Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

お仕着せ

2007-07-01 09:40:05 | ひとから学ぶ
 先日、中日新聞1面のコラム「中日春秋」にボーナスのことが触れられていた。「お仕着せ」から由来するという賞与。6月といえばその賞与の季節だ。本来なら会社に利益があったからといって配られたものだと思うのだが、今やそういうものではない。おそらく多くの人がボーナスは生活給であり、それがないとしたら生活はたちまち破綻しそうだ。そんな賞与が今や出ない会社も珍しくはない。もちろん正規社員であればのことで、流行の派遣会社に身を置いたり、アルバイトや臨時という身分だとしたら、賞与などというものは天上の話となるだろう。

 生活のレベルを図る尺度として、年収を基準として捉えられるが、この賞与があるとないとでは格段に差が出る。公務員の多くはそんな賞与のことを気にしなくとも、まさに給与のごとく支給されるのだろうが、そうでない人たちにとってはなかなか不安がつきまとう。中小企業だったら当たり前のことである。

 そんな当たり前のように支給されるはずの賞与を、返納するようにという話しが社会保険庁の労組から出ているという。今回の保険問題で労組が一枚加担していたという雰囲気があって、やむなしというところなんだろうが、生活給としての賞与があてにならないとしたら、いくら仕事をおこたっていたからといってつらいものはある。気の遠くなるような埋もれているデータをひっくり返して確認していくとなると多大な税金が必要だといわれ、「自分たちでやれ」という声も多い。それも当たり前ではあるが、たまたまこうしたデータを扱う公的機関であっただけで、同じようなデータ管理をする役所があったら、ここに限らず問題を起していたかもしれない。そういう意味では、厚生労働省も含め、いやもっといえば国家公務員全体でこの問題解決に力を貸す必要もあるのではないか、などと思ってしまう。

 かろうじて賞与の出ているわが社であるが、基本給をカットするか賞与をカットするかという選択も間近い。赤字でも賞与を出しているというと「何それ」といわれるかも知れないが、冒頭のようにこれが生活給だとしたら、たまたま賞与という形をしている給与なだけで、「まるで公務員みたいね」と言われても給与の一部であることに違いはない。ようは本当の意味での賞与でないのに、なぜか一時金を手にして顔がほころぶのは、だまされているようなものかもしれない。給与のように支給される公務員はいろいろ言われるが、このごろは年収だけでは計れなくなったと思う。いくつで退職するかによっても異なるし、どんなに安い給与でも体が動けなくなるまで働ける職場だってある。ということは生涯給与で計らないと、なかなか人のことをどうの言えないはずだ。もっといえば、カネだけが価値ではないとするならば、総合的に比較してみないと、給与が高いとか低いなどといことは言えなくなる。

 とはいえ、普段の暮らしぶりで、豊かかどうかは見えてくる。…そうでもないか。カネのある人に限って質素に暮らしている人たちも多い。カネがないのに豪華な暮らしぶりを見せる人もいる。一概にはいえないことは解っているが、なぜか人は隣の財布をのぞきたくなる。報道系のテレビ番組で、庶民には想像つかないほど稼いでいる人が、小さな無駄金をとりあげてお役所を批判していることがよくあるが、カネのある人にそんなことを言われると、ない人はふぬけになりそうだ。にもかかわらずそんな毒舌に耳を貸してしまうのがはかないところだ。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****