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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

空白を満たしなさい/平野啓一郎

2013年09月23日 | 読書とか

先日読んだ、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』と視点を共有する小説。
主人公の土屋徹生は、3年前の死から突然蘇った「復生者」。
自殺とされている自己の死に疑問を抱きながら、
唐突に蘇ってきた“死者”に困惑する家族や周囲の人々と向き合う物語。

これ、設定としてはかなりのハイレベルで、
概要を聞いただけで興味をそそられた。
このテーマであれば、社会の矛盾に光をあてるとか、
人間存在の意義といったものを掘っていくのか、
あるいはトリッキーな設定で「愛」について語るとか、
なかなか強いカード引いたなぁ、と感じた。

小説としては、文句なく面白い!
著者の作品は正直得意ではないのだが
(「日蝕」は途中で挫折しました……)、
ホントこの人、上手い書き手だと思う。
特に主題との距離の取り方
-疎遠過ぎず、入り込み過ぎず-は絶妙だ。

面白いと感じたのは、ある意味で
この設定が変形のタイムパラドックスになっていること。
時間を遡っての心理の探求や検証など、
現実としては不可能な角度から物語を作っていける。
結構扱いにくい設定を使い切れる力量は素晴らしい。

一方で、少し残念に感じたのは、「分人」にまつわるエピソード。
この辺りだけ、なんか理念ありきで語られているように感じた。
決して分人思想の啓発を目的に書かれた小説ではないと思うが、
その部分だけ、書き手としてのモードが
「小説家」から「評論家、思想家」に変っているように感じた。

でも、この混じり具合を含めて、
今の時代に読んでおくべき小説だと思う。
さて、次は「ドーン」にいってみようかな。

空白を満たしなさい
クリエーター情報なし
講談社

私とは何か 「個人」から「分人」へ/平野啓一郎

2013年09月16日 | 読書とか
先日、とあるインタビュー番組で平野啓一郎氏の話を聞いた。
そこで氏が熱心に語っていたのが「分人」というコンセプト。
「個人」の原語"individual"は"in-dividual"-これ以上分けられないという意味。
そこに人としての単位があるという視点に疑問を投げかけるものだ。

人間は、その時間を共に過す相手によって違う顔を持つ。
これは「ホントの自分」と「表面的な存在」という差ではなく、
そのどれもが真実であり、「個人」とは、その集積であるという発想。
(違ってたらスミマセン。でも、そんな複雑なことは提唱していないと思う)

これ、古代ギリシャ科学の「原子論」が
後の科学で書き換えられていく様とダブっても見えるのだが
(あ、専門じゃないのて細かいことは……汗)、
物事の最小単位を見つめ直すことで概念の地層をもうひと堀りしていく、
なかなか新鮮な考え方だった。

人としてのあり方というより、社会的存在としての人間としての指針を持って、
「この手があったか!?」と知らしめてくれる。
俺は「目から鱗」という比喩が嫌いなので使いたくないのだけど
(同時に、これを多用する人もちょっと苦手かもしれない……)、
使うのであれば「今でしょ!」(赤面……)なのだろう。

そう、人としてのプラットフォームを考える上で斬新な一冊で、
基本的には社会科学的な文献と言えると思うのだが、
同時にマーケテングにも全然使えるなという助平心も覚えた。
そう、製品やサービスがもたらす「体験」は、
ターゲット分析で見えてくる「個人」ではなく、
「アニメマニアの外資系ファンドマネージャー」や
「ゴルフ好きのロックスター」のどの部分に響くのか、
その辺に繊細に、謙虚になっていくことが、
これからのビジネスのヒントになるのかもしれない。
(これ、インバウンドマーケティングにも通じるのだろうか)

えーっと、敢えて気になるところを言うとすれば、
「分人」というワーディング。
この響きは、人に語り伝えていく言葉として若干微妙な気がする。
例えば「超個人(ハイパー・インディビジュアル)」とか、どーだろう。
(「素数」と「人」で「素人」てのも考えたけど、「シロート」って読んじゃうし……)
ま、平野氏は単なるバズワードになることなど望んでいないだろうし、
そんなの浅薄な業界周辺人の思いつきとか言われるかもしれないけれど、
この視点が世間に広まって欲しいという気持ちはマジなのさ。

ともかく、色々な人に読んで欲しい一冊です。
よかったら、ここからどーぞ。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社

桐島、部活やめるってよ/浅井リョウ

2013年09月01日 | 読書とか

2009年の小説すばる新人賞受賞作品。作品もヒットして映画も好評(見てませんが)。ま、今更感はあるけれど、読んだからには書きとめておこう。

まずこの文体、正直あまり得意ではなかった。でも一方で、著者の言葉を扱うセンスは図抜けていると思う。筆まかせ(筆は使ってないか……)でありながらスパイスと抑揚の効いた、まあ才能ですね。これ、伊坂幸太郎氏の『重力ピエロ』を読んだときの感覚に近いけれど、伊坂氏の練った感じとは違って、反射的に発せられたような印象がある。なんていうか、若者という生き物に対する動体視力が素晴らしい。

読後1日ほど経って思いだしたのは、田中康夫氏の『なんとくクリスタル』。ま、随分前に一度読んだ記憶で書いちゃうけれど、いわゆる「若者の生態」を題材とするにあたり、その描き方自体が時代性を表している作品なのではないだろうか。『なんクリ』の書き込まれた感じと『桐島』のポイントをはぐらかす感じの表現は、バブルな時代とデフレの時代それぞれの文体のようにも思える。でも、どちらも独特の輝きを放ってるって、やっぱりいいですね、若いって(そうまとめるか?)。

も少し書くと、『桐島』の上手さって、書かれていない部分にあるような気がする。輪郭を上手に書いておいて、「後は埋めといてね、よろしく」という投げ方の優雅さはさりげないし、匠でもあるような。他の作品が気になる作家さんであることは確かだなぁ。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
朝井 リョウ
集英社

夜に生きる/デニス・ルヘイン(加賀山卓朗訳)

2013年06月18日 | 読書とか
会社帰りの電車で、何を読むか。
これ、帰りにどの店で飲むか、の次くらいに重要な問題だ。
仕事が嫌いな訳じゃないけれど、
一日過せば少しくらい澱も溜まる。

その澱も単純なものばかりじゃなくて、
すこーしずつ溜まって気持ちの襞にこびりついちゃってたりする。
なんつーか、それはそれで経緯というか物語を獲得してしまっているのだ。

で、そんな頑固なヨゴレには、奥さん、やっぱりこれですよ。
禁酒法時代の無法者、ジョー・コグリンの物語。
ちょいと気の利いた若いチンピラくんが、
顔役達を相手にのし上がっていくという件のお話なのだけど、
妙に青春な香りも漂っている。

ちょっと思いだしたのは『麻雀放浪記』の“坊や哲”。
騙したり盗んだりもするけれど、自分なりのモラルで生きている。
危なっかしいけれど、嫌いになれないタイプかもしれん。
(ま、一緒にいると面倒だと思うけど)

しかし男も女も、大人になるのは大変な時代だったのだなぁ。
手に汗握る、というよりも、じわりじわりと引き寄せられた。
たぶん物語後半の世界に放り込まれたら、
密造のラムを一緒にやりながら話がはずんだかもしれない。
(いや、丸腰じゃ怖いけど……)


小説として、なかなか上手だなと思ったのは、
最初は荒っぽいシーンばかりのクライム・ミステリーが、
展開につれて徐々に内省的というか視点が深くなっていく感じ。
主人公が年を重ねるにつれて、物語の味わいも変っていく。

作者の意図なのか俺の勝手な深読みか(よくあるパターン)分からないけれど、
展開に沿って小説のテイストが変っていくのは洒落てるなぁ。

「中庸は人々に考えることを要求する。みんなそれで頭が痛くなる。
人々が好きなのは両極端であって、細やかな心配りではない」

物語の終盤、ジョーの相棒の台詞だけれど、鋭いと思いませんか?
極端さが好まれる状況って、往々にして思考停止が起こっているのかもしれない。

ちなみにこの一節、Kindleの検索機能で調べたら一発で出てきた。
あとから場面やフレーズを思いだすのに、結構便利ですわ。

それから翻訳は、ミステリーを中心にビジネス系でも活躍中の加賀山卓朗氏。
スムーズだけどメリハリがあって、なかなか良い仕事してますぜ。


帰りの電車、落ち着ける区間は約20分程。
3、4日ちびちび楽しみながら読み終えたら、
少しは澱がすっきりした気がした。
困った物語を洗い流してくれるのは、やはり別の物語なのだろう。
この手の小説をあまり読まない人(自分もそう)にも、お薦めですぜ。

夜に生きる 〔ハヤカワ・ミステリ1869〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
クリエーター情報なし
早川書房

ホイホイ記憶術/多湖輝

2013年04月23日 | 読書とか


初版発行は昭和51年、つまり1976年だから37年前。
写真はボロボロになった、その一冊(初版本)。

多湖輝先生(どうしても「先生」つけちゃうのだ、自然な敬意として)は
『頭の体操』シリーズで有名な方だけど、当時の受験生としては、
心理学に基づいた『ホイホイ勉強術』『スイスイ受験術』のインパクトは強かった。
(どちらも持ってました。ずいぶん前に手放したけど……)

で、そのシリーズのひとつが、この「記憶術」。
考えてみれば、この当時の心理学って、
最近の「脳科学」に近い立ち位置にあったのでは。
(これも話題のピークは過ぎたかもしれないけれど)
今は記憶術関連の著述は珍しくないけれど、
当時はけっこう斬新だった気がする。

でもこの本の魅力は、
真面目ながらテンポ良く柔らかい、文章のトーン。
例えば「類似したものは、まず異同を明確にすると記憶しやすい」という章は、
こんな風にはじまる。

東京の新宿に「ジャックの豆の木」というバーがありますが、
一度でもこの名まえを聞くと、不思議に忘れられません。

要は、この一文字違いが記憶に残るという話なのだけど、
つかみのセンス、なかなかだと思いませんか?

それぞれの章がちょっとしたアカデミズム系エッセイのようで、
記憶力のすこぶる低下した自分にも楽しめる。
そう、今までずっと持っていたのは、
この姿勢のいい言葉たちが奏でるメロディが好きだったからかもしれない。

「『覚えられる』と自分に言い聞かせると、記憶力は増す」

から始まる1、2ページの簡潔な話、どこから読んでも楽しめるのだけど、
締め括りの章は、これ。

「記憶術のための記憶術は、かえって害になる」

……なんかライフハックがあーだとかこーだとか、
どーでもよくなっちゃうなぁ、ちょいと。

えーっと、こうやってあらためて読み返すと、
やっぱり捨てられない……。
でももし欲しい方がいらっしゃったら、コメントくださいませ。
(送料だけ出して頂ければ結構です)