Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

しょうがないと「核」

2007-07-08 15:21:52 | ひとから学ぶ
 参議院選挙を前に、久間発言で候補者、とくに自民党の候補者は苦境を強いられている。誰もが「核廃絶」を唱えて強調していて、今「核を持つ」なんてあからさまに言える自民党議員はいないだろう。核とは何のためにあるのか、と問えば、絶対的な相手への脅威を与えるためだ。北朝鮮がどんなに銭がなくひもじい暮らしをしようが、自らの立場を認識してのことだろうが、核を持ちたいと内心思っているのも、実は相手が手を出せないようにするための爆弾になるからだ。おそらく全世界の核保有国の多くはそうした意味で核を持っているはずだ。先進国が核を持ちながら、途上国が持とうとすると圧倒的な威圧で阻止する。ならば先進国が先に核を捨てろ、という言葉が出ても不思議ではない。にもかかわらず絶対的に使うことはなくとも、保有し続けるし、廃絶への道は険しい。

 この流れをみれば、まさに広島や長崎は忘れられるものではないだろう。確かに経験者がいなくなることによる体験談は風化する。しかし、何のために持つのだ、という問いに対して、両者の存在はその意図に沿うものとなる。広島や長崎なくして無言の脅威にはならないのだ。ということで、久間発言をもう一度考えてみれば、脅威としての原爆ならまだしも使ってしまった米国の過ちは明らかに大きい。ところが使ったことによってその脅威は大きくなったわけで、よくいう経験なくして事実は語れないということになる。なにをするにしても経験してみないとわからないということは、今の世の中でも、暮らしの中でもたくさんある。逆に言えば経験者の現象は、事実が消えていくという現実でもあるが、世界は事例として核の威力を後世に伝えることはできる。「しょうがなかった」という背景は、まさに威圧を受け入れなかった日本の責任にもなりかねない。当時、具体的にこの新型爆弾の情報がどの程度日本の中枢に届いていたかは知らないが、威圧を認識していて受け入れてしまったとしたら日本の過ちは大きい。とすると、国のトップが「しょうがなかった」という発言をするということは、やはり認めるわけにはいかないだろう。これは今も昔も国のトップである以上、過去の過ちは国のトップが責任をとるものであるからだ。例えば自治体の首長か変わろうと、前任が招いた不祥事は、後任が尻拭いをせざるを得ない。これは当たり前のことだ。そういう意味で、われわれ国民が「しょうがない」と言ってもよいが、トップが言うべき発言ではないわけだ。

 さて、この発言をもとに「核拒否」を口にする自民党の中には、けして核廃絶派ばかりがいるわけではない。北朝鮮の脅威を感じながら「日本も核を」という声があがったのは最近のことだ。そしてそれを容認する国民も多い。にもかかわらず「しょうがない」を連発した久間氏を批判する言葉ばかりだが、「ではあなたたちはどうなんですか」と問いたい。核爆弾の経験国でありながら核容認論の議員が当たり前のようにいて、加えて核廃絶への努力はさびしい。本気で核を批判するのなら、とっくに核保有国の嫌われ者になっていたはずだ。結局は久間発言を批判できるほど、核に対して拒否していないということだ。だから歴史を振り返る言葉として、核が落とされたことで、ソビエトが侵攻してこなかったという事実は、歴史として検証するべきことだろうし、今後もそうした選択が絶対ないとはいえないわけだから(国が核を容認する以上)、シュミレーションとしては生きた言葉だとはいっぽうで思うわけだ。
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