現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

大きな政府と小さな政府

2021-06-26 12:32:56 | 政治
 1980年代前後からの市場原理主義によって格差が拡大し、市場原理主義をその根底としているグローバリズムが抱える大きな問題が顕在化している。ケインズの一般理論に基づいた大きな政府と、市場原理主義(新自由主義、グローバリズム)に基づいた小さな政府の違いはどのようなものなのか。

 リベラルについて、宇沢弘文は、次のように語っている。
 「リベラリズムの思想は、人間の尊厳を守り、魂の自立を支え、市民的自由が最大限に確保できるような社会的、経済的制度を模索するというユートピア的運動なり、学問的研究の原点として、20鋭気を通じて大きな影響を与えてきた。」(「経済と人間の旅」宇沢弘文著、日本経済新聞社出版、2014年)
 「決して政治的権力、経済的富、宗教的権威に屈することなく、一人ひとりが、人間的尊厳を失うことなく、それぞれがもっている先天的、後天的な資質を十分に生かし、夢とアスピレーション(望み)とが実現できるような社会をつくりだろうというのがリベラリズムの立場なのである。」(同上書)
 従って、人々が人間的尊厳を保つことができるよう、富裕層には高額の税金を課し、その税金を再配分することが政府に求められる役割となり、それは必然的に大きな政府をもたらすことになる。

 他方、市場原理主義(新自由主義、グローバリズム)の根拠となっている新古典派経済学は、全ての人間が経済的合理性を有しており、合理的経済人として行動することを前提とする。貧乏な人達は、自らそれを選択してものであり、貧乏は「自己責任」である。
 目の前に喉が渇いて困った人がいる。その人にとって水は非常に価値のあるものであり、100円で購入したペットボトル飲料を、その困った人に1000円で売ることは合理的であり、双方の利益に繋がる。
 野球のチケットを5000円で購入した人が、どうしてもその野球の試合を見たい人に10万円で売るとしても、それは双方にとって価値があると認識すれば合理的な行動になる。常に、利益と効用などを考慮しながら、利益に繋がる行動を取るのが合理的経済人で、それを前提に新古典派経済学は考える。
 結果として、新古典派経済学は政府の規制を嫌い、小さな政府の下で、人々は利益追求に邁進することを求めることになる。
 リベラルな人であれば、喉が渇いて困った人にペットボトル飲料を無料で提供するだろうし、野球のチケットの転売は、多分、購入価格と同価格で行うだろう。しかし、新古典派経済学では、利益を無視した愚かな行為と評価されるだろう。
 リベラルの根底には利他性や共感が存在するが、新古典派経済学の根底には利益追求しか存在しない。

 多くの人々にとってはリベラルの方が生きやすいにも関わらず、大きな政府に反対し、小さな政府を支持する多くの民衆が存在する。合理的経済人などという人口の10%程度いるかどうかという存在を前提とする新古典派経済学を信じる人達が一定数いることに驚きを禁じ得ない。
 すでに、行動経済学によってヒューリスティックや様々なバイアスに囚われる人間の心理、そして予想どおりに不合理な人間像が描き出されている。合理的経済人などほとんど存在しないのである。
 富裕層からすれば、利益追求が優先されるため、新古典派経済学が都合が良く、その結果小さな政府を支持するのは当然ということになるだろう。しかし、多くの庶民が、小さな政府を支持しているのが今の日本である。
 格差を拡大させているのは、小さな政府、新古典派経済学を支持する多くの民衆であることを忘れてはいけない。
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