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武石の自然石道祖神をもとめて 後編

2024-06-14 23:07:41 | 民俗学

武石の自然石道祖神をもとめて 中編より

 

渡場「道祖神」と自然石

 堂坂から県道を下ると、すぐ渡場である。やはり県道端左手に石碑群があり、その中に写真の「道祖神」がある。右側の石は自然石の道祖神とみるが、小林大二氏の『依田窪の道祖神』には「道祖神」の写真だけ掲載されていて、自然石のことは書かれていない。実は周囲にも小さな石がごろごろしているが、はたしてこれらは胴意識されているのか。なお「道祖神」以外の年銘などはない。

 

市之瀬「道祖神」

 渡場から武石川を渡ると、県道はバイパスになって北山裾へ導かれるが、武石の市街地へ旧道へ入り集落を抜けると段丘を下る道への三叉路に至る。その三叉路に「二十三夜塔」と並んで「道祖神」が祀られている。注連縄の掛けられた道祖神には「寛政五年二月八日」と銘文があり、1793年の建立ということになる。武石では年銘のあるもので最も古いものは1771年、明和8年のもので双体像になる。1700年代後半に双体像や文字碑が建てられており、このころから形として明確な道祖神が建立されたものと思われる。

 

大宮諏訪神社赤鳥居脇の双体像

 さらに武石の市街地を下ると、道端に赤い鳥居が見えてくる。隣に大きなサワラの木があるのですぐにわかる。この鳥居の脇を北へ向かう道があり、その分岐する道端に双体道祖神が祀られている。小林氏の前掲書では摩耗しているものの双体の像容が残っているが、現在はほとんど摩滅してその姿が残っていない。自然石を四角く窪ませ額状に加工した中に双体像が彫られたもので、額の外に鳥居が線彫りで刻まれているが、その鳥居もだいぶ風化している。年銘があり「天保二年十二月」とあるようだ。

 

薮合「道祖神」

 鳥居のある四辻をさらに東へ200メートルほど下ったところから右折して細い道を入っていくと、薮合の「道祖神」が辻に立っている。前掲書には「七ケ」とあるが、わたし的にはこことは薮合と推察する。

 

信廣寺東「道祖神」

 薮合の西よりに信廣寺という寺がある。寺裏の墓地への入口のところに「二十三夜」とともに「道祖神」が祀られている。前述の市之瀬もそうだったが、二十三夜とセットで祀られるケースがこのあたりは多いのか?。この「道祖神」は「嘉永二年己酉二月八日」とあり「再建」とあるので再建されたのが嘉永2年と読んでよいものかどうか。

 以上旧武石村に自然石道祖神を訪ねたが、そもそも事前にあまり調べずに現地に行ったせいか、自然石の道祖神にあまり遭遇しなかった。旧丸子町西内とは山ひとつ隔てた地域ながら、西内との違いばかりが目立った印象である。

終わり(全てを見たわけではなく、今後も随時捉えていきたい)


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