これまた古いお話で申し訳ないのだけど、元旦の朝日新聞から。
(出版関係の広告が目につくのは、業界の慣習なのだろうか)
気になったのは、第2面に掲載された新潮社の企業広告。
書店で立ち読みする爆笑問題の太田氏の写真に
キャッチコピー(見出し)は「思いもよらぬ喜び」。
ボディコピー(本文)の中には、こういった文章がある。
電子書籍元年と言われた昨年、
「電子か紙か」といった議論が盛んに行われました。
でもそんな議論よりも、「紙の本」が好きな人、
「紙の本」で鍛えられた人、「紙の本」が育った人がいる。
その事実を大事にしたいと思います。
きっと電子書籍によって新しい表現や市場が生まれることでしょう。
わたしたちもその可能性には挑戦していきます。
それでも、新潮社は「紙の本」が基本であると考えています。
活字や行間、余白の深い味わい、そして、何よりも「紙の本」を手にして
何度も読み返す喜びを大事にする。
そのことが本を愛する人への最大のサービスだと考えているからです。
俺はこの文章に、電子書籍への理解をちらつかせながら、
密かに一線引こうとしているような違和感を覚える。
例えば昔の男女の機会均等に関する議論の中での
「もちろん男女は平等だが、それぞれの適正を活かして
女性は男性をサポートするというのが望ましい」
みたいな発言を思い起こさせるのだ。
これらかは電子書籍が「好きな人」や「鍛えられた人」、「育った人」も現れる。
「表現や市場」の前に生まれてくるのは、まずこういった「人」だ。
新潮社にとって、彼らはどうでもいい存在なのだろうか。
電子書籍は、単なるビジネスの方便ではない。
ひと括りに電子書籍といっても機種の良し悪し、向き不向きはあるだろうが、
きちんと構成された画面であれば、行間や余白の味わいも充分に得られる。
であれば、同じように何度も読み返す喜びも変わらないはずだ。
(iPadなどの透過光画面では批評的な読み方ができない、という意見もあるが、
それは技術の問題であって議論の本筋ではない)
もちろん「紙の本」には、電子書籍にない魅力があると思う。
例えば俺の本棚には1987年版第二刷の「ノルウェイの森」があって、
いくぶん両端の黄ばんだページをめくっていると、
初めて読んだ頃の記憶がうすぼんやりと蘇る(正しいとは限らないが)。
リアル・プロダクトとしての紙の書籍は、
場所や時間やそのときの状況(誰かにもらった、とか)など、
読書体験がまるごと詰まった圧縮ファイルみたいなものだ。
作品の良し悪しとは別に、読み手である自分もその一部になる。
一方で、深夜読みたいと思った本をすぐに手に入れる。
場合によっては海外の原書をダウンロードして読む。
電子書籍なら、こんな風に読みたい気持ちに応えてくれる。
あるいは複数の本を同時に読みすすめたいとき、
出かけた先で気分にあった一冊を選びたいとき、
この携帯性は本との新しいつきあい方を教えてくれる。
先日、ふと「こころ」が読みたくなって、
青空文庫のアプリを使ってiPhoneにダウンロードした。
夏目漱石の世界が、その場で立ちあがった。
どっちが優れている、という議論に意味はない。
違うチャンネルそれぞれの魅力を楽しめばいいのだ。
話は戻るが、もし「紙の本」の魅力を説こうとするならば、
もう少し具体的な所見を述べるべきではないのだろうか。
「わたしたちは『紙の本』を基本にして、その喜びを届けていきます」
という最後の一行はあまりに漠然としているし、
どこか「与えられるものを読んでればいいんだ」といった
無意識の傲慢さを感じてしまうのだ。
小説、評論、ドキュメント、実用、学術……分野に関係なく、本が好きだ。
楽しませてもらったり、助けてもらったりしたことは数限りない。
だから「電子か紙か」といった薄っぺらい対立概念ではなく、
また現状のビジネス維持のための意図的な誘導でもなく、
最良の読書環境を届けるための方法論は何か、という視点が欲しかった。
それが「本を愛する人への最大のサービス」なのではないだろうか。