国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

ジャズであれ、クラシックであれ、音楽である限り

2009年06月09日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
「盲目のピアニスト辻井伸行さんが、
 アメリカのバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝!」
と、昨日のトップニュースで流れた。
普段はジャズしか聴かないのだが、クラシックも嫌いなわけではない。
なにせ人生初めて買ったCDが、ビバルディの『四季』なのだ。

ニュース映像で辻井さんが演奏しているところが流れたが、
その力強さとよく切れる剃刀の刃のような鋭さは、やはり凄さを感じた。
演奏中よくあんなにも手が動くものだとも感心してしまう。
何はともあれ素晴らしいと思った。

でもやっぱりジャズのことを考えてしまった。
クラシックは、与えられた譜面を演奏する。
辻井さんの場合は、音楽を聴きながら覚えていくようだが、
クラシックであれば、やはり譜面は外せないものだ。
ベートーベンの音楽、リストの音楽、ラフマニノフの音楽と
作曲者の音楽を正確に演奏することが、クラシックでは求められる。

一方でジャズは譜面はない。
(一部にはあると思われるものもあるが)
マイルスは、コードのかかれた簡単なメモのようなものを渡して、
それを演奏したと自叙伝に書いてあった。
それにコルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」を聴けば
とても譜面通りに演奏しているとは思えない。
むしろある曲を解体して、再構築していくのがジャズであると言えよう。

今回、辻井さんの演奏を聴いて、
ジャズと違うけれども、その力強さは引かれた。
それはエヴァンスやペトルチアーニと違ってまたいいのだ。
どちらがいいの優劣論ではなく、いいものはいいのだ。
結局思うのが、
こんな音楽を創りたいという演奏者の心意気が大切なのだろう。

音を聴くだけではない。
音楽を生み出した人を見いだしていくことが、
「音楽を聴く」ってことなんだ!
と、生意気にも思った。