NHKで100分de名著という番組を放送しているが、5月のテキストとして「旧約聖書」が店頭に並んでいた。
「旧約聖書」というとユダヤ人の神話が記載されており、日本でいう古事記に当たるような書物である。
そのテキストを読むと非常に面白いことがわかる。
エジプトで奴隷とされていた人達がエジプトから逃亡し、パレスチナの地に定住するに当たって作り上げた人々の物語が旧約聖書であり、その物語を信じる、自分たちの物語とする人達をユダヤ人と言う(ユダヤ人の定義としては、ユダヤ人の母を持つ者も含まれる。)。そのユダヤ人がなぜユダヤ教を信ずるようになったのか(ユダヤ教を信じる人達をユダヤ人と言う定義からすれば、トートロジーかもしれないが、「彼等がなぜユダヤ教を信ずるようになったのか」と言い換えてもいい、エジプトから逃亡した人達はなぜユダヤ教を信ずるようになったのか、ということ。)。苦難の生活の中で、自分たちの生活を合理化し、将来に向かって生きるための物語。しかし、人間は罪を負い、ただひたすら神を愛することを求められる。
これを男女の恋愛に例えたものとして、次のような比喩が書かれていた。
ある場所に夫婦が住んでいました。
夫がいつの間にかどこかに消えてしまいました。
強盗が家に入って家の半分を壊しても夫は姿を現しません。
そうこうするうちに、残りの半分も壊されてしまいました。
しかし、妻は夫と離婚せず婚姻生活を続けます。
夫は消えてしまい、何もしてくれませんが、正式に夫であり続けます。
夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて
妻は、「自分が不適切な女だからと」と考えます。
妻は、自分が不適切で夫は正しいのだからと、夫を責めることはありません。
夫が不在でも、妻は自分が不適切な女なので、他の男性とも新たな関係は持てません。
妻は、生まれたときから罪を負っているため、夫を信じ愛するしかありません。
この比喩を読んで、いわゆる「都合のいい女性」を作り上げていると感じた。ユダヤ教は、人々を「都合のいい女性」に仕上げることで、ユダヤ人の結束を作り出しているような気がした。古事記の世界とは全然違う世界、それは数多くの民族が戦いを続けながら生きていたエジプト・メソポタミア地方と、豊穣な土地で稲作を中心に暮らすことができた日本の大きな違いなんだろう。
人々が結束して生きるためには、人々に義務を内面化させならが一つの教えを信じ、そして守り、さらにその教えを実行させる必要がある。ユダヤ教の一部を学ぶといろんな面が見えてくる。
先述の男女の恋愛の比喩であるが、夫を国家に、妻を国民にすると、専制国家の基本的な手法が見て取れる。ユダヤ教は、ユダヤ民族がどんな状況であれ民族として生き続けることを求める宗教だと考えられる。同じように、専制国家は、国民がどのような状況であれ、国民として国家に奉仕することを望む組織だからである。
今の日本が、このような国家に近づいていると感じるとき、日本は民主主義から足を踏み外しかけているということになる。気をつけて省察することが重要である。
「旧約聖書」というとユダヤ人の神話が記載されており、日本でいう古事記に当たるような書物である。
そのテキストを読むと非常に面白いことがわかる。
エジプトで奴隷とされていた人達がエジプトから逃亡し、パレスチナの地に定住するに当たって作り上げた人々の物語が旧約聖書であり、その物語を信じる、自分たちの物語とする人達をユダヤ人と言う(ユダヤ人の定義としては、ユダヤ人の母を持つ者も含まれる。)。そのユダヤ人がなぜユダヤ教を信ずるようになったのか(ユダヤ教を信じる人達をユダヤ人と言う定義からすれば、トートロジーかもしれないが、「彼等がなぜユダヤ教を信ずるようになったのか」と言い換えてもいい、エジプトから逃亡した人達はなぜユダヤ教を信ずるようになったのか、ということ。)。苦難の生活の中で、自分たちの生活を合理化し、将来に向かって生きるための物語。しかし、人間は罪を負い、ただひたすら神を愛することを求められる。
これを男女の恋愛に例えたものとして、次のような比喩が書かれていた。
ある場所に夫婦が住んでいました。
夫がいつの間にかどこかに消えてしまいました。
強盗が家に入って家の半分を壊しても夫は姿を現しません。
そうこうするうちに、残りの半分も壊されてしまいました。
しかし、妻は夫と離婚せず婚姻生活を続けます。
夫は消えてしまい、何もしてくれませんが、正式に夫であり続けます。
夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて
妻は、「自分が不適切な女だからと」と考えます。
妻は、自分が不適切で夫は正しいのだからと、夫を責めることはありません。
夫が不在でも、妻は自分が不適切な女なので、他の男性とも新たな関係は持てません。
妻は、生まれたときから罪を負っているため、夫を信じ愛するしかありません。
この比喩を読んで、いわゆる「都合のいい女性」を作り上げていると感じた。ユダヤ教は、人々を「都合のいい女性」に仕上げることで、ユダヤ人の結束を作り出しているような気がした。古事記の世界とは全然違う世界、それは数多くの民族が戦いを続けながら生きていたエジプト・メソポタミア地方と、豊穣な土地で稲作を中心に暮らすことができた日本の大きな違いなんだろう。
人々が結束して生きるためには、人々に義務を内面化させならが一つの教えを信じ、そして守り、さらにその教えを実行させる必要がある。ユダヤ教の一部を学ぶといろんな面が見えてくる。
先述の男女の恋愛の比喩であるが、夫を国家に、妻を国民にすると、専制国家の基本的な手法が見て取れる。ユダヤ教は、ユダヤ民族がどんな状況であれ民族として生き続けることを求める宗教だと考えられる。同じように、専制国家は、国民がどのような状況であれ、国民として国家に奉仕することを望む組織だからである。
今の日本が、このような国家に近づいていると感じるとき、日本は民主主義から足を踏み外しかけているということになる。気をつけて省察することが重要である。