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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

私的読食録/角田光代、堀江敏幸

2019年03月03日 | 読書とか
この本、先日買ってちびちびと読んでいる。軽く読めて楽しめる、と思っていたのだけど、意に反して重い。でもそれはネガティブなものではなく、両氏が見せてくれる、プロの文章力に押されて感じる重さだ。

もちろん、小難しい理屈や自分勝手な嗜好や価値観の披露は一切ない。素直に作品に向き合い、そこに自分の思いを適度に和えていくという、ある意味で家庭料理を作るように書かれた言葉がならんでいるだけだ。

しかし引用文の選び方や、その向こうに見えてくる風景や心象の描かれ方は、「小説家」のモードを離れた、読み手として、そして物書きとしての凄みを感じさせる。

それは例えばプロボクサーのミット打ちのように、一流のプレイヤーが陰で蓄えている技の埋蔵量を思い起こさせる。彼らの小説のなかで触れる言葉のきらめきは、そのエッセンスなのだろう——その感銘を、こんな風に理屈っぽく書いてしまう自分の筆力がなかなか寂しくはあるけれど。



私的読食録
角田光代、堀江敏幸
プレジデント社

『ニューヨーク美術案内』千住博、野地秩嘉(2005)

2018年10月18日 | 読書とか
まずはアマゾンの「内容紹介」から。

メトロポリタン、MoMA、チェルシー…画家と巡る「美術の課外授業」

「美術館だけはつまらん。退屈です。そう思いませんか」
「一緒に美術館へ行きましょう。美術館には、ちゃんと楽しみ方があるんです。それを教えましょう」

画家は絵を描くだけの人ではない。描く前に数多くの美術作品に接し、作品を消化吸収している人だ。そういった人に同伴してもらえばきっと美術館も楽しい場所になる……。(「プロローグ」より)

――ゴッホ、モネ、ルノアールからデュシャン、リヒター、ロバート・ゴーバーまで、実際に作品と対話し、その読み解き方、楽しみ方を解説する。今までにない、最高に贅沢な美術ガイド。


……というお話ではあるのだけど、気どらない、でも鋭い批評性を潜ませた、画家ならではの絵との向き合い方だ。たとえば、「いい美術館は壁の色と照明に配慮がある」という話は、美術館自体の空間としてのナラティブの重要性を示唆していて、一部の日本のデパートの特設会場の豪華版みたいな環境が哀しくなる。一方で「神と対話するかのように、あるいは祈るように描いたゴッホ」や「対象の温度や時間といった見えないものまでとらえていたモネの眼のすごさ」など、画家の肉体を通して発せられる言葉は心に残る。

なかでも印象的だったのは、ジャコメッティの章で書かれていた彫刻の見方についての一文、「見る者が彫刻の周りにどれだけ深々とした空間を感ずることができるか」。長年のぼんやりとした問いが、すーっと解けた気がした。こういう人と一緒に美術館に行くと楽しいだろうなぁ。

また「相方」の野地氏が、千住氏の教えのおさらいとして、ひとり美術館を訪ての所感はどこか初々しくて素敵だ。そして「美術館巡りのお昼はホットドッグ2個小とパパイヤジュース」という千住氏のおすすめのような少し外したエピソードは、読み物としての楽しさをふくらませてくれる。

気軽に読めて楽しい、というと軽く響くかもしれないけれど、極めて高い感性と知性をもって生み出された一冊だと思う。あー、ニューヨークに行って美術館巡りがしたくなっちゃいました(我ながら予想通りの感想だけど……汗)。
ニューヨーク美術案内 (光文社新書)
千住博、野地秩嘉
光文社



「生命科学ノート」のノート/その6

2018年06月03日 | 読書とか
地球物理学者の竹内均氏(1920〜2004)との対談から抜粋した中村氏の発言。味わい深い。

ワトソンの『二重らせん』という本が出ましたでしょ。DNAの発見の時のポーリングとの壮烈な競争がある。科学の世界は競争の世界だと思われてますよね。アメリカででたあの本の批評の中で、今でも覚えているのは、「強烈な競争をしている。それはピカソだったら、彼の絵を彼が今日描かなくても、明日誰かが描いてしまうということはないけれど、科学の世界は今日自分がやらないと明日誰かがやってしまうかもしれない。だからだ」というのがあったんです。その時は、ああそうかな、科学は個性のないものかなって思ったのですが、今考えてみますと、あれが誰にでもできたかというと、やはりワトソンでなくてはできなかったと思えるんです。科学ってそんなに個性のないものではないんじゃないかという気がします。(p.216)

絵を描く人はそれである種の共感を呼んで、他の人に影響を与えるわけですね。科学も、個性的なものなんだけれど、その結果が他の人たちに共感を呼びおこすとこすまでいけば、それが本当の科学じゃないかという気がしています。私が科学と社会との間の問題に興味を持ちますのは、そういうことがちょっと今足りないような気がするからです。科学の論文も、すばらしい論文は感動を呼びますね。非常に無個性な、ただ数字が並んでいるものではなく、小説を読んだり、絵を見たりする時と同じような共感を呼ぶ論文でなくてはいけないんじゃないかと思うんです」(p.217)

いま僕は、コミュニケーション論系の「論文」なるものを書こうとして四苦八苦しているのだが、レベルはエベレストと町内の公園の小山くらい違うが、そういう論文を書きたいと思っている。先達の方々の論文や身近な諸先輩(そのほとんどは僕より若い)の学術誌での発表などに接すると、どうすればそんな風に書けるのか絶望的な心持ちになる。でも敢えて、あるいは勇気を振り絞っていえば(小心者なので……)、「ワクワクしない」と感じることが多い。でも学術論文がそういうものだとは思わない。過去の文献にワクワクさせられたことは何度もある。でも価値観は人それぞれ。なので、自分は論文として完成していることは当然として、人の心に訴えかけるものを書きたい。身の程知らずかもしれないが、少なくとも挑戦はしていこう。

生命科学者ノート (岩波現代文庫―社会)
中村桂子
岩波書店

「生命科学者ノート」のノート/その5

2018年05月01日 | 読書とか
白い予定表 pp.124-127

「けれども、このごろ、物珍しい世界をのぞき見したり、素晴らしい人に接することができただけで、自分が成長したように思い込んでしまう危険も感じている。人間の中には、他人との接触で育っていく自分と、自分自身とのつき合いの中で大きくしていかなければならない自分とがあるはずだ。しかし、外からの忙しさにかまけていると、ついあとの方を忘れがちになる。時には、ちっぽけな自分をとことん見つめ、その中から何かを引き出すことに専念する努力も必要だということはよくわかっている。それなのに、中から湧いてくる気持ちに、ゆっくり目を向ける余裕がもてない」

(研究者の知人の手紙を引用して)「不安定ながらただ一つのことに全神経を集中させ、心も生活も、よろこびも焦りも全部そこに投げ入れて、ひたすらその一筋の糸を見失うまいとつとめている生活」

「しばらくは不義理を承知で、できるだけ予定表を白くすることに努めてみよう」とくくられるこの一章。ソーシャルな世の中で、忘れてしまいそうなことへの教訓として、いろいろ考えさせられる。


生命科学者ノート (岩波現代文庫―社会)
中村桂子
岩波書店

「生命科学者ノート」のノート/その4

2018年03月12日 | 読書とか

技術の生物化・生物の技術化
(p107-111)
この章は、いわゆる「遺伝子組み換え」に関するもの。これを読んで、自分もこの技術に対してはなかば胡散臭い視点を持っていたが、もう少しきちんと考える必要があるのではないかと感じた。

「人間も生態系の一員であるという認識のうえにたった技術は考えられないだろうか」という探求の中、「基礎研究の実験技法として生まれた遺伝子組み換えが、事態を急変させた」「実は、遺伝子組み換えは、生命現象を理解し、技術を生物化していくための有効な手段なのである」というくだりを読むと、これもひとつのテクノロジーの形なのだとあたらめて思う。

しかし、文庫化にあたり加筆された部分は気になる。「遺伝子組み換え技術は開発されたばかりなので基礎研究が重要であり、まさにパイオニアとしての苦労が必要だ」なのだが、「日本はこれが苦手だ。とくに、景気の調子が悪くなると新しいところは切る」という間に「最近になってアメリカを中心にして外国から明確な成果が出始めた」という一連の展開。ある面で日本の苦手な部分を垣間見るようだ。

今更ではあるが、日本の研究者が基礎研究を積み重ねて生まれた、日本独自の遺伝子組み換え技術があったなら、それはどんな成果や未来を見せてくれたのだろうか。研究とは長期の視点で捉え、深めていくもの。今の自分たちが見過ごしている可能性がありはしないだろうか、と考えた。

生命科学者ノート (岩波現代文庫―社会)
中村桂子
岩波書店