Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

税金も持ち回りで集めよう

2007-07-14 12:28:12 | ひとから学ぶ
 知人は「税源移譲と市町村の税徴収率」において、徴収率について触れている。近ごろ住民税が上がったということはみなご存知のとおりだ。税源移譲することにより、交付税ではなく実際に住む人たちによる税源を増やした形だから、ごく自然な形だといえばそれまでなのだが、そこへふるさと税という考えが加わってくる。税源を地方に譲ると言うことは、人口が少ない、そして仕事が少ない地域の税収は減るはずだ。当たり前のことで、ますます人口が都会へ集中していけば、今は税収が増えたと形上思っていても、結局は地方はますます厳しいわけだ。それを補填する意味でふるさと税が有効になるのだろうが、いずれにしても住民がいなくなれば税金はなくなる一方だということは誰にでも解る。だから地方は年寄りだろうと誰だろうととりあえず住民が増えることを考えることになる。どこかにあったが、刑務所を造れば住民は増える。そんな視点だけで地方が走ることは大変危険なことだ。だから税源移譲は良いことのように見えるが、さらに自己責任を地方に負わせることになる。

 さて、そんな視点とは別に、知人は税源を移譲することにより、徴収義務も移譲されることについて触れている。確かに国が扱う金が減るんだから、国の職員は少し楽になるが、いっぽうで市町村の負担が重くなる。市町村によって徴収率がずいぶんと違うことを聞いてちょっとびっくりする。わたしの印象では都市ほどに徴収率は少ないのじゃないかと思ったら違う。考えてみればサラリーマン比率が高ければ徴収率は上がる。そういう意味では自営業者なんかが多いところほど徴収率は下がるのだろう。知人も触れているように、長野県でみると市部の最高が長野市の94.4%、最低が小諸市での85.4%である。そして町村では最高が下條村と清内路村の100%、最低が白馬村の59.7%である。長野県のホームページから他の町村の数字も拾ってみた。おおかた90パーセント以上なのだが、白馬村のほか山ノ内町の69.5%、信濃町の70.2%、小谷村の72.2%、野沢温泉村の72.4%、軽井沢町の77.6%というように6町村は80%以下を示す。ここに共通するのは、農業ではない自営業が多い地域ということが言えるだろう。白馬村はいわずと知れた観光地である。そういう視点でみればほかの町村も同様で、いかによそから移り住んだ人たちが多いかがその数値を左右しそうだ。サラリーマンのように自動的に税金が引かれてしまうシステムがもっとも税金の滞納を防ぐ手立てだとわかる。

 ところが知人も次のブログでさらに興味深いことに触れる。お解りのように100%という徴収率を見せる村は、自営業者が多い。その自営業とは農業なのだ。自動的に税金が給与から引かれるサラリーマンが多いわけでもないのに徴収率が高い。なぜかと問えば集金常会である。妻の実家のある村は、現在でも集金常会という会合を月に一度開く。いわゆる納税のための寄り合いなのだ。知人も紹介している「納税組合」という制度がかつてはあった。わたしも認識していなかったが、昭和26年にこの制度が法制化されたという。ただ、そのために組合が設置されたというよりは、従来からあった隣組制度に乗ったという形だったのだろう。その組合そのものも戦時中に配給目的で作られたもので、そう歴史が古いものではない。戦時中の遺産かもしれい。そんな組合に納税の役割を課したわけだから、今の時代にそんなことをしろと言ったら、役所の怠慢だと言われかねない。加えて納税だから、誰がいくら納めるかということまで詮索されてしまい、個人情報保護のこの時代にしてみれば、ちゃんちゃかおかしいだろう。ところがそのシステムが、圧倒的になったサラリーマン社会において勝っているとしたらすごい話である。

 実は妻の実家のある隣組で毎月行われている常会は、「集金常会」というように納税目的ではすでになくなっている。それでも毎月寄り合っては何かしらの徴収をしているようで、田舎らしいシステムである。緑の募金にしても、赤い羽の募金にしても、隣組が集めるとなると、だれでも募金せざるを得ないという雰囲気が生まれる。それはなぜかといえば、徴収義務はみんなに回ってくるからだ。自分が否定したら、自分が役のときに他の人に頼めない。となれば無理に自分勝手なことはできない。相互扶助というものはそんな具合にあらゆるところにあった。生家のあった地域では、わたしの記憶では集金常会のようなものは無かったように思う。ただ、子どものころのお使いで、税金が入っているであろう封筒を、いつも同じ家に届けた覚えがある。税金を徴収している家が一定していた。封筒には金額が書かれていたもので、子どもながらにちょっと違和感のようなものは持っていた。いずれにしても、かつての農村社会とはそうした形で日々があった。それを因習だという人もいるだろうが、良い面も持っていたことも事実だ。このごろはなんに関しても、役を回していこうという意識が減少した。「できる人がやればいいじゃないか」ということになってしまうと、無関係だと思う人は協力しなくなる。よほどこの国の国民は無理に役割分担をしないと、動けない国民性なのかもしれない。
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