製の階段は、25年ほど前に八ヶ岳の山小屋などでつくる八ヶ岳観光協会が設置したという。設置したのは観光協会、費用は茅野市と長野県が負担した。では誰が管理するのかといえば明確ではないという。登山道そのものが自然にできた道であって、国の土地のなかにある私の道ではない。おそらく登山者のほとんどは、歩いている道が誰の土地だと認識して歩いている人は少ないだろう。

 人里であれば、よそ様の土地を無断で歩いていれば怒られることも珍しくない。公道といわれる道であっても時には私の道であったりする。そんな問題で訴訟になることだってある。ところが、では登山道はどうなんだと考えてみたこともなかった。登山道がおおかた国有地内だとしても、すべてが国有地とは限らない。私有地だってきっとあるに違いない。人里からいきなり国有地ということはない。その人里から登山したいとなれば、国有地以外を歩くはずだ。そうした設定はわたしか記事を読んでいて気がついたことで、記事で触れているのは山の頂での話しだ。

 登山道をめぐる管理のあり方で、山岳関係者の悩みの種になっているという。十和田八幡平国立公園の遊歩道で2003年に落ちてきた枯れ枝に当たって女性が下半身まひになったという。そして女性は国と県に対して二億余の損害賠償を請求し、東京高裁は賠償責任を認めたという。国と県は上告中というが、いずれにしても賠償責任を認める判決があったということは、これからも同じような訴訟が起きても不思議ではないということだ。いままでの考えならふだん通る道ではなく、登山という一種の趣味で自らが行っている行為なんだからそこで事故があっても自己責任ということだったはずだ。登山道で起きたから登山道の管理責任だといわれても、登山道そのもののあり方はどうなんだということになる。公図に示されているような赤線とは違う。いや、もし赤線であったとしても、登山なんだから自己責任ではないのか、と思うが違うのだろうか。もっといえば、わたしが気がついたように、里山で起きた事故はどうなるんだ、あるいは私の所有する登山道で起きた事故はどうなるんだということになる。そんなことを考えていると、こんなことも気がつく。登山道から一歩それていて自己にあったらどうなるんだ。あるいは山頂は登山道の延長にあるわけで、山頂で滑落して死んでしまったらどうなるんだ、なんていうことも考えたくなる。

 八ヶ岳の登山道は、地元市町村が森林管理署との間で土地を無償で借りる契約をしているという。そして観光協会に整備を委託しているわけだが、整備をしている側にとっては、八幡平での訴訟は悩ましいわけだ。それならわざわざ整備なんかせず、無償で借り受けなければよい、ということになる。登山者のためにと思ってしたことが仇となるのだから、いたたまれない。裁判の世界とは正しそうで「えっ、本当」と思うことがたくさんある。もし、暮らしの空間が裁判の論理ですべて動いていたら、わたしたちは生きられなくなるかもしれない。簡単に言えばこの世界も「言ったもの勝ち」というところがあって、平等ではないと思うが違うだろうか。
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