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現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

マスコミの報道姿勢-ポピュリズムへの迎合-

2019-09-22 22:03:45 | 政治
 最近、テレビのニュース関連などを見ていて、韓国に関するニュースなどの多さに驚いた、韓国の法務大臣の親族が不正をしたなどというニュース、話題が何度も繰り返し放送される。一方で、日本の安倍政権の問題については報道されることが少ない。安倍昭恵夫人の口利きによる国有地の格安売却問題、公文書偽造問題や加計学園に対する不正な便宜供与、口利き疑惑で辞任した厚生労働省の政務官、首相秘書官として不正を働きかけた経済産業官僚などの問題は、今のマスコミで報道されることがほとんどない。

 マスコミが、民主主義を自分たちのよりどころとする価値観とするのであれば、民主主義に基づいた報道を行う必要がある。それは、人々が個人としての尊厳を持ち、さらに人々の多様な価値観を認め、自由を保障することを基本理念として作成された記事になるだろう。そのような記事は相手が安倍政権であろうがスポンサーとなる大企業だろうが、不公正なもの、個人の自由を侵害するようなものに対しては徹底的に批判する記事となるだろう。今の多くのマスコミのように権力、つまり安倍政権にへつらい、安倍政権に遠慮し、一方で何ら権力を持たない個人や弱小企業の不祥事を徹底的に叩くような報道はなくなるだろう。
 しかし、販売数、視聴率、営業成績などを根底に置き、権力にへつらうことで便宜を図ってもらい、大企業の不正に目をつむることで広告収入等を得ようとする経営姿勢であれば、安倍政権や自民党の不正をごまかし、いつのまにか政権を取ったナチスの広報ように、人々にある傾向を与えるような言葉遣いを繰り返し、世論誘導を行うことになるだろう。

 今の日本のマスコミの多くは後者になっているような印象がある。フジ・産経グループは昔から保守政権ベッタリであり、読売新聞も民主主義的というよりは国家権力に阿る傾向があるが、最近はNHKニュースが政権ベッタリの大本営発表機関になっているような印象を抱く。
 権力、つまり安倍政権などから偏向と攻撃されるマスコミの方が、実は民主主義的価値観に基づいて報道しているという方が真実に近い。1960年代から権力側から偏向報道批判があるが、民主主義的価値観に基づいた報道機関に対して、民主主義的価値観を身につけていない人達からの批判は当然なのである。

 民主主義的価値観を内面化することで、より良い社会の形成に役立つことができるが、ポピュリズム的な姿勢が蔓延している状況は望ましくない。ポピュリズム的な姿勢、すなわち一部の偏った読者・視聴者からの反発を気にし、彼等の脅迫的な言動をおそれるあまり、大衆迎合的な報道に終始する傾向が最近のマスコミには見られる。現在の日本にとって重要な問題、少子高齢化、増え続ける社会保障費、これらの大きな問題に対する政権のポピュリズム的姿勢(=大衆迎合、痛みを隠しバラマキで目先の利益を確保し、大衆からの支持を得ようとする姿勢)によって増え続ける財政赤字。頻発する災害とその原因と考えられる地球温暖化の問題。これらに真摯に向き合っているマスコミがどの程度存在するだろうか。
 日本の問題から目をそらす一方で、韓国の国会議員の話題を無駄に長時間放送したり、トランプ大統領の自己中心的な政策(地球温暖化対策のためのパリ協定からの離脱やイラン核各合意からの一方的な離脱、関税強化などの保護貿易主義)についての解説を行うことなく、安倍総理とトランプ大統領の会談について長々と放送する。
 安倍政権や安倍政権支持の一部の読者、視聴者に阿るような姿勢ではなく、すなわちポピュリズムに迎合することなく、社会がおかしな方向に進まないように、民主主義的価値観によって報道するマスコミが増えることを望むばかりだ。
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資本主義の暴力-同調圧力により加速する暴力と格差社会-

2019-06-22 12:10:40 | 政治
 スサノオと言えば、根の堅州国に行く際、アマテラスのもとへ赴くが(アマテラスはスサノオが自分の国を奪いに来たと考え、武装してスサノオを迎えた)、その際にスサノオは乱暴を働き、出雲国に追放される。出雲の国でスサノオは八岐大蛇を退治した。
 スサノオは荒ぶる神でありながら、荒ぶる八岐大蛇を退治している。暴力は神話にもつきものである。

 近代の啓蒙思想は、この暴力を否定し理性を持った合理的な市民による社会を訴えた。そして、民主主義社会が最善のものとして、現代でも多くの人達に受け入れられている。しかし、この啓蒙思想の理性絶対主義とも言える考え方は、マルクスやフロイト、ニーチェによって、その幻想を打ち砕かれた。さらに、啓蒙思想の発祥地であるヨーロッパにおいて、人間の無意識に着目し、人間の奥底にあるエロスやタナトスを打ち出したフロイトの考えを立証するかのように、ファシズムが生まれ、ナチスによる残虐な暴力やスターリニズムによる抑圧が行われたのである。

 第二次世界大戦での暴力と破壊を目の当たりにした人々は、民主主義、理性による制御の重要性を再認識し、理性による合理的な社会を目指した。一方で、ソヴィエト連邦による、資本による暴力の排除を目指した社会主義の実験を見据えながら、資本主義諸国は資本主義による暴力を排除するため、社会主義思想の一部、つまり福祉国家の考え方を取り入れ、資本の暴走を規制しながら政治運営を行ってきた。
 しかし、社会主義を目指したソヴィエト連邦とその同盟国は、民主主義の重要な部分である自由権を制限したため、資本による暴力を規制した資本主義国に比べ魅力を失い、内部から崩壊してしまった。社会主義の崩壊を受け、資本主義国では資本の暴力への規制を緩和し、資本のむき出しの暴力が頭をもたげ、格差が拡大する社会に変貌していったのである。それでも、先進資本主義国は、人間の理性や合理性を信奉し、また民主主義を根本原理に置いた政治運営を行っているようかの如き政治を運営しているのである。表面的には理性的で合理的に見えるにもかかわらず、なぜ資本の暴力により多くの人達が打ちのめされる格差社会が形成されたのであろうか。

 この現象を考察するときに有意義だと思われるのが、可視的空間と不可視的空間という考え方である。
 可視的空間、表面上に出てくる見える空間である。民主主義や理性的な人間が活躍する空間であり、日本では建前が活躍する空間である。啓蒙主義、理性による合理的な思考が支配し、悪徳は排除される空間であるが、それは人間の暴力的な本質を排除した空間でしかない。
 一方で、不可視的空間、表面上には現れないが、人間の本質、本音で満たされた空間であり、日本で「空気を読め」と言われる場合の「空気」の世界である。言語化されることがなく、法令にも現れることがない本音の空間、そこは荒ぶれる神が支配する空間でもある。この不可視的空間が、今の日本ではどんどん拡大しているようである。
 バブル崩壊までは、可視的空間が優位であり、人々は合理的に振る舞うべきだという思想に拘束されていた。それがバブル崩壊による生活水準の低下やインターネットの拡大による匿名発言の拡大により、徐々に変化し、不可視的空間における暴力の拡大という現象が広がった。
 匿名での発言、そこにはむき出しの暴力が見いだせる。不可視的空間であれば見ることは出来ないはずであるが、インターネットの中そのものが現実社会とは異なった世界であり、不可視的空間との境界が不明確になっている世界であると考えれば理解できることである。

 この不可視的空間が日本社会を徐々に覆っているのではないか。アベノミクスというまやかしの経済政策を展開している安倍政権に対する批判は、表だって聞くことは少ない。むしろ、みんなが期待しているアベノミクス批判をすることは許さないという圧力を感じる。この同調圧力こそが不可視的空間における暴力なのである。
 不可視的空間が拡大したとき、そこに、新たなナチズムを見いだすことができる。民主主義や理性による合理的支配が失われ、むき出しの暴力が、しかし、表に出ることなく、人々を背後から、怨霊のように縛り付ける。
 今の日本は、この不可視的空間が徐々に拡大しているように感じる。その先に見えるのは、価値が転倒した北朝鮮のような社会である。現代へのまなざしを忘れてはいけない。
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皇室批判と犯罪者

2019-05-03 07:39:35 | 政治
 「東京 文京区の中学校で秋篠宮ご夫妻の長男の悠仁さまの机に刃物が置かれていた事件で、逮捕された男が皇室を批判する趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材でわかりました。」(NHK Web News 2019年5月2日 12時02分)

 皇室への批判と犯罪者を関連づけることで、皇室や天皇制を批判する人=犯罪者という印象を強く植え付けるような捜査関係者の話であり、それを記事にしたマスコミの行為でもある。当然、今回の事件が卑劣極まりないものであることは言うまでも無い。しかし、皇室を批判という報道が必要なのだろうか。皇室を敬愛する人間が皇族に関係する罪を犯すだろうか。わざわざ報道する理由がよくわからないが、天皇制に関する議論を巻き起こしたいという意図だったのかもしれない。

 そもそも、明治維新後に成立した天皇制は、家族制度、日本の家父長制をその根幹に置き、村落共同体の秩序が国家支配の原理になったことから、道徳がその支配上最も重視される一方で、大日本帝国憲法は無内容な形式的手段となり、中央集権的地方自治や教育勅語が民衆を支配する内容となったものである。

 現在の日本国憲法では、天皇は象徴であり、天皇の地位は主権者である国民の総意に基づき、天皇は国事行為を内閣の助言と承認に基づいて行うのみである。
 そして、憲法第2条(皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。)により皇位は世襲とされている。

 一方で、憲法第14条では「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とし、第2項では「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と貴族制度を否定しているのである。
 すべての国民は社会的身分や門地によって差別されないが、例外扱いされる天皇について違和感を抱き、その制度を批判するのは学問的には当然のことである。民主主義社会の中で、唯一、天皇及び皇族のみが政治的、経済的、社会的関係において差別されるのである。それを特権と考えるか自由の剥奪と捉えるのかは人それぞれであろうが、民主主義社会での天皇の存在についてもっと議論があってもいいだろう。天皇ではなく、選挙で選ばれた大統領であれば、民主主義に関連して特段の違和感はない。
 また、国民から除外され、特例扱いされる側の天皇の気持ちを考えたことがあるだろうか。今回、平成天皇は国事行為や公務の負担などから天皇の地位から退いたが、本人の意思と関係なく天皇に即位させ、あるいは死ぬまで天皇として国事行為をさせるというのは奴隷的な存在にも近づく。この天皇制について、肯定あるいは否定することは、言論の自由であり、その自由を制限するような報道は慎むべきであろう。

 さて、戦前の天皇制は、日本の家父長制度をその根幹に置き、村落共同体の秩序が国家支配の原理となったことから、道徳がその支配上最も重視されることとなった。
 第二次大戦での敗戦を受け、日本国憲法が制定されたが、民衆の考え方は簡単に変わるわけではない。1946年(昭和21年)に公布されたが、当時の庶民の知的レベルではその内容はほとんど理解できていないだろう。子供のことから封建的な家族制度である家父長制を叩き込まれ、村落共同体秩序と教育勅語を叩き込まれた人達の基本的な考え方は簡単には変わらない。
 さらに、彼等の子供も、学校においては戦後民主主義について学ぶものの、自宅、集落では依然として家父長制度や村落共同体の秩序、教育勅語的な道徳が教え込まれ続け、人々の間には戦前の天皇制国家の支配原理が生き続けているのである。

 現在の日本社会でも長男への期待と優遇、兄弟間の差別、男尊女卑的な考え方、儒教倫理的道徳の強要といったことは、しばしば見られることである。さすがに、公的場面では、日本国憲法やその考え方に基づく各種法律が支配する場所であるため、戦前の天皇制国家の支配原理を見ることはないが、公的場面を除外すれば、過去の支配原理と同じ考え方が顔をだしてくるのである。
 日本会議などのような右翼団体は、家父長制や教育勅語の復活を主張するように、戦前の天皇制を復活させようとする。その日本会議と大きな繋がりのある自民党が憲法改正を行った場合、どのようになるかということは想像に難くない。

 今回の、様々なことを考えされた犯罪報道であった。
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戦後レジームからの脱却-天皇制国家の支配原理に立ち返るのか-

2019-05-02 15:16:49 | 政治
 平成から令和に元号が変わったことにともない、皇室関係のニュースが多く流された。天皇制は、第二次世界大戦での敗戦処理に当たって、マッカーサーが日本統治を円滑に行うために温存され、憲法第1条で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定されるように、象徴として存在し、主権はあくまでも国民にあるとされた。
 大日本帝国憲法の第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とされ、さらに第11条では「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とされており、当時の憲法上、天皇は戦争遂行に当たっての最大の責任者であるにもかかわらず、天皇の戦争責任については不問に付された。
 それでは、戦前の天皇制の国家支配の原理とはどのようなものだったのだろう。

 「天皇制国家の支配原理」(藤田省三著、みすず書房、2012年1月)によれば、戦前の天皇制における、権力の正統性を基礎づけているイデオロギーは、「家族国家観」といわれるものである。
 家族国家観とは、「家」の概念の延長拡大として国家を捉えるものであり、家の概念とは、封建的な家長制度であり、長子単独相続などを含む概念である。家を代表する家長の権限は強大であり、天皇が日本国の家長となり、日本社会の封建的な家父長的世界観を国家的規模に統合するものである。
 家族の中で政治が否定されるように、国家からも政治が否定され、「一家相和す」醇風美徳がこの非政治性の内容であり、これにより上下の対立・摩擦が中和され、天皇は日本近代の社会に偏在する中和の象徴として機能する。
 そして、町内会や隣組などの村落共同体における日常生活秩序が支配機関となり、村落共同体の秩序が国家支配に不可欠なものとなり、村落共同体の秩序原理が国家に制度化されたことが、天皇制支配の特徴となった。
 村落共同体の秩序、道徳が支配原理となれば、国家は、必然的に道徳共同体となり、あらゆる意味での政治が日本国内から排除される。そして、村落共同体、「郷党社会」の政治的機能を制度化したものが、地方自治制であった。

 「地方自治制は、一方で官僚制的支配装置を社会的底辺まで下降させて制度化するとともに、他方で「隣保団結ノ旧慣ヲ基礎トシ」、「春風和気」の「自然ノニ成立」つものである。ここでは個別村落の日常生活における心情と慣習を中核として国内社会を調和させようとすることから、社会の調停弁は共同体の情緒に求められて、法はその本来の存在理由を喪わなければならないこととなる。
 さらに、「ここでは法は、価値的に普遍的な規範でもなく、又唯一の絶対君主の命令の体系でもない。かくして憲法そのものは無内容な形式的手段となり、地方自治が憲法の内容となるのである。」(p.24)

 そして、「共同体秩序原理のその質的高昇、すなわち自然村落における「道徳的元素」の国家原理への普遍化を担ったもの、それが教育勅語であった。(Ⅰ)教育勅語の成立の決定的契機が再編成されつつある「郷党社会」からの圧力であったこと、そうして(Ⅱ)直後の構成は、体制の俊鋭を集めて彫琢された結果、あらゆる係争原因の可能性を遮断した普遍的な「至尊ノ広告」たらしめられたことは、右の役割を物語るものである。」(p.25)

 以上のように、戦前の天皇制では家族制度、日本の家父長制をその根幹に置き、村落共同体の秩序が国家支配の原理になったことから、道徳がその支配上最も重視される一方で、大日本帝国憲法は無内容な形式的手段となり、中央集権的地方自治や教育勅語が民衆を支配する内容となったのである。

 今の自由民主党は、過去の自由民主党と異なり、政治的に右翼姿勢が顕著となっている。保守本流の流れをくむ人達の勢力が衰える一方で、清和会という右翼的勢力が実験を握り、その清和会から党総裁に選ばれたのが安倍晋三である。
 今の自由民主党は、日本的家族制度を重視し、また、安倍総裁やその取り巻きが教育勅語を教育分野などで復活させようとしている。彼等の思うところは、戦前の天皇制の支配原理の復活かもしれない。安倍総理の選挙スローガンに、「戦後レジームからの脱却」「日本をトリモロス」というものがあったが、戦前の天皇制の支配原理を復活させようと考えるならば、このようなスローガンを連呼するようになるだろう。
 自由民主党と言う名前だが、自由や民主とはほど遠いような印象である。経済的には、新自由主義を推進しているため「自由」と言いたいのだろうが、戦前の天皇制の支配原理では、教育勅語に示されている道徳原理を破らない範囲での自由であり、この道徳原理を否定する場合には、道徳悪として徹底的な暴力で排除されるのである。自由どころではないのだ。
 自由でも民主でもないトップが存在する政党の名前が「自由民主党」とは、言っていることとやっていることが全く異なる安倍政権を象徴するようなギャグである。
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暴走する資本主義、グローバルスタンダードとそれを支持する下層の人々

2019-01-30 22:29:24 | 政治
 中世の西欧では、国王が好き放題の政治をしていた。しかし、国王の専横に怒りを抱いた市民が革命を起こした。そして、フランス革命で発せられた「フランス人権宣言」により自由権を基調とする民主主義は近代社会の基本原則となった。
 これらの市民革命の主役はブルジョアジー(有産者階級、資本家階級)であり、彼らは経済制度としての資本主義を発展させていったが、資本家は過酷な環境の中で労働者を酷使ししたため、劣悪な労働条件の下で働く工場労働者を保護する法律である工場法が1833年に制定された。
 さらに、マルクスはエンゲルスとともに『共産党宣言』、『資本論』を執筆し、空想的社会主義から、経済学に基づく科学的社会主義へと、資本主義に対抗する思想としての社会主義をとりまとめたのである。
 マルクスによって確立された社会主義は、1917年のロシア革命によってソビエト社会主義共和国連邦を誕生させるのである。この社会主義の影響を受け、1919年に、生存権などを保障する、社会主義的思想を取り込んだ現代憲法であるワイマール憲法が成立する。日本国憲法にも生存権が取り入れられており、この思想が民主主義のスタンダードとなった。

 第二次世界大戦後、資本主義国では資本家と彼らによって支持された国家が社会主義の拡大を防ぐため、スタンダードな民主主義(自由権及び生存権を保障したもの)を採用し、高税率の所得税や法人税が課され、所得の再分配が行われた。上層から下層への所得移転が行われ、戦前の格差は急激に縮小し、中間層が多く生まれ、民衆の生活水準は飛躍的に向上した。
 他方、資本主義の対立陣営である社会主義国では、民主的中央集権主義が採用されたが、民主主義の中の自由権を制約したため共産党一党独裁に繋がり、基本的人権に対する抑圧的装置となり、自由権を保障しているスタンダードな民主主義とはかけ離れたものとなった。
 資本主義はスタンダードな民主主義をうまく取り入れることで、経済発展と庶民の生活水準の向上、基本的人権の保障を実現したが、社会主義は自由権への制約を行い、スタンダード民主主義をないがしろにすることで、人々の生活に息苦しさを与えた。このため、ソ連を代表とする社会主義は、庶民から嫌われ、そして行き詰まることとなり、崩壊への道をたどった。

 スタンダードな民主主義を取り入れた資本主義は、開発途上国の経済発展とともに、高成長から低成長へと変化する。資本主義が低成長に陥る中、1979年にはイギリスでマーガレット・サッチャーが首相として登場し、1981年にはロナルド・レーガンが大統領に就任する。彼らは、国営企業の民営化、所得税率の大幅引き下げ、法人税率の引き下げなど、新自由主義政策を採用し、平等という考え方は否定され、また自己責任という言葉で生存権をもないがしろにすることで、スタンダードな民主主義を放棄したのである。
 資本主義が誕生・発展したイギリス、アメリカというアングロサクソンの国で新自由主義が登場し、資本主義は民主主義を捨て去っていくのである。さらに、資本主義の最大の敵対者であったソビエト社会主義共和国連邦が崩壊する中、民主主義を取り込み、社会民主主義的政策をとり続ける必要は、企業や富裕層から消え失せ、資本主義の暴走が始まるのである。スタンダードな民主主義では上層から下層へと所得の再分配が行われたが、新自由主義によって下層から上層への搾取が強まり、また、国家による規制が緩和されていったのである。

 この流れは、「グローバルスタンダード」という名前で先進国に取り入れられることになった。先進各国でスタンダードな民主主義が放棄され、新自由主義による下層から上層への所得移転が行われるようになった。下層の人々は「負け組」と言われ、上層になれないのは「自己責任」と言われるようになった。所得税率は下げられ、また法人税率も引き下げられることになる。
 しかし、先進各国では選挙制度は正当に維持され、正当な選挙によって下層の人々はスタンダードな民主主義の放棄を支持したのである。経済的に不利益を受ける下層の人々がなぜグローバルスタンダードを支持したのか。資本家がスポンサーとなっているマスコミによる報道の影響もあるだろう。しかし、論理的な思考ができない下層の人達の「自己責任」かもしれない。自ら不利益な政策を支持し、自らの地位を貶めるという、愚かで悲しい存在が下層の人達に見られるのである。

 資本主義は、第二次世界大戦後、社会主義に打ち勝つために民主主義を大きく取り入れ、庶民の生活向上に多大な貢献をした。しかし、経済成長に陰りが見られるよになり、さらに、社会主義の失敗を目の当たりにし、ついに本性を現した。スタンダードな民主主義を捨て去り、資本は自己増殖を続け、所得の再配分ではなく、下層から上昇への所得移転、つまり労働者への搾取を強化し、格差を拡大させ続けているのである。
 
 下層の人達が奴隷根性を抱き、さらに論理的思考ができない状況であれば、富裕層のしもべ(servant)として存在するしかない。下層の人達に社会を変革することは不可能であり、彼らはより苦しい生活の中で、現状に満足する奴隷として生きるしかない。つまり、暴走する資本主義を下層の人達自身が擁護するのである。その代償として彼らは、その子孫までも下層として生きる定めを与えるのである。そこには、社会階層が固定化された社会、子孫の自由を奪った社会が目の前に広がっているのである。
 愚かな人達は、自分たちだけでなく、子孫をも愚かにする。論理的な思考を身につけることが出来れば、このカルマから脱却できるだろう。
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