Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

誤り訂正の国

2007-07-04 08:30:15 | ひとから学ぶ
 安部総理の顔がずいぶんとお疲れの様子だ。久間防衛大臣の辞任を受けてコメントする顔を見てそんな印象を誰もが持ったに違いない。後を絶たない問題発言に、内閣発足当初からなんとなく予想されていた雰囲気さえ漂う。しかし、こんな問題発言に終始している内閣も珍しい。また、そうした発言問題を大きく取り上げるマスコミも国民も、本来の問題から遠ざかってしまっいる。

 「しょうがない」発言がピークを迎えたわけだが、わたしはこの言葉がそれほど好きではないが、けっこう多用する。以前にも触れたことがあったが、この世の中だ。「もしも」という事件が身の回りに起きたとしても、それは「しょうがない」ことだとあきらめざるを得ないと思っている。例えばマチを歩いていて刺し殺されようと、身内が誰かに刺されたとしても、そして乗っていた飛行機が墜落したとしても、起きてしまったことは仕方のないことと受け止めざるを得ない。当然その背景はなんだったのかと考え込むことになるだろうが、刺した側に怒りを覚えるのはその瞬間だけであって、それをいつまでも引きずりたくないというのが考えだ。ただ、現実に遭遇したら「そんなものではない」と言われるだろうし、わたしもその時の真意を計ることはできない。久間防衛大臣が辞任での会見において、頻繁に「しょうがない」を連発したという。おそらくこの言葉を口癖のように使う人なのだろう。だからわたしはそこに人間味のある人柄を覚える。確かに大臣という立場の人が、公の場で「原爆」に対して使うには適正な言葉だとは思わないが、表情ひとつ変えずに機械のように言葉を発する現代の社会のリーダーたちの表情にくらべれば親しみはある。

 政治家ばかりではない。お役所の人たちも会社のリーダーも、ことあるごとに謝っている。そんな誤りを訂正する世の中である。いかに誤りのない発言をするか、行動をとるかという意識が強くならざるを得ない。とくに先進的な世界を開拓しなくてもよいような役所の世界なら、ことごとく問題を起さないことが常の意識となる。人とは違ったことをすることが「反する」ことになるのは必然である。わたし個人がそんな発言が何なんだ、と言えるように、立場が大きい人間ではないから言えることで、立場立場でその大きさは変化する。しかし、あまりに誤り訂正に世の中が集中する姿をみるにつけ、萎縮した世の中だと思うわけだ。参議院選挙だというのに、争点は誤り訂正ばかりだ。

 安部政権の暗闇が見えている。盛んに新聞記事やテレビ報道は、「この政権を選択する価値のあるものか」みたいに触れている。それは誤り訂正問題ばかりが浮上している現実を踏まえてのものなのだろう。そういう意味で、どこかで「あなたは今の自民党に投票できますか」みたいな雰囲気を見せている。ところが疲弊した地方をどう捉えているのか、というわたしにとっての注目したい視点はどこからも聞こえてこない。政治家に地方出身であって農業を知っている人が極端に減った。そういう意味では、農業を語れる(語るだけではだめだし、その視点が的をえていなくても駄目だが…)人を今だからこそ選択したいと思っているが、それはまったく時代の眼ではない。

 発言に対して問題視するのはよいが、そんなことに眼を振られていて良いものか、と問いたいところだ。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****