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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

ものすごくうるさくてありえないほど近い

2012年02月18日 | 映画とか

原題"Extremely Loud and Incredibly Close"、
原作はJonathan Safran Foerの同名の小説だ。
(これがまた面白そうなのだけど、それはまた今度)

愛する父親を911で亡くした9歳の少年オスカーが
遺された謎の鍵の秘密を探してNYの街を巡り歩く--
そう説明されると、哀しくセンチメンタルな話が思い浮かぶのだが、
実際にはそれほど簡単な映画ではなかった。

ある意味、邦題は秀逸だと思う。
何が「うるさくて」「近い」のかと言うと、
絶えずオスカーを鞭打つ心の傷の存在、
ある意味では自分自身だと思う。
(この辺は、原作読んで再考してみたいところだけど)

家族を911で失った者の映画といえば
アダム・サンドラー主演の「再開の街」がある。
このテーマが大人のヒリヒリとした喪失感だとすると、
「ものすごく」は、悲劇に割り込まれた成熟中の自我。
途方に暮れるやり方すら覚える前の、無我夢中の姿だ。

しかしその語り口はかなり荒っぽく、
見方によっては荒唐無稽な失敗作と評する向きもあるかもしれない。
確かに、乱暴な割に都合のいい展開には
ときどき首を傾げてしまったけれど、
映画としての魅力には事欠かなかった。
オーソドックスさと斬新さの入り交じった印象は、
実験的な演出で撮ったメロドラマを見せられたようでもある。

ところでこの物語、とてもNY的だとも感じた。
結局人を救うのは人であるとして、
その淡いような濃いような人と人との関わり方が、
とてもこの街らしいと思う。

絆という言葉を持ち出すなら、
それは土地それぞれの姿があると言える気がする。
日本だったら、どんな形をしているのだろうか。

本日(18日)から公開で、公式サイトはこちらです。
ただ911についてだけではなく、
さまざまな哀しみの姿について
考えさせてくれる作品だと思います。


J・エドガー

2012年01月29日 | 映画とか

FBIの初代長官となったジョン・エドガー・フーバーは、
共産主義やテロリズムへの断固とした対応とともに、
歴代大統領や有力者達の秘密情報を手に
アメリカを影から動かそうとした存在だった。

ま、その程度の前知識ではあったけれど、
クリント・イーストウッドの手にかかった日には
えらく重々しい物語になりそうだな、というのは覚悟の上だった。
(実はそれが嫌でもなかったりするのだけど……)

なのですが、見終わった心持ちは「あれ?」みたいな、あっさり感。
作った料理を味見したときの、何か調味料を入れ忘れたような感覚。
正直思ってしまいました。さすがにクリントも歳なのかなぁ、と。

でも不思議なことに、静かな余韻がずっと後を引いていて、
ときどき思い返して反芻してしまっている。
エドガーが望んだ正義にはどこか歪なところがあって、
それは当人の隠れたパーソナリティに寄るところもあるのだろうけれど、
実は普遍的なメッセージを含んでいるような気がしてくる。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」
という言葉があるけれど、
(出典については諸説ありますが、たとえばこの辺など。
解釈については誤用との見解もあるようです)
正義のような公明正大で堂々とした概念は、
ときに磁石のようにさまざまな成分を引きつける。
それが雪の坂を転がる玉のように膨らみ始めると、
止めることは予想以上に困難かもしれない。

人間は、こんな歩き方もしてしまうこともあるのだ--
そう感じることで身近な出来事のことを考えさせられるし、
そこにこの映画のリアリティがあるのだと思う。
81歳の新境地、結構なお点前でした。

キッズ・オールライト(Kids Are All Right)

2011年05月11日 | 映画とか

 女性同士のゲイ・カップル、ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)には、18歳の姉ジョニ(ミア・ワシコウスカ)と15歳の弟レイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)2人の子供がいる。それぞれニックはジョニが、ジュールスはレイザーが同じ男性の精子を使って産んだ「ドナー・ベイビー」だ。

 実は弟のレイザーは、ジョニに「精子バンクに電話してドナーを調べて欲しい」頼んでいた(年齢制限のためらしい)。大学入学を控えたジョニは乗り気ではなかったが、弟の真剣さに押されて連絡をとる。

 そうして繋がった「生物学上の父親(Biological father)」のポールは、自らオーガニック野菜を作りながらナチュラル系レストランを経営する気ままで魅力的な中年男。一度会うだけと思っていた姉弟は彼の人柄に惹かれ、それは両親の知るところとなる……。


 ストーリーとしては、こんな感じだろうか(もちろんこの後が本番なのだけど)。メインの役者は芸達者な2人。個人的にドナー・ベイビーを巡る事柄に興味を持っていたせいもあって、結構期待していた作品だった。

 それが、なぜだろう。途中から、ある種の退屈さを感じ始めた。ストーリーも現代的でユニークで、素材やアイデアは盛り沢山。展開のテンポ感もいい。決して「何かが足りない」というのではないのだ。

 ただそうなってくると、逆に興味が沸いてくる部分もある。原因は何だろう。この退屈さの正体をきっちり見届けようという気分になってくる。すぱっと切り上げて外に出る、なんて潔いよい真似はできないのだ。天の邪鬼か小心者か、おそらく両方だと思いますが。


 この映画、設定こそ一見センセーショナルであるけれど、流れているのは極めてオーソドックスな家族の物語。親の子離れ、子の親離れ、長年連れそったカップルの愛情、若者の性への目覚め、父であることに戸惑う男の気持ち……ゲイの両親ということで好奇の目を向けるのはレイザーの悪友クレイくらいで、そういう意味では、もしも向田邦子さんがご存命でアメリカに住んでいたら書きそうな話だ。ちょっと強引か?

 現代的な設定に引っ張られず、ある意味古典的な人間ドラマであるのが魅力でもあるのだけれど、一方で複数のトピックが混在することで、輪郭が甘くなっているのではないだろうか。登場人物が総出でこっちをはらはらさせてくれるのは有難いのだが、なんだか演技の満員電車加減が若干しんどくもあった……見ている俺がとろいのかね?

 ま、そんなしんどさはあったとしても、力作ではあります。見に行って良かった。まあ退屈と書いたけれども、それは凡庸であるとかではなく、今回もうひとつ間合いが合わなかったのかもしれない。ちょっと刺激の効いた楽しい映画がお好みなら、是非。

 ちなみに監督のリサ・チョロデンコは、私生活でも同性のパートナーとドナー・ベイビーの息子と暮している。テーマに対する力みのなさは、この辺も関係あるのだろうか。脚本のスチュワート・ブルームバーグとの対談はポッドキャスト(英語)で聞けますが、これもなかなか面白いです。彼女の次回作、素直に楽しみです。


 で、結局はおすすめの一本と相成ったのですが、しいて言えば日本のプロモーションがなぁ……。公式サイトを見ていて感じる「ちょっと変わってるけれど、愛に満ちた家族の物語」というニュアンスには違和感を感じる。無意識の部分での差別とか。ま、こういう風に打ちださないと日本では売れない、みたいなのもあるのかもしれないけれど、今の観客は目が肥えてますぜ。映画を愛するなら、その魅力をストレートに出せばいいと思うんすけどねぇ。

その街のこども

2011年02月07日 | 映画とか

「阪神・淡路大震災15年特別企画」と銘打たれた一作。
パンフレットには、こんな記述がある。

「ただ悲しみを伝えるだけではなく、神戸という街の想いに寄り添った
ドラマを作って欲しい」という、遺族でもある当時のNHK部長のかけ声により
「その街のこども」は歩みはじめました。

そのドラマは、震災から15年目の1月17日に放送され大きな反響を呼び、
反響に後押しされるように、NHK制作のドラマとしては異例の全国公開へ。
未公開映像をくわえた再編集版で、劇場での上映が実現化したという一本だ。
(くわしくは公式サイトをどうぞ)

忘れてはいけないし、忘れることもできないこの出来事、
もはや「震災」というより、歴史そのものではないだろうか。
その大きなモチーフをどう描いていくか、結構難しい宿題だったはずだ。

その正解のひとつが、ここでのドキュメンタリー的演出だったのだろう。
決して大局的、報道的な目線ではなく、登場人物たちのごくごく個人的な記憶を、
薄紙一枚一枚剥がしていくような繊細さと危なっかしさで描いていく。
展開としてはある意味もどかしいのだが、そのもどかしさがリアルでもあった。

美夏(佐藤江梨子)の語る「私の聖地」や、「おっちゃん」に手を振リ返せない
彼女を差し置いて手を振る勇治(森山未來)のぶっきらぼうな優しさなど、
随所で美しいエピソードが光っていた。
アドリブも多かったそうだが、引き出す土台は渡辺あや氏の脚本の力だったのでは。


とはいえ、見ている最中の自分には、ある種の苛立ちもあった。
アドリブ感の漂う台詞まわしや、移動で揺れるカメラワークには、
物語ることからの逃げのようなものを感じた。
第一あんなに揺れてちゃ「今カメラも走ってます!」って言ってるようなもんじゃないか。

「映画は所詮作りごと」という呪縛を解くには、思いっきり作り込むしかない。
映画屋なら、作りごとであることから逃げてはいけない、と俺は思う。

それでも、見る価値のある一本だ(どっちやねん!と突っ込んでる貴方、正解です)。
あの生々しい記憶に対して、自分なら何ができかを考えさせてくれる。

たとえばこういう個としての視点に対して、政府の対応がどうだったかなど、
国全体の問題として捉えていくアプローチもあるだろう。
(あくまで大新聞的論調ではなく、マイケル・ムーア的知りたがり屋目線で)
映像以外にも音楽文学美術にダンスと、やり方はいろいろあるのだろう。
そうすれば、我々も少しは「その街のこども」に近づけるのかもしれない。

スモーク@恵比寿ガーデンシネマ

2011年01月23日 | 映画とか

ご存じのように、恵比寿ガーデンシネマは1月28日で閉館。
で、最後にもう一本見たい、というタイミングで見に行きました。
ハーヴェイ・カイテル、ウィリアム・ハート、フォレスト・ウィテカー、
そしてストッカード・チャニング(よっ、大統領夫人!)など
役者が揃っているだけあって、見応えのある一作。
(若干「いいお話でしょ」的なトーンを感じなくもないのだけど)
粗筋などはこちら等見ていただければ。

しかし何とも奇遇な感じを受けたのは、
物語の中心に据えられたタバコ屋と、
地味ながらいい映画を紹介してきたこの場所の対比。
ひと癖あるけれと情の深いタバコ屋のオヤジと、
劇場のスタッフの人たちの映画愛が重なって、
うーん、煙が目にしみるぜ、みたいな感慨です(いやマジで)。

大切な場所だっただけに、いい形で締めくくれたような気がします。
その後?もちろんガーデンプレイスのビアホールで、
しこたま食べて飲みましたとさ。