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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

電子書籍は行間の夢を見るか(新潮社の広告について)

2011年01月10日 | 広告とか

これまた古いお話で申し訳ないのだけど、元旦の朝日新聞から。
(出版関係の広告が目につくのは、業界の慣習なのだろうか)

気になったのは、第2面に掲載された新潮社の企業広告。
書店で立ち読みする爆笑問題の太田氏の写真に
キャッチコピー(見出し)は「思いもよらぬ喜び」。
ボディコピー(本文)の中には、こういった文章がある。

電子書籍元年と言われた昨年、
「電子か紙か」といった議論が盛んに行われました。
でもそんな議論よりも、「紙の本」が好きな人、
「紙の本」で鍛えられた人、「紙の本」が育った人がいる。
その事実を大事にしたいと思います。
きっと電子書籍によって新しい表現や市場が生まれることでしょう。
わたしたちもその可能性には挑戦していきます。
それでも、新潮社は「紙の本」が基本であると考えています。
活字や行間、余白の深い味わい、そして、何よりも「紙の本」を手にして
何度も読み返す喜びを大事にする。
そのことが本を愛する人への最大のサービスだと考えているからです。

俺はこの文章に、電子書籍への理解をちらつかせながら、
密かに一線引こうとしているような違和感を覚える。
例えば昔の男女の機会均等に関する議論の中での
「もちろん男女は平等だが、それぞれの適正を活かして
女性は男性をサポートするというのが望ましい」
みたいな発言を思い起こさせるのだ。

これらかは電子書籍が「好きな人」や「鍛えられた人」、「育った人」も現れる。
「表現や市場」の前に生まれてくるのは、まずこういった「人」だ。
新潮社にとって、彼らはどうでもいい存在なのだろうか。
電子書籍は、単なるビジネスの方便ではない。

ひと括りに電子書籍といっても機種の良し悪し、向き不向きはあるだろうが、
きちんと構成された画面であれば、行間や余白の味わいも充分に得られる。
であれば、同じように何度も読み返す喜びも変わらないはずだ。
(iPadなどの透過光画面では批評的な読み方ができない、という意見もあるが、
それは技術の問題であって議論の本筋ではない)

もちろん「紙の本」には、電子書籍にない魅力があると思う。
例えば俺の本棚には1987年版第二刷の「ノルウェイの森」があって、
いくぶん両端の黄ばんだページをめくっていると、
初めて読んだ頃の記憶がうすぼんやりと蘇る(正しいとは限らないが)。

リアル・プロダクトとしての紙の書籍は、
場所や時間やそのときの状況(誰かにもらった、とか)など、
読書体験がまるごと詰まった圧縮ファイルみたいなものだ。
作品の良し悪しとは別に、読み手である自分もその一部になる。

一方で、深夜読みたいと思った本をすぐに手に入れる。
場合によっては海外の原書をダウンロードして読む。
電子書籍なら、こんな風に読みたい気持ちに応えてくれる。

あるいは複数の本を同時に読みすすめたいとき、
出かけた先で気分にあった一冊を選びたいとき、
この携帯性は本との新しいつきあい方を教えてくれる。

先日、ふと「こころ」が読みたくなって、
青空文庫のアプリを使ってiPhoneにダウンロードした。
夏目漱石の世界が、その場で立ちあがった。
どっちが優れている、という議論に意味はない。
違うチャンネルそれぞれの魅力を楽しめばいいのだ。

話は戻るが、もし「紙の本」の魅力を説こうとするならば、
もう少し具体的な所見を述べるべきではないのだろうか。
「わたしたちは『紙の本』を基本にして、その喜びを届けていきます」
という最後の一行はあまりに漠然としているし、
どこか「与えられるものを読んでればいいんだ」といった
無意識の傲慢さを感じてしまうのだ。

小説、評論、ドキュメント、実用、学術……分野に関係なく、本が好きだ。
楽しませてもらったり、助けてもらったりしたことは数限りない。
だから「電子か紙か」といった薄っぺらい対立概念ではなく、
また現状のビジネス維持のための意図的な誘導でもなく、
最良の読書環境を届けるための方法論は何か、という視点が欲しかった。
それが「本を愛する人への最大のサービス」なのではないだろうか。




ADMTトークセッション「今、発揮される雑誌のチカラと可能性」

2010年12月03日 | 広告とか

ADMTは汐留にあるアドミュージアム東京のこと。
広告に関するさまざまな展示を見ることができる、基本無料の設備だ。
その企画のひとつが、このトークセッション。

実はオイラ、電通の岸さんと博報堂の嶋さんのおふたり、
まったく面識はないけれど、とてもリスペクトしております。
なので行かなくちゃと思った次第ですが、内容などはこちらを。

しかしいやー、面白かった、というか凄かった。
この対談がDVDになったら、金払いますよ、ってくらい。
岸さんがマクルーハンからの引用で「反射光」と「透過光」の話をしたときなんか
ご本人の姿が透過光で見えてしまった。

……って何言ってるか不明だと思われますのでちょっと説明すると、
紙などの印刷物は何らかの光源からの光を介した「反射光」メディアであるのに対して
iPadなどのディスプレイ表現は、それ自体の発光で見る「透過光」メディア。
後者の場合はより情緒的、主観的な見方が勝り、批評的、客観的な視点を失いがちになる、
といった傾向が生まれるという話だ(いわゆる「現前性」)。
たとえば原稿を校正する際、紙なら見つけられる間違いを
モニターだと見過ごす、みたいなこともその一例と言われています。
※ざっくり書いちゃいました。間違いがあったらご教授を。

えーっと、そこばかり書いてると終わらなくなってしまうのだけど、
ともかく二人とも伝えることについて考えている量が半端ではない。
なんだか、気持ちよく負けた感覚で会場を後にした。
広告の可能性はまだまだ大きい、というか結局イノベーションを起こすのは
ひとりひとりの力でしかないと改めて思った次第。

……しかしデジタル化に臨んでの出版社の及び腰ぶり、情けないなぁ。
(ある意味、既得権益を手放せない日本の縮図にも似ている気が)
ま、ともかく、純度の高い刺激をいただきました。
こんな催しが無料なんだから、ここのサイトはチェックしておくよろし。


※現前性などの話はマクルーハン自身の書籍などをどうぞ。

ACC創立50周年 コマーシャル博覧会@朝日ホール

2010年12月02日 | 広告とか

副題は「CMの過去・現在・未来」。12月2、3日の二日間、
さまざまな映像やゲストのトークとともに、CMを考えようという催しだ。
まあ「考える」といっても、基本はお祭り。
楽しんでやりましょう、というスタンスではある。

しかしこれ、のっけから気になることが少々。
自分は特に海外のCM関係の内容に興味を持っていたので、
初日のメインホールにずっといたのだけど(プログラムはこちら
司会進行をされた博報堂の大谷氏の「今回はカンヌから特別に許可を得た。
このような機会は今後なかなかないかもしれない」といったコメントを聞いていると、
その力関係に微妙な不安感を抱いてしまうのだ。

アワード側にとって、日本は参加者であるとともに顧客でもあるはず。
向こうにイニシアティブを取られ過ぎることなく、
日本側もそこから充分に得るものがある関係を築くことは
今後ますます重要になってくると思う。

自分の数少ない海外の人や組織とのやりとりでも(見聞きした分も含め)、
控えめ、従順であることは決してプラスには向いていかない。
日本の主張が明確に伝わることで、関係はもっと生産的なものになると思う。
実情はよく知らないが、他のビジネス業界のノウハウなど参考にできるのでは。

とはいえ、そこで上映された受賞作は素晴らしかった。
こういう機会がもう少し定期的にあればいいのに、
と思ったのは私だけではないはず。

それからこの日、メインホールの最後の出し物として
上映された「アート&コピー」は一見の価値あり。
上質のドキュメントであり、かつエンターテイメントだと思う。
これについては、また後日。

※で、書きました。こちらです。

カンヌ国際広告祭入賞作品研究発表会

2010年11月10日 | 広告とか

第57回のこの催し、ダイレクト、PR、アウトドア、デザイン、フィルムの
5部門について日本からの審査員の話が聞ける貴重な機会
(しかもチェアマンのテリー・サベージ氏も出席!)。

とはいえ広告祭から既に半年、仕事でいろいろ調べたせいもあって、
特に目新しいものはありませんでしたが、でもいいおさらいにはなりました。
またそれにも増して、来年はヤングカンヌに「アカウント部門」ができたり、
「Effectiveness」の賞(対象は前年の受賞作らしい)が設けられたりとか
(ざっと聞いての話です。違ってたらすみません)
かなりビジネス路線に舵をとりつつある印象も。まさに時代でんなぁ。

ところで毎回こんなこと書いてるような気がするのだけど、
「カンヌから学ぶ」だけでなく、もう一歩踏み込んだ関わり方が必要だと感じた。
え、じゃあお前はどうするんだって?
その辺、ちょっと準備中です……いつかご報告できるチャンスを待って、
後はあしたの心だ!とさせてください。


……いつかは立つぞ、あの壇上!

英語をめぐる冒険@カンヌ国際広告祭

2010年09月08日 | 広告とか
カンヌ国際広告祭が終わり、少し情報が整理される1、2ヵ月後、あちこちで「報告会」的なセミナーや講演会が開かれる。入場料を取って商業用ホールを借りて行われるものから、どこかの会社やサークルなどでの「カンヌレポート」など、装いはさまざまだ。

ここ数年は主なジャンルの審査に日本人が加わっていることも多く、審査の状況など臨場感を持って聞かせてもらえることはありがたい。選ぶ側の雰囲気(冷房の効いた薄暗い部屋で朝から晩までひたすらモニターを見る、とか)や応募の対策なども分かってくるのは収穫だ。

ただ、ときどき気になる話も聞く。審査員たちの国籍はさまざまで、むしろ英語ネイティブは少ない。それにクリエイターという職種柄(部門によってはよりビジネスよりの人選がなされている場合もあるけれど)、基本的な英語でかなり通じあうものがあるようだ(ぼくもそういう経験あります)。とはいえ、基本的なやりとりはおさえておこうよ、と思うのは、ときたまこんな話を聞くことがあるからだ。

「英語があまり分からないから、こうやって乗り切りましたよ、はっはっは」

例えば普通に会話の流れに入っていくのではなく、必ずキーワード的なひと言を発して(アイ・シンク・シンプリシティ・イズ・モースト・インポータント!とか)自分で流れを作っていく、などというのもやり方のひとつ。賢いやり方である、とは思う。

大昔、はじめてアメリカ(ニューヨークでした)に行ったとき、うっかり旅の英会話なんか見て道でも訊こうものなら(中央駅にはどう行けばいいですか?みたいな)、相手はぺらぺらと普通のスピードで答えてくれるのでこっちはさっぱりわからない。エクスキューズミー?を返し続けるわけにもいかず、曖昧な笑顔でサンキューと言うしかない。わかるまで訊ねなさい、なんて言う人もいるけれど、最初のひと言からわからないんじゃ無理だよ。きっと変な東洋人だと思われただろうな……。

で、困ったあげくに編みだしたのが「二進法英会話」。つまり右か左かとかイエスかノーかとか、二者選択で答えられる質問をするわけだ。これなら時間はかかるけど、ひとつひとつ疑問を詰めていけば求める答えにたどり着けるはず。コンピューターだって原理は同じだし……ただこの方法は恐ろしく面倒くさい。相手が気が短いと、何が聞きたいんだ、みたいな顔になる。という顛末ではあったけれど、思いつきとしては悪く……なくなくない(汗)?

えーっと、話しずれちゃってすみません。「英語が(あまり)わからなくてもOK!」武勇伝はなかなか面白い。審査員に選ばれる人たちは、基本頭が良くて感覚も鋭い人ばかりなので、話を聞いていて退屈することもない。だけど少しだけ不安になるのは、概ね了解のコミュニケーションの危うさだ。いつも皆が話題にする「世界と日本の違い」みたいなもののヒントは、実はその「概ね」からパンくずのようにこぼれ落ちた細部にあるように思えるからだ。

そんなこと言ったって無理だよ、つーのもわかります。もし自分が審査員だったら、しどろもどろな数日間を過ごす羽目になるかもしれない(まあないだろうけど)。だけどそろそろ、広告業界も一般企業みたいに英語の通用度を考える必要があるんじゃないだろうか。一足飛びにユニクロや楽天みたいになる必要はないけれど、どこかの誰かが訳した情報を有難がって論じている様子は、スパゲティナポリタンのレシピを追求するようにも感じてしまうのだ。好きだけどね、ナポリタン。