Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

田舎の夜道から

2007-07-13 08:28:50 | 農村環境
 毎夜のように10時のホームに降りる。せいぜい1人か2人という降車する人影。周りは家が立ち並ぶが、明かりは少ない。約1時間の電車の空間も、しだいに1人2人と降車し、わたしが降りると時には人影がなくなることも珍しくない。地域の狭間という雰囲気がそこには漂う。昔、わたしが高校に通ったホームの人影も、それほど今とは変わりなかった。なぜかといえば、そこもまた地域の狭間だったからだ。当時のわたしは今利用している駅より北にホームの駅があった。そして南へと向かった。今はその駅より南の駅をホームにして、北へ向かっている。北から南へ向かうとともに車内の人影はなくなり、夜中ともなればわたしが降車する最後の者となったりする。そして昔利用していたころは、南から北へ向かうほどに車内の人影はなくなり、きっと今以上に利用者が多かったせいか、わたしが最後の降車する者とはならなかったが、やはり最も人影の少ない空間をもたらしていた。ようは、かつて向かっていた飯田と、今向かっている伊那という路線上で、かつてわたしがホームとしていた駅と、現在ホームとしている駅の間が、もっとも寂しい空間をかつても今も保っているということなのたろう。

 帰宅時、かつてホームとしていた駅に着くと降車するのはやはり1人、あるいは2人である。女の子が降車すると、必ず明かりのかすかな無人駅の前に、車が1台停まっている。もちろん女の子の迎えである。女の子でなくてともそんな光景を見ることはまったく珍しくない。今や、夜中に学生が、それも女の子が1人で田舎の道を歩いて帰宅する姿は珍しい。それがどの時間に達するとそういうことになるかは定かではないが、夜も9時過ぎともなればまず迎えは当たり前となる。人が安全に歩くこともできない世の中だと思うと残念な気持ちでならないが、そんな意味での安易な自動車の利用は、田舎の空間をも駄目にした。「美しい国日本」なんていうが、何の価値もない言葉と思えてくる。国の施策の言葉の裏に、さまざまな意味としての「美しい」があるだろうが、この「美しい」というフレーズに、国民も納得してしまっていていけない。この言葉の概観は、まさに外観であって、形容される姿の「美しい」と判断する。そんな施策がまかり通るほど、この国は汚くなっている、と裏を返せるのだろう。そう考えれば、「美しい」の背景に「安全」という意識があるかもしれないが、言葉だけを聞いて、その認識まで持つことは難しい。「美しい」などと言っているから、人間はすさんでいくのだ。「美しい」という前に「安全な国」を目指して欲しいものだ。とそんなことを言うと、「そんなのん気ななことを言っていて、朝鮮から核ミサイルがやってきたらどうするんだ」ということになる。すさんだ発想ではあるが、現実的な発想でもある。しかし、自らの懐が安全でなくして、よそからの不幸をいろいろ考えていても仕方ない。何が最優先なのか見えているのかいないのか、外観だけで形容しても何も見えてはこないし、「美しく」なったからといってどうなんだ、と思うのだが…。
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